このサイトはスタイルシート対応サイトです
閑雲野鶴 案内板 更新情報 メルマガ 雲と連絡 鶴の骨格 鶴の足跡 資料室 亡国遊戯 がらくた リンク集
近道:検索 地図 メルマガ最新 読書録 掲示版 Google
現在地〓 閑雲野鶴鶴の骨格読書録 >読書録200302

200301
200302
200303
200304
200305
200306
200307
200308
200309
200310
200311
200312

200401
200402
200403
200404
200405
200406
200407


「まぼろしの邪馬台国」宮崎康平 講談社文庫
 あるテーマの本を読むとしばらくして似た内容の本が気になるのはよくあることで、気が付けば古本屋で「邪馬台国」も無意識のうちに探している。
 著者は盲人で「魏志倭人伝」や「古事記」を妻の音読で読み解き邪馬台国に辿り着いた驚嘆すべき才人である。
 よけいなものが見えないからかえって核心をつくことができるのは天の配剤というものであろう。
 邪馬台国を長崎県南部に比定していくプロセスは全く無理がなく、この一冊だけを読んだなら迷わず「邪馬台国は今の長崎県南部にあって云々」と話したくなるだろうが、手前は既に幾册か読んでいるのでますます混乱が深まるばかりである。高木彬光説を最も説得力があると感じているが、鯨統一郎説も捨てがたい。あれには一種の感動がある。
 著者は盲人であるから当然口述筆記になり、それが瑞々しさとリズムを兼ね備えた大変分かりやすい文章の理由だ。同音異義語を極力避けるのが口述筆記の特徴で、さらに著者が盲であるから誤解などしたくとも出来ない明瞭な仕上がりとなっている。
「生きている人と死んだ人」山本夏彦 文春文庫
 カバー折り返しを見てまだ読んでいないものが何作あるのかひたすら楽しみである。
 随筆でもなくエッセイでもない。コラムとはこういうものである。
 あまり紹介したくないんですけどね、勿体なくて。
「ブルックリン物語」ピート・ハミル ちくま文庫
 これはもう何度読み返したかわからないほど。
 黙って読め。騙されたとは思わないはずだ。
「遥かなるケンブリッジ」藤原正彦 新潮文庫
 ケンブリッジ留学騒動を落ち着いて書いている。著者の藤原正彦はあの新田次郎の次男であることは既に知っていて、いくつか読んでいたので迷わず買った。
 イギリスのケンブリッジに研究にゆくという視点では林望のエッセイとぶつかるのであるが、何故か雰囲気が全然違うのでいっそう興味深く読み比べることが出来る。
 おそらく書誌学者と数学者の違いであろう。ただし逆である。書誌学者の林望が論理的で皮肉を効かせた文章を書き、数学者の藤原正彦が情緒たっぷりの文章を書くことのねじれに気付いた時はすこし笑う。
 文章そのものにはあまり魅力を感じないのだが、藤原正彦の人生観がところどころでそれとなく顔を見せるのが気になってつい読んでしまう。
「数学者の休憩時間」藤原正彦 新潮文庫
 同じ人が売ったものを棚に並べた直後の古本屋に入った時は、そしてそれが自分の探していた本であった時は、同じ著者や似たテーマのものがごっそりあるので、ついまとめて買い込んでしまう。結果、買ってきた本をどれから読もうかと順番を考えながら、並べて置いた表紙を眺めてしばし至福の時を過ごす。
 「数学者の休憩時間」このなかに収められた「父の旅 私の旅」が秀逸だ。そしてここで沢木耕太郎の「深夜特急」と回路が出来た。これが読書の魅力の一つである。
「食べる屁理屈」村松友視 学研M文庫
 村松友「視」とは正確な表記ではないが、こうするしかない。正しくは「示見」という字であるが、「しめす」を「示」でなくて「ネ」でしか表示出来ないのだ。
 それからまた、この「学研M文庫」とは初めて聞くものだ。文庫本の最後の方にある「発刊の辞」がないのでなんとも言えないが、好評既刊として掲載されているものを眺めれば大体どういうスタンスかはわかる。それぞれの作者の名は秘す。
「異戦国志」    信長は本能寺で死ななかった(以下略)
「竜馬死せず」   ・・・坂本竜馬を暗殺の危機から救い出したのは(以下略)
「反・太閤記」   ・・・明智光秀は果敢に畿内を制圧する(以下略)
 お前ら馬鹿か。
「濁世の仏教」      ・・・仏教の精神について(以下略)
「法華経で生まれ変わる」 ・・・もっと仏に甘えてすべてを(以下略)
「チベット死者の書」   ・・・秘伝書の画期的な(以下略)
 お前らそこへ直れ。
「Dr.コパの(略)」 以下すべて省略
「Dr.コパの(略)」 
「Dr.コパの(略)」
 突っ込む気力すら無し。
「奇跡を呼ぶ指廻し体操」 両手の指をグルグル廻すだけで脳を刺激して(以下略)
 俺が悪かった。許せ。
 学研M文庫というものが如何なるスタンスをとっているかこれで大体わかる。大きく売れはしないが、馬鹿な固定読者がいて適当に出しておけばそれなりに売れるものだけを選りすぐっているらしい。戦記シュミレーションは戦記ヲタクや中高生、仏教は年寄、Dr.コパはたぶん主婦。あざといまでの出版戦略と言える。もっとも本を読み、的確な評価を下せるはずであろう大学生や社会人を標的にしたものがまるでない。何故ここに村松友視が入っているのか不思議であるが、そういうものだと無理矢理思い込むことにする。
 村松友視のひねくれた小市民的感覚がここではあまり感じられず、屁理屈の衣をかぶった日記のようなものである。古本屋で100円だから買った。
「夢の始末書」村松友視 角川文庫
 何故この本の噂を今までまるで聞かなかったのだろう。「泪橋」よりも「女房」よりも「鎌倉」よりもはるかに完成度が高いではないか。さすがに私小説の血だ。
 先に読んだ「食べる屁理屈」はこれを校正する傍らついでに書いたのであろうことがよく分かって、これもまたある種の回路と言えるだろう。
 素晴しい物を読んだ。風呂に漬かりながら最後まで読み終えた時にはすっかり体温と同じぬるま湯になっていた。この心地よさと相まってしばらく動かずに曇った鏡を眺めるような眺めないような、その曇りの向こうに何か今まで見たこともない自分の姿があるような気がして、鏡の表面を不規則に曲がり落ちるパチンコ玉のような水滴を追いかけていた。もちろん鏡を拭うと気の抜けた己の生乾きの髪が踊り狂っている間抜けな顔しか映っておらず、そのことに安心しながら右の瞳と左の瞳を交互に見て「おまえは誰やねん」と問いかけていた。恨めしそうに見えた顔を振払って、いまパソコンに向かっている。
「カオス」ジェイムズ・グリック 新潮文庫
 書込みを怠るとすぐ溜まる。この一週間はメールマガジンの方に気を取られていたので読んだ本について書こう書こうとは思いながらパソコンに向かうと「マガジン発行者登録要項」をじっくり読んでいたりする。
 「カオス」を読んだのは去年のことであるが鮮やかに覚えている。
 まずカオスというこの言葉はマイケル・クライトンの「ジュラシック・パーク」で出会った。一見無秩序に見えるが集合させたものを俯瞰すれば秩序的に見えるというおおよその意味を知った。それがこれを読んで実に明解に理解できた気がした。気がしただけで実際はどうだか知れたものではないが、ともかく新しい科学分野を切り開くという興奮せずにはいられない状況を追体験出来る本だ。
 学者同士の先陣争いと協力関係が入り乱れているのは並みの推理小説ではとても太刀打ち出来ないほどのややこしさと言える。
 妙に分厚い文庫本であるが、読み応えがあるのは嬉しい。一気に読んでしまったことを付け加えておく。
「日本人の論理構造」板坂元 講談社現代新書
 日本語の言葉遣いの背景にある歴史的な説明から歌謡曲の歌詞の分析まで幅広く扱っている。日本語に興味があるならとりあえず読んでおいて損はない。
 日本語の曖昧さとして有名なものにウナギ文がある。ウナギ語とも言う。
 これはつまり飯屋で注文する時に「僕はウナギだ」と言うこの言葉、文章をそのまま捕らえれば僕=ウナギになるわけだが、実際は「僕は(注文するのは)ウナギだ」の意味であるし、通常この言葉を取り違えることはない。普通にその人自身がウナギでないことがわかるし、注文しようとしている状況の中であるからすんなり了解されるのである。「この省略こそが日本語の特徴である」と言う人が多いが、これは日本語に限ったことではない。たとえ英語であろうとスワヒリ語であろうと家族の中で相手が省略した言葉で何を言おうとしているのかを読み取るのは簡単なことであろう。
 日本人は、ただ日本人全体が家族であるという無意識が底流にあることを忘れてはならない。だから喧嘩した時は近親憎悪となるし、そのわりにはあっさり水に流したりも出来るのだ。
 「日本株式会社」という表現がある。これには賛成出来ない。手前なら「日本一家」と呼ぶ。
「インド展の憂鬱」リチャード・T・コンロイ 創元推理文庫
 スミソニアン博物館で繰り広げられるスラプスティック。翻訳の順番が出版順と違うのでどうしても時系列で読むことが難しい。最初に読んだのが「スミソン氏の遺骨」でこの「憂鬱」は二作目にあたる。もちろん物語としては推理小説だから独立して楽しめるが、前後のつながりを発見するのが読む時の楽しみの一つであるから出来ることなら順番に読みたい。
 創元推理文庫ははずれが少ない。幸せなことである。
「苦い林檎酒」ピーター・ラヴゼイ ハヤカワ・ミステリ文庫
 渋い。ハードボイルドの形式でミステリを書くとどうしても主人公が超人になってしまうが、英国人気質がそれを抑えて絶妙な仕上がり具合になっている。マクリーン然りフランシス然り。もしこの主人公がハンデを持っていなければここまでの完成度で読者に迫ることは難しかったであろう。
 英国人の米国人に対する視線がほの見えて苦笑を誘われるのも一興。
 これは男が読むべきミステリだ。女が読んでどこまで感情移入出来るかわからない。
「菊と刀」ルース・ベネディクト 社会思想社
 やっと読んだ。なかなか触れる機会がなかった。
 戦中、戦後のアメリカの一般的な対日観よりはいくぶん好意的に思える。いわゆる「日本は駄目なんだ」という姿勢ではなく、ごく冷静に「日本とはこういう社会だ」と記述してある。出版当時なら頷くことが出来るかもしれない内容であるが、現在我々が生きている日本から見ると違和感を感じる部分もある。それは「日本人はそんなに立派か?」とつい思ってしまうのだ。
 ところどころ突込みたくなる記載もある。忠臣蔵の筋を紹介している中で浅野内匠頭が切腹の直前に大石内蔵助と会っていたりする。
 ワシントン、ジェファアスン、ド・トクヴィルが出てきた時は思わず「バーロウと繋がった!」と叫んだものだ。
 しかしこれを読んでつくづく昔は立派だったと思わされる。またその時代の日本の習慣や感覚を新鮮な気持ちで読める。というのも今を生きる我々が失ってしまったものがこの本の中に息衝いており、それを発展と呼ぶか退廃と呼ぶかは別として、明らかに遠い世界の物語に感じるからだ。
 戦争が終わってもうすぐ六十年になろうしている。六十年かけてここまで変化したならば古き良き日本の伝統を取り戻すのにやはり六十年はかかるだろう。しかもそれはエントロピーの法則を無視してのことであるから義や礼節を再び訓とするのは不可能に近い。
 義理についてこだわっている著者はアメリカで出版されることを考慮して詳しく述べたに違いないが、日常そんなことは考えていないから妙に考え込んでしまう。
 海外からの対日観として読むというほかに、日本人の行動倫理を解説している本として読むことがひとつ。我々の世代が知らない日本を学習することがひとつ。これを読んで日本に興味を持った他国人が期待していた日本と日本人像をそのまま演ずるか、あるいはぶち壊してみせるかどちらでもよいが、この本は今なお海外で読まれているならば、自覚のない当事者として読んでおかねばならない。
 奥付を見ると1994年の時点で96版。読まれているには違いないが、読んだという人は聞かない。
「孤独なハヤブサの物語」J・F・ガーゾーン 新潮文庫
 大人の絵本である。猥褻なものを想像した方は今すぐ首を吊って頂きたい。
 翻訳は沢木耕太郎。ハヤブサがハヤブサとしてのアイデンテティを捨てることによって得たものは何か。捨ててしまってよかったのか。あの食べ物は一体何を暗示しているのか。読み手に想像力を要求するのが絵本たる所以だ。答えはあなたの中にある。そのきっかけとして読むがいい。
 作品そのものの価値についてはそれを認める。ただここで提起されている問題についてはおそらく否定的立場をとるだろう。ハヤブサだけを性悪説とすることに反発を感じるからだ。
「リルケ詩集」リルケ 新潮文庫
 つくづく日本語の語尾は変化に乏しいことを実感する。
 やはり詩はその書かれた原語でこそ最高の輝きを放つものであるからどうにももどかしい。
 どうもこれでは朗唱する気になれない。気に入ったものを一つ挙げるとすれば「嘆き」になる。
 もう少しましな訳を読みたい。英語であればやってみようと思うが独語であるから不可。
「螺旋上の殺意」リドリー・ピアスン 角川文庫
 角川が新潮から奪っただけのことはある。サスペンス、ミステリ、警察、推理、社会派そのすべてに当てはまりながらなおそれだけではない特徴もある。重厚な構成力で常に読み応えのあるものを発表し続けるピアスンは常に社会の変化を読み、その一歩先を歩んでいるようだ。
 読み終えてからやっとタイトルに合点がいく仕掛けも嬉しい。内容に触れるとそれがそのままネタばらしになるので堪える。
 リドリー・ピアスンはウェンディ・マコール名義で書いたものがハヤカワから出ているらしい。ウェンディ・マコール。狩りの標的に追加だ。
「ウナギと山芋」丸谷才一 中公文庫
 アート・バックウォルドが紹介されている。ずっと読みたいと思って探しているものをこうして紹介されるとますます読みたくなる。
 評論からパロディまで丸谷才一の至芸がここにある。新たな小説家を開拓する上でこれほど役に立つものはない。読みたくなるものを次から次へと惜し気もなく披露してくれる。優れた読み手であり、その方向性が自分と一致する評論家は当然数少なく、それだけに紹介されているものはすべて読みたくなるのだ。
 日本語を本気で憂える人がここにいることを知っておくべきだ。
「防壁」真保裕一 講談社文庫
 真保裕一の短篇集。「盗聴」とは違ってテーマを揃えてあるので綺麗にまとまっている印象を受ける。
 四つの短編「防壁」「相棒」「昔日」「余炎」のなかで「相棒」が一番いい。このラストの台詞を言わせる為に物語を綴り合わせた感じもあるが、上手く仕上げている。
 この短篇集の底流にあるのは愛憎で、冒険ミステリにありがちな危機と謎解きのみに足をとられた派手なだけのものと違い、しっかり人間を描いているのはフランシスの影響があるから当然であろうが、なかなか出来る芸当ではない。しかもそれが短編となればますます研ぎ澄まさなければならないところを平然と処理しているのが素晴しい。
 そしてまた入り組んだ長篇が読みたくなった。期待を裏切られることがない作家だ。
 でも映画「ホワイトアウト」は少々辛いです。あれを素晴しいと言う人は一度これを読むがいい。
「いい女、演ってますか」村松友視 角川文庫
 やってますかと言われても。女性が読んで参考になるかどうかはともかくとして、タイトルに惑わされる人が多いだろう。村松友視独特の韜晦というか、ひねり過ぎだ。
 この人はさりげない会話がとてもいいのだが、エッセイではなかなか味わえない。
 過去に出会ってはすれ違った人の思い出を書き連ねる行間から、いじましい程の「いい女」の考察が見えてくる。これはマニュアルでも何でもなくて、ただの与太話である。そしてこれを投げ出さずに鷹揚に読み終えることが出来るならば、いい女であるかもしれないという複雑な仕掛けになっているような気がする。はっきりそうとは書いていないが、これを読んで退屈がる女はいい女ではなかろう。
「脳ミソを哲学する」筒井康隆 講談社+α文庫
 対談集であったか。見つけただけで確かめもせずそのまま買って後で驚く。対談集がまず珍しい。「トーク8」「突然変異幻語対談」とこれだけか。少し前に朝日新聞でトークエッセイなるものをやっていたようだが今でも続いているのだろうか。それが単行本になるのは何時のことになるのか。
 対談の相手はすべて学者で統一されている。日高敏隆が出てくるのは長い読者にしかわかるまい。
 鬼畜なら即買い、ツツイストなら買い、それ以外ならやり過ごすのが最もよいかと思う。
「証拠」ディック・フランシス ハヤカワミステリ文庫
 読んだかどうかの自信がなくて恐る恐る買ってみたが未読のものだった。
 初期のものは順番に読んでいたが、主人公が毎回違うので順番に読む意味などないと考えて見つけ次第読み始めたところ、未既の判別に苦慮するようになる。タイトルが漢字二文字で統一されいるのはとても格好いいが、読んだかどうかすぐにはわからん。今になって出版順に読んでおればよかったなどと思ったりする。
 毎作必ず競馬を背景に描くフランシス、この「証拠」ではワインとウィスキィが絡んでくる。競馬にどうやって繋げるのか心配する必要はない。競馬はやや薄いが、しっかり絡んでいるから。
 この作品、悪くはないが、シッド・ハレーと張り合ったら確実に負ける。
 ただし、さり気ない言葉がとても良くていくつかメモしてしまう。いつか扉で使いたいものだ。
「ヘルマンとドロテーア」ゲーテ 新潮文庫
 これがドイツの国民文学、嫋々たる叙事詩。原文の響きはさぞや流麗なことだろう。
 最後のこんがらかったところをあっさり処理しているのが物足りない気がするのはドタバタに思い入れがあり過ぎるからであろう。これを物語として読むと肩をすかされる感じだが日本語に叙事詩という確固としたジャンルが成熟していない以上仕方がない。
 いつかどこかで見た話?違う。これを土台に様々に発展模倣したものに触れ過ぎた我々は本家まで軽んじる悪弊に陥っているだけだ。


Copyright 2002-2004 鶴弥兼成TURUYA KENSEY. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. 著作権について リンクについて 管理人にメール お気に入りに追加

[★高収入が可能!WEBデザインのプロになってみない?! Click Here! 自宅で仕事がしたい人必見! Click Here!]
[ CGIレンタルサービス | 100MBの無料HPスペース | 検索エンジン登録代行サービス ]
[ 初心者でも安心なレンタルサーバー。50MBで250円から。CGI・SSI・PHPが使えます。 ]


FC2 キャッシング 出会い 無料アクセス解析