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タワー
関西乗車心得
関西弁
自動階段
とんぼり


「関西弁って怖い」

「関西人は広島弁が怖い」

タワー 03/02/14

 全国各地に観光タワーがある。

 エッフェル塔をそのまま真似した東京タワーを筆頭に、同じくテレビ塔は札幌・名古屋にもあり、趣を変えれば通天閣がある。悪名高き京都タワーもある。福岡タワーもある。

 そういった観光名所となってしまっているタワーあるいは観光名所に無理矢理建てたタワーには大抵ろくでもない名産品が並べられていて、どこでも必ず見るようなキーホルダーを売っている。

 潮岬にも醜悪なるタワーがただぽつんと建っていた。

 不思議に昔から旅が好きで、各地で様々なタワーを見たのだが、おおまかに分類してみると「観光タワー」「展望タワー」「実用タワー」「お笑いタワー」にすべて収まるようだ。

 各テレビ塔は実用に振り分けられるし、観光名所に建てたものと結果的に観光名所になったものは観光にまとめることが出来る。展望はなにも売り物がないタワーを救済するカテゴリとなる。

 そしてお笑いタワーだ。これが実のところ一番楽しい。つくづく琵琶湖タワーがその一番手だと考えていたのだが、不意にそれ以上のものを思い出した。

 同じく琵琶湖の畔。長浜駅を降りて右に折れ、商店街のほうへ歩いて行こうとするその瞬間、振り返ってみると「長浜タワー」がある。これほど笑えるものは今まで見たことがない。タワーと名乗っているからにはタワーであろうがしかし切ない。

 これを見つけるのはおそらく難しいと思う。長浜訪問四回目ではじめて見つけたくらいだ。観察したところ20年は経過していないかもしれない。もしかするとこの種のタワーキットを高島屋で売っているのかもしれない。

 東京タワーに登ったことがあるよりも、通天閣でビリケンに触ったことがあるよりも、長浜タワーの存在を知っている方が人生は豊かになる。

 近江長浜は秀吉城下の街。黒壁スクウェアが有名である。もしJR長浜駅を利用するならば、その途中でカメラを片手に探してみては如何だろうか。一生笑えるネタに出会えるはずだ。


関西乗車心得 03/03/07

 例えば関西の乗車マナーはよくネタにされる。

 折角二列で待っていても列車が到着したらドアの端に群がってきて我先に乗り込もうとするから、降りる人は車内に押し戻されないように、ドアが開き切らないうちに降りる人の道筋を作るべく飛び出さなければならない。このタイミングを外してしまうとなかなか降りられず続いて降りようとしている後ろの人から押されるし、もう降りる人はいないと思って次々乗ってくるからここに渋滞が発生する。望むべき遥かな理想としては、降りる人がまず全員降りてから並んでいた順番に乗り込むことであるが、理想とはあくまでも理想であって、現実は乗降口のまん中から降りながら両端から次々乗り込むことになっている。だから人の乗り降りで電車が揺れたりはしない。

 そして当然皆それを心得ているから、降りようと考えている人は駅に着く遥か前に車内で扉の前に列を作る。心得ていない人は降り遅れて「降ります降ります」と叫びながらもみくちゃになるかごく冷静に進路を計算して扉が閉まる直前に身をかわしてやっと降りる。

 ところで何故乗り込む人は列車が到着したら列が乱れるのか。まず乗車位置と書かれた場所と扉がズレていることから混乱が始まる。ただし並んでいる人も混乱などとは思っておらず、ただホームのどこで待っていたらいいか落ち着かなくなるから何となく印のあたりに並んでいるだけであって、並ばずに外れたところでひとり待っているおっさんの所にぴったり扉がくるとそこに殺到する。並べという視線など誰も送らない。せいぜい「そっちかー」ぐらいにしか思っていない。だいたい列は列車の到着と同時に乱れて扉の両端にだんごになるから並ぶのは最初から無駄なことである。このだんごの先頭かその次ぐらいの位置を取ることが重要なのであって、列の中にいたまま列車が到着してたちまちだんごになるなるのを茫然と見ていたら降りてくる人に押し流されるだけである。

 関西以外ではだんご状になってもだいたい並んでいた列の順に乗り込むふうな暗黙の了解があるらしく、しかも一応降りる人が少なくなるまで待つのが感動するというかまだるっこしい。それが正しいはずだとわかっていてもいらいらしてしまうのだ。

 また、ドアの角に立っていて一旦降りてから閉まる寸前にもう一度角に乗り込むというのは正しいようにも思えるが、無駄な動きとも言える。最初からそんなところにはまり込んでいるならば、降りる人にも乗ってくる人にも引き摺られないよう踏んばって抵抗するべきだ。降りたと思われてその角を取られていたら悲しいじゃないか。最後に乗り込んだそのドアが降りるべき駅で開く側のドアならわかるが、そうでないなら疲れるだけだ。


関西弁 03/06/13

 まあ地の文でも壊れた時には関西弁になるのだが、慣用句を関西弁には変換しない。通常の会話でも慣用句はそのまま使う。筈なのだが、言われるまで気が付かないこともある。例えば

「けつ燃やして消ぇよったけどよ、相手も腹煮えとるしどうこけても先ないわな」

尻に火がつく → けつ燃えとる
腸が煮えくり返る → 腹煮えとる
どう転んでも → どうこけても

 指摘されると少々恥ずかしい気もする。特別関西弁に愛着はないのだが、そもそも純粋の河内弁とは違ういわば「関西標準弁」であるから関西代表とされるには違和感がある。関西二府四県はそれぞれ微妙に違いがあり、それが適当に混じって関西弁の衣となった。

 大阪と言っても毎年かなりの人口流入と変動があるので純粋に大阪弁というものは存在しない。もっと限定された地域、船場言葉、河内弁、あたりは有名だが、今どき普通に「わて」「でんねん」「まんねん」を使う者はほとんどいない。通天閣がある。

 京都は長年中心であった名残が言葉の洗練具合に残っていて、婉曲すぎる表現は正直に言って「言葉の襞を感じとれ」というのは無理な相談だ。それでもそのような京言葉は限定されたあたりでしか話されず、大勢は標準関西弁と融合しつつある。京都タワーがある。

 兵庫は語尾に「とう」がつくのですぐわかる。「〜してる?」が「〜しとう?」となるがそれ以外特に際立った違いは感じない。ただし巧みに「とう」を使わないことで普通の関西弁としかわからないことも多い。また早くから開港していたこともあり、関西としては洒落た雰囲気であると認識されている。横浜に相当する。ポートタワーがある。

 滋賀は中央に琵琶湖があるものだから、大津付近では京都の影響を受けており、米原のほうでは岐阜の影を感じる。当然北側は北陸と呼んで差し支えない。びわ湖タワーもあるが長浜タワーのほうが雰囲気はある。

 和歌山は長い徳川時代、御三家の一であったから、少々関西としては別の風味がある。薩摩から房総あたりまで黒潮に乗れば短期間での交易が可能であり、特に南の方では南国と呼ぶべき気候帯でもあり、紀の国全体が山脈に遮られてもおり、近畿では「和歌山は最も田舎」と何となく考えられている。市内は意外に発展している。潮岬タワーがある。

 奈良は一応都があったことで京都とセットにされることが多いのだが、何しろ古い話であるから「やはり田舎」と考えられている。実際に田舎なのは、開発しようとしてマンションなりビルなりの基礎工事をするために地面を掘ると必ず何か遺跡に類するものが出てきてしまうので、迂闊な掘り起こしは出来ない。そろそろと表土を浚って平べったい建物にするか精々住宅地にするのが限界である。従ってベッドタウンとして人口が増えつつあるが、田舎は田舎だ。タワーはない。

 滋賀と和歌山と奈良と大阪に住んで、兵庫に親戚がいて、滋賀と京都に友人知人がいて、あれこれ混じった関西弁が妙な具合に醗酵してくると既に取り返しがつかなくなっている。


自動階段 03/07/31

 関東のエスカレータ左止まり右空けの徹底具合には感心する。

 そして関西では反対に右止まり左空け、は残念ながらただの噂であって、真実はこうだ。

「全員進む」

 そう、誰一人止まらず全員エスカレータを進む。荷物が重いとか子供であるとかお年寄であるとか連れ合いがいて話をしながら等で堰止める場合もあるが、二車線が一車線になるだけで、やや渋滞しながらも止まらない。短いエスカレータでも、進んだところで短縮できる時間がわずか数秒であろうとも、進み続けるのは関西人の特質ではなく、関西文化の特質であろう。関西にやってくる人は何故か不思議に恐怖感があるらしく、必死で関西に溶け込もう少なくとも迷惑にならないようにしようとの努力により、エスカレータでは前後の人に挟まれて進んでゆくのは、まるで「エスカレータの上にもうひとつエスカレータが重なっている」が如き状態となり、「関西人であること」を過剰に意識する結果、関西文化の加速が進む。

 実際のところ全員進んでいるエスカレータで歩みを止めると、止まっている人は少数派であるから次々追い越されているうちに最初は「これくらいの距離わざわざ進まなくても」なのに、降口近くになると「何かとても間違ったことをしているのではないか」との思いに囚われることは避けられなのであって、実際に進む流れに乗った場合は「これくらいの距離でわざわざ止まるなよ」とこれは止まったほうがおかしい人扱いしていることに気付く。

 また「左空け」は全員進むわけだからただの都市伝説であって、まあ、デパートやスーパーなどでは止まっている人の割合が多いが、しかし駅では止まっていては実に迷惑である。たまたまお行儀の悪い人がエスカレータで立ち止まってしまうと右に左に避けながらも、とにかく一気に進んでしまう。エスカレータに乗るのがとても嫌いなので一刻も早く降りてしまいたいかのようでもある。左空けが割と守られている阪急であっても、よく見ると左は高速車線、右は低速車線となっており、止まっていない。左はどんどん進む人の道で、右が低速で進む理由は、最初止まっていてもエスカレータの降口付近ではどうしても本能的に歩き出してしまうのであって、そうなると以下順々に隙間を埋める為、停止道が低速で進むことになる。

 日常的に混雑しているエスカレータでは「左空けて」との注意書きがあり守られているようもに見えるが、混雑している際に「全員進む」か「全員止まる」しか選択肢がないことは、もしかして関西の恥なのではないだろうか。

 不思議なことにがらがらに空いているエスカレータでは何故か急いで進んでしまう人は少ない。単に気を緩めているのかどうか、前後に人がいなければ止まっている場合が結構多い。当然「エスカレータに乗っているのが自分一人だけ」の状態が落ち着かずに慌てて進みきってしまう人もいる。

 そして混雑でもなくがらがらでもなく、適度に利用者がいる場合、最初に立ち止まった人の後ろが「以下こっちが停止線」となるのであって、左に止まる人あれば以降左が停止線、右に止まる人あれば以降右が停止線、とつまり「どっちでもとにかく空けといたらええんやろ」これが「関西は左空け」という幻想の現実だ。

 住之江公園駅の長すぎるエスカレータでは全部歩いて登ると心臓が破裂するので普通は皆止まっているが、恐らくここだけが関西の例外エスカレータであるかと思う。ありえない長さで存在そのものが例外であるから仕方がないが、もし大阪に行く機会があれば、地下鉄住之江公園駅でこのエスカレータに乗ってみるとよい。そしてそのことを話した関西人に浮かぶ表情は、長いエスカレータとしての自慢と「大阪でもお行儀よくエスカレータに乗るねんあそこだけやけどな」という屈折した誇りである。


とんぼり 03/09/16

 戎橋から飛び込む気分はどうだい?破傷風の予防接種はしたかい?大腸菌が元で何か怪しい病気になって隔離される覚悟はあるかい?

 あの川は、あれは名目上は確かに川であるが、実質単なるドブであるが、あれでも結構水面から欄干まで高い。特別阪神の優勝がなくてもその場の勢いで飛び込んでしまった知合いは今、忙しく働いているらしいが、おそらく今ごろは飛び込んだ経験談を大いに自慢していることだろう。手前もあの時飛び込んでおけばよかった。

 あの川は、欄干から水面まで結構な距離があり、上から酸っぱいシチュー状のものを吐いて、全て一気に吐き終わり、最後に唾を「ぅぺっ」と飛ばした頃にやっと、下の方から「だぱぱぱぱぱっ」と泡っぽいもんじゃの着水する音が聞こえる。この結構な時間差が飛び込む気持ちを萎えさせる。無論毎日毎日吐瀉物を呑み込み続けているあのドブに飛び込むことに対しての大いなる躊躇もある。それから実は泳げないこともある。

 いずれにせよ道頓堀川に飛び込むことが何故か「文化」と認知されてしまった以上は、この先何かの変化が待っていることは間違いない。望みながら最も可能性の低い線はこうだ。「道頓堀川の浄化と周辺の水系纏めて浄化及び川への意識変化」、折角わけの判らん病気になって落とすかもしれない命を張ってくれる者がいる以上、どうせ死ぬならば病気ではなく飛び込んだ者に全ての責任があるとするべく綺麗な川にしてやれば、「汚い川にやられた」ではなく「溺れた馬鹿」で終わるから、流域住民やら河川管理者には咎が回っては来まい。そして最も可能性の高く馬鹿ばかしい変化はこうだ。「誰かが死んだ。もう飛び込み禁止。今後飛び込んだら罰金」、大阪といえども一応法律はあるし、それを運用している集団も一応存在している。

 しかし、そこまでいかなくても、今年に限れば、その内に、飛び込んで体調を崩して、「もう飛び込みは止めます、皆さんも止めましょう」と嬉しそうにテレビに出る馬鹿が、きっと現れるだろう。 しかし誰も死ななければ大した騒ぎにもなるまい。それに阪神が毎年優勝する恐れもないから誰かが溺死なりする可能性も順じて低くなる。

 飛び込みが愚かなことは思わない。飛び込む川を汚いまま放置していることが愚かだと考えるのだ。折角の機会ではないか。底を浚うだけではなくて真鯉でも生きることの出来る川にすればよいではないか。特別川を綺麗にしようとも考えないからこそ、汚さを恥じる裏返しに「飛び込むな」とは、随分腰が引けているじゃないか。

 嗚呼しかし、汚さも嘔吐物も大腸菌も軟派も勧誘も蟹も食い倒れもグリコも飛び込みも全てを映して暖かく人情を包み込む道頓堀川を抱く街、大阪は心を惹き付けて止まない。

 もう橋の上から吐くの止めます。


訛 04/10/14

 関西を象徴する言葉として儲かりまっか」「ぼちぼちでんな」を印象されるが、あれは関西に異国情緒を抱く人々の幻想である。

 仮に似た会話が為される場合でも「儲かっとるか」「まぁ、ぼちぼち」程度が精一杯のところで、通常は「調子」「景気」あたりが使われる。「ぼちぼち」という言葉も使うのは無理矢理関西に溶け込もうと努力する人くらいのもので、「あかんなあ」「どもならん」周辺が生きている関西弁であろう。

 ドラマや映画で話される関西弁が深刻な影響を与えているのは間違いない。やくざ映画の関西弁は妙な進化を遂げており、今現在関西圏でされている声調とはかけ離れた一種の様式美の世界を展開しているから御伽噺として楽しめても身近に感じることは難しい。ところがこの様式美を抽出して真似することの多さが誤った声調を拡散させている。

 違和感を全く生ぜずに関西弁を自然に聞くことの出来る映画は少ないが、真に生きた関西弁を聞きたければ井筒和幸監督の「ガキ帝国」「岸和田少年愚連隊」を観ればよい。それ以外の関西弁は似非と断じて差し支えない。エンドロールに「方言指導」などとあった場合、その中で使われていた関西弁を真似しても苦笑が返ってくるだけである。生きた関西弁を使う者ならば指導される必要はないし、使えない者なら必ずどこかで調子が狂っているからだ。

 「関西弁」が指す方言は幾つかあるが、生粋の河内弁を核として、大阪府下の大阪弁、大阪以外の諸県訛、そして関西共通弁、更に関西風芸人弁、関西風ドラマ弁、関西やくざ映画弁、といったところが入り乱れているわけで、生きた関西弁とはこの分類では関西共通弁を指す。関西風芸人弁から先は「変」の一言で済む。

 関西芸人弁にも幾種かある。関西育ちの関西を主戦場とする芸人は違和感なく関西共通弁を喋るのでそれが更に共通弁を増幅させている。問題なのは関西以外で育ち東京を主戦場とする芸人が喋っている関西風芸人弁であり、これは全身の皮膚の裏側が非常に痒くなる。

 関西弁に格別の愛着を持っていないとは言い切れないが、保護せよと叫ぶわけでもない。日本国語からすれば関西弁とは訛であり、しかしその訛である関西弁を真似した無残な声調つまり「関西弁訛り」ではなく「訛り関西弁」の氾濫に呆れるだけである。

 訛を使おうとして失敗した「訛の訛」は極端な脱力感を催すものだ。何故に無理して関西弁を使いたがるのか理解出来ず不思議でならない。「嬉しい」ではないだろうし「格好いい」でもあるまい。「楽しい」が一応それらしく思えるようだが、訛に楽しさを見出すことが一般的であるとも考えられず、無数の疑問符に包まれながら似非関西弁に苦笑を贈るしかない。




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