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初詣
信仰心
宗教
ワカメ
仮想敵
雨乞
カースト




恥じ
タルムード


「ねえ、神様はどこにいるの?」

「神様はこんな世界を作った罰で地獄に行っちまったのさ」

初詣 03/01/01

 初詣だと?

 一年に一度しか神社にお参りしない奴が何をほざくか。

 「やっぱり日本人だもんね初詣ぐらいしなきゃ」

 年に一度の参詣が大晦日から正月にかけてか。それで初詣のつもりか。その大晦日の段階で既に初詣ではないか。その年の正月に参詣したからニ度目だと?年を跨いだからといって二度に換算するつもりか。それとも正月の初詣一度だけのつもりか。大晦日には参詣していないのか。年が明けた直後だから初詣だと?年に一度しか神社に参詣しない癖に「初」などとこっ恥ずかしい言葉を使うな。初と言う以上年に何度も何度も参詣しろ。その昔神社が氏子をしっかり抱えて地域共同体に組み込まれていた時代は何につけ参詣するのが当然だったが今はどうだ。税金対策の寄付でもって生き長らえている神社に年に一度しか参詣しない神も仏も区別できないような馬鹿者が初詣だと?ふざけるんじゃない。

 年に一度の初詣。無神論者が初詣。年に一度の初詣。正月だから初詣。年に一度の初詣。氏子でもなく初詣。年に一度の初詣。友達来たから初詣。年に一度の初詣。彼女といるから初詣。年に一度の初詣。することないから初詣。年に一度の初詣。縁日見たくて初詣。年に一度の初詣。五円握って初詣。年に一度の初詣。最初で最後の初詣。年に一度の初詣。次は来年初詣。年に一度の初詣。鐘を突くため初詣。年に一度の初詣。次は晦日だ初詣。年に一度の初詣。財布掏られて初詣。年に一度の初詣。晴れ着切られて初詣。年に一度の初詣。風邪を拡散初詣。年に一度の初詣。神などいない初詣。年に一度の初詣。お祈りしてない初詣。年に一度の初詣。特別列車で初詣。年に一度の初詣。レッカー移動の初詣。年に一度の初詣。ニ礼ニ柏手初詣。 年に一度の初詣。柏手知らない初詣。年に一度の初詣。ああ馬鹿馬鹿しい。俺は三ヶ日を避けるぞ。

信仰心 03/07/09

 そもそも鉄筋コンクリートの神社や寺に参詣するのはなんとなく割り切れない心持ちがするのであって、やはり木造でなければ真摯な雰囲気を作ることができない。宮大工を探すことが困難であることを差し引いても、温暖湿潤気候たる日本に於いて、「生」の躍動とその香りのない無機物で築かれた国籍不明の現代風建築で神よ仏よと祈る気にはなれない。

 宗教の儲かることは誰しも知っていることだが、それを悪し様に罵るのは新興宗教に騙された者を除いてあまりいない。ただし古くからあって存在を認められていても儲かっていることを形にすればそれは離心と罵りと嘲笑を呼ぶ。

 坊さんはベンツではなくてスクーターに乗ってこそ絵になるし、神主は自前ではなくお出迎えの高級車が相応しい。建物にあっては、生垣でもなく石垣でもない塀を張り巡らせておいて、砂利ではなくアスファルトの駐車場、自分にだけシャッター付きの車庫を確保しておいて「当方に御用のない方の無断駐車は罰金二万円を頂きます」そんなせこい真似しなくともどうせなら神罰か仏罰当ててみたらどうかね。祈る気力が萎える現代風建築があって更に綺麗な庫裏がある。庫裏の裏にはエアコンの室外機があって快適な暮らしをしていることがわかる。別にそこまでならば罵倒を我慢しようと思えば我慢できる。それなのに参拝者向けの御不浄は人目につかない所にあり、殆どの場合全く金を使っていないらしく絶望的に汚い。ごく当然のように壁がトタンであったり臨時に設置する箱型トイレを常設してあったする。ベンツより先にそこを浄化しなさい。

 まったく、名古屋の太閤通りにある意味不明の大鳥居はともかく、各地にある大きな仏像仏像また仏像、鉄筋コンクリートで展望台にもなっていて、それを拝めと言うのかね。

 現世利益を追求するなら何も宗教に頼る必要はない。欲望の赴くままに生きていけば良いではないか。それはカネを通して人脈を作って挙句政治にまで利用する宗教などより遥かに純粋で崇高な生き方だと思わないか。

 日本国憲法を真っ向から無視して存在する政党もあることだし、いちいち相手などしていられない。

 無宗教を貫くには実はかなりの覚悟がいる。だからどうしても宗教の勧誘を振り切れないならこう言おう。

 「プレフェラント・チャーチに所属しています」

 架空の宗教か?いや違う。たとえどたばたにしろ、一度形を作って理念が公開されている以上は存在するのだ。どこよりも誰よりも現世利益追求自分勝手に生きることが信仰の証という無宗教よりも手に負えないプロテスタント系の、とある映画の中で作られた阿呆な宗教だ。教会もないし指導者はたしか人の為に施しをしてしまった瞬間を写真に撮られ、それが「自分のためではない」故に信仰に反する行為としてスキャンダルになってしまった筋の映画で馬鹿馬鹿しい事この上ないが、その映画はその馬鹿馬鹿しい宗教の理念を形にした一点で存在価値がある。「どたばた映画の中の架空の宗教です」「人の為には一切何もせずひたすら自分の為だけに欲望のまま生きることが信仰の証です」とは付け加えず、「プレフェラント・チャーチに所属しています」だけで大抵は引き下がる。

宗教 03/07/12

 人間の祖先が猿だというのは間違っていて、正しくは「人間と猿の祖先は共通である」なのだが、それにしたところで我等の源流がネズミのような奴とは心情的に複雑なものがあり、ネズミのような猿だが・・・猿でいいじゃねえかと浅く納得するのは文明国の無神論者であって、神がヒトを作ったと信じている信仰心に篤い先進国の野蛮人に向かって「我々の祖先はネズミである」と言うには勇気の他に逃足も必要だ。

 不完全な人間を作ったことが、もし存在するならそのまま神の不完全性を示しているし、あえて不完全に作ったのだとすれば、我々がいくら神に祈ったところで意味がないことになる。そもそも人間は神の失敗なのか、神は人間の失敗なのか、ニーチェに答えてみよ。

 我々は死ぬと皆天国に行くのさ。何故ならば、この世より酷い場所なんてどこにもないぜ。最初に作ったのは楽園で、堕落したのは人間が愚かだったから?蛇が唆したから?結局神は責任をとらないのかね。

 神は一日目に光を作った。二日目に天地を作った。三日目に海を作った。四日目に太陽と月と星を作った。五日目には生物を作った。六日目にヒトを作った。七日目は二日酔いで起き上がれなかった。六日目は朝から一日中飲んでいたんだろうさ。

 キリシタンを殴ってみよう。怒ったらこう言おう。「反対の頬を差し出すんじゃないのか?」「クリスチャンと言ってください」すみません。

 宗教と芸術が切り離せないことは認めよう。しかしこの先芸術は宗教を離れて心理学に擦り寄っていくんだぜ。

 既に英国国教会はその権威を失っている。日本人の仏教観とまるで同じで、神など信じておらず、結婚式葬式に教会へ行く程度、我々が特定の宗派も持たないのにただ古いだけの寺院巡りをするが如く教会巡りをする。熱心な人は毎日でも通って祈り続けるが、大勢ではない。プロテスタントにしてこの崩壊は、だからとはいえそれがそのままカソリックの復権を意味するわけでもない。

 堕胎を禁じて貧困を煽り、不幸にしておいてから「不幸なのは祈りが足りないからだ」阿漕な商売してますのう。皆が皆幸せになってしまえば神など必要なくなるからねえ。「神を必要とさせる為には是非とも不幸でいてもらわなければならない」これが数千年来の人間を支配する為の小道具の仕組み。「命が」「命が」魔女狩りの名の下に悪虐の限りを尽くしておいて、清廉の名の下に先住民を蹴散らしておいて、「論理的」とはつまり「自分勝手」ということなのですね。

 宗教を言訳にしてどれだけ不幸な歴史を積み重ねれば気が済むのだ。人間を支配するための小道具に過ぎない宗教に身も心も任せて安易に生きる道を選ぶことで失うものの大きさについて考えたことがあるのか。

 母よ。下らない宗教に入信するならばこちらから縁を切ろう。信じるのは自分自身の心だけでいいのだよ。手前を信じるあなたの心を、あなたは信じるだけでいい。そして死なんて所詮早いか遅いかの違いでしかないのさ。救いはあなたの心の中にある。それはいくら金を積んでも誰も与えてくれはしないものだよ。

ワカメ 2003/11/22

 あなたワカメを信じますか?

 貴方ワカメを信じますか?何か信じているものはありますか?神。いやはや。この時代にまだそんな人がいたとは。いいですか。ちょっと時間いいですか。神なんていないんですよ。いません。いるなら幸せになっている筈ですよ。貴方今幸せですか。そもそも幸せとは何ですか。何処にあるのですか。鞄の中ですか。机の中ですか。それより僕と踊りませんか。あ。待って下さい行かないで。もう少し。もう少しだけ。貴方の幸せの為にお祈りさせて下さい。「世界人類が平和でありますように」待ってくだっさいてば。違います。怪しくないです。いいですか。ワカメです。ワカメなんです。貴方ワカメを信じますか?

 ワカメとは素晴らしい物です。ビタミンもカルシウムもヨードも満載。鉄分もコバルトもマグネシウムも入ってる。健康に必要なミネラルを全て含むからね、まず貧血の予防になる。ね、それから食物繊維がわっさりあるからね、便秘もたちまち雷が落ちるよ。ゴロゴロってね。もちろんそれだけじゃあない。骨粗鬆症、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、糖尿病、肝臓病ぜーんぶ効く。効くのよ。嘘じゃないよ本当よ。コレステロールの低下作用もあるし白髪だってみるみる減ってくる。禿げるんじゃないよ、黒くなるんだよ。あとこれが大事!宿酔にも効く!凄いでしょ。ところでワカメはアルカリ性食品たぁ常識よ常識。え。酸性じゃあない。酸っぱい?それはワカメの酢の物でしょうが。アルカリ性食品だから高血圧やら動脈硬化の予防になる!おまけに抗癌作用もあるし、その上ダイエットに最適!吸物の実にしてよしワカメ御飯よしワカメパスタもいいよ。ワカメオムレツも素晴らしいね。ね。あとワカメ酒なんて最高じゃんよ。ごっほん。さあこんな素晴らしいワカメを信じなくて何を信じるの貴方。待って待って待って待って待って下さいお願い最後まで聞いてお願いします最後まで聞いて下さいお願い。

 あのですね。ワカメ信仰というのは大変古くからあるものなんです。何もしてくれない神よりも遥かに第一貴方神と神の子を同一視しているようでは底が知れますよ。何か悪いことがあったら「神の思し召し」そんな貴方神に責任転嫁するとは大胆な。それで何か助けてくれますか。何もしてくれないなら信じる意味がないですね。何もしてくれないけど信じる。それ騙されてますよ。努力する所を見ていてくれる。それはつまり何もしてくれないわけですよ。見ていてくれるのは慧眼の士。ならば神よりも努力を認めてくれる人を信じた方が早いです。それよりも唯ひたすら人に尽くすワカメを信じた方が効果はあります。御神体は当然乾燥ワカメです。保存性に優れてますから。いざ御利益を受けようとする時は湯に通すだけ。茶色から見る間に鮮やかな緑色になりますね。いえ。ワカメはもともと海の中では緑色じゃないですよ。茶色っぽい海草なんです。何故茹でたら緑色になるのか?それは蟹を茹でたら赤くなるのと同じ理屈ですね。

 貴方ワカメを信じますね?


仮想敵 04/02/10

 「この土地は過去に所有していたから今でも我が物だ」と何処かの誰かが主張して、その主張が認められるなら、翌日にでも第三次世界大戦に突入するのだ。

 この主張が通るなら中華人民共和国は解体して中華民国になる筈で、しかし中華民国もやがてそれより古い王朝の後継者に追われることになってしまう。それは現実にあり得ないからこの主張は歴史的に見て「お笑い種」の一言で済む。

 聖地とされるイェルサレムを巡る争いを見ればこの主張にはまるで説得力のないことがわかるだろう。そこで争っている宗教は預言者が違うだけで信じている神は皆同じなのにあの騒ぎだから、「神」の概念が違う者二人いるだけで争いは避けられない。

 二人いて、争わずに同調する為の最も安易な方法とは、感情を共有出来る別の攻撃対象を槍玉にあげることであって、その場にいない者の悪口が罪悪感を感じつつも盛り上がることは身をもって知っているだろう。その場はそれで争いは起きない。争いが起きそうなら素早く別の話題に移行する。

 これが会社規模になると「あそこにだけは負けるな」を合言葉にして一丸となることが可能だが、目的を達した場合などにそれまでの団結は崩れ去る。「では次の目的を」と走り続け、やがて息切れした瞬間に空中分解してしまう。外に敵を作ることは非常に効果的だが、副作用が酷いのだ。

 しかし非常に効果があるからこそ国家的規模で仮想敵を作り、不満や怨嗟は全て仮想的に向けることを、何処の国も止めない。貴方は今何処の国を想像していますか?手前は今「鬼畜米英」と叫びましたが、違いましたか?冷戦終結後アメリカは仮想敵を失って「あいつらが悪い」と責任を擦り付ける先を変えました。アメリカの幼稚さを日本も笑えませんが、もっと笑えない国はいくらでもありますね。何処を想像しましたか?

 仮想敵とはつまりその場にいない者のことだから、そして後々その仮想敵と接する機会には話が複雑になる。三竦みになるのだが、これでは先に進まない。「その場にいない者の悪口」は背徳感が勢いをつけるのだが、仮想敵の場合は単純に憎悪しか生まれない。

 その集団を一時的に素早く纏める必要があるならば仮想敵を作る方法が最も簡単で効果がある。しかし永続的に纏めてゆく必要があるならば別のやり方を選択するべきだ。自尊心に訴える方法で大成功している集団は息が長い。それこそがあるべき姿と考えたい。


雨乞 04/04/10

 雨乞踊りの効果を信じる者はいるか?あれは雨が降るまでずっと踊りを続けるから必ず効果があるように見えるだけだ。「項羽と劉邦」を打ち出そうとして「降雨と竜法」てな誤変換を見て思ったのだが、劉邦もまた「勝つまでずっと戦いつづける」という愚直な男であったわけだからこの変換は強引に関連付けようとすれば出来ないことはない。

 これが「成功するまで失敗を繰り返す」ならば問題なくそのまま理解出来るのに、「問題な糞のまま」と変換されるから意味が不明になるのだ。違う、「雨が降るまで雨乞いをする」ならばそのまま受け取ることは出来ずに引っ掛かるものがあるのだ。

 これは雨乞いをする者に対する蔑視思想が背景にあるのか、挑戦し続ける者に対する過分な賞賛の念から来るものか、あるいはその両方なのか、何が違うのか判らずすっきりしないのだ。雨乞いの踊りだって雨が降らないつまり失敗を幾ら繰り返そうとも、降れば成功なのだから構造は変わらない。

 それとも引っくり返して「成功するまで失敗を繰り返すという言葉を信奉する者は洗脳されている間抜けだ」と考えればよいのだろうか。その洗脳が前向きのものであって他人に迷惑をかけず、本人が幸福ならばそれでよいとも思うのだ。それならば雨乞いが他人に迷惑をかけず、本人が幸福ならばそれでよいのか。

 雨乞いをしなければならない時点で幸福とは程遠い気もするのだが、雨乞いの結果数ヵ月後にやっと降って「成功だ」と喜ぶ者が幸福ならばそれでよいと考えられるだろうか。それより井戸でも堀りやがれと考えるのは不謹慎なのだろうか。井戸さえも枯れたと言うならば、雨乞いしてる場合ではなかろうと考えてはいけないか?

 その心意気やよしと思うのだが、方向性が違うとも思うのだ。文明文化に対する過信が根底にあるのだろうか。何が違うのか。雨乞いは悪いことか?雨乞いは文化の成熟していない習慣風俗だとでも考えているのか?同一線上に載せたいのに、載せようとすると引っかかるのは何だ。

 雨乞いが宗教と結び付けやすいからなのかもしれない。宗教そのものを慮外に配置しているからから、雨乞いも引き摺られてしまっているのだろうか。ならば完全に非宗教的な雨乞いをどう見るか。見えない。ええい。雨乞いは宗教だ。「成功するまで失敗を繰り返す」もある種の宗教だ。宗教は、他人に迷惑をかけないと約束するならもう好きに勝手にやってくれ。


カースト 04/05/29

 インドの階級制度として「カースト」が職業をはじめとした日常生活と結び付いているとして、ではインドのスポーツ界ではカーストの作用はどうなっているのか。

 それがもし金の掛かるスポーツであるならば、金と暇などの余裕がある階級に限られることが考えられ、それは確かに「お大尽のスポーツ」とされる事例を見聞した機会があれば当然にも思える。「その階級でその競技をしてはならん」のような決まりはなくとも、「下の階級と同じ競技をすることはけしからん」なる決まりはあっても不思議ではない。上のカーストの者がしてもよくて、下のカーストの者がこの競技は駄目とする了解がもしあるならば、競技の種類にはカーストの力関係が反映されている可能性があるのではないか。

 ヒンドゥー教においてカーストとは生まれながらに決められているもので、無宗教或いは他宗教から改宗した場合、奴隷と訳される階級へ容赦なく組み込まれてしまうので、上の階級へ登るには「一度死んでから出直して来い」となる。輪廻転生の思想であるから理屈は通っているようだが、一方で生まれた瞬間に無条件に親のカーストと同じ階級に属すわけだから、何としてでも階級を登りたいならば、「次に生まれる時はあの高貴な御方のお腹に入りたい」と考えているに等しい。高貴な階級からすればこれは少々不気味なもので、だからカーストを超えた結婚が禁じられているのかと思う。

 「大体生まれ変わって上の階級に登る可能性がある」と信じているならば、自分の前世は下の階級であった可能性を否定出来まい。輪廻転生であるならば上から下に生まれ変わる可能性もある。廻り将棋のように段々出世してゆき最後にあがりとなるわけではないから、抜けるに抜けられない。そこで醒めた人が「そんなん阿呆くさいがな」と言いながら一人で修行し、後に弟子達が仏教として体系付けた。ただし現在のインドでは仏教人口は1%ほどで、八割以上がヒンドゥーであるからカーストはインドそのものを体現しているわけで、日常生活、食事も別とする生活ならばスポーツに於いてもある程度の階級差が認められるのではないかと推測される。

 普段我々には見え難いインドのカースト制なるものが、スポーツの中にもし見えたならそれは悲しいことで、しかし無関心なままか見えない振りをするよりは、それが何を現しているかを考えた方があらゆる意味で幅が拡がるというものだ。


黴 04/06/29

 日本の国、まさに清酒を中心としている「黴の国」であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く、その思いでですね、我々が活動して幾歳月となったわけでございます。比較的私達の同類というのはしぶとくて、結構台所に残っておりますのは、味噌、醤油、味醂、鰹節など黴様を大事にしているから、ちゃんと使って貰えるんだなあと思っているわけでございます。

 従いましてですね、黴を冒涜するなど言語道断の話でありまして、今ではマンションなんかが多くなって少なくなっているようですが、昔は何処の家庭にも黴棚がありました。明るく清らかなところでは黴様がお苦しみになられますので、少々湿って薄暗いところにですね、お家をお造りしてお入り頂いて、米・餅・水などの黴様がお喜びになられるものをお供えするわけですね。

 黴様だって不死身というわけではございません。でもやっぱり元気になる季節というのがあります。御存知梅雨ですね。この梅雨から夏にかけて黴様は最も活発におなり遊ばしまして、それはもうパンを犯し野菜類中でも特にスイカを陵辱した上で高笑いを轟かせております。それでも生贄として捧げた上で黴様の御機嫌を取り結んでですね、我々の毎日の食卓を支えてくれることを感謝しなければなりません。

 それでまあ、暦で十月は黴去月と申しまして、天気がよくて乾いた風も吹き抜ける、この季節になると黴様はお弱りになられてですね、出奔なさる。だから「黴様の去る月」「黴去る月」「黴去月」と呼ぶわけです。また十月になれば某地方に全国から様々な黴様が集まって乱交を繰り拡げるという言い伝えがございます。その地方だけは十月を黴在月と呼ぶそうですが、凄いことになっとるんでしょうなあ。しかし黴様がいないとやはり困るわけです。何しろ黴は文化の根源でありますし、何よりも食べ物が困る。

 そこで黴風よ吹けと祈ることになるわけですが、黴頼みというものは突然にしても何も起こりません。普段からの、日々の黴様への感謝を積み重ねた上にですね、やっと黴風というものが吹く。すると赤黴青黴黒黴がどこからともなくやって来るわけです。まるで忍者のようですな。

 こほん。本日この場で御静聴の皆様、こうして大和歳月黴のことを知り、また我々の国は黴と共にあり、食卓の行く末を、そして黴様の将来を皆で案じながら、また念じながら、ご指導を賜ることをお願い致しまして、少し長くなりましたが私、頬辺輝夫が黴の代理人の立場で御挨拶とし、御礼を申し上げる次第であります。


悩 04/08/14

 悩みは我々のものだ。悩むことは我々人間に許された特権だ。得体の知れない神などに奪われてたまるものか。喜び、楽しみ、嬉しさ、戸惑い、迷い、悩み、苦しみ全てを受け止めることが生きることだ。悩むことを止め、神に下駄を預ける表層的な生き方を選択すれば後になって何も残りはしない。

 人生の意義を捜し求めて辛く苦しかった筈の若く青き時代が、若さを失ってから振り返りてみると何故あれほどまでに充実していたと思えるのか、何故眩いほどに輝かしく感じられるのか。それは本気で人生と格闘する為に激しい葛藤を抱えて迷い続けながら、それでも必死に過ごしていた濃密な日々であったからだ。ひたすら悩み、ひたすら悔い、ひたすら恨み、そして何でもないことが弾けるような笑いを誘った懐かしい時代を、君はもう忘れてしまったのか?

 悩むことを放棄した人間は迷いがないから強い。しかしその強さは逡巡を捨てた非人間的なものだ。強さも弱さも全てを受け止めることが怖いのか?悩みを捨てるな、人間であり続けたいと欲するならば、深く果てなく淀む悩みを己の心に熔かすまで!

 若く美しかった時代とは、悩み苦しむ時代だった。だからこそ充実を想い出す。今、満たされない思いを抱いているのなら、それは悩むことを捨ててしまったからだ。どこまで突き詰めても納得しなかった答えの出ない悩みを捨て、過ぎ行く日々に降り積もる余りにも現実的で些細なことに足を掬われているからだ。更に齢を重ねて今を思い返した時、充実していたと微笑むことが出来ない悲しき日常を漫然と見送っているからだ。

 嗚呼どうか、全ては内にあれ。天を衝く歓喜の歌声も、鋭い刃の哀傷も、滾り迸る情熱も、恐れ慄く萎縮も、熱く震える悦楽も、響き渡る慟哭も、終わりの見えない苦悩でさえも、貴方と私の内にあれ。


恥 04/09/08

 「恥と共に生きるより名誉と共に死ぬ方がまし」というのはイギリスの諺であるが、これは逆説であろう。この諺は日本から見ると納得するもので、イギリスと前置されなければ誰か割腹した者の言葉かと紛うものである。

 英国はその島国的立場からして日本人気質と似ている点もしばし指摘されるのだが、基底の宗教が違うので価値観も当然異なる。何度も戦火に覆われた大陸気質は「何が何でも生き延びろ」であるから同じく大陸の中国と共通している。

 恥の概念を宗教に求めて「神に対して恥ずかしい」と思うか、共同体に求めて「仲間や対して恥かしい」と思うかが相違点であり、してみると共同体が存在感を持っている社会には宗教が必要とされない。

 しかし耶蘇教に於いて自死は禁じられている。「恥と共に生きるより名誉と共に死ぬ方がまし」という言葉は、名誉と共に死ぬ者など居らず恥知らずな者ばかりであることを嘆くところから発生したものと思われる。もっとも記録狂の国であるから歴とした典拠があるやもしれないし、或いはソクラテスあたりまで遡る可能性もある。弁明の中でこれに類する言葉があったような気もするが、ひとまず忘れよう。

 恥の概念が大方の人を律する基準であるとすれば、宗教への揺り戻しを超えた先の波に浮かぶ共同体にはそれが欠くべからざるものとなるだろう。


亀 04/11/11

 貴女は亀を信じますか?

 ほほう、なるほど信じておられませんか。では少しお話をしましょうか。

 私達人類は皆ある御方によって創造されたのです。その御方はこの世界を御創りになり、更に私達人類を御創りになりました。現在地球は丸いなどという誤った伝説が跋扈しておりますが、地球の正しい姿とは、コブラの上に亀が乗り、亀の上に象が乗り、象の上に地球が乗る古代インドに伝わる形、あれが正しい地球の姿なのです。しかし新興宗教の定めとしてそれまでの形は否定せねばなりませんから、我々の教義ではその地球の形は否定されました。そして偉大なる創造主として亀様だけが残ったのです。

 嗚呼亀様、電池電動の亀様、もし電池電動の亀様なかりせば、私達は未だに原始的で野蛮な営みを続けていたことでしょう。しかし私達は電池電動の亀様のお力をお借りすることで、飛躍的なまでに営みの内容を進化させることが出来ました。全て電池電動の亀様の御力の賜物です。

 例えば聖書にこうあります。「何時間淫すべからず」すなわち事は疾きを以って好しと為す。しかしそれが獣の如くに知性を感じられない営みであったならば、亀様が我々に御下しあそばされた知性を拒否することになります。それはとても許されないことなのです。私達は日々知性の向上の為に努力しなければなりません。「努力とは女の又の力で力む」と書きます。貴女最近努力してますか?これは電池電動の亀様の御力さえあれば容易いことなのです。

 亀様はその御自らの姿に似せて人類をお創りあそばされました。男性は最も大切な、男性の存在の根源である箇所に畏れ多くも亀様の御名を拝領しております。確かによく似ております。最も大切であるところに御名をお借りすることで最大級の敬意を払っているわけです。なのに何故亀様を信ずる人が少ないのでしょうか。女性には似た器官はありますが、規模の違いから別の名前を使用していますね。しかし男性に亀様の御名があって女性にないことで亀様は御心を御痛めあそばされていました。だから女性だけに亀様の分身を御下賜あそばされたのです。

 貴女はいつも望みが叶えられないことで不満を溜めつつ諦めてはいませんか?それは電池電動ではない似非亀様を信奉しているからです。電池電動の亀様に不可能はありません。私達人類は命尽きれば天国へ召されるわけですが、電池電動の亀様にあっては、電池の続く限り、そして電池が切れても交換し続ける限り、亀様は永遠の存在なのです。

 だから亀様を信じましょう。何なら今から貴女と私で電池電動の亀様の御力を確かめてみませんか?必ずや電池電動の亀様の虜となりますよ。


恥じ 04/11/28

 神か仏かの二択を迫られれば、おそらく仏を選ぶだろうと考えるのは、単に身近であるだけか思う。

 いずれにしても日々の生活で、悪事を抑制する為の装置として機能するならば宗教は役に立っていると言える。宗教を利用して悪事を凝らす奴が居て、それが大きな騒ぎになるから宗教は嫌われるわけであり、恥ずべき行為を抑制する装置としては優れたものだ。

  日本文化が神を必要としないのは、「世間様」が神の役割の一旦を担っている可能性がある。日本文化は特に恥の文化であるから「人に笑われないように」「人に見られて恥ずかしくないように」という場合に使われる人とは、親兄弟であったり近所の人であったり、不特定多数を世間と呼んだりしているわけだ。ところが「旅先の恥は掻き捨て」という恥ずべき文化があり、これが日本の評価を下げる主な要因となっている。旅先ではなくとも、一人きりになった場合に開放される精神から生まれた行動は、人に見られるとそのまま切腹したくなる場合が多い。だから「一人きりの時でも人に見られて恥ずかしくない行動をせよ」という指針を守っていれば、宗教は必要ない。

 私生活を覗かれるような有名人の場合は、自らを客観視する必要はないが「見られたら困る」の意識から立派な態度を取らざるを得ず、取れない場合は尊敬されないから有名ではなくなる。

 一人きりの時に恥と判断される行動をする直前には「神が見ている」と考えて抑制されたならばそれでよい。神でなくとも「先祖が見ている」「精霊が見ている」「ぬいぐるみが見ている」といった理由で恥ずべき行為が抑制されるならば、立派な人たる資格を有することになる。つまり自らを客観視する視点を別に持つべきであるということだ。「今の自分を誰かに見られたならば恥ずかしい」ならば即座にその行動を止めればよい。

 それを繰り返すうちに恥ずかしいと思われる行為をしなくなればよいが、その行為を恥ずかしいと思わなくなるような、つまり「見られたら恥ずかしいからしない」から「見られても恥ずかしくないと思うようになった」に変化すると間違った自信が付いてしまって失敗というわけだ。


タルムード 04/12/27

 「今日出来ることを明日に延ばすな」

 これは生き方を説く本や訓示の例本にあっては外すことの出来ない考え方として深く浸透している。確かに当然の話であり、しかしそれを遵守することの困難さがこの言葉の氾濫を助長しているわけで、誰もが必ず一度は何処かで聞いた経験のある言葉であるから、実践しようと決意するには新鮮さが足りない。

 では元々この言葉は誰が最初に言ったのだろうか。成功を収めた大企業の経営者、叩き上げの苦労人、分刻みで行動する大富豪、いずれも違う。手前はこれを古い中国ではないかと考えていたのだが、偶然知ったのだが確認可能な最も古い文献はユダヤの律法注解書「タルムード」にある。

 そして何も驚いたのは、この言葉には続きがあることで、それは「今日出来ることを明日に延ばすな。今日喰べる物を明日に喰べよ」というものであった。故国を失い放浪する民が生き抜く為には勤勉でかつ金を大切にせねばならないことを説いたもので、具体的ながら簡潔であるところが人気なのだろう。この精神を冷ややかに見た結果がシャイロックというわけだ。

 そして後半の言葉が省かれて流通しているのは、実行するには厳しすぎる余りにけちとの称号を奉られる危険性を考慮したものと思われる。単に出典を知らずに囀っている可能性も高いが、この言葉の出典を知る者はまず居ないだろうし、タルムードを説明したところで明確な反応が得られないことは想像するまでもない。しかし「けち」という単純な判断は避けるべきなのだ。

 この話を知っているだろうか。ナチズムが猛威を振るっていた時代に列車で移送されていた主人公が脱走する。脱走途中で知り合った猶太僧侶が「このパンを持ってゆきなさい。出来るだけ食べないように。パンが一切れあると思うだけで人は強くなれるのだから」と手巾に包んだパンを渡す。主人公は何度も何度も挫けそうになりつつ、ポケットの中の硬くなったパンを触っては勇気を奮い起こして生き延びる。家に辿り着いて手巾を拡げてみると、それは単なる木片だった。

 これはフランチスク・ムンテヤーヌ「一切れのパン」という短編であるが、「今日食べる物を明日に食べよ」の精神の本質を鮮やかに示しているようだ。ムンテヤーヌはルーマニアの作家で、この内容からしてユダヤと関わりが深いに違いない。タルムードから派生した物語だと考えることがより自然だと思えながらも「今日出来ることは明日に延ばさず、今日喰べるべきを明日に喰べる」の言葉は、即物的な意味も含めながらそれ以上に心構え・気の持ちようを示したものであると解釈したい。




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