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「脳治療革命の朝」柳田邦男 文春文庫
 「脳治療革命の朝」朝は「あした」と読む。「あした」を漢字で「朝」と書く時は意味が「夜が終わって明るくなりはじめたころ」ということ。
 読んでみればタイトルの意味がよく分かる。ただしこの本の前に「犠牲」や一連の癌をテーマにしたものを読んでおけば、著者のスタンスを違和感なく理解できるだろう。
 この本で書かれている「脳低温治療」から今では「心肺脳蘇生治療」という新しい試みがなされていることも知っておいて損はない。脳死状態になった時、僅かな望みがあるならばそこに希望を託すことが出来るかもしれない。
 脳死問題については最近あまり聞かないが移植と絡めてもっと問題を掘り下げるべきであるように思う。脳死と判定されて麻酔無しで開腹しての臓器摘出の際に脳圧が一気に上がり「痛みを感じているのではないだろうか」といった疑問を無視して臓器移植を強行するのは恐い気がする。
 大学三年生の時以来ずっと持っていた臓器提供カードを、この「脳治療革命の朝」を読んで捨てた。「死の多様性」についてはキリがないし宗教も絡んでくるので踏み込みたくないが、生と死の間のわずかな差の中に存在する可能性を自ら捨てることになると気付かされたからだ。
 医者からは素人の癖にと言われ、読者からは自分だけわかっていればいいわけではないと言われる。医者としての立場ではなく、素人としての立場でもないノンフィクションと作家としての柳田邦男の視点が実に貴重で大切なものかを本当に評価されるのはいつのことになるのだろうか。
「ダイスをころがせ!」真保裕一 毎日新聞社
 はずれなし作家、真保裕一。三十四歳の青春を描く選挙小説。国会議員に立候補するまでと、してからの選挙活動が詳しく書いてあるが、とてもわかりやすく、しかもメインテーマは選挙ではなく「青春」だ。青春と言うと何だか恥ずかしい気もするが、「友情」「恋愛」「自分探し」といった普遍的なテーマを選挙の陰に隠すことでより引き立たせる効果を発揮している。
 宙ぶらりんの三十四歳が同窓生とともに選挙に打ち込むことで何かを取り戻そうとする心の道を、読んでいて素直に応援したくなる。
 連載小説だったからいくつか似た記述があるというしつこさはあるものの、全体としては明るく爽やかな感じの「真保裕一らしくない」作品に仕上がっている。
 これはディック・フランシスよりドン・ウィンズロウといった雰囲気です。読むべし。
「骨まで盗んで」D・E・ウェストレイク ハヤカワ文庫
 ドートマンダーシリーズ最新作。ミステリアス・プレスではなくハヤカワ文庫から出ました。分類は「HM」HAYAAWA MYSTERYです。
 本の雑誌今年の翻訳ベスト10にも入ったし確か「このミス」にも入ったはず。
 ところが、内容は今までのものと比べて出来があまり良くない。粗筋紹介の最後の「爆笑度1000%の会心作」の文字が空しく踊っている。ドートマンダーシリーズではない「斧」のほうがあきらかに完成度は高い。
 別に貶そうとしているわけではない。ただ、期待が大きかった分落差に対応できないだけなのだと思う。普通に読めば明らかに面白いのだろうが「ウェストレイクの新作」という看板がマイナス要件になっているようだ。
 あふがにすたんばななすたんど。
 専門用語と略語が多いが、これは小説を読まない人にはお引き取り願いたいとの意味が込められておるからです。悪しからず。
「悪の論理」倉前盛道 角川文庫
 副題の「地政学とは何か」に惹かれた。奥付を見ると昭和五十五年初版発行となっている。
 地政学。Geopolitics;Geopolitik。ゲオポリティック。この言葉に初めてぶつかったのは中学生の頃に荒巻義雄を読んだ時だ。当時は地政学と出てきても特に意識することがなく、そのまま記憶の底に沈んだ。高校生になり、戦記シュミレーションが訳のわからない盛り上がり方をする中で粗製濫造にうんざりして、せっかく読んでいたシリーズを途中で投げ出し、時代小説に走ったのだが、これは軽率だったように思う。荒巻義雄が筒井康隆と古くからの盟友であることを知った時には遅すぎて、今さら読むのも、と諦めた。
 あるときインターネットのリンクを適当に手繰って「アカシックレコード」なるサイトに辿り着いた。ここで「地政学」という言葉に再びぶつかった。
 砕氷船テーゼについては漠然と知っていて、「大相撲の優勝決定巴戦」「漁夫の利」とすぐに理解できたが地政学については詳しくわからないまま再び記憶の底に。
 クラウゼヴィッツの「戦争論」を既に読んでいたことが視野を狭くしていたのだろう。やがて「戦争論」から広瀬隆に進み、「赤い楯」を読んでついに地政学を受け入れる下地は整ったが、そのことにはまるで気付かず、古本屋ではひたすら丸谷才一を探していた。
 ある時郊外型の新進古書店の百円均一棚でこれを見つけた。「地政学とは何か」この副題に反応できる状態になっていたのだ。通常確認する粗筋も解説も作者紹介もすべて無視して買った。
 買って良かったと思う。読んで良かったと思う。今まで記憶の中でバラバラに存在していた「荒巻義雄」「クラウゼヴィッツ」「広瀬隆」「アカシックレコード」がこの一冊ですべて繋がったのだ。
 これは陰謀史観ではない。冷徹な現実の解説書である。いきなり読むと、まるで理解できないか、たわごとに感じるかのどちらかであるからお勧めはしないが、この本を読んだ人となら気が合いそうだ。
「いのちの半ばに」アンブロウズ・ビアス 岩波文庫
 筒井康隆が「悪魔の辞典」を翻訳してまた知られるようになった。
 中の一編「人間と蛇」に少々複雑な感慨を覚えるが、仕方があるまい。これが蛇の役回りなのだ。キリスト教において蛇の位置付けを尋ねるほど無知ではないつもりだが、嫌われ過ぎな気もする。八岐大蛇も悪役であるし。映画「インディ・ジョーンズ」シリーズでも蛇。蛇。蛇。皆の衆、蛇の抜け殻は金運を招くんだ。そんなに嫌うな。
 死を多く扱うこの短編集は様々な示唆に富んでいる。なかでも「ふさわしい環境」の伶俐に研ぎすまされた皮肉に満ちた最後の一節を読んだ時苦笑と戦慄が入り交じった感情が沸き起こることをとどめることが出来ない。
 この一見力業にも見える最後の捻りは実は入念に組み立てられ計算されていることを、何度も何度も読んではじめて理解できる。他のものも読みたい。

「悪の華」ヴォードレール 岩波文庫
 初版以降削除された詩を加えた全訳。
 旧字というか正字が嬉しい。雰囲気がよく出ている。これも当然仏語で読まねばその魅力は到底理解に及ばないだろうが、現在のふやけた略新漢字に馴れ切った我々がこの翻訳を読むと背筋がぴしりと伸びるようだ。
 ハートのジャックの色男 スペイドクィーンの艶女 遠い昔の愛の歌 呟くように 呟くように
 どうもフランス語はまったく駄目です。英訳探してそれを訳してみようかな。 「メノン」プラトン 岩波文庫
 補注と解説に本文の倍近い時間がかかる対話録。
 プラトンの書いたソクラテスの一連の対話録の扇の要の位置にある。
「弁明」よりこちらを先に読むべきだ。
 しかしこれは劇作としても優れているように思える。
「ブラック・アウト」上下 J・J・ナンス 新潮文庫
 やっと読む機会があった。平行して読みかけのものが沢山あるから後回しになっていたが、こ難しい本に少々飽きて、ほったらかしてあったこれを手にとった。極上のエンタテイメントであり優れた航空小説の書き手であるJ・J・ナンスはパイロット出身の強みを活かして緊迫したコクピット内の状況を圧倒的な迫力で描写している。前作「最後の人質」で活躍したキャット・ブロンスキーが再登場、今度は凄まじい戦いに巻き込まれる。
 一部でパールハーバーとルーズベルトに関する記述があり、これは「悪の論理」の地政学に繋がった。全く関連のない本同士が内容で繋がることは読み手にとって最高の快感だ。あの「9・11」にも僅かに言及しており、その後の航空会社に対する仕手戦が現実と微妙に重なっている。
 ナンスはまた映画からの引用が豊富で登場人物に名台詞を多々吐かせていることも魅力の一つで、読む度に嬉しくなる。名台詞のパロディも多く、とても楽しめる。今回はテーマが革新的な新兵器なので「スター・トレック」が多かったが、それでもにやにやしてしまう。
 新しい形の航空テロを警告する意味を含めたこの小説はいずれ現実となるかもしれない。トム・クランシーの「日米開戦」がそうであったように。
 しかしその現実に既視感がつきまとうのは何故か。仕手戦についてははるかワーテルローの時にロスチャイルドが発明して以降綿々と続いているし、グリコ森永事件でも先の「9・11」でも空売りと底値の買い戻しが記憶に新しい。実際のテロ行動についてもいつかどこかで見知ったやり方であるし、真の衝撃を受けるには難しい時代であることを感じる。
 大暴れするヘリの記述は今回も出てきたが、ナンスは今までに書いたものから判断してヘリの操縦をしたことはあるがライセンスを持っていないようだ。おそらく実体験なのだと思う。
「破産寸前の男」ピーター・バーセルミ ミステリアス・プレス文庫
 奥付を見ると1992年12月31日初版発行。偶然だ。(註:偶然12/31に読んだ)
 バーセルミ。どこかで聞き覚えがあったが、はっきりと思い出せずうやむやのまま読み終え、解説を読み、はじめて合点がいった。兄がドナルド・バーセルミ。雪白姫のひとですね。白雪姫のパロディを書いた人。日本には柳瀬尚紀が翻訳している。柳瀬尚紀は翻訳界では異端の人であのジョイスの文体を日本語で表現しようとしたことで知られている。「ケロッグ博士」では一人称を使わないという新しい試みを発表して度胆を抜いた。読んでみて全然気付かなかったからだ。
 柳瀬尚紀は「Snow White」をそのまま正しく「雪白姫」と訳した。原典のグリム「白雪姫」は「Snow White and the Seven Dwarfs」であるから「雪白姫と七人の小人」が正しい筈だとの狼煙を上げたわけですね。最近グリムの方もぽつぽつ雪白姫といったりする人もあらわれましたがこれは全面的に柳瀬尚紀の功績だ。ちなみに「Dwarf」とは一寸法師・小人と訳される。そういえばイギリスのコメディで「RED DWARF」というやつがありましたね。結構前にNHKで再放送しておりましたが。「フルハウス」と微妙に重なっているあたりが笑えた気がします。
 ドナルド・バーセルミ、たしか筒井康隆でも出てきたような気がしますが。
 で、この作品は。洒落たスラプスティック。気の効いた会話。生活の匂い。何故か死闘。
 「You'll have a good time.」これは「NEW YORK TIMES BOOK REVIEW」の評だそうだ。
 不思議な雰囲気なのだが、個人的に好みではないようだ。
「ハラスのいた日々」<増補版>中野孝次 文春文庫
 柳田邦男の珍しいエッセイの中で絶賛されていたこれを見つけたのはやはり古本屋だった。
 この本を見つけたら表紙見返しの著者紹介を見てみよう。ぶっ飛ぶはずだ。凄い人なのに全く知らなかったことを恥じなければならない。
 この「ハラスのいた日々」は新田次郎文学賞を受賞した作品で、著者の愛犬に対する思いを飾ることなく書いている。一度でも犬を飼っていたことがあるならば読むべきだ。ハラスが羨ましく、飼い主が羨ましくて、そのうえ自分と自分が飼っていた犬に対して誇りと愛情を呼び覚ますはずだ。
 本の中で繰り返し出てくるハラスの写真を見る度に気が付けば頬が緩んでくる。
 最大の事件がある。ハラスが行方不明になってしまうのだ。しかも自宅とは遠く離れた雪山で。これがなければただの飼い主による愛犬記で終わっていただろう。過不足のない文章で淡々としかし綿密に書かれてあるハラスが瞼の裏で踊る。
 これを読んだら、飼っていた犬のことを書きたくなるような本だ。
「道徳形而上学原論」カント 岩波文庫
 タイトル通りややこしい内容でこれ一冊読んだだけではまるで理解できないという実に岩波らしい本だ。関連したものを集中して読まなければならない。当然のように古本屋で買ったが、奥付を見ると昭和四十一年第八版発行となっていて一寸たじろぐが、文章も漢字も今の規定とほぼ変わらないので普通に読める。
 普通に読めるが普通に理解することは難しい。カント哲学には興味がない人にはこの本は焚付け以下の存在であろう。手前も殻を挟んだ嘴で哲学に言及はしないし、哲学そのものにも実は興味がない。哲学は学ぶものではなく体得するものだと考えているので系統立てて学ぼうとは思わない。どうせ学んだところで身に付く筈はないし、身に付いたところで体得したこととそう変わりはないと思うからだ。
 こんな経験はないだろうか。ある時天恵のような閃きが頭を走る。自分はもしかして凄いことを考え付いたのではないかと興奮する。ところが暫くするうちに既に誰かが同じことを書いているか実行しているかしている。所詮人間の考え付くことなんかそうそう変わりはないよなとやや凹む。やがて自分はやはり平々凡々な人間だとあきらめる。
 誰かがどこかで書いたこと、誰かがどこかでやったことをそのまま思い付いてしまったことに恥ずかしさを覚える。それもほぼ同時期ならともかく、はるか昔に事例を見つけた時のくすぐったさは身を揉んで余りある。
「巴里の憂鬱」ボードレール 新潮文庫
 まあフランス語が分からないのでボードレールの意図したところ一割も理解できていないと思いますが、三好達治の訳のリズムが良くて引き込まれる。
 「・・・酔え!絶えず汝を酔わしめてあれ!」
 といいますか、何といいますか、あれですか。昨年まで一種の流行だったホームレス狩りは、あれをしていた少年達は、みんなボードレールを読んでいたんですかね。まさか。
 この本、クリスチャンでフランス語に堪能でないと本当の魅力には辿り着けません。クリスチャンでなく、フランス語など判らない手前はただその流れと意味を追うのにやっと。目の前に情景が浮かびそうで浮かばないもどかしさ。こちらの経験不足によるものとは言え、悔しい。しかしこれは何度も読み返したくなるし、何度読み返しても飽きないだけの魅力があるからこそ、今なお読み継がれているのだから、そのことを頭に入れて次の旅行に持ってゆき、折あらば読み、折あらば読む。
 散文詩。詩は少し取っ付きにくいところがあるが、散文詩だとわりと受け入れ易い。
 ボードレールは序文を友人に宛てて述べている。ベルトランの「夜のガスパール」を幾度も読み返して自分も何ごとかを企てたいと思ったこと。「夜のガスパール」と対称的な叙述を試みたこと。しかし「夜のガスパール」には全然及ばないとわかったこと。しかも狙っていた効果が少しずれたこと。ところがそれが意外な効果を生み出したこと。そしてそれが悔しいこと。
 そんな謙遜はかえって嫌みである。嫌みであるということはつまり素晴しい作品集であるということだ。
「アメリカン・ビート2」ボブ・グリーン 河出文庫
 しまった。これ前に買って読んだものだ。よくあることとはいえ、やはり悔しい。
 ボブ・グリーン。未成年に対する淫行で長年続けた「シカゴ・トリビューン」の連載コラムを自ら降りた。未成年に対する淫行とはつまり「十七歳」と題した当時の日記を出版したことが間接的にせよ引き金になったのかもしれない。相手がそれを読んでアクションを起こしたのだと思いたい。
 ボブ・グリーンはアメリカの平凡で標準的なともすれば恥部とさえいえる部分を普通に書くことが出来る希有の人であった。何も飾らず時として目を背けたくなる現実を活写して、こちらの精神を是正してくれた。
 まだ死んではいないが。
 沢木耕太郎からボブ・グリーンを知ったのだが、育児日記で小林信彦と回路が出来た時には小躍りして喜んだものだ。
 まだ読んでいないコラムがある。まだ読んでいない作品集がある。まだ読んでいないノンフィクションがある。頼むから絶版などという下らないことはしないでくれ。もし作品に著者の人格を宿すなら、それは近視眼的大愚行であり、大いなる文化的損失でもあるのだ。
「世は〆切」山本夏彦 文春文庫
 日本の良心を失ったことは返す返すも残念だ。
 常識を知る人がまた逝く。
「笑う警官」マイ・シューバール&ペール・ヴァールー 角川文庫
 マルティン・ベックシリーズの最高峰。これが出た時に自分はまだ生まれていないことを考えると相当のショックを受ける。
 訳は高見浩。「A−10」の人ですね。
 スウェーデンの小説ということであまり馴染みがない名前や地名が出てきて新鮮な喜びがある。「メーステル・サミュエルスガータン通り」実際にあるかどうか知らないがこの響きだけで異国情緒が沸き起こってくるではないか。
 バス内で起こった大量殺人。犯人は?動機は?その後の大量殺人小説、連続殺人小説の犯人動機像のあらゆる原点がここにある。
 まったく、中学生の昔に赤川次郎を読んでいたことが恥ずかしくてしょうがない。こっちを先に読んでいれば。どうやら入口を間違ったらしい。しかし同時にそれはこれから先まだまだ未読の素晴しい小説を読むことが出来るという幸せなことをも意味するのだ。
「笑う警官」マイ・シューバール&ペール・ヴァールー 角川文庫
 マルティン・ベックシリーズの最高峰。これが出た時に自分はまだ生まれていないことを考えると相当のショックを受ける。
 訳は高見浩。「A−10」の人ですね。
 スウェーデンの小説ということであまり馴染みがない名前や地名が出てきて新鮮な喜びがある。「メーステル・サミュエルスガータン通り」実際にあるかどうか知らないがこの響きだけで異国情緒が沸き起こってくるではないか。
 バス内で起こった大量殺人。犯人は?動機は?その後の大量殺人小説、連続殺人小説の犯人動機像のあらゆる原点がここにある。
 まったく、中学生の昔に赤川次郎を読んでいたことが恥ずかしくてしょうがない。こっちを先に読んでいれば。どうやら入口を間違ったらしい。しかし同時にそれはこれから先まだまだ未読の素晴しい小説を読むことが出来るという幸せなことをも意味するのだ。
「饗宴」プラトン 岩波文庫
 例によって訳注が多い。そこが楽しい。ただし他のプラトンの対話録をよくよく読んでいなければ全然面白くないだろう。プラトン回路は一筋縄ではいかない。
 実際の本編は極限まで研ぎすまされていて並々ならぬ集中力を必要とする。訳者の序説でさえも大変ややこしい。
 最近岩波はプラトンあたりをまとめて再版したので現在古本屋ではプラトンがだぶついていて「饗宴」は50円で手に入る。間違えて二冊買ったことは反省している。
 プラトンの数ある対話録中「ファイドン」「ファイドロス」とともに最高傑作と言われているこの「饗宴」は一度読んだだけでは絶対に理解できない。まず、序説を読んで混乱が始まり、本編を読んで混迷が進み、訳注で混沌に陥る。ここで諦めてはいけない。再び序説を読んでみるのだ。するとここでやっと登場人物が把握できる。登場人物を把握したらもう一度本編を読んでみる。すると登場人物のおおよその立場がわかってくる。内容を理解するのはまだまだ先のことだ。他の対話録に出てくる弟子たちやその他の登場人物、噂に出てくる名前を回路で繋ぐのははるか先だ。
 とりあえず立場は大体わかった。もう一度読む。
「オイディプスの刃」赤江瀑 角川文庫
 古本屋で百円とは運がいい。
 刀と香水。
 満足。
「私の個人主義」夏目漱石 講談社学術文庫
 青空文庫では無料で読めます。しかしまあ我々の世代は最後の純粋な紙活字世代として新しいメディアの誕生に立ち合うという貴重な体験をしていると共にその変化に戸惑ってもいるわけです。正直な話、本のページを手でめくり好きな姿勢で好きな場所で読むという読書スタイルで生きてきた人間にとってパソコンの画面の長文はいささかつらいところもある。横書文字にもまだまだ抵抗があったりする。理科や算数の教科書では馴れるとまではとてもいかない。
 「私の個人主義」これは講演録であるがだからといって軽く見てはいけない。極めて優れた思想がここにある。現代文明論としして今なお読み継がれているのはその内容が古さを感じさせず今の時代でも十分通用するからであり、しかし今の時代でも十分通用するということはつまり我々が明治の末大正から全く進歩していないということでもある。今の時代が昔に比べてひどく悪いわけではないことがわかるし、良くなったわけでもない。情けなくもあり腹立たしくもあり妙に安心したりする。
 漱石については何も言うまい。読んだことがない人は論外として、何か読んだことがあるなら必ず一言あるだろうしそれが他人と一致することが稀であることも既に経験しているはずであろうからだ。それぞれの経験とそれぞれの考え方の中に漱石が沈澱し定着する中でどのような化学反応を起こすのかはまるで予測は出来ないしそこを想像するのも楽しかったりする。
 絶妙な当て字が腹を震わせる。
 ついでにこの講演録の原点ともいえるイギリス留学紀も併せて読めばなにか感じることがあるかもしれない。
「戯作三昧・一塊の土」芥川龍之介 新潮文庫
 久々に魂抜けきました。どうしてこれをもっと若い時に読んでおかなかったのだろう。しかし若い時なら理解が及んでいないかもしれないことを考えると今でちょうどいいのかもしれない。いずれにしても得るところ大な短編集。というかこんな凄いもの読んだらさすがに凹みます。
 芥川龍之介の作品の中では「侏儒の言葉」が一番好きなんですけどね、この表題作の「戯作三昧」はそれに迫っております。
 このなかにある「或日の大石内蔵助」これが池宮彰一郎の「その日の吉良上野介」の元ネタということにやっと気付いて今さら恥。
 太宰が嫌いで龍之介が好き。でも芥川賞は嫌いで直木賞が好き。龍之介は当時の文壇ではエンタテイメント系であったにもかかわらず、文学的評価が高い。文学であることに異論はないがこ難しいだけの最近の文学情勢の中で賞の冠に使われることが少し納得できていないのです。
「中くらいの妻」日本エッセイストクラブ編 文春文庫
 1993年のベストエッセイ集。このシリーズは毎年その年の優れた随筆を一冊荷まとめて出したものを文庫化したもので、表題作は必ずトリをつとめている。問題なのはタイトルが中庸で古本屋で見つけても既に読んだものかどうかわからないことだ。ぱらぱらと読めばわかるだろうと思うかもしれないが、ベスト集成であり、書いている人をいちいち覚えていられない。毎年五十人以上が収録されているのだ。シリーズの統一感を持たせるため、表紙も同じ安野光雅が担当していてはっきりいってしゃくのタネだ。
 中には新聞の投稿欄に採用されたものが載っていることもあり、べストエッセイ集と銘打ってはいるがただのごった煮だと思って間違いない。にも拘らず買って読むのはごった煮だからこそ何か拾いものがあるのではないかという期待に負けてしまうからだ。
 負けてしまうものの、古本屋でこのシリーズを見つけた時、既に読んだものかどうかを判別できないことが最後の勝負となっている。まず何年度と書いてあっても信用できない。書いてあることが信用できないのではなく、自分の記憶が信用できないのだ。タイトルは中庸だから論外だし、ありがちな表紙の絵ではますますもって区別はつかない。同じ本を二冊買ってしまうのは悔しいから既に読んだものかどうか中を見てもわからない時は買わないようにしている。
 ところが買わなければ買わないで「ひょっとするとあれはまだ読んでいなかったものかもしれない」という不安が押し寄せてくる。
 ある程度の活字中毒者であれば同じ本を二冊買ったことがあるはずだ。読んでいる途中で気付くこともある。読み終えて「どこかで読んだ気がするが」と思って調べてみると確かに読んでいたりする。
 そういう活字中毒者泣かせのこのシリーズ、いい加減に見切りをつけようと思っているが、古本屋を巡って掘り出し物を見つけるのが楽しみである人間にとっては、ごった煮の魅力には抗しがたいのだ。
「レディ・スティンガー」クレイグ・スミス ミステリアス・プレス文庫
 極端に少ない登場人物でここまで鮮やかな物語を紡ぐことができるクレイグ・スミスのデビュー作。
 詐欺師の話だが、これを読んで騙されない読者はいないだろう。作者が本当の詐欺師だと思ってしまう。上手すぎる。並みの作家ならはるか手前で終了させているところを転がす転がす。ついていくのに必死。眠気が確実にふっ飛ぶ。最後まで一気に読まされてしまうのだ。
 ミステリアス・プレス文庫はほぼはずれがない。初見の作家でも安心して読むことができるのは、実に助かる。
「パイドロス」プラトン 岩波文庫
 登場するのはソクラテスとパイドロスのみ。原文を忠実に訳していることがよく分かる文章であまり詩的ではないが当時の対話の雰囲気が伝わってくる。プラトンのすべての作品に言えることだが、これは対話をそのまま収録したものではなく、ソクラテスの思想を研ぎすますためにプラトンが対話録という形式を採用して書かれたものであるから当然完成度が高い。そういえばパイドロスは「饗宴」出てきた人物だ。(註:「饗宴」での表記はファイドロス)
 プラトン=ソクラテスを読むきっかけとなったのは高校時代に読んだ清水義範「深夜の弁明」で、すぐに「ソクラテスの弁明」を読んだがまるでわけがわからずほったらかしてあったものを、土屋賢二を読んで再び読み返して以後ぽつりぽつりと手を伸ばしている。
 「パイドロス」は丁寧な注釈で関連が大変分かりやすく、入門書としては「弁明」に続いて相応しいだろう。かといって迂闊にプラトンを読みはじめたら止まらなくなるのでお勧めはしない。ゴールが見えなくなってしまう。もともとゴールなどないのだが・・・。
「ニューヨーク・スケッチブック」ピート・ハミル 河出文庫
 コラムのようでもあり短編のようでもある。景山民夫の原点はこれか。
 「幸福の黄色いハンカチ」という映画、あの高倉健の実に日本的なストーリーの・・・と思っていたらなんと原作者がピート・ハミル。この本に収録されていて驚愕。
 感情の微妙な襞まで訳す高見浩はやはり凄い。いいなあ、これ。
「目は嘘をつく」ジェイン・スタントン・ヒッチコック ミステリアス・プレス文庫
 翻訳小説で芸術・美術ものというのは一つの分野をなしていて、もちろんそれは横糸であるが、サスペンスに絡めるのはありふれている手法といえる。ピーター・ワトスンの「引き裂かれたヴァチカン」「まやかしの風景画」を越えるものはまだ読んでいないが、いずれこの先集中的に出版されるであろうことを期待しつつ。
 しかしこの「目は嘘をつく」実に共感しにくい。感情移入しにくい。主人公が三十九歳の女性であるだけならまだしも、脇役に大富豪の老女とくれば読んでいて妙に冷静になってしまうのだ。こちらの想像力不足であるならどうしようもないし、「現実にはあり得ないことだから小説になるのだ」と言われたら何も返せない。しかしこのような世界が現実にあることを知っている上でついていけないのだからどこかで間違えたのだろうと思う。
 「金持ちのやることは理解できん」これを言いたいが為に書いたわけではなかろうがどうもいまひとつ響いてこない。こちらの背骨を直接掴んでぐいぐい揺さぶられるような迫力がほしいのだ。
 読者を極端に限定するこの作品はミステリアス・ブレスから出すべきではなかった。
「樹影譚」丸谷才一 文春文庫
 ランボオと繋がつたか。これは繋がつたといへるのかどふか。自分の中では回路が出来ていないので位置付けに苦心する。
 それにしても活字が大きい。大きすぎて読みにくい。丸谷才一の仮名使いはわりと楽しく読めるのだが、それは文字が大きすぎない場合に限られることがこれを読んでわかつた。このあいだ新聞にも軒並みポイント数上げられて目眩をさせられたが、あれに似た鈍痛がはしる。
 和田誠の装丁がこれは素晴しい。単純というにはあまりにも洗練されていて、これを眺めるだけでも価値はある。ただし絶版になつている可能性が高い。これは売れるような本ではないのだ。評判を聞いて普段活字を読まない人間が読むことはありえない。孤高の文学の華として限られた物好きだけが辿り着くような場所に咲いている。手前は間違つて行き着いてしまつただけで、本来「文学」には努めて目を背けるようにしているがこの人の書くものなら、とつい踏み込んでしまつたのだ。
 もう新年だ。
「パロディ志願」井上ひさし 中公文庫
 少し微妙な位置にある。井上ひさしのエッセイとしてはごく初期のものでまじめでもある。
 も・もう一度読もう。
「文章読本」三島由紀夫 中公文庫
 以前沢木耕太郎が三島由紀夫のボクシングの観戦記の形容詞は使い古されたありきたりな言葉だと書いていましたが、少し違うような気がします。
 三島由紀夫が使った文章をスポーツ新聞が真似をし、スポーツ新聞での陳腐な決まり文句に慣れ切ったせいで、改めて三島由紀夫を読むと「ありきたり」に感じるだけなのでしょう。
 この読本では文章の品格について特にこだわっています。作法、技巧から質疑応答まで古今の名文を自在に引きつつ読み手を酔わせてくれること、これが魅力なのです。
 この文章にどたばたの笑いを叩き込むと浅田次郎のエッセイになります。確かにこの系譜を継いでいるように思えます。
 これを読んだからといってそのまま素晴しい文章が書けるわけではありません。むしろ反対に何も書けなくなる恐れが多分にあると申せましょう。
 しかし三島由紀夫の文体はつらい。
 やーめた。読め。いや読むな。いやどっちでもええわ。もし機会があったら一度くらいは読んどけ、と。
「遊びの博物誌1」坂根巌夫 朝日文庫
 先に「遊びの博物誌2」を読んでいてこれをずっと探していた。たまたま見つけた初めて入る古本屋で手にとった時の喜びは七対ドラ単騎を自模った感じ。
 安野光雅がここにも絡んでいる。
 中で紹介されている「スプラウト」という遊び、必要なのは紙と鉛筆だけで原理は単純なのにも関わらず文章で説明するのは不可能である。蝶結びを知らない人に対して文章で説明するほうがまだましかもしれない。
 しかしこの「スプラウト」いたってシンプルだからフリーソフトでありそうなものだが。
「東京スケッチブック」ピート・ハミル 新潮文庫
 ピート・ハミルが「ニューヨーク・スケッチブック」でやったことを東京に換骨奪胎、渋い雰囲気に仕上げている。日本人が海外を舞台にして小説を書き、それを当地の人が読む時のような微妙な違和感がかえって新鮮に感じる。
 大人の愛の物語。切なく優しい短編集。中でも「めぐりあい」と「ボクサー」がいい。
 訳は高見浩。翻訳小説で知らない作者のとき、訳者を見て安心して手を延ばせるのは高見浩と梁瀬尚紀だけという抜群の信頼度。
 日本人の名前もごく普通であるしすんなり入り込める。「読書の秋」に酒を舐めつつ読むなら最高に幸せなことだろう。次の秋まで待つ。もう一度読む。
「犬のいる暮し」[増補版]中野孝次 文春文庫
 「ハラス」に続いて犬のエッセイ。ハラス、マホ、ハンナ、ナナの四代の犬を暖かい視線でやわらかく書いている。
 一章で紹介されているハンガリーの「ニキ」という犬、忠犬ハチ公の物語が染み付いている日本人ならば涙せずにはいられない。共産主義の恐怖がいま一つ身近に感じない日本であっても(日本は既に全体主義であると思うが)ストレートに伝わってくるものがあるのだ。日本の右翼陣営は「ニキ」を主人公にした絵本でも出版すればよいのだ。
 この本はもちろん愛犬エッセイだが、その背後に高齢化社会への問題意識が巧妙に隠されている。
 「ハラス」もいいがこちらもいい。文庫版のための後書きの最後の言葉が素晴しい。
「清貧の思想」中野孝次 文春文庫
 柳田邦男のエッセイから「ハラスのいた日々」を知り、ここまで辿り着いた。
 お勧めは・・・難しい。内容そのものは難しくはないし、決して駄作ではない。問題は気力にかかっている。古典文学からの引用が多くてもともと興味がないならば途中で投げ出してしまう恐れがある。手前は興味深く読んだが、それは野田知佑を読んでいて、その思想を理解できるからであって、そうでなければ「ただの退屈な本」と即断していたに違いない。
 バブルの時代にカウンターを入れたこの本が出版されたのは手前が中学三年生の時。中学生ではさすがに無理だ。バブルが弾けて現在この本の存在価値が薄れたわけではない。バブル時代の雰囲気を感じること以上にごく当たり前の何時の時代でも通ずる思想であるからだ。
 集中的に書き下ろしたために内容は一貫しているが文章が少々荒いのも気になる。むしろ講演録あるいは談話録として読む方が正しい。
「人にはススメられない仕事」ジョー・R・ランズデール 角川文庫
 カバーイラストは何と寺田克也。
 MWA賞を穫った作家で日本でも人気が高い。この「ハップとレナード」シリーズは極上質のスラプスティックで会話もテンポよく進む。
 しかし最近「小男」と訳されるあの言葉、もう駄目なのだろうか。豊穣なる日本語をひとつひとつ潰していくのは誰だ。どうせゴミ箱ができるだけだ。そしてそこで生まれた作品は想像も出来ないほど多彩で蠱惑的な言葉で綴られた遥かな文学となるはずだ。
 こういうタイトルはたくさんあって「仕事」であったり「職業」であったりしてタイトルだけで一つのジャンルをなしているともいえる。多すぎて混乱する時もある。真保裕一までも短編集「盗聴」の中で似たタイトルを使っている。
 やはりスラプスティックが一番好き。
「夢の世界」ハヴロック・エリス 岩波文庫
 なかで参考に挙げられていたエル・ムニエ「夢療法に就いて」が読みたくなった。ゼラニウムを買ってきて枕元に置いていたら三日で枯れて怒り狂った。
 ところでこの本、第二次世界大戦直前に出版されている。その時代にこの本を出版することが出来たのは何を意味するのだろうか。
 夢については未だに詳しく解明されていないため、まず古典から入らねばならないことが敷居を高くしている。似非科学者の害毒もそれに拍車をかけている。ユング派とフロイド派に無理矢理分けるのも情けない。ユングもフロイドも読まず夢について言及する馬鹿も多い。手前は馬鹿になりたくない。従って何もいわない。
 古典を読んでいて嬉しいのは読めない漢字が沢山出てくることだ。そのたびに字統をあたり旧字と略字を確認する。知的探究心といえば聞こえは良いが、ただの宝探し気分であることも確かだ。沸き上がる漢字への情熱は一体何に由来するのか自分でもわからないことが不思議なのだが仕方がない。業とでもしておこう。


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