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嘘吐き!
ヒトクローン
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動物園
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世襲
ごみ箱
世代論
気が付くと
べんつ
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年寄
かぶれ
詐欺

クローン
把手
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酔論
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差別
渓流釣り
催眠術
均衡

世代論・五輪
依存

光点
混乱
本質と現象


「ねえ、真実はどこ?」

「どこにでもあるさ。ただ見えないだけでね」

嘘吐き!02/12/30

 「私が言うことがすべて嘘ならば、私が決して本当のことを話さないと言った時、私は嘘をついている。つまり私の言うことは時々本当である」 J・J・ナンス 「ブラック・アウト」 新潮文庫

 これは少しややこしいが、余りにも有名で古典的な「矛盾問題」として挑戦してみよう。

 まずこの台詞の無駄な贅肉を可能な限り削ぎ落とす。するとこうなる。

 「私は嘘つきだ」

 さて、これならば知る人もいるだろう。ややこしくなるが、泥沼へ行ってみようか。

 「私は嘘つきだ」しかし「そうですか嘘つきですか」と単純に納得してはならない。何故ならば自ら「嘘つき」と言っているわけであるから、その「私は嘘つきだ」という言葉そのものが嘘かもしれない。しかしこの場合は、まず最初に言った「私は嘘つきだ」という言葉を無条件に信用することから始まる。彼が嘘つきであるならば、信用できないことになるから、「私は嘘つきだ」という言葉を信用しない時、「彼は嘘をつかない」と判断することになる。しかしその場合「彼は嘘をつかない」筈なのに自ら「私は嘘つきだ」と言っているから彼は嘘つきになる。それでもし、「私は嘘つきだ」と言った彼が嘘つきであったならそれはすなわち本当のことを言っているのだから彼は嘘つきではない。「私が嘘つきだ」といって嘘をつかないならば「嘘つき」という言葉通りであるが、嘘をつかないならば「私は嘘つきだ」という言葉は嘘になる。

 さあ泥沼だ。一度整理してみよう。

1.「私は嘘つきだ」と言った彼の言葉が嘘であった場合、貴方がこの言葉を信用したとしよう。

2.「私は嘘つきだ」と言った彼の言葉が嘘であった場合、貴方がこの言葉を信用しなかったとしよう。

3.「私は嘘つきだ」と言った彼の言葉が本当であった場合、貴方がこの言葉を信用したとしよう。

4.「私は嘘つきだ」と言った彼の言葉が本当であった場合、貴方がこの言葉を信用しなかったとしよう。

 この四通りに収斂するはずだ。ここに出てくるのは「私は嘘つきだ」と言う「彼」と、その言葉を聞く「貴方」と、彼が「嘘をついている場合」あるいは「本当のことを言っている場合」、それと貴方が「信用する場合」もくは「しない場合」だ。

 泥沼からまず右足が抜けた。

1.「私は嘘つきだ」と言った彼の言葉が嘘であった場合、貴方がこの言葉を信用したとしよう。するとまず貴方は「彼は嘘つきだ」と判断したわけだから、その言葉が嘘だと思うはずだ。その言葉が嘘であるなら「私は嘘つきだ」と言った彼は嘘つきではない。嘘つきではないが「私は嘘つきだ」と言っているのでやはり彼は嘘つきである。

2.「私は嘘つきだ」と言った彼の言葉が嘘であった場合、貴方がこの言葉を信用しなかったとしよう。するとまず貴方は「彼は嘘つきではない」と判断したわけだから、その言葉が本当だと思うはずだ。その言葉が嘘であるなら「私は嘘つきだ」と言った彼は嘘つきではない。にもかかわらずやはり「私は嘘つきだ」と言っているから彼は嘘つきである。

3.「私は嘘つきだ」と言った彼の言葉が本当であった場合、貴方がこの言葉を信用したとしよう。するとまず貴方は「彼は嘘つきだ」と判断したわけだから、その言葉が嘘だと思うはずだ。その言葉が本当であるなら「私は嘘つきだ」と言った彼は嘘つきではない。嘘つきではないが「私は嘘つきだ」と言っているのでやはり彼は嘘つきである。

4.「私は嘘つきだ」と言った彼の言葉が本当であった場合、貴方がこの言葉を信用しなかったとしよう。するとまず貴方は「彼は嘘つきではない」と判断したわけだから、その言葉が本当だと思うはずだ。その言葉が嘘であるなら「私は嘘つきだ」と言った彼は嘘つきである。本当のことを言っているにも関わらずやはり彼は嘘つきである。

 泥沼から左足も抜けた筈だ。

 この問題の核心は単純なところにある。「私は嘘つきだ」と言った彼の言葉は常に嘘なのかどうか。たまには嘘ではないことを言うのか。嘘ではないことを言った場合彼は嘘つきなのかそうではないのか。

 泥沼からは両足が抜けたはずだ。後は自分で這い上がれ。

※自分で改めて読み返してみると、読む人を混乱させるべくややこしい文章に仕立てる過程で、書きながら自らが確実に混乱している。我ながら何がどうなっておるのかよく判らん文章だ。しかしこれの文章を整理すると考えるだけでうんざりするので、これはもうこのままでいい。03/08/31

※「私は嘘つきだ」の言葉、実際は有り得ない。
・正直者ならば「私は嘘つき」と嘘を言わない。
 「私は正直」と正直に言う。
・嘘つきならば「私は嘘つき」と正直に言わない。
 「私は正直」と嘘をつく。
いずれにしても必ず「私は正直」と述べることになる。04/10/29


ヒトクローン02/12/31

 クローン女児「イブ」が誕生したとの発表があった。

 クローンか否かである鑑定はこれからのようで、ヒトクローンについての是非はこれから更に激しくなろうが、おそらく数十年後、数百年後にはただの馬鹿騒ぎだったことにされているだろう。

 未来は常に過去にある。

 ガリレオが地動説を唱えた際にどれほどの騒ぎになっただろうか。そして今我々はその騒ぎをどのような気持ちで眺めているだろうか。魔女裁判が全盛だった頃、どれほどの騒ぎになっただろうか。そして今我々はその騒ぎをどのような気持ちで眺めているだろうか。宗教的倫理とは何だろうか。

 我々が、ガリレオを弾圧した宗教裁判所の頭の堅さを嗤い、魔女裁判を嗤うならば、当時の社会的状況を把握していないことになる。今現在の社会常識・社会通念・倫理観で過去の出来事を嘲笑する事ほど愚かな仕儀はない。しかし貴方はなんと下らない理由で騒いでいたのだろうと呆れる筈だ。数年前にローマがやっと地動説を認めたというニュースを覚えているだろうか。あの時は呆れるのを通り越して「宗教って馬鹿だ」と思っただろう。

 科学が進歩して未知の領域が解明された時、コペルニクスが召還されそれまでの常識が覆されることがよくある。しかしそれに抵抗して旧観念にしがみつく保守的な人々もいる。厄介なのはその保守的な人々が権力を握っていた場合だ。常識が覆っても権力がそのままならば変化とは言えない。

 ヒトクローンはいずれ常識になるだろうし、クローン技術の様々な実験をしている中でヒトクローンについて激しい反対運動が巻き起こっていることを我々の子孫から嘲笑される日が必ず来る。いや、もしかしたらクローンならば子孫とは呼べないかもしれない。そしてこの「クローンなら子孫とは呼べないかもしれない」という言葉さえも嘲笑される日がくるだろう。

「なんと頭の堅い奴だ、科学が発達していない昔の人間は馬鹿なことをして馬鹿なことを言う。人間の本質は基本的に馬鹿なことをするように出来ているようだが、それにしても昔の人間は愚かなことだ」

 この言葉、我々が過去の人間に向かって発する言葉だろうか。それとも未来の人間が我々に向かって発する言葉だろうか。あるいはその両方だろうか。

 未来は常に過去にある。

※結局どうなったんだっけか。2004/10/29


命題 03/04/16

 ある命題がある。「犯罪者と警察は持ちつ持たれつ」だ。

 これも随分言い旧されてはいるが、はじめて理解したのは筒井康隆の短編小説だ。命題とは少し違うが根幹は同じだ。

 さて、例えばとある都道府県の警察が「犯罪完全撲滅月間」を謳い、取り締まりを強化したとしよう。犯罪は完璧に撲滅出来るものではないが、奇跡的に撲滅出来たとしよう。するとどうなるか。

「警察の仕事がなくなる」

 これは困りますよ。一般人は困りません。犯罪者も一時的には失業しますがどうにかなるでしょう。仕事がなくなった警察が困ります。するとどうするか。

1、「警察の役目は終わった。『組織は肥大する』という世の習いに逆らって無理矢理解散する。適当に生きてゆけ」

2、「犯罪を撲滅した?愚か者。では何か法律を作って今までなら何でもなかった奴を犯罪者に仕立てろ」

3、「犯罪を撲滅した?我々の必要性を一般人に植え付ける為に何か大きな事件を起こすぞ」

 1は職に溢れた警察官が凶悪な犯罪者になる可能性が高い。2はいつものことだ。3は内部抗争権力闘争派閥戦争絡みでたまにある。

 警察の仕事は犯罪を取り締まり未然に防ぐことにある。ところが犯罪が全く起きないと存在価値を失う。だからそれまでは犯罪ではなかったことを法律で犯罪と規定する。存在価値が見直される。いち市民感情としては暴走族より選挙カーを取り締まってもらいたいものだが仕方あるまい。

 じつのところこの命題、あまりにも応用が効くのでここで書くつもりはなかった。しかし始めた以上折りをみて掘ってゆこう。おおまかに類似命題を。

Z、警察  「警察と犯罪」犯罪がなくなれば警察の仕事がなくなる。なくさない為には「防犯を仕事にする」「犯罪をなかなか減らさない」「それまで犯罪ではなかったものを犯罪と認定する」

A、医者  「医者と病気」病気がなくなれば医者の仕事がなくなる。なくさない為には「予防を仕事にする」「病気をなかなか治さない」「それまで病気ではなかったものを病気と認定する」

B、宗教  「宗教と不幸」不幸がなくなれば宗教の価値がなくなる。なくさない為には「不幸になる助言をする」「不幸からなかなか逃さない」「それまで不幸ではなかったものを不幸と認定する」

C、米国  「米国と戦争」戦争がなくなれば世界の警察米国の存在価値がなくなる。なくさない為には「引っ掻き回して戦争を起こす」「戦争をなかなか止めない」「それまで戦争などなかったところに戦争の種を播く」

D、弁護士 「弁護士と裁判」裁判がなくなれば弁護士の存在価値がなくなる。なくさない為には「もめ事に割って入りさり気なく煽る」「裁判を長引かせる」「それまで馬鹿馬鹿しくて裁判にならなかったことでも裁判を起こす」

 キリがないのでやめておく。このからくりを理解する人としない人では話が全く噛み合ないということを知っておいた方がいいだろう。


ブラシーボ効果 03/05/13

 まったく治癒能力のない物質を「薬だ!」と信じ込ませて病人に投与すると、偽薬にも関わらず、35%の効果があったという信じるべきかどうかよくわからない文章を見た。

 では、いってみよう。

 例えばここに100人の肺癌患者がいる。彼等は何故か煙草の存在を知らない。車の煤煙か何かで肺癌になったことにする。そこで煙草を「肺癌の薬ですだよ」と偽って与える。ブラシーボ効果により35人は治ることになる。

 肝臓を痛めている人に「これは薬」と言って酒を投与する。

 肥満の人に「これは薬」と言ってグラニュー糖を投与する。

 下痢している人に「これは薬」と腐った暖かい牛乳を投与する。

 痔の人に「これは薬」と唐辛子を投与する。

 上はブラシーボ効果により、35人が症状が軽くなり、65人が悪化するだろう。

 統計というものをを信用出来ない証拠をお目にかける。

 悪化した65人に改めて薬と偽って煙草や酒、腐った牛乳、唐辛子を投与する。薬と信じ込んでいることが前提だが、65人の35%、18.57人が良くなる筈だ。これを永遠に繰り返せばブラシーボ効果でいかなる病気も治すことが出来る。直せなければ死んでしまうが、普通に治療しても死ぬときは死ぬ。どうせ人間いつかは死ぬ。

 こうして宗教が栄える。

「私はこれで癌が治ったの」とキーホルダーを見せられたとき、わけがわからなかった。そのキーホルダーに毎日癌が治りますようにと祈っていたという。その昔の恋人はお見舞いに来たんですか、と尋ねると「死んだのよ」だからそのキーホルダーは彼の魂を感じることが出来、いつも見守ってくれていて癌でさえも治してくれたのだという。どう考えてもさっきの計算同様おかしいのだが、そう信じているならそれで幸せなのだろう。二十歳の美しい女性の二人分の年と体重を持つであろうそのおばさんがキーホルダーをうっとり眺めるのは少々気味が悪いが本人が満足しているなら何も言うことはない。

 それでも一応尋ねてみた。「癌はどこに?」「子宮だったの」想像してしまうと負けだ。すみやかに話題を変える。ガラスか水晶か知らないが涙形にカットされた透明の詰めた小指のようなものを指して「そのキーホルダーはどこで」「☆☆☆☆様に頂いた物なの」出た宗教。「一番大切な人の魂がこもるキーホルダーなの」さあ逃げようか。

 「風邪引いてるの?」から始まった会話がたどり着くのは結局ここかいな。

 母方の祖父と祖母を癌でなくし、母も二度めの手術でリンパまで取った。癌に対してそれなりに知識を増やしてはいるが、心の弱みにつけこんでたぶらかし、まやかしめいた呪術を施したり、怪しげな薬を売り捌いたりする商売は許せない。許せないがそれほど儲かるものならやってみたくもある。

 「病は気から、気は病から」まずは風邪を治そう。ウィスキィを薬だと心の底から信じるぞ。


駄洒落おじさん 03/05/15

 いい年をしたおじさんの中に何故駄洒落を連発する人がいるのか、長い間疑問だったが、ついにその謎が解けた。こうだ。

 元々駄洒落を連発する人ならばいい年になれば洗練されてきて洒落を発するようになる。あまりにもくだらない駄洒落を連発するおじさんの生成過程を見てみよう。

 まずは駄洒落を言わない普通の青年がいる。この段階で彼は上司或いは上の世代の駄洒落に愛想笑いしている。嫌悪感を抱いているかもしれない。

 やがて彼が結婚する。くだらない駄洒落に愛想笑いしなければならないことの愚痴を零す相手が出来たわけだ。

 やがて子供が生まれる。妻とともに夜泣きにも負けず溺愛する。子供が最も可愛く、一生分の親孝行を済ませてしまうとされるこの時期を夢中で過ごす。

 やがて子供が何か喋るようになり、それを周囲に触れて回り、親馬鹿な奴と微笑ましく見守られる。

 やがて子供は言葉の意味を理解するようになる。子供に色々な言葉を教え、それを逐一周囲に報告する。当然その頃には他にも結婚した奴がいるので周囲はそろそろ飽きてくる。

 やがて子供は「おしっこ」「うんこ」などで笑い転げる時期がくる。

 やがて子供は「かけことば」つまり駄洒落を理解するようになる。

 ここだ。

 やがて子供を喜ばせるべく気に入られるべく駄洒落を発するようになる。初めのうちは喜ぶが、繰り返しているうちにネタ切れとなる。子供と戯れ、喜ぶ顔が見たくて必死で洒落を繰り出すが、難しく高級な洒落は理解してくれない。

 やがて寝ても覚めても何か駄洒落はないかと考えっ放しになる。子供のいない所で駄洒落を考え、収集し、調査し、試す。そろそろ周囲はそろそろ疲れてくる。

 やがて子供は成長し、父の駄洒落が下らないものであると認識し、軽蔑するようになる。ところが父親にとって子供はいつまでも子供であり、駄洒落で笑い転げてくれた可愛い姿が忘れられない。

 もう一度笑い転げてほしい。その一心で駄洒落を連発する。子供に「面白くない」と言われても、妻に「もうそれじゃ笑わない」と言われても、この数年駄洒落漬けとなった彼は止まらない。周囲は既に顔が引き攣っている。

 やがて子供は駄洒落を連発する父親を見下し、相手にしなくなる時期がくる。その頃には彼は社会的地位も多少はあがり、愛想笑いをしてくれる部下もついている。

 子供に相手にされなくなった駄洒落を喜んでくれる部下がいる。大喜びしてくれる取引先がある。ホステスが笑い転げてくれるクラブに通う。嗚呼、裸の王様ここにあり。

 かくしてここに重度の駄洒落おじさんが完成する。

 なお、長い長い長い長いリハビリを経て駄洒落が体から完全に抜けた頃、孫が生まれる。

 苦行ですな、本人も周囲も。特に子供が。


貴族 03/06/25

 貴族に美男美女が多いのは何故か。

 貴族として、またそれに類する立場の者として相手をじっくり選べるぐらい配偶者候補が殺到してくるならば、外見でもなるべく優れた人を選ぶだろうし、そういうことを幾世代も繰り返せば遺伝子の作用で美男美女が多く産出するのは至極当然の結果と言える。

 もとより貴族でない場合、しかし何かの後ろめたい事情を駆使したり権力闘争に打ち勝って貴族的立場への仲間入りを果たしたと自分達だけで思っている一家の場合、どうしても素養が足りず、立居振舞いもぎこちないことだろう。そして残念ながら彼らはまだ平民の顔をしているわけだが、落魄せず、しぶとく生存競争に勝ち残りつつ世代を重ねていくうちに、家柄や財産目当てに見目麗しき者がその容貌に似合わぬ下心を持って近付き、取り入り、やがて一族に組み込まれると、その遺伝子が作用して次代は少しレベルが上がる。そうこうしていると本物の貴族との接点が生まれ、間に子も生まれ、数代後には重ねた年月の中で身に付いた優雅な所作で武装した美男美女の家系となるのだ。

 また落胤と呼ばれる高貴な御方の隠し子も頻繁に出現するわけだが、貴族にとって恋愛は一種の仕事であり、上流階級の縁戚関係の複雑さは広瀬隆の「赤い盾」を読めば頭がくらくらしてくるが、普段周囲に美男美女がいるわけであり、外見に限って言えば目は相当肥えている筈だ。従って見るに耐えない者を相手にすることはなく、浮気であろうとゆきずりであろうとその相手はそれなりに整った顔立ちをしているだろうし、生まれた子もまたその血を引くわけであり、やはり美男美女の家系はその評判を落とすことなく、受け継がれることだろう。

 上流階級の人間にとって政略か財産目的以外でわざわざ「美男美女ではない者」を配偶者に迎える理由はないのであって、「心に惹かれた」などと口走って見目汚い者を伴侶とするならば、ただちに縁を切られて上流階級の人間ではなくなってしまうので、これもやはり美男美女の家系は守られる。これを許せば貴族と平民の区別がつかなくなるので周囲は必死で反対するであろうし、それを押し切って上流階級を捨ててまで一緒になるならば、石屋の引越、幸せになることだろう。

 混血が美を生むことは古来言われつづけていることである。トルコ、ブラジルそして東欧は美女の産地して名高い。にも関わらず、あの人種の坩堝であるアメリカに美女多しとの評判が立たないことは、立居振舞いというものが人柄ではなく外面に帰属することを間接的に証明している。であるからただの造形的な美しさだけでは不足のあることがわかるだろう。貴族は貴族の雰囲気を身に纏う必要があるのだ。

 そして大抵は長い時間に洗われた遺伝子が活躍して美男美女を生産するわけだが、それでも、政略結婚、財産目的、よく理解できない愛、隔隔隔隔隔世遺伝によって信じられない例外が出現することもある。そしてこちらの場合、遺伝子は相当手強いと考えられるので百年の不作は免れまい。振り出しに戻ってしまうわけだ。


判断力 03/07/17

 時事ネタを扱わない理由とは、時事・社会・国際ネタ専門のメールマガジンをいくつか購読しているせいで、どう考えても敵わないし、それを読んで論旨を盗んだところで寝覚めも悪い。ど素人としての的外れな見解を書いても後々恥となるだけであるし、ただの感想であれば更に情けなくて自分が許せなくなる。

 そもそも加工され、取捨選択されたニュースだけを見て生きていくほうが遥かに楽ではある。我々には加工されていないニュースは届かないが、ニュースとしての価値がないと見なされた、あるいはニュースに出すべきではないと判断された出来事を推測する程度の頭はある筈だ。

 「知らない人について行ってはいけません」と教え込み、自らの頭で判断することを教えない親が、TVや新聞を見て「TVや新聞の批判と同じように」TVや新聞が批判すると決めた対象を批判する。それを見て育つ子供はさぞや従順で扱いやすいことだろう。マスメディアの偏向に批判を向けようとしないのはお笑い種だが、それは決して「メディアが偏向しているのは仕方がない」ことを前提としているわけではなくて、「メディアは一応中立である」ことを前提としているわけだから手におえない。

 犯罪に流行などなく、類似の事件が特別頻発しているわけではない。類似のニュースが多いだけなのだ。あらゆる出来事を網羅することが出来ない以上、取捨選択により我々のところまで届かないニュースが一体どれだけあることか。何か大きな事件があれば直ちに類似のニュースを連発しておいて「最近こういうニュースが多いですね」お茶目なことを言うじゃねえか。「流行の犯罪」という流行を造り出しておいて、次の瞬間野次馬に変身とは忙しいこっちゃのう。

 「マスメディアは信用できない」という言葉を信用する人が少ないのは情けない限りだが、それを利用して個人的に信用するに値する人とそうでない人を見分けることが可能なのは救いと呼べるかもしれない。

 巨視か微視か、どちらかを選んでしまうことの出来る人もいるし、両方を使い分ける能力を持つ人もいる。しかし大抵は巨微混用して話にならない場合が多い。

 他人の言葉に蝕まれ
 判断力が失われてゆく

 自らと自らの判断力を信じることが出来ないならば、すべてを信じて生きていくがいいさ。痛い目に遭おうとも誤魔化しの言葉さえ信じて生きていくなら尊敬するぜ。正直者は馬鹿を見て、善人から順番に死んでゆく世の中巧く渡って行きなよ。ついでに、天寿を全うする家畜などいないことは知らないほうがいいと思うぜ。


動物園 03/07/23

 矢鴨は出来るだけ早くとっ捕まえて食うべきだが、当たりどころがいいのか悪いのか、矢が刺さったまま徘徊していると同情を一身に浴びて救われる。

 人間が他の動物に向ける並外れた愛情は理解を超えており、それをもう少しヒトに向けたらどうだろうかとも言いたくなるが、一方でたかが動物に残虐な仕打ちをするのもまた人間であり、嘲笑される動物愛護派、軽蔑される動物虐待派ともにヒト全体から見て小数派であることは喜ばしいことである。

 ヒト以外の動物を動物園に閉じ込めておくことは、どう考えても不自然であるが、「希少動物だから保護して殖やす為」「生息環境がない為」を理由にすることは既に破綻しており、「自然環境に近い雰囲気を作る」ことが専らの言訳となっている。動物園に幽閉される彼らの無気力な瞳に映る我と我が身を省みて、檻から出ることを考え始める為という効用もあるにはあるが、たまに脱走した動物が大騒ぎになって捕獲されそれが凶暴な動物と認識されていたならば殺されるところを見ると複雑でもある。

 日本での企鵝の愛好具合は度が過ぎていて、しかもそれは「企鵝と言えば南極」なる認識が大勢を占めていて、実際南極にいる企鵝を日本で飼育するのはかなりの無理があるので、より赤道に近いところに生息している種を飼育しているわけだが、そういう種は雪と氷の世界ではなく、岩と砂の世界に住んでいるので、氷山を連想させる飼育部屋は無理がある。頭に黄色い飾りのある企鵝は、洒落者として「マカロニペンギン」に属しており、中でも岩飛企鵝が人気者であるが、通常「企鵝は企鵝」としか知られていない。まあ、十七種しかおらず、大して違いはないのだが、企鵝を可愛がるなら多少のことは知っておくほうがいいように思う。そして一国をあげて企鵝の人気が高いのは日本だけの現象であり、これは動物園の努力にもよるだろうが、実際のところ、企鵝の専門家も「何故日本人はこんなに企鵝が好きなのか」については匙を投げている。

 不自然な飼われ方をしているのは何も企鵝に限らないが、なかでも熊猫は象徴的である。あまり活発に活動するような印象を受けないのは、動物園でどてっと座り日向ぼっこしている姿を、その目ではなく映像として見たに過ぎないだけにも関わらず、強固に「熊猫はものぐさ」とは恐れ入る。実際は雑食であり、特に果物に目がないのに「笹が好物」垂れ目とは、模様がそう見えるだけだ。なお、鯱の目も熊猫同様、黒い部分は模様であって、実際の目は小さく鮫の目と似ている。余程近寄らないと判らないのだが、鯱の黒い模様あれは目ではありませんよ。

 熊猫だ。熊猫の、鎖に吊るされたタイヤのブランコに乗って遊んでいる姿を見て、微笑ましいと思う小学生並みの貧困な精神は早く棄ててしまえ。厳密に檻とは言えないが、飼育空間を広義に檻と呼ぶ事として、檻の中の熊猫を見て、貰った餌を食べている姿、与えられた遊戯具で満足している、いや、させられている姿を見て何か感じないか。熊猫が可哀想?残念ながら違うね。もう一歩足りない。熊猫が可哀想としか思えない貴方が可哀想なのだ。与えられた餌。与えられた気晴らし。外の世界を知らないこと。それで満足させられていること。それは我々と何が違うのかね?動物園を通して日本人の動物観を嘆くことが出来るなら更にもう一歩、動物園の動物を通して見えることがある筈だよ。檻から出たら大騒ぎになるけど、逃げ切れなければそこで全てが終わってしまうけど、気晴らしまでも与えられて、それで満足していることは、悔しくないかい?


助言 03/07/26

 「助言」とは、助言をする人が、その人の人生で学んだことから紡がれた言葉であるから、その人と全く同じ人生を辿るならば役にも立とうが、実際は寝言と変わりがない。

 運で成功した人は「人生は運」と言うし、努力で成功した人は「人生は努力」と言う。これだけを見ても助言が如何に役に立たないものであるか、わかるだろう。目標として、その人と同じように生きたいと考えるなら参考になる可能性もあるが、助言をする側は自分の一言が相手の人生を左右するなどとは夢にも思っていないから、実は「その助言が生まれた経緯とその時の苦労を聞いてほしい」だけであることが多い。

 他人に簡単に理解される助言は、簡単に理解されるが故に普遍的性格を持った空虚な言葉であるし、理解されないならばそれは独善的なもので助言とは言えない。

 「あの時ああ言われてその通りにして良かった」
 「あの時ああ言われたけど自分の考え貫いて良かった」

 「あの時言われた通りにすれば良かった」
 「あの時自分の考え貫けばよかった」

 助言を聞くか聞かないか、どちらの道を選んでも成功と失敗の二股に分かれている。どちらを選ぶかは性格次第であるし、どの道を進んでも成功するか失敗するかはやはり性格次第だ。問題は、「後悔しないかどうか」に尽きるのであって、自分の考えを貫いて後悔する場合、その先反省材料として役に立つが、助言に従って後悔する場合は恨みが積もるだけで、進歩がない。その先また助言を求めて生きていくだけだ。成功したならどちらも問題はないが、自分で選んだ道であれば、更に自信が増す効果がある。

 そういう弱っている時に「心の隙間埋めたるでえ」と怪しい人が近づいてくるのであって、それは助言という名の洗脳を手段とした宗教であり、彼らは何しろ助言のプロであるからとにかく数を放っていて、タイミングさえ合えば嵌るので、そこに遠い世界へ発つ人が生まれる。

 助言など、星占いと見比べてみろ。何も変わらないじゃないか。欲しいのは助言じゃなくて時間。いや、時間でもない。既に心は決まっている筈だ。そしてその選択に自信がないだけだ。違うか?

 手前はメールマガジン上に於いて自信のありそうな文章を書いているが、それは、単に「やりたいことをやっているから迷いがない」だけであり、さらに忠告めいた結びの言葉は、「せいぜい軽く納得してすぐ忘れるだけやろ」「どうせ実践するやつなどおらんやろ」と考えているからでもある。そうは言っても、虚々実々の綱渡りをしていても、文章鍛錬のつもりであっても、書いている内容は本気であるし、ふざけた文章の時は本気でふざけている。迷いがないからこその結果だ。

 古人曰く「一般的な箴言は役に立たない」箴言は助言と表裏一体であることは以前証明した。であるならば、一般的な助言もまた役に立たないことになる。

 実は答えなんか何処にもなくて、正解かどうかは後からしか判らない。今まで生きてきて何かを決断したその瞬間に「これが正解」と自信を持って思えたことがあったかい?後悔も安堵も全て後からやってくるのだ。それでも迷うならば、結果を基準にすればいい。時間などは意味がないさ。時間を縛ることで結果を出せる性格なら効果もあろうが、そっちの道は何かを失うかもしれないよ。

 という上の文章もまた、助言である。従って折角本気で書いても役には立たないし、意味もない。ただ、従うのは自らの心だけでいいと、言いたかった。


変身願望 03/08/05

 寄道寄道の人生、一生寄道を続けたならば、後から考えてそれは寄道だったと言えるだろうか。あるいは寄道そのものが目的ならば、それを寄道と呼んでもよいものか。

 言葉を弄び言葉に淫して言葉に惑わされているうちにふと思うのは、この楽しみを共有できる者がどれ程いるのだろうかという漠とした不安と慢長した優越感。底のない沼に頭から飛び込んで捜し求めているのは空気でも宝でもなくて底なし沼の底であることを知りながらも引き返すこともなく掻き分けて潜り込んでゆく。

 「人生はやり直せる」とはまた嘘八百万を。全てを振り捨てて生きる事は悲しく辛いことであり、ただ生きるより幾層倍もの誇りと力を必要とするのだ。すべてを棄てた人生は何物にも束縛されない代わりに何ひとつ束縛する権利はない。

 変身願望という言葉を使う者は、その願望が叶わぬこと、その勇気が無い者である。であるからこそ無邪気に「変身願望がある」などと口走る事が出来るわけだが、実際に本気で変身願望があり、全てを振り捨て生きることを選び、誰に対しても必要以上に親しくならず、道など無い道を進み、常から己の人生と向き合って何者かを問い続ける旅をする者は、間違っても変身願望という言葉は使わない。どれほど苦労するかは身に沁みて肝を凍らせているからだ。無邪気どころの騒ぎではなく、日々緊張の連続であって、「ふらふらせずに真面目になれ」と言われても、「何も考えずただ目の前にある道を進む貴様よりは余程真面目に人生を考えて生きている」としか答えられない。

 隷属することを拒否した時から旅は始まる。「癒し系」という言葉は極度に嫌われているが、実際に嫌われているのは言葉そのものではなくて言葉が指し示す生温かい諦めの内容そのものである。名前を出すのも汚らわしい癒し系の詩人などという奴がいて、どうにもならない人生を「そのままでいいんだよ」「諦めていいんだよ」「いいことだってたまにはあるよ」何とおぞましい事か。この奴隷的思想には反吐が出るが、それを持て囃す者にも反吐が出る。牙を抜かれ、鼻毛を抜かれ、やがては尻の毛まで抜かれていながら「人生そんなもんだよ」と言われると納得してしまう奴隷思想を崇拝することは、一生うだつのあがらない人間であることを認めているし、何より腐敗した精神に蝕まれていることに思いを致さないのはそれが例え消極的選択にしろ、己の選んだ道であるならば、それは奴隷の道だ。

 その立場を棄てて自由を求めるとき、極度の不自由に包まれる。不自由な環境で生きていた頃の方が遥かに自由であったことに気付く。それでも尚不自由な靄に包まれて自由を求めて足掻くのは、それが己が己の人生の主人公であり、時間をすべて自分で使うことが出来、全ての選択は自分の手柄と責任になるという「生きること」の充実感を味わうことが出来るからだ。

 人生の舞踏場では、踊る者もいれば踊らない者もいる。演奏する者があり給仕する者がいる。酔い潰れている者もいれば素面の者もいる。殴る者あり殴られる者あり、早く帰る者あり遅く来る者あり、そして皆全て退場するのは、舞踏場ではなくて舞踏場の在する世界よりのこと。

 天下帰を同じうして塗を殊にす、と言う。ならば天下を人生に換置して何の異があらんとや。


世襲 03/08/26

 世襲が多い。

 世襲が増えることは、その世界が発達成熟して安定期に入ったと見ることが出来る。しかし安定してしまってそれ以上の爆発的飛躍が出来なくなっていることも暗示している。当然例外もあり、例外を重ねて強調しつつ煙に巻くのも楽しいわけだが、楽しいばかりじゃつまらない。

 世襲に関して親の言い分は大抵こうなる。「親を見て育ち同じ道を選んでくれたことは複雑だが嬉しい」大変謙虚でもっともらしく聞こえるが、つまりそれは親以外の大人と接触したことがなく、親の世界しか知らず、それより他に選ぶ道がなかったことの結果ではないか。子にあらゆる体験をさせ世界を拡げさせるという、親として当然果たすべき役割を果たしていないから「やりたいことが見つからない」という子に対して「現実はそんなに甘くない」と卑怯な逃げ方をして可能性の芽を潰す。

 親として子をいつまでも支配下に置くことの出来る快感を子の人格よりも優先するから、縮小再生産を繰り返し、その世界は弾力性を失う。

 世襲を当然とする、世襲でなければ成り手がない、世襲でないと治まりがつかない、など形はいくつかあるが、その中で営々たる歴史を汗を伝統を重ねていて子も世襲を誇りとする世界ならば構わないだろうが、世襲するべきではない世界で親の後を継いでそれを誇りとする馬鹿及び度外れた親馬鹿がいるから話はややこしくなる。

 極端なまでに間抜けな例として「世襲議員による金正日批判」という実に涼しい話もあるわけだが、世襲するべきではない世界は政治だけに留まらないのは当然の話で、特にそれが個人の努力と実力が大きく反映される世界であればあるほど世襲は相応しくなく、しかし世襲そのものは絶対的な悪ではないながらも、ただ二世というだけで拝崇する行為が明らかに間違っているのだ。

 ところが世の中は人脈によって動いているという、如何ともしがたい事実も一方にあって、しかしコネクションと情実によるその世界の特殊特権化を防ぐ為には、外部からの新しい血を積極的に導入することで解決出来るが、それを怠るとやがて畸形社会になってまう。

 共に親離れ子離れ出来ない結果の世襲もある。一方滅ぶ寸前の伝統を継ぐ世襲もある。親が世襲を拒否して放蕩者を勘当した後乗っ取られて「こんなことになるならあいつに食い潰された方がまだ良かった」と後悔する場合もある。こうなると世襲そのものよりも、結局親の教育という根源的な問題に突き当たってしまうわけであり、それはもう迷宮どころの騒ぎではない。

 地縁血縁のなかった新世界ではどうだったか。不思議なことに新世界に於ける世襲はごく当然のことであり、新世界であるからこそ世襲を拒否するのもまた当然の話であった。そこは世襲云々よりも「まず生きること」が先決であったから世襲などという馬鹿げた話などする暇はなかったのだろう。そして今の新世界ではその流れのままであるが、「実力で夢を掴むことが出来る世界」が売り物であったその国では今、人脈によってのみ動いている社会となり、元々個人主義を出発点に置いた筈のその国が、「生きることイコール人脈を作ること」になってしまったことは、古い伝統を拒否して建国した民の末裔が、伝統への強い憧れにより、この先極端な世襲社会への道を歩もうとしていることを示している。

 「結局最後は人だ」という言葉、いい言葉なのか悪い言葉なのか、両面性があり過ぎ、言い交わされ過ぎて最早何も興らない。世襲が繰り返されるのは、親自身がそれ以上の成長を拒否するからである。

 学ばない親の下で子は何を学べばいいのだろう。


ごみ箱 03/09/07

 ごみ箱があるから部屋は綺麗になるのであって、ごみ箱を無くそうとするのは部屋そのものをごみ箱にしようとする思想であるから、ごみ箱の存在を我慢できない者は潔癖症に見えながら、実はごみ溜めを創り出そうとし、ごみ溜めに安住を求める者である。

 無論ごみ箱があっても効果的に利用出来なれば意味はないわけだが、ごみ箱があることで部屋全体が綺麗になることは経験則として誰しも理解はしている筈だ。ごみ箱が汚ければ汚い程部屋は綺麗になる。ごみ箱がなければごみは行き場を失って部屋全体が汚れるだけだからごみ箱は必要不可欠なのだ。

 産業廃棄物及び放射性廃棄物のごみ箱となると、話は同じであるものの、根本的に発生させてはならないごみなので、これはごみ箱の必要性よりもむしろ部屋の中にごみの原料となる物自体を持ち込むことが間違っているのであって、どこかの有毒兎島やら一地震世界半滅再処理場などはごみ箱扱いも物置扱いも不開間扱いも神棚扱いもするべきではないのだが、ではどうするかと言うと、どうにもならないから皆知らない振りをしたまま次の世代へ送り込む。

 「ごみをごみと考えるからそれはごみなのであって、ごみをごみと考えなければそれはごみではない」とする小理屈もあるが、ごみをごみと考えないから部屋全体がごみだらけになるのであって、問題はごみ箱を有効に利用できるかどうかにある。

 犯罪を完全に撲滅した社会は総犯罪者社会であることは少し考えれば判ることであり、一部ごみ箱として犯罪の滞留所を作っておけば、そこは凄まじい犯罪が渦巻く世界になろうが、それ以外のごみ箱ではない部分はごみ箱があるせいで綺麗になる。一種の無法地帯をごみ箱として設定し、そこでは完全な自由主義が横行していて、それ以外のところでは綺麗過ぎて息苦しい社会が生まれる。それは統治する側にとって簡単この上ない方法であり、また統治される側としてもごみ箱で生きるかどうかが選択可能ならば全体が中途半端なごみ箱である社会より暮らしやすくもあるだろう。

 これはごみ箱理論あるいは九龍理論として、オーウェル、ディックなどSFの世界では既に古典と呼ばれる形式ではあるものの、今までもこの先も通用する真理であるから、強引にごみ箱を捨て去った後に残るもの、知りたければ歴史を学ぶことだ。


世代論 03/10/16

 懐古のブームとはいつの時代にもあるもので、懐古する対象の時代が違うだけのことである。

 今八十年代のブームだ何だと騒ぎ立てようとしている奴がいるが、それは単に世の中のあらゆる業職種の中にいる、八十年代に最も多感な時期を過ごした世代が社会の主力になっただけのことである。当然その前の世代が社会の主力であった頃は、その世代が多感な時期を過ごした時代が懐古の対象となり、何処まで遡ってもそれは変わらず、何処まで下ってもやはり変わらない。この仕組みは芸能・音楽・ファッション・果ては政治その他全ての分野に於いて通用する。そしてブームの変遷はそのまま世代交代を如実に表している。

 だからこそ次の懐古ブームが何かというのは、次に主力となる世代が最も影響を受けたであろう時代の出来事を眺めればある程度は推測出来るのだ。

 かと言って竹の子族がもう一度流行ると思えないのは、竹の子族が当時遍く普及していたブームだったわけではなく、あくまでも局地的な際物であったが故に、その世代が社会を動かす主力になっても恥ずかしくて懐古なんてしていられず、また流行を仕掛けられる程の多数派でもなく、仕掛けても誰も見向きもしないであろうからだ。そして竹の子族はただの徒花として輝くわけでもなく、皆が忘れたふりをし続ける。

 この周期の判りやすい例は音楽であって、当時多感な時期を過ごした者が音楽業界である程度の実権を握ると、世代交代が明らかとなる。その曲が流行った頃はまだ生まれてもいない歌い手がカバーする。「いい曲だと思って」幾割かはその通りであろうが、実際は個人的な懐古に利用され、またその懐古を利用しているだけのことだ。

 当然世代交代による再ブームを露骨に狙い過ぎて、墜落するには勢いも高度も足りなかった平成の漫才ブームという実に無惨な失敗例もある。

 最も判り易い例はアメリカの政治だ。二大政党制で回していて、政権の交代が世代交代、人々の意識変化と見事に照応している。ある時期に割を喰った世代は対する政党に傾き、やがて社会の主力となると支配政党の交代劇が起こる。結果アメリカの政治はほぼ二十年毎に保守・革新・保守・革新を繰り返している。このあたりは霍見芳浩の著作が明快に解き明かしているので読むとよい。

 世の中の変化が速く感じてもそれは表面的な変化に過ぎず、深い意識の変化は一定の周期に拠るとする世代論は何時の時代でも何処の世界でも通用する有効な理論であるから、流行に踊る事が如何に間の抜けた行動であるか、その流行を見抜く事が如何に容易であるか、そして仕掛けると成功する流行が何であるかが、簡単に判ることは、知っておく方がよい。


気が付くと 03/10/31

 なかなか絶滅しないUFO信者の言うことには。

「寝ていたら宇宙人に連行された」

 他に証人のいない時と場所で寝ていた際に起こっていることであって、一応言訳としては「一人の時を狙われた」であるが、最後に必ずこう結ぶ。

「気が付くと元の場所にいた」

 夢見てて目が醒めただけやんけぼけなす。この最後の一言で全て話が終わるのだ。通常よりも現実の感覚に迫った夢を見ていたに過ぎず、これは手前が幽体離脱の夢を何度も見たことがあるから断言する。夢ですよ。ただの夢。凄く不愉快な感覚に跳ね起きるわけだが、落ち着いて考えると唯の悪夢を見て目覚める時と何も変わらない。内容が「夢ではないと思い込んでいる夢」であるだけだ。

 あるSF映画を作る際、「見た事のない地球外生命体」のデザインを著名な画家やイラストレイタに依頼してみたものの、集まったそれらは全て「いつかどこかで見た生物だった」という話がある。結局その映画は登場する生命体にある工夫を凝らしたので名作と呼ばれている。

 夢というものはそれまでに見たり聞いたり読んだりした体験の記憶を元に構成されるから、例えば「全く知らない」「滅びた」どころではなく、存在していない完全に架空の言語を夢の中で話すことは出来ない。仮に「アフリカのソベデ族に捕まって食べられそうになった夢」を見たとしても、単に「アフリカ」「それらしい部族名」「食人の知識」から連想される、その人の知識の中にある類似の断片を繋ぎ合わせただけの適当な夢である。夢の暗示とはまた別の話なのでここでは触れない。「ソベデ族」というのは多分存在しない筈だ。「でべそ」を反対にしただけとは言っておく。

 もし円盤が存在するならば、綿密に物事を記録して残すことの大好きな人間の、UFOという言葉などなかった時代の古文書に、どうしてそれらしき記述がないのかね。せいぜいが「不吉な星を見た」ぐらいのもので、目撃情報が溢れている今から考えて、過去の時代の記述は余りにも少なすぎて、それが現在溢れている情報の疑わしさを暗示している。「丁度小便をしている間、怪しい飛行物体がゆらゆら動いていた」といった記述を、UFO論者は古文書・歴史文献の中から一体幾つ拾うことが出来るのだろうかね。

 「気が付くと元の場所にいた」ではなく、本当に宇宙船に連れ去られたのならば、気が付いた際には「東京ドームの上で寝ていた」とか「皇居の便所に落とされていた」とか「地球の裏側にいた」とか、とにかく夢遊病者でも不可能な場所にいてほしいものだ。それならば少しは話を聞こうとも思う。

 「気が付くと富士の樹海にいた」というのは寝ているところを拉致されて捨てられたわけだから夢であるとは断じられないが、しかしこの場合もまた夢であると考えた方が幸せかもしれない。「気が付くと北朝鮮にいた」というのは、残念ながら手前の手には負えない。


べんつ 03/11/03

 「がばばばばば」と喧い車が通った。

 ポルシェのような形をしている。車には疎いからそれぞれ特徴的な形や紋章でやっと区別がつくわけだが、このアマガエルのような形はおそらくポルシェ一族に違いあるまい、この音は名高い空冷式とやらであろうと考えていると、ちらりと見えたナンバープレートが「・911」であった。大変判り易くてよい。こういう馬鹿なら許せる気がする。

 やはり物心ついて以降植え付けられている印象とは強烈に固定されているもので、久々に角目のベンツを見て「そうそうそうそうベンツはやっぱりこれやないと」と不思議な感動に貫かれた。

 最近目にするベンツは悉く丸目であって、あれはどうにも見た瞬間照れる。ベンツとは、無骨な外観でありながら素晴らしい加速性能と安定感を内に秘め、そして乗り手を極端に選ぶ車であった。泡踊りの時代、小金持ちが皆こぞって乗っていたせいで希少価値は全くなかったが、ありふれてはいても値段は高いままであって、そこがベンツのベンツたる所以でもあるが、ただの販売戦略でもあるが、ベンツに乗る事がすなわち羽振り良き者の勲章であり、そしてその勲章は極道諸氏の過剰なる宣伝行為により、威圧感という付加価値を帯与された角目が一層の迫力を持って周囲を慄かせていた。その迫力はある種の共同幻想であったが、しかしそれを棄てる勇気が誰も持ち得ず、「石を投げればベンツに轢かれる」と揶揄されるがままにベンツは増え続け、中古車市場にだぶついても貧乏人が共同幻想を必死で支えて、支えながら縋り、なのに丸目のベンツがあっさり角目を駆逐してしまったのだ。

 日本に於いてベンツとは、「金持ち」の印象を形にした車であるから、金持ちを演ずる為には逸早く乗り換えればならない。こう考えた者が多すぎたのだろう、また初めのうちなら希少価値があるだろうとも考えたのだろう。こんなに急速に氾濫するとは思わなかったに違いない。

 それに加えて丸目は印象が軽いのだ。ほぼ垂直にそそり立つ角目は空気力学を無視してなお安定して高速を出すことへの崇拝観念もまた、丸目の登場によって消失した。今や丸目のベンツを見ても威圧感など微塵もない。あれを見て連想するのは厳いチンピラがサッカーのユニフォームを着て困惑している図だ。

 久々に見た角目のベンツが実に懐かしくて威容あることを感じて、それは上の世代が何かと言えば「昔の何々は良かった」と言う姿そのままであるということにも思いを致し、少し情けなくなって一気に酔いが回った。

戦隊 03/11/06

 戦隊ものというジャンルの子供向け番組がある。

 手前もかつて見ていた記憶があるが、あれは大体毎年連綿と続いていて、しかし毎年微妙にタイトルが変わっているので「なにレンジャー」だったかは定かではない。これがアメリカに輸出されて変身前のシーンだけあちらの役者を使って再構成して放映されているという話もある。「ジュウレンジャー」の「ジュウ」がユダヤの蔑称であるから「パワーレンジャー」に変更されたとか女が一人では政治的に好ましくないからもう一人入れて六人編成になっているとかわけのわからない情報をどこで仕入れたのか覚えていないにも関わらず、すらすら出てくるのは我ながら気持ち悪い。

 最初に下らないドラマがあって、視聴対象の子供が感情移入出来るように子供が出てきて、色気でもなんでもないのに子供から見ると稚拙な背徳感を刺激する姐ちゃんがいて、そして何しろ制限時間があるから、やや強引に怪獣が出てくる。色々悪さをする怪獣を退治するために伸びの良さそうなポリエステル地の服に変身して、まあ、子供心にあんなもので変身とは呼べないとか、攻撃されたら普通破れるよなとか思わせる暇なく無理矢理話が展開してゆく。

 この手のヒーローものは必ず最後に正義が勝つことになっているが、その過程で必ず苦境に陥ることになっている。それだけ悪役が強くなければ怪獣一匹に集団で対抗するという話が成立しないわけだが、強いにしてはヒーロー側の最後の必殺技でわざとらしくあっさり爆発する。果たして怪獣は爆発する必要があるのだろうか。また爆発する能力があるのだろうか。

 他愛ないといえば他愛ない内容なのだが、実はこの戦隊ものが、「いじめ」の組織化・巧妙化・凶暴化を誘発助長しているという説がある。何にでも言い掛かりをつけて何か反応があれば「世の中を変えた」と自己満足に浸る究極の暇人が提唱したものではなくて、まともな人が「半分冗談半分もしかしたら」と出た話であるが、半分冗談としてもその仮説捨て難いのは何故だろうか。

 連帯や人の和を重視するなら五人で組んで悪に立ち向かう構図は大変好ましい。しかしあれの視聴対象の子供が悪を「先生」「親」ではなく、仲間外れの一人に設定することは、必要悪・巨悪の存在を知らない純真な心として当然の帰結である気もする。真似してみたい気持ちを満足させる為目の前にある手頃な対象を怪獣として、子供は遊びのつもりだ。

 大人が見ても一見ただの遊びにしか見えないところが怖い。怪獣役になってしまった子の心痛は如何ばかりであろうか。怪獣役が次々変わってゆくならまだ問題はなかろうが固定されてしまっている場合、それぞれどんな大人になるのだろう。

 子供はテレビの真似をする。子供は大人の真似をする。何故ならばそれしか世界を知らないものだから、それを世界のルールと思ってしまうのだ。大人でも知らないことは出来ないのだから、子供であればその傾向は当然加速される。「知らないことに挑戦してやり遂げること」を学んだ大人など、その辺には歩いていないし、子供にそれを学ばせるのは難しい。つまり日常大人の親の兄の姉の言動の中にも「いじめ」の構図や話・愚痴が無意識に出てはいないだろうか。

 親は子の鑑となるべきである。子は親の鏡なのだから。山本夏彦の言葉だった。

年寄 03/11/18

 若者は馬鹿でよい。

 若者がもし馬鹿ではなく利口であったならばあらゆる面に於いて年寄に勝ち目がないことになる。その事に気付いていない年寄は若者並みの馬鹿であるし、気付いているならば若者が年相応の馬鹿であることを微笑みでもって眺めることになる。従って若者に対して「馬鹿ではいけない」と説教する年寄老人は自らの存在価値の立脚点をぐらぐら揺すぶっている事に気付いていないか、あるいは単に唯一勝っている点を誇示すべく稚気から来る優越感を顕にしているに過ぎない。

 長く生きただけのことをして尊敬を強要する儒教の思想は、あまりにも年寄に都合が良すぎる。どう考えても役に立たなくなった老ゆる者のあざとい知恵にしか思えないし、第一余裕がなくその日その日が精一杯の暮らしであった地域に残る姥捨ての風習が儒教の虚飾を剥ぎ取っているではないか。

 木材の上下の調べ方を年寄に教わり、「やはり老人の経験と知恵は捨ててはならない」とする話も確かにある。しかしその話が誕生するには、年寄を邪魔者扱いする思想があってこそなのだから、この話自体が「老人を大切にせよ」との意をあからさまに込めた年寄の知恵である可能性を否定出来ない。

 若者並みの体力を持った年寄が若者にとって畏怖すべき存在である以上、年寄並みの知恵を持つ若者もまた年寄にとっては脅威となるではないか。

 あくまで年寄と若者が対立していることを前提にしているが、年寄の説教癖は、年寄に限らず全ての説教は反発以外の何物も生まない。このマガジンが説教と受け取られないことを祈るが、このマガジンは「真顔で与太」が基本方針なのだが、少し不安なのだがとにかく、もし反発せず真剣に説教から何かを学ぼうとする若者ならば、年寄の優位を脅かすことになり、やがてそのまま年寄の敵となるのだ。また、経験とは重なるものではなく、重ねるものであり、ただ漫然と生きただけでは「生きている」以上の意味も価値もない。それは若者とて同じことだ。

 年寄は若者に説教する資格はない。また説教するべきではない。年寄は若者に負けないように知恵の限りを尽くして若者を叩きのめせばよいのだ。そこを掻い潜ること程若者の成長に相応しい方法はない。単純に若者が嫌いならばそのまま叩きのめせばよいだけであるし、真剣に「馬鹿ではいけない」と考えるならば、馬鹿ではいけないと説くよりも馬鹿であることを自ずから気付くよう仕向けるために叩きのめせばよいのだ。長い目で見てそれが最も人的資源の豊饒が約束されることにもなる。

 体力で勝てないから弁論で勝とうとして言い負かしの技術だけが達者になった生ける屍が「若者の癖に」と口走ってしまうとたちまち「年寄の癖に」と切り返されることになる。

 若者相手に憂さ晴らしなどせずに何か尊敬したくなるような事をして見せてくれ。「役に立たないから引退してくれ」と思わせる年寄など必要ないのだ。「昔は儂もそうだった」など若者に媚びずに「引退しないなら殺してやるぞ」と思わせるくらい元気な姿を見せてくれ。

 歪な人口構成である日本は高齢化社会への扉が開かれたにも関わらず、壮健の者が中核を担っていた時代の仕組みのままで崩壊への道を歩んでいる。世界が少子高齢化の実験国と位置付けているこの国は、この国の人間にとって失敗が許されないのだ。年寄を磨り減るまで使えばよいではないか。若者は年寄が一線にいることで「上がつかえている」と考えはせずに「こいつら早く往生させてやる」と奮起することが必要になるが、同世代に競争者が少ない若者が年寄を競争相手と見倣すことで生まれるであろう力を、手前は信じたい。


かぶれ 03/11/27

 ある閉鎖的な家がある。その中のある者が村へ出て、すっかり村の色に染まり、村で入手した嗜好品を見せびらかし、村で何をした、村で何を見た、村で何を聞いた、村で何を食べた、凄いだろう、比べてこの家は遅れていると村の言葉遣いで家の者を馬鹿にする。家の者は内心この村かぶれを軽蔑している。

 ある閉鎖的な村がある。その中のある者が町へ出て、すっかり町の色に染まり、町で入手した嗜好品を見せびらかし、町で何をした、町で何を見た、町で何を聞いた、町で何を食べた、凄いだろう、比べてこの村は遅れていると町の言葉遣いで村の者を馬鹿にする。村の者は内心この町かぶれを軽蔑している。

 ある閉鎖的な町がある。その中のある者が都市へ出て、すっかり都市の色に染まり、都市で入手した嗜好品を見せびらかし、都市で何をした、都市で何を見た、都市で何を聞いた、都市で何を食べた、凄いだろう、比べてこの町は遅れていると都市の言葉遣いで町の者を馬鹿にする。町の者は内心この都市かぶれを軽蔑している。

 ある閉鎖的な都市がある。その中のある者が東京へ出て、すっかり東京の色に染まり、東京で入手した嗜好品を見せびらかし、東京で何をした、東京で何を見た、東京で何を聞いた、東京で何を食べた、凄いだろう、比べてこの都市は遅れていると東京の言葉遣いで都市の者を馬鹿にする。都市の者は内心この東京かぶれを軽蔑している。

 ある閉鎖的な東京がある。その中のある者が西洋へ出て、すっかり西洋の色に染まり、西洋で入手した嗜好品を見せびらかし、西洋で何をした、西洋で何を見た、西洋で何を聞いた、西洋で何を食べた、凄いだろう、比べてこの東京は遅れていると西洋の言葉遣いで東京の者を馬鹿にする。東京の者は内心この西洋かぶれを軽蔑している。

 ある閉鎖的な西洋がある。その中のある者が村に来て、すっかり村の色に染まり、村で入手した嗜好品を見せびらかし、村で何をした、村で何を見た、村で何を聞いた、村で何を食べた、凄いだろう、比べてこの西洋は遅れていると西洋の言葉遣いで西洋の者と一緒に笑う。西洋の者は村にはかぶれない。


詐欺03/12/03

 詐欺なる言葉は響きが清冽でないせいかあまりよい印象を与えない。だからと言って安直な言い換えである「コン・ゲーム」「コン・マン」などの言葉は使いたくない。ではどう呼ぶのかとは詐欺及び詐欺師を擁護することになるので何か別の言葉を考えておくが、しかしどこまでが商行為でどこからが詐欺行為なのか、その線上で踊ることは誉められたことではないにしろ、とても魅力的であるからして、そこには様々な人が集う。金を巻き上げた相手が騙された事には気付かずに幸せであるならばそれでよいのだ。

 健康食品は正面切って「詐欺だ」とは言い難いことから色々不気味な物が出回っている。欲望と欲望がぶつかり合う時、金を握った方が勝ちになるから、つまり騙された者の自爆とも言える。実際のところ確かに健康になるであろう物質が含まれてはいても、そもそも人間の体は約半年で全ての細胞が入れ替わることになっているから、少なくとも半年の間は同じ事を繰り返さなければ体質の改善は望めない。そして健康食品の契約書は言う。指定期間は酒禁止煙草禁止夜更かし禁止早寝早起き食事は三食バランス良く適度な運動を毎日欠かさないようにと言う。左様な仙人の如き生活をしておれば勝手に健康になるから健康食品に頼る必要などないのであって、つまり健康食品に頼るのは不健康な生活の真っ只中です縋りつく為であるが故に、到底不可能な縛りを入れておくことで苦情を受け流すことが出来る仕組みなっている。もとより効果などあり得ない話なのだ。この契約書の生活方針を外れた場合、効果の程は保証しませんとなっているのは当然の措置である。詐欺屋が一度握った金を離す筈などないのだ。

 「幸運を呼ぶ石」などが怪しい雑誌の裏表紙に満載であるが、あれのからくりはこうだ。効果があると謳っている以上いささかなりとも期待して買う馬鹿がきっといる。当然の話だが「幸運を呼ぶ石」なるものが存在するならば金剛石よりも高く取引される筈だが、微妙に手頃な値段である事が多い。使用前写真「道路工事の人足をして燻っていた頃」使用後写真「札束風呂に入っている所」誰が信用するのか不思議であるが、誇大広告として訴えられずに存続している裏には、苦情対応マニュアルが存在する。返品可能と明記してあってもそれは当然の権利を恰もサービスの如く表示してあるに過ぎない。

 苦情電話の対応作法がある。まず苦情の受付電話番号はフックを外して通話中にしておくのが鉄則だ。どうしてもその電話を使う必要がある場合、一旦受話器を戻すわけだが、その瞬間に掛け続けていた間抜けと回線が開かれてしまうこともある。仕方がないから応対することになる。「幸運の石、ちっとも効果がないです」まずは相手の情報を聞き出してあちこちで引っ掛かり続けている鴨かどうかを見極める。相手が録音しているであろうことを前提の応対になるわけだが、我が方も録音している上に経験を積んでいるから言質を取らせない応対となる。「ただの石ころ」を購入してからのどの位経つか。クーリングオフが効かないならば問題ないが、ぎりぎり期限の場合はなんとしてでも引き伸ばす。それが無理なら買ってからの日々の生活を事細かに聞き出し、「それは幸運ですね。石の効果ですよ」これを繰り返すことになる。粘腰の苦情で「なにひとついい事がなかった」と言い張る相手には、「石がなければもっと不幸になっていましたよ。石のおかげで助かったのです」

 さて、理路整然と証拠立てて「金を返せ」と詰め寄られた場合の詐欺師諸君の言訳に於ける最後の切札はこうだ。

 「私は夢を売っているのです」


戦 04/01/05

 そもそも犯罪がなくなれば警察は必要ない存在となるのであって、同様に戦争がなければ軍隊も必要なくなる。ニュージーランドの軍隊がそのままレスキュー隊に生まれ変わったのは、あの地域で戦争の危険がなく、また将来に渡って戦争には参加しないとする意思表示でもあった。

 戦争の遂行をより効果的に行うべく成立した近代国家は、だから国家の存在と存続の為に戦争を繰り返さなければならず、従って戦争の無い世界とは寝言も真っ青の世迷言であって理想を理想をと叫ぶことの自由が保証されている場合に規制する術はないが、これは一種の害毒でもあるから冷徹に現実を見なければならない。

 戦争と戦争の間に平和があり、平和と平和の間に戦争がある。クラウゼヴィッツは戦争を論じる中で国家のあり方を遠く見ていた。マキャヴェリは君主を論じる中で戦争のあり方を遠く見ていた。戦争はやめられないし止まらない。戦争は政治の一種である。政治は戦争の一種である。人間が二人いれば喧嘩が起きて当然であるところ、その人間が集まって動かす国家と国家が喧嘩をしな筈が無い。

 狡兎死して走狗煮らると言う。常に兎を探す必要がある。兎がいなくなれば?飼い馴らした兎を繁殖させて放ち、それを狩ることになるだけだ。その構造は古今変わりがないから勝ち過ぎてはいけない。仮想敵の存在があってこそ戦争の遂行を効果的に行う国家の経営が楽になる。

 敵は本能寺にあると言われてそれを信じる無邪気な羊を選ぶのか。何故見えるものを見ようとしないのだ。


クローン 04/03/09

 クローン技術云々いう話がありますな。

 細胞からクローンを作る。毛からクローンを作る。唾液からクローンを作る。

 ほんならあれか?細胞あったらそれでええんか?今の技術力では生きてる細胞に限ることぐらいは想像つくけどな、もしかしたら将来は死んだ細胞からでもクローン作れるようになるかもわからん。そうなったらな、

「糞からクローン」

 どないですか。「はい!」て蓋開けたら色も香りもそのまま再現された「クローン糞」があったとかいうのは困るけどな、糞の中の使えそうなもん取り出して培養したら「糞から生まれたヒト」とか、ま、これは倫理的に洒落ならんけどそういう技術が出来るかもわからんとか考えたら怖いがな。迂闊に糞も出来へん。

 死んだ細胞を培養も何もないけどな、糞の中にはまだ死んでない奴おるかもしれん。今の段階で最も現実的な話としてはあれやな、血ぃからやったらクローン出来ると素人考えで思うわけよ。つまり「切痔の奴の糞からクローン」ならいけるやろとか。

 あるいは糞をそのまま培養して「クローン糞肥料」はどうか。大腸菌が培養されてしまう可能性がとても高いが、そこはひとつ化学兵器にも転用可能な技術としてだね、水にでも放り込めば敵の士気と塵紙を消耗させることが出来るね。貧者の生物兵器というか、ただの嫌がらせやけどな。

 そういえば小さいが有名な観光の里にある古い屋敷を活用した資料館の庭に井戸があってね、その井戸は封鎖されていたんだけど覗けば井戸水は見えるんよね。桶が引っ掛かって上がってこれへんようなってるだけで。その井戸の上に目立つ看板がありましたな。

「この井戸は水質検査の結果大腸菌が検出され・・・だから飲むなよ」

 すぐ隣、実にわざとらしく自動販売機が設置してありましたが、古屋敷の砂利庭に自販機という取り合わせは悲しい。しかもその商品列がまた微妙に古いのであって、これなら大腸菌の助けを借りなくても彼らの目的は達せられるのではないかと思ったことでした。

※タイトルを「下」から「クローン」に変更しました


把手 04/04/18

 自転車の把手の形は不審が多い。

 俗にカマキリと呼ばれている飛蝗の触覚に似た形の把手があるが、あれはどう考えても手首に優しくない。ブレーキの角度もまた自ら調整せねばならないのであって、結果として中学生あたりがハンドルの尻を天に向けた間抜けな自転車があったりする。

 そうでなくとも小文字のmだか3を寝かせた形だかの把手もあって、これまた手首に負担を強いる。腕の伸びた方向と手で握った棒が垂直になつているのが自然なのであって、腕の方向そのままの棒を掴んだ場合手首が小指側へ不自然に折れ曲がることになる。ある特殊な趣味の方はこの手の形に感興が沸くかもしれないが、普通は痛い。

 この手首の形で自転車の把手を握ると、自動的に肘が折り畳まれる。この折り畳まれ方もまた不自然なのであって、見た目のお行儀はよろしいが曲がる際に把手を回せば曲がるべき方向の反対の肘が伸びるだけであって、つまり姿勢はそのままだからバランスを崩しやすい。まさか曲がる際に速度を落とす為の仕掛けでもないと思うのだが、はっきり言って危険なのだ。肘を極端に開いていると体重が前に掛かり、急ブレーキでよろめく。

 何故T字形の把手にしないのか。原付を見てみたまえ。手首が変に折れ曲がる形の把手があるか。あんな形では危険極まりないのであって、最も操作し易い形の把手としてバイクでは手を伸ばす方向とほぼ垂直になっているのだ。わざわざ手首を痛める角度に改造してあるうるさい奴等も中にはいるが、あれはあれで事故に対する心構えが違うのだから検討には値しない。

 ロードレーサーの把手の形はどうか。腕と同じ方向に伸びる把手は使わないのだ。幾通りかの把手があり、わざわざ立ち漕ぎ用の把手を無理して握ることはないのだ。

 安全な、快適な、そして頑丈な自転車を作ってしまうと、ろくに事故が起こらず壊れもせず自転車の需要が落ち込むから操作し難く「ある程度転び易い」自転車を供給したくなる気持ちは判るが腹が立つ。急制動を掛けた際に把手とブレーキの握りからすっぽ抜けて前につんのめるより、掛かる体重を垂直になっている把手に掌を当てしっかり保持する方が遥かに安全なのだ。だからバイクは把手が垂直になっている。

 つまり。へろへろ走ってきたから立ち止まってやり過ごそうとしたのに把手をかくかく刻みながら耳の吊りあがる「きいいいいいいい」てな音立てた挙句にわざわざぶつかってきた馬鹿に怒っているのだ。


都市伝説 04/04/22

 ジャン・ハロルド・ブルンヴァン「くそっ!なんてこった 『エイズの世界へようこそ』はアメリカから来た都市伝説」新宿書房 行方均訳
 原題は「CURSES! BROILED AGAIN! The Hottest Urban Legends Going」Jan Harold Brunvand

 副題が長い。アメリカの民俗学者である著者の都市伝説に纏わるコラム集の翻訳で、既に何冊か出ているらしいので全て探索リストに追加の必要がある。なお、これは誰が読んでも楽しめる本として大いに推薦する。都市伝説の専門家である著者が様々な噂を収集して情報提供を呼びかけ、また噂の発信源へ辿りながら解説してゆく。都市伝説の特徴を分析し、流行り廃りや発祥地域を特定し、その上で都市伝説を紹介している。

 さて、都市伝説とは口承の言い伝えであり、忠告を含む教訓話としての作用があることから、民話が廃れた現代の新たなるフォークロアとしての役目を果たしている。過去の教訓を含んだ民話も元々は都市伝説・町伝説・村伝説であった可能性の高いことは、幾つかの都市伝説がはや古典的地位を獲得して語り継がれていることから察せられる。つまり現代のジョークがやがて昔話の民話となるのだ。これは今では民話とされている話が昔はただのジョークであった可能性を同時に示してもいる。それらのジョークの中から時間の篩にかけられて教訓を含んだものが多く残ることで、ジョークから民話へ昇華したのであろう。民話の中には間抜けな者を描写するくだりが多くあり、教訓を含んでいながら今でも笑い話として通用する超時代性を帯びた話が優れたストーリーとして言語の壁を越えて語り継がれ、そして現代に至り、また未来へも続く。

 現代の都市伝説は口承つまりジョークの交換から発生して磨き抜かれて教訓を含んだ民話として残ることになるのだが、これは電網技術の発展によりやがてチェーンメールから発生するものも出てくるだろう。

 ジョークは都市伝説となり、都市伝説は民話となる。これを逆に辿れば今伝わっている民話はもと都市伝説であり、もとジョークであったという可能性に気付かされたのだ。あらためてジョークと都市伝説と民話の相対的な位置付けをするきっかけとなった。

 当然のことだが、中には実話もあるだろう。しかしそれが教訓を含んでいるならばやはり後世に語り継がれてゆくことになる。

 知らない人に一応「エイズの世界へようこそ」とは。名も知らぬ女と一夜の火遊びの後、朝起きると女が居らず、洗面所に行くと鏡に口紅で「エイズの世界へようこそ!」と書いてあったという話のことだ。相当昔に小林信彦がアメリカの都市伝説だと断じていたからこれは知っていた。署名がキルロイなら面白いんだがね。それでもやっぱ怖いわな。


酔論 04/04/26

 男と女は脳の仕組みが違うので方向音痴がどうとか空間認識がどうとか言う話は、はっきりしたことが誰にも判らないものだから適度に抑制された時間潰しとして使われるが、本気になる者がいた場合、場は凍りつく。

 空間認識能力は男より女が劣っているという主張があって、「限りなく部屋の模様替えを繰り返すこと」は空間認識能力の欠如に拠るのか空間認識能力が過剰に発揮された故のことであるか不明なのだが、まあそれは巣の中のことであるから別、と仮定して、道に迷い易いのは何も女に限ったことではないのにそういうことになっている。

 目印の覚え方として建物を覚える雄と建物の装飾及び商品陳列棚の中を覚える雌に分類する方法があり、これは雄の考えた説と思われる。また体内磁石は雄のほうが活発に作用するので雄の方が道には迷い難いが、体内磁石を使えるのはつまり雄が原始的であり、迷子になり易くなった雌がより文明化されている証拠だという、これは雌の考えたらしい説もある。

 雄が原始的であることには同意してもよいが、その理由を体内磁石に求められた場合、わしらは鳩かと言いたくなるのであって、思わず鼠色が群れているあたりも似ていると考えてしまうと次の矢で急所を射貫かれる。すなわち「本能で行動するでしょ」

 道に迷う雄の存在はどうなるのかと言えば、体内磁石をまだ持っていない進化を忘れた奴ということになるらしく、体内磁石がないなら女と同じではないかと問えば、雌も体内磁石を使った時期はあったが雄をうまく制御操縦した結果、雌には必要ないので封印されたとしてかなり強引ではあるが反撃出来ないうちに丸め込まれた。

 文明の発達が「如何にものぐさになれるか」で測られる場合、確かに巣作り本能の方が上を行っているように見える。かつてロボットが働いて人間は何もしなくてよいという夢の未来構図があったわけだが、よくよく考えるとこれ、主婦なる人々は一足先にその夢を達成しているのではないか。ならば結婚した男は産業用ロボットとどう違うのか。ねえもしかして仕事=雄とは働きたくない雌が巧妙に作り上げた幻の文明ではないかと思ったら負けですか。雄としてこの機構をぶち壊すために雌雄同権を精一杯主張することが必要になると思うのだがどうですか。


茹で蛙 04/05/01

 「蛙を鍋に放り込んで煮立てると逃げるタイミングを掴めないまま茹だってしまう」という話がある。

 微温湯に浸かっていたら次第に温度が上がっても気付かずそのまま一丁あがりとなるから「微温湯からは勇気を持って飛び出せ」という教訓を含んだお話であり、その志は良しとするが、蛙は本当にそのまま茹で上がるのか。誰か試してみたか?

 「医学都市伝説」というサイトの中に「それは有り得ない」とする文章を見つけて、あの話の胡散臭さに辟易している人が他にもいることを知って嬉しい。 そのサイトを運営している坂木俊公氏によれば、蛙は変温動物なので温度の変化に敏感だから無抵抗に茹で上がる筈はないとするものだ。納得するではないか。

 さて、では何故蛙の茹で上がることが事実として一人歩きしているのか。

 これは恐らく誰かが実際に蛙を鍋にでも入れてゆっくりじわじわ温度を上げてゆき、本当に茹で上がってしまったからだと考える。しかしそれは温度の変化を感じずに気付けば茹で上がってしまったわけではない筈だ。この実験はいわゆるイカサマだと思うのだ。

 蛙は熱ければ跳んで脱出しようとするが、「鍋の縁が高くて跳んでも届かず逃げるに逃げられないので無念ながら茹で上がる」ような実験を、さも蛙は鈍感であるかのような証明としたのではないか。また、蛙は歩くことも出来るし雨の日に垂直なる壁にへばりついている事があり、これはすなわち垂直の壁を登る技術を有していることを意味する。だから鍋の内側を登って逃げればよいではないかとの反論が待っている可能性が高い。しかし沸かされる鍋というものは、水を熱する為の伝導体として機能しているのであって、登ろうにも鍋が熱くて登れないから脱出出来ず煮えてしまうことは明白だ。

 これは温度変化に気付かない馬鹿を想定したお話であるとするには強引過ぎるのだ。むしろ逃道を絶たれ苦しみながらじわじわ煮殺される拷問と呼ぶ方が相応しい。林正明氏が屋外で天麩羅を揚げている際そこにいた蛙を煮え立つ油の中に投入すると「二・三回平泳ぎして後に体が伸び切り、からりと揚がった」そうだが、これは少し違うかもしれない。

 「鍋から脱出しようとしない(出来ない)ことを反省しろ」ではなく「鍋の中に投じられてしまった事を反省しろ」というのは余りな皮肉に思えるが、しかしそれならば一応筋は通っているので、この先「茹で蛙」を口にする者がいた時は、己では何も考えず受け売りだけで日々を過ごしている間抜けであると認定してよい。


差別 04/05/02

 残念ながら差別は絶対になくならない。

 そもそも何故皆が皆同じでなければならないのか。同じでなければならないとする考え方何時何処で誰に吹き込まれたのか。ねえ貴方、完全に同一思考回路・同一部品を以って作動するロボットの群れを想像出来ますか。そこに差別はないかもしれないが、同時にそこには人間性もない。またロボットであったとしても僅かな部品の違いや故障などが差別の対象となる可能性を否定出来るかね。

 例えば何かの製造工場で不良品を外く作業は不良品に対する差別ではないのかい?人を不良品として外くように扱うことは止めるべきだという考え方は淘汰の思想と真っ向から対立するものだ。人の命を軽視するわけではないが、植林や園芸の世界で間引きを行うことはより頑丈な固体を育てる為と理解していながらも、それを人に応用しないのは悪平等に毒されているのではないか。

 戦後日本に於ける不自然なまでの横並び教育が生んだ弊害は全体の矮小化を促進した。その結果僅かな異能の者とそれ以外の者とに隔てられ、弾力性を失った日本に失望して世界に飛び出す者が増えた。人の心の牙を抜くロボトミー教育を甘受するのも情けない話なのだが、牙を抜く教育をすることで抜かれまいと必死で抵抗する者だけが高みへ飛び出すことになる。これは早い話が新入社員を大量に採用して扱き、残った者が戦力となるやり方と同じことになる。どこかの会社を辞めてもまた別のどこかがあればよいし、無理を言わなければどうにかなるものだ。しかし教育の初期段階で牙を抜かれて行き場を無くした者はその後どうなるか。

 淘汰の思想を拒否して横並びの思想を選択した結果、横並びの者を淘汰することになってしまうのではないかと思うのだ。淘汰の思想とは多様性があってこそ活きるものであるから、もしこの先多様性を認める社会を目指すならば、淘汰の思想を受け入れざるを得ないのだ。多様性を拒否して完全なる横並びの社会を目指すならば、そこは個性を圧殺する恐るべき全体主義の闇だ。

 また多数決とは、一見民主主義に思えるが、実は民主主義ではなく少数派を封ずる全体主義なのであって、全体主義とは横並びであるから前や後ろに列を乱した者が虐げられる。

 民主主義も社会主義も多様化社会も横並び社会もどんな世界だって差別がなくなることはない。差別止めますか、人間止めますか。違う。差別を止めて人間止めますか。差別の存在を認めて人間であり続けますか。

 「差別をされる側の気持ちになってみろ」冗談言うな。我々は皆誰かを差別しつつ、皆誰かに差別されながら生きているんだ。差別されることが嫌ならば差別する側の世界へ登るか、安易に差別出来る世界に逃げればいいさ。「その場に踏み止まって戦う」とは威勢がよいが、それは単に貴方が成長しないだけじゃないのか。


渓流釣り 04/05/15

 「渓流釣りの構造」なる話が纏まったから聞いてくれたまえ。

 渓流釣りとは文字通り渓流で釣りをすることだ。狙う対象は岩魚であろうが何であろうがここでは関係がない。

 渓流釣りの基本としてあるいはこつとして、出来るだけ人の踏み込まない沢と呼ばれる細い流れを探して遡る必要があるわけだ。既に誰かが入った沢に踏み込まないのは、暗黙の了解でもあるが、もし入っても追い越さない、あるいは先行者の心が拡ければ協定を結んで交互に遡ってゆくことも可能であるが、まずは冷やかに険悪な空気が流れる。

 その日まだ人の入っていない沢だと魚の警戒心もまだ緩いので吊り上げる確率が高くなる。既に人が入っていると難しくなる。どうすれば釣れるか。人より先に沢に入る。人の入った沢を強引に進んで追い越す。人の入った沢を避けて別の沢に入る。

 しかし最も有効なのは、今まで誰も入ったことのない処女沢であって、もしこれを見つけることが出来たならばそこの魚は殆ど入喰いで根こそぎ浚うことも可能だ。

 中には七面倒なことをせずただ養殖放流された魚を相手にするだけの腰抜け釣り師もいる。ある程度の釣果が期待出来るならば、その質は問わないというわけだ。

 魚を消費者、釣り師を仕掛け人、沢を市場と考えたならば理解出来るかね。

 「隙間産業を見つけろ」「新規需要を掘り起こせ」「銭の匂いを嗅ぎつけろ」といった言葉を高尚な表現で煙に巻き、根拠のない無意味な威厳を漂わせたい時には、この話を思い出してくれたまえ。それから君が養殖された魚ではないことを祈るよ。


催眠術 04/06/12

 催眠術を心底から信じるには抵抗がある。

 一定の条件下に於いて施される場合に多少の効き目があることは認めても、催眠術が万能でないことは少し考えれば判ることだ。記憶の書き換えはよくあることで、これは催眠術に関わらずとも自ら勝手にしているのだからそれは措く。

 荒唐無稽な話に頻出する催眠術では、ある言葉を聞くと目の前の人を殺しそうになり、失敗すると失神し目が覚めると何も覚えていないわけだが、それほどの効果があるならば刑務所なんて必要ない。罪人に対し「法律を熟読暗記して遵守せよ」と植え付けるだけでよいではないか。それは極端としても催眠術が劇的に機能するものであれば、直ちに酒でも煙草でもお薬でも止めさせることが出来て当然ではないか。

 無意識に「止めたい」と願っている者に対して止めるように施すのは難しいことではあるまい。例えばもっと単純に、無意識ではなく意識的に痩せたいと願う者に対して「貴方は間食をせず適正な食事を摂り規則正しい生活をして段々痩せる」と植え付ければ、やがては理想の体型で極めて健康と相成るべきである。

 お薬や犯罪をしたくない、酒や煙草を止めたい、痩せたいなどの願いを持つ人の数を総計すれば人口以上の数値が出る筈で、それを勘案すれば催眠術を糧とする者は、仮に催眠術が劇的に効果を上げるならば大層な権威となり札束を幾らでも積み上げることが出来よう。

 ところが現実は自己暗示を装った似非宗教の洗脳教室が氾濫するばかり、彼等の存在もまた催眠術に対する胡乱な思いを助長している。

 自己啓発を謳っておきながら何かを頼らねばならないように誘導するのは依存心を利用した巧妙な罠であることを知り、その上で自己暗示を効果的に使うことが出来るならばそれに越したことはないが、それは外から施されるものではなくて、内から施すべきなのだ。


均衡 04/07/04

 ねえ。順番を間違えているよ。

 いいかい。食物連鎖、自然の奇跡、宇宙の神秘、これらを見て余りにも完璧であるが故に神が創ったなどと宣うのはだね、冗談ならともかく真剣に言えば言うほどカルトでございますよ。

 太陽の自転、太陽系の惑星の順番、地球の絶妙な位置、月の満ち欠け、それらが完璧であることは不自然だから神が創ったとは虫が良過ぎる。これは単に都合の悪い物事を見ないようにしている視野狭窄者の言葉なのですよ。

 食物連鎖を例に見ようか。ピラミッドの一角一部を占める種々の生物が精妙巧緻な組み合わせで均衡を保っているのは決して偶然ではないと思いたいのですか。その均衡を奇跡的と考えるから間違っている。

 もう少し判り易い例を見よう。非常に単純な天秤があるとする。天秤のそれぞれの皿には重さがばらばらの石片が沢山載せられている。さて今はどちらかに傾いていて、この天秤の均衡をとる為には何をどうすべきか。下がっている方の皿から石を取り除きますね。どんどん除くうちにやがて釣り合いが取れそうな所にくる。しかし重さがばらばらだから難しい。凡その釣り合いが取れたところで小さな石で微調整に入る。こっちを除いて、そっちを除いて、ついに貴方は完璧な釣り合いの取れた天秤を目の当たりにする。

 それは最初から完璧だったわけではない。釣り合いを取る為に除外され忘れられた小石の山が天秤の外へ放り出されたからこそ、天秤の均衡が発現する。それを完璧と見做すならば、天秤の皿に乗ることを許されずに棄てられた小石達の存在を無視するものだ。

 食物連鎖の中に組み込まれず消えた種、一時的に増え過ぎて自滅した種、繁殖する為の数を確保する前に滅ぼされた種、それらを排除して成り立つピラミッドを完璧と呼ぶのか。かつて生まれたばかりの地球には月の他にも惑星があっかもしれない。しかし地球や月に吸引され或いは弾き飛ばされ、淘汰された挙句に成り立つ均衡を神が創ったとは笑止千万、確かに均衡が完璧に近いことは認めるが、それは意図的なものではなくて結果に過ぎない。

 完璧な調和が神の存在を暗示しているとは無体なこと、完璧な調和に辿り着くまでに如何ほどの犠牲があったのか、そこに目を向けずに隣人を云々とは素晴らしい理屈だ。一手違って地球が太陽に近ければ灼熱の大地に生命は焼かれて我々は存在していない。それは神が地球を程よい所に位置させて生命を発生させたわけではなくて、生命が発生する環境にあったのが偶々地球だっただけの話だ。

 均衡に組み込まれることのなかった生物に、種に、要因に、星に、想いを馳せることはないのかい?均衡の中にいて、均衡した世界だけが完璧で、均衡に組み込まれなかった者達は歪で不完全で調和の為には足蹴にしてもよいのかい?またそれらがピラミッドに喰い込んできた際は均衡を乱す存在として排除するのかい?

 それは次の均衡が成立するまでの揺籃であって万物万事は常に過渡期なのだ。そのうち一瞬に存在しているだけの者がどの口こいて完璧な調和だこの糞馬鹿。「偶然の結果」を「必然である」と主張するカルトを攻撃したことには心からの賛辞を奉るが、その刃は己自身にも向けてみよ。淘汰された存在を認めた上で成り立つ均衡の幻想を問い直してみよ。真に慈悲深く優しい心があるならば、排除の思想を持ち得ない筈だろう?


正 04/08/12

 正しいだけではどうにもならない。

 正しさを貫く為に正しくない選択を強いられる状況に於いて、大目標の正しさを選ぶか、それとも目の前の意地を選ぶのか。大目標が達成されなかった場合に用意している正しさとはただの言訳に過ぎない。

 正しくなくても大目標を達成したならば、後に正当化されることを考えると、正しさとは何かが曖昧になってくる。

 正義で飯が喰えるなら皆々正義に走っている。正義には限界があるから見切るのであり、正義を捨てた先にある達成すべき目標を達成したらそれが正義となる矛盾の中で戸惑い、彷徨い、藪の中で煩悶することを繰り返して正しさの歴史が創られてきたのだ。

 正義は本当に勝てるか?一時的ではなくて永続的に勝てると思うか?正義にあるのは達成と再認、そして養護だ。それ以外の全ては正しさの埒外に置かれていながらも手段として目的として動機として結果的に正当化されてしまう。

 正当化された後にはまた新たなる秩序と正しさが構築されて、歴史が一枚進むのだ。正しさだけを声高に主張するのは無力を認めたくないが為の言訳ではないか。仮に正しさを貫く事が大目標であるならば、それが正義の茨で飾られていようとも踏み越えてゆく価値はあるだろう。

 曖昧なる正義に手足を縛られて身動きも適わない状態にいることは苦しい。そこから抜け出す為には正義の衣を脱ぎ捨ててみるがよい。大目標への新たなる一筋の道が伸びているならば、迷うことなく踏み込めばよい。必要なのは正しさではなくてやり方だろ?


世代論・五輪 04/08/21

 世代論は五輪にも応用可能だ。

 ただし五輪の場合、周期が四年ではあるが、また冬季と夏季の交叉を考慮するならば二年に一度となるのだが、通常の世代論が二十年周期であるのに比して五輪の場合は十二年周期となる。

 これは五輪の報道や中継を見て、感銘を受けて同じ競技を志す若き者の、その端緒から研鑚を経て世界舞台に踊り出るまでの期間がおよそ十二年であることが最大の理由だ。大きな話題を呼んだ競技に於いてメダルを獲得した場合、その直後に該当競技に入門する人数の増大は考えるまでもないことで、裾野が拡がれば最下層の質の低下をも招くが、しかしその裏返しとして隠れていた才能が一斉に芽を吹く。仮に才能なしと周囲や本人が判断した場合はその競技から離れるわけだが、才能ありと認められた場合はどこまでも登りゆく可能性がある。

 何かのスポーツを始めて、それが世界に通用するほどの能力を発揮するならば、あまりに遅い入門はやはり障害となる。幼少時から特別な訓練を施された場合は世代など関係なく強いものだが、やはりきっかけとして中継や報道を見た本人や親が望み、そして入門するのは小学生の高学年あたりで、そこから八年では短かく十六年では長く、丁度年齢と能力が最大限に開放されるのが小学校高学年から十二年後の二十代前半というわけだ。

 バルセロナで水泳に感銘を受けた世代が今花開いていることは、だから当然でもある。ただし次の冬季トリノでは、アルベールビルより長野の印象が強い可能性もある。わずか八年であるが、当時の小学生や中学生がメダルの興奮をそのままに同じ競技を始めたと想定すれば、モーグルの競技人口が一気に増え、その後飽きたり才能を見切ったりして脱落した者を横目に、残った才能ある者は、裾野がそれまでより拡かった分頂上もより高くなったことだろう。ひとつの時代の熱狂が、次の世代に確実に繋がっているところは、それぞれの競技者がきっかけを「いつか見た五輪」に持ってゆくことの多さが証明となる。

 ならば北京ではどの競技で才能が結晶するのか。それには北京の十二年前であるアトランタを振り返ればよい。アトランタで日本が獲得したメダルは金3銀6銅5、金はいずれも柔道であるから、これはあまり関係がない。柔道は伝統的に強いのであって、入門者の数は劇的に減りはしないが劇的に増えるわけでもない。今回のギリシアを観て十二年後が少し楽しみに思うことも事実なのだが、とりあえず北京でも相変わらず柔道王国の名を維持するだろう。アトランタ銀の柔道四つを除いた残り二つはヨットと野球であり、この効果は少々薄いように見える。むしろ女子マラソン銅の有森を見て陸上競技を志したであろう当時の小学生あたりが、北京では二十代前半となっている筈で、そこに大いなる期待の可能性を見る。


依存 04/08/28

 何物にも依存せずにいることは可能であるか。

 酒・煙草・薬などの依存性の強い物質的な対象に依存したり、宗教や職業詐欺師への心理的な依存、思い出や届かない夢への依存、何故か病と認定されている買物や賭博への依存症ならば、誰が見てもそれは依存であると確認される。

 しかし己を強く律する者がいて、表から裏まで総て隈なく調べあげた上で、「こいつが依存している物はない」と言い切れるものだろうか。孤高に絶した者がいるだろうか。残念ながらその場合は、「何物にも依存しない自分」に依存しているのであって、つまり人皆必ず何かに依存しているわけだ。

 依存とは「何かに頼って成立・存在すること」であり、人がそれぞれ成立・存在する為には頼るべき何かを見つけなければならない。仮に一切を頼ることがなければ成立せず存在していないことになる。何に依存するのか、それを己の外に求めて宗教に縋るか、己の内に求めて自らの自信や誇りに依存するか、また別の誰かに依存するか、それは各人各様であり、強制されるものではないし強制するものでもない。

 己にさえも依存せずにいられる可能性はどうか。一切を捨てて修行して悟のどうのと囀る者は、己には依存していないようだが、辿り着いた境地に依存している。そこへ辿り着いた自分に依存している。

 あらゆるすべてから脱することは出来ないものか。真に強くある為には必ず何かへ強く依存しなければならないとは皮肉なものだ。


儘 04/09/02

 体格を見て、「太っているからおおらかな奴」、「痩せているから無神経な奴」とする考え方は正当なものだろうか。

 それは個々の気質に因るから完全な出鱈目であると断言したくなるのだが、少し踏み止まって考えてみよう。

 何故太るかと言えば消費を上回る勢いで養分の摂取に努めているからである。消費されなかった養分を蓄積することで危機に備えているようにも見えるが、備えた結果が危機を招く不具合を解消する術はまだ発見されていない。つまり喰い過ぎるから太るのであり、では何故喰い過ぎるのかといえば、太るかどうかなど気にしないおおらかな奴であるからだ。喰うことにかけて妥協をしない人とも言えるが、食欲を抑えられない我儘な人とも言える。

 一方痩せるのは必要な養分を常に不足させているか完璧なる咀嚼を求めし者か単に貧乏であるか、主義として痩せているならば完璧主義者であるし、不本意な結果として痩せているならば満たされない思いを抱いている。完璧主義者は自らの体格を完璧に操縦することで満足を得られても、他の思い通りにならない事に対して不満を滾らせた結果、怒りっぽくて神経質・我儘な奴と認定される。満たされぬものがあればあるほど欲求は大きくこれも我儘と言える。

 太りすぎではなく痩せすぎでもない、均衡のとれた体格の人は太りたくもない痩せたくもない我儘な人で、特別何もせずに太りも痩せもしない人は太るためにも痩せるためにも一切の気を使わず気侭に生きているからやはり我儘な人となる。

 太っているからおおらかなのではなく、おおらかである結果太るのであり、痩せているから神経質なのではなく、神経質である結果痩せるのである。


光点 04/10/08

 曇った夕暮時にぼんやり空を眺めていたら、光が動いていた。

 そして「ははあ。特殊な人々はあれを見てUFOであると断定するのだな」と理解した。この時に与えられた状況は、

一、曇天である
一、夕方である
一、光である
一、動いている

 であった。曇天下に於いて一番星より遥かに強い光点が動いていたわけだ。これを忽ち「UFOだ」だと断定しないのは手前が全ての物事に懐疑主義的立場にあることも理由の一つだが、単にUFOなど信じていないからでもある。「目撃したことがないから信じない」という絶対的な信念を元に存在を否定してきたこれまでの立場から、それらしきものを不覚にも目撃してしまったことでその不信の理由を捨てなければならず、しかしながら相変わらず信じないことを貫くには新たな理由が必要となる。しばらくすると上の状況に追加するべき状況が増える。

一、飛行機雲を引いている

 それは簡単だった。何しろその光点は飛行機雲を引いていた。最初に動く光点を目撃して十秒も経たないうちに排出された飛行機雲を見た瞬間全てが納得ゆく形で理解された。つまり、強い光とは、飛行機の機体が太陽を反射しているに過ぎず、「目撃した地点」と「太陽」と「通過していた飛行機の位置」がたまたま強い光点だけが見えるような位置関係にあっただけで、何しろ飛行機なのだから動いて当然であり、挙句飛行機雲を排出してしまっては確認された飛行物体となり果てる。三十秒程眺めていたが手前は絶好の位置関係に居たらしくて機体は見えずに強い光点がゆっくり動くだけであった。

 青空の下では飛行機雲はより鮮明に見えるだろうから、例え機体の見えないほど強い光点であろうともUFOなどと口走るわけにはいかない。飛行機雲が見え難くなる為には曇天が都合よい。また機体に太陽が反射して光となる為には機体の塗装状況にも因るだろうが、基本的に反射し易い色の航空機がよろしい。また沈みかけた太陽がその光を生み出す為に寄与してることも確実だ。更に、あまりに速い移動ではやはり飛行機であると判断されるから、目撃者はなるべく斜め後ろ方向から眺める位置にあることが望ましい。すれば「光がゆっくり動きながら少しづつ小さくなり消えていった」という証言が導き出せる。「光が消えたり点いたり」とは機体の角度を動かして進路を変えようとしていただけに過ぎず、「数秒間だけ目撃した」のは遠くて目視出来ず音も聞こえずその数秒間だけ反射する光が見える位置にたまたま居ただけである。

 つまり言いたいのは、飛行場の近くで夕方、滑走路と沈む太陽の位置を計算した上で機体に反射した光が見えるだろう位置に陣取れば、一週間程度でそれらしく見える「動く光点」を確実に映像に収められるに違いないことだ。世のUFO信者にあってはUFO風のものを狙って撮影可能であると知られると困るだろうね。それとも喜ぶのかな?


混乱 04/10/20

 目の前にいる人間の話を最後まで聞かないような奴が如何にして有権者の声を聞くというのか。

 本来広義の有権者と解釈される人々の声は届かないものであり、狭義の有権者としては「金」「コネクション」「票」等の力を持つ者のみを指す。力のない者は力を得るべく運動するか諦めるしかない。票とは個人の票ではなく計算可能な数の票であり、幾つか纏めて事務所へ売りに行く選挙業者の場合は単に金が目当てであるが、これが大きな偏向集団であれば即ち有権者となる。従って「有権者の声を聞く」とは単なる共同幻想であり、投票行動とは偽りの民主主義を盲信する為の儀式に過ぎない。

 民主主義の尺度として政党の多様性と投票行動の多寡で図ることが可能であると言ったのはトフラーだが、政治など突き詰めたところは「する・しない」の二択であって、そこまでの方法論が事態の混乱を粉飾しているだけ、ただしその粉飾に利権や欲望が渦巻くから複雑に見える。政党の多様性は選択肢の多さを示すが、選択肢の多さはつまり対立軸が増えることを意味し混乱を助長している。投票行動の多さについては各種軍事政権の信用ならざる投票率を例外とするならば、行動の多さは選挙への関心だけを示しているに過ぎない。指示する主張を掲げる政党の敗北が続けばやがて投票率は下がる。政党の敗北は政党数が多いほど増えるのであり、政党の多様性と投票行動は長期的に見て並立し得ない。そして偶然並立したかに見える時期には、民主主義などと口走っていられない状況が基盤となっている事が多い。

 秩序整然と統制された状況に民意が反映されている事例は見出し難く、つまり混乱こそが民主主義の本質であり正常な姿であるということか。


本質と現象 04/11/03

 本質と現象だ。

 判った。ようやく本質と現象が腑に落ちた。説明に苦慮していた数ある疑問や難所があらかたこれで片付く。

 この対比はビアスだったか「本質-現象」ならば、「喜劇-笑劇」「純文学-大衆文学」「ロングセラー-ベストセラー」「言葉の笑い-動きの笑い」すべてが収まるところへ収まってゆく。

 本質とは物事の基本を貫く骨のようなもので、現象とは具体的な事物の観察から得られるものだ。「男と女の相互理解は不可能」が本質で、「夫婦喧嘩」が現象となる。しかしながら本質だけを相手にしたくとも、また現象だけを相手にしたくとも、本質を導く為には現象を重ねればならず、現象を導く為には本質から引き出さねばならず、純粋に本質に迫れば迫るほど現象の比重が高まり、純粋に現象に迫れば迫るほど本質の比重が高まる背反が癪だが、それもまた本質なのだろう。

 現象と本質の均衡調整が自在になることが理想であるが、調整など到底達成出来るような事ではなく、あくまでも結果を見て理想に近いかどうかを確認するだけであることに歯痒さを滾らせつつ、現象と本質が融合して均衡を保持している物語の形式は何かと考えてひとつひとつ消してゆき、最後に残ったのは神話だった。文字以前の口伝は余計な贅肉が殺ぎ落とされているから奇跡的な均衡を保ち得たのだろう。文字として残れば現象から本質を見出そうとしたり、本質を見極めて類似の現象を想起するような行為が減るのは、文字の持つ負の力に因るものだ。

 文章の場合長くても短くてもそれぞれに本質と現象が表裏となっていて、どちらを表とするかは書き手の意向に反映されるし読み手の読解方法にも左右される。それもまた本質だ。現象は口汚い罵倒合戦が代表的であるが、この軸を得て物事を今一度確認すべき必要があるようだ。

 そして短い文章であればあるほど本質と現象の違いが明瞭に浮かぶ。となると川柳か箴言を通過することが多少なりとも均衡の参考になるのかもしれない。


愛 04/11/29

 愛とは何か。

 それが明確に理解出来るならば誰も苦労はしないわけで、有史以来文字の形で様々に紛糾してきた。明確な言葉で定義されたことがなく、この先も合理的に説明されないだろう「愛」とは一体何であるのか。

 狭義の愛は性欲を飾る言葉として使われるが、広義の愛は「慈しみ思い遣るあたりの心である」と焦点を甘く取って解釈の可能性が拡げられているのであって、明快な定義が不可能であることを間接的に告げている。そして一般論としての愛は溢れ返っている上で言い尽くされた挙句の結論として「人それぞれ」という便利な言葉で片付けられるのであり、数世紀を経て未だ合意されていない設問が解ける筈などない。

 ある何かに対しての愛と限定されるならば、その対象に尽くすことが具体的な愛の表現と考えられる。ただし「尽くすこと」の意味を自己犠牲と考えるか滅私奉公と考えるか、そこが愛と憎しみの分岐点であり、考え方次第で愛の指し示す範囲が伸縮することを示している。

 では再び、愛とは何か。普段は見たり聞いたり感じたりは出来ないが、文字通りの危機的状況に於いて意識無意識に関わらず何かを思ったり行動したりする対象が最も大切なものであり、そこに愛があると考えればよいのではないか。

 しかしながら始終危機的状況を仕組んでおいて常に愛の存在を確かめようとする傍迷惑な性格の人は愛されることが少ないわけで、無理に確かめようとして壊れる程度ならば贋物であるが、無理に確かめようとする行為に愛はないだろうと思える。では如何にして確かめればよいのかが問題になるが、確かめねばならない必然性は本当にあるのだろうか。

 必然性はない。ただし真実の愛を確かめる手段がいつまでも探せずにいるならば、愛とは何かをいつまでも悩み続けることになる。面倒だから「それも含めて愛なのさ」と言いたくなるが、それで誤魔化せる相手ならそもそも悩んだりはしない。その場合たとえ確かめる術を持たなくとも大切に思う心を持っているなら愛を捜す必要はなく、そして大切に思う心が感じられない場合そこに愛はないと考えればよいのだ。

 ただ手前の個人的な考えでは、対象や目的に関わらず「献身」がそのまま愛と呼んで差し支えないのではと思う。






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