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勧誘電話
電話の切り方
電話箱
先生
電話を切る時
電話転送地獄
ダイアル
ベル
受話器
捩れる
利便
連絡手段
同時通話


振り絞った勇気は留守番電話に打ち砕かれて

鳴らない電話を持て余していた

勧誘電話 03/02/27

 伝説の徒花、「ポケットベル」が全盛期の頃の話だ。

 時は携帯前夜、手前は一人暮らしで自分の電話回線を持っていたからポケットベルは必要なかったが、自宅から通っている友人は皆所持していた。ごく初期、まだ「8451」で「はよ来い」などと半ば暗号状態でやり取りしていたらしい頃、自分の名前の打ち方だけを教えて貰い、それを打ち込んで向こうから掛けて貰うようにしていた。当然、名前でなくて電話番号をそのまま打ち込めばそれを見てその番号に掛けることになる。

  あるとき、名前を仮に沢口としておくが、沢口が妙に焦った顔で部室に入って来た。彼のポケットベルに着信があり、見覚えのある番号ではなかったものの、市外局番から考えて友人の自宅だろうと気楽に思い、その番号に掛けてみたところ、

「 はい ○○組本部 」

 随分ドスが利いていたそうな。余りにも有名で市外局番さえここに書けないあの団体の本部に繋がってしまったらしく、しかし、それは友人の悪戯であろうと思って

「はあ?何言うてんねん。あのなあ、この前の話やけど・・・」

「 誰や お前 」

 しばらくそのままのやりとりが続いたらしい。しかし、徐々に相手の巻舌が加速してきたのを感じ、もしかするとこれは本物かもしれないと思い至った瞬間「しゅみませんでした」と言ってそっと受話器を置いた。何だったのか判らないままポケットベルを確認すると、いつのまにか新しい番号が着信していて、それは見慣れた番号であったからまずこっちから片付けようと掛けてみれば、その友人曰く

「どおよ。掛けた?○○組。繋がったやろ?」

 危険すぎる悪戯であった。しかもこれは悪戯電話を「掛けさせる」という手の込んだやり方で、それを聞いて手前は笑うよりも先に「そういう手もあるのか」と感心していた。見せてもらったポケットベルの番号は一度唱えると覚えてしまったぐらい単純な番号で、妙に現実味を帯びていた。

 手前は当時下宿しながら大学に通っており、自分の電話を持つことは便利でもあったが、同時にそれはあらゆる勧誘電話が掛かってくることをも意味していた。

 そして英会話の勧誘電話もまた何度も何度も掛かってくる。それまではただ鬱陶しいとしか思っていなかったのに、これほど勧誘電話を待ち望んだことは後にも先にもこの時だけだ。こちらに話す隙を与えず一方的にまくしたてるお姐ちゃんにこの日は長く付き合ってあげて、最後に冷たく断ると「じゃあさ、英会話の勉強したいお友達とか居る?」ここだ。あの番号だ。

「うんうんうんうん。おるおるおる。そういえば海外に行くことになるかもしれんから英語勉強してみたい言うてたツレおるよ。○○君。電話番号教えよか?○○君の実家の番号やけど?」

 かなり不自然な対応ではあった。しかし教えたくて堪らないものだから勢いだけで進んだ。

「うん。じゃあ教えて」

 教えた。これが確か大学一年の頃だ。そしてそれ以降何故か勧誘の電話は何一つ掛かってこなくなった。勧誘する側のリストに何らかの印がつけられたのだと思う。

 そしてまた引越の後に勧誘電話が掛かってきた。もう危険すぎる悪戯はしない。が、当然人間とは学習する動物である。手前は人間である。故に学習している。

「あーそういえば友達がそういうのに興味を」

 消費者苦情受付センターの番号を教えた。また掛かってこなくなった。


電話の切り方 03/03/02

 受話器の置き方ひとつで電話相手の印象が変わったりするのはもう昔の話になるのだろうか。携帯電話が爆発的に普及して指先の一押しで躊躇なく素早く切れるようになって以来、あの電話を切る時の躊躇いと後ろめたさを含んだ微妙な一瞬の感覚が失われた気がする。

 何も気にせず自分から受話器を落とす人には判らないであろうが、幼少の頃より相手の切る音を確かめてから切れと教えられた者にとって、切る瞬間の心組みはなんとも複雑なもので、しかしそれはある程度物事が判断出来る年頃になってから「電話を先に切るのは目上の者」と頭では理解していながらも刷り込まれている「相手の切る音を確認してから」という呪縛が未だ解けず、しかしそれを自分でどうしようもないと思いながら眺めているのがやや恥ずかしいながらも正直なところだ。

 相手が先でも自分が先でも電話を切る時には受話器を直接架台に置くのは先方さんに失礼であるから、必ず受話器を耳に当てたままフックを指で静かに押して何も聞こえなくなってから受話器を置かねばならない、と教え込まれた。それが世間の常識であろうと考えていた若い頃、乱暴に受話器を置く人のがりがりという切る音が耳障りで仕方がなかった。

 ところが次第にコードレス式のプッシュホンが 家庭の電話の主流となり、やがて携帯電話が信じられない勢いで普及する。

 ダイヤル電話からの過渡期に一瞬だけ存在した電卓を貼付けたようなコードレスではないプッシュ電話はまだ、受話器を置く時にガリガリ音をたてるせいで切る時の躊躇と余韻があったわけだが、すぐに駆逐された。

 今は公衆電話でさえもオンフックを押せば静かに切れるものがある。手前は公衆電話を使う時もフックを指で静かに押し下げて静かに切る。しかし、今は公衆電話を使う人もあまりいない。正確に言うと手前の周りに公衆電話を使う人があまりいない。それはそれで受話器をフックに引っ掛けてから落とすまでの汚い音を聞かされる恐れがなくていいのだが、何故か寂しい気もするのだ。フックに上手く掛からなくてがちゃがちゃやっている音を最後に聞いたのはいつだろうか。

 携帯電話もコードレスも切る時に何の音もせず静かにふつと切れる。しかしこれはフックを指で押し下げる時の躊躇いが混じった切り方とは明らかに違う性質のもので、掛けるのも掛け直すのも簡単に出来るからこそ、切る時の躊躇いと切った後の余韻がまるで感じられないのだ。

 切ると相手に宣言してから相手の切る音を向こうもこちらも息を呑んで待っている一瞬と、もういいかなと思って恐る恐る切る時の後ろめたさと、「あーねえねえまだ聞いてる?」という言葉を密かに期待しながら静かに切れた音を聞く時の余韻が今の携帯電話で味わえるかね。

 受話器をがちゃりと音をたてて置く相手がいた時代、どんなにくだらない話でも充実していた気がする。指先一つで切ることが出来、掛け直すことが可能な今の時代、くだらない話は半分疲れて聞いている自分がいる。

 離れた相手と連絡を取る手段として電話かせいぜい手紙ぐらいしかなかった時代から比べて、様々な連絡の手段がある今は「電話をする」ことが特別なことではなくなって、簡単に連絡が取れるから、いつでも連絡が取れるから、始終連絡しているからといって付き合いの密度が薄まったと思わないか。

「電話が掛かってこないことが寂しい」のと「どうでもいい話しか出来ない友達しかいない」のはどちらが寂しい人間なのだろう。


電話箱 03/07/07

 小さな駅から少し歩いた商店街の外れに小さなベンチがひとつ。その裏は大きな倉庫らしき建物のシャッターがひとつだけ開いており、ころころ太った柴犬がいたので軽く口笛を吹くと目が合った瞬間あらぬ方を向く。つられてそちらを見たら電話がひとつある。

 よく目にする透明の電話ボックスとは違って三方板囲い、まるで田舎の便所の佇まいだが、腰の高さに一枚棚があり、そこに黒い電話が乗っている。随分古い雰囲気であってこれは電話ボックスより電話箱と呼ぶほうが明かに相応しい。そう思って近付くとベンチの看板には「タクシー乗り場」とある。タクシー乗り場なら道路には白線で何か書いておき、タクシーが待機しているべきだが、そこはまだ一応商店街の道路であるから白線はない。タクシーもいない。このベンチはタクシー会社が設置しただけなのだろうと白と青の二色に塗られた電話箱を通り過ぎてしばらくすると、どうも何かが引っ掛かる。この勘は大切にしているので立ち止まり、戻ってみた。あった。これだ。

 「タクシー呼出専用電話」

 専用電話であったか。それなら古くても不審はない。そう思ってまた歩き出す。まだ何か引っ掛かっている。何だろう。専用電話なら内線のようなものか。料金がいらないとか。もう一度戻ってみた。戻って正解であった。これは面白い。

「いつも○○交通をご利用頂き  誠にありがとうございます。

 タクシーを呼びたい時は

 1 受話器を置いたまま    右のレバーを5〜6回廻す

 2 受話器をとる

 3 名前だけ伝える 」

 とあり、横に立て掛けられていた看板には

「○○交通株式会社   連 絡 所  」

 棚には小さいガラスの灰皿と烏龍茶の空缶、そして黒い電話機。レバーとは何かと思ってよく見ると本体右から鉛筆削りそのままのレバーが突き出している。これを廻すらしい。どちらの方向に廻すのか判らないので軽く動かしてみたが、前後どちらにも動く。それでもおそらく自転車のペダルと同じ向きに廻すのであろうと見当をつけた。悪戯防止に本当の客だけを選り分ける一手間というわけではもちろんなくて、どうやら発充電のレバーらしい。

 しかしダイアルがない。ダイアルがない以上これは受話器を上げると交換手に繋がる型の電話機であることが判る。今時の日本で交換手はそうそういないので、この電話は直接タクシー会社に繋いであるのだろう。内線と同じ仕組みかもしれない。しかし電気代電話代を払わずに済ませるために手回し充電の古い電話機を用い、電話線はもしかしたらタクシー会社まで文字通り「直接」伸びているのではないだろうか。

 しかし古そうな電話機だ。本体と受話器を結ぶコードは螺旋状に捩れてはいない黒く太いコードより正に電線と呼ぶべき代物だ。受話器自体はダイヤル電話時代のありふれた武骨な形のもので、手に持つ部分は色褪せたガムテープが巻かれている。本体の裏を見たくてひっくり返そうとしたら棚に据え付けられているらしく動かなかった。

 ベンチの看板にはタクシー会社の電話番号が明記してあるので実用的な面での存在意義としては微妙なところにあるが、感傷的な面から見てこの呼出電話、是非いつまでも残すべきである。いつか観光名所になるかもしれないし、そうなるとタクシー会社は大いに面目を施し、そして大いに儲かる筈だ。

 さて。ではこれからレバーを五・六回廻してタクシーを呼び、織姫にでも会いに行くとしようか。


先生 03/07/22

 「先生」なる便利な呼称があって、これは実に範囲が拡い。電話ボックスからタウンページをかっぱらって読んでいたら、最初の「職業名サービス一覧」で結構楽しめた。職業を見ていたら先生率の高さに気付いた。日本には先生が多過ぎる。

 まず、本職として小学校中学校高等高校大学校大学院各種専門学校それぞれに様々な立場の先生がいる。当然幼稚園保育園でも先生と呼ばれる。加えて予備校や塾でも「講師!」とは呼ばず「先生!」と呼ぶことになっている。ついでに家庭教師もまた先生と呼ばれる。このあたりまでなら誰に聞いても「先生」であろうが、問題はその先だ。

 代議士は、国会議員から順番に、まあ一番下っ端の村会議員が先生と呼ばれるかどうかには少々疑問も残るが、とりあえず政治家は先生と呼ばれる。その政治家が私的な頭脳集団をまた先生と呼ぶ。作家も当然先生と呼ばれるし、漫画家も、講演家も先生だ。その道の権威であればとにかく先生であるから、何かの専門家であれさえすれば皆先生である。カルチャースクールの講師も先生であるし、そうなると英会話教室が氾濫する日本ではそれだけで途方もない数の先生がいることになる。

 「師匠」と呼ぶべき分野においても、門外漢からすればやはり先生であるから武道全般に於いて指導する立場の者は当然先生である。武道に限らず伝統工芸のいわゆる職人とみなされる世界でもインタビューで先生と呼ばれてしまう。多すぎる医者も全員先生であるからきりがない。弁護士も先生であるし、税理士会計士も先生であるし、棋士も、音楽家も、写真家も、書道家も、何々鑑定士も揃って先生と呼ばれる。刑務所では囚人は刑務官を先生と呼ばねばならないし、もうすべて挙げてはいられない。

 面倒なので大雑把に計算すると、日本には約五千万人の先生がいることになる。

 なお、水を売っている人に聞けば、「太っている人は社長」「痩せている人は先生」と呼んでおけば間違いないという。

 ついでに「毛髪業」なる職種名があることを初めて知った。そして「商品取引員」とは何をする人なのだろうか。また、「幼稚園」と「養豚」が並んでいるあたりが笑える。「お茶漬け・おにぎり店」と「おでん料理店」に挟まれてしまった「汚泥処理」もいい味を出している。「観賞魚」と「缶詰工業」が並んでいるし、「果物」と「靴下」が並んでいる。「肛門科」のすぐ下にある「香料」も負けないでほしい。「スイス料理」のすぐ次には「水洗トイレ工事」がある。「洗剤」と「ぜんざい」も並ぶべきではないし、「総務省」と「ソープランド」も並んではいけない。「動物愛護団体」と「動物商」が並んでいるし、「内閣府」のすぐ次に「内職斡旋」もどうかと思う。「マネキン紹介所」とは何?レンタルの項目で、「貸しおしぼり」はまだ納得できるが、その次の「貸しオムツ」とはどういうことだね。貸したあと返してもらうのかね。そしてまた使うのかね。


電話を切る時 03/12/13

 電話のコードを不要とする技術力を誇っていても、窃盗を撲滅する技術は未だ開発されていないから公衆電話の受話器は本体と繋がれたままである。しかしこれも遠くない将来つまり我々が生きている間には受話器の存在が消滅した公衆電話が出現する事と思う。ハンズフリーの電話として、イヤホンマイクではなく集音マイクを仕込んだ型の電話が存在する以上、本体に集音マイクとスピーカーを備えた受話器のない公衆電話は既に開発可能であろう。

 この場合、聞かれたくない話をする為には密室箱が必要になるので全体としてかえって費用が高くなる惧れもある。周囲の人に聞かれたくない場合を想定して切り替えボタンを押せば付属のイヤホンを通す仕組みを作ればこれは極々初期の電話あるいは無線機の気分にもなる。やがてそれでは不便だからとイヤホンにマイクを付けて結局現在の形に戻る可能性もある。また「受話器がないと落ち着かない」とする意見も当然出てくる。どこまでも続く壁よりも、そこに電柱があれば落ち着いて放つことが出来るのと同様受話器はまだまだ必要なのだろう。

 コードレスホン・携帯電話の登場により、指先の僅かな力で通話の終了が可能になった。これで電話の切り方を心得ない育ち悪き者の「がりがり」という切断音を聞くことが稀になった。「コード付き電話・受話器切り方の心得」は今後益々廃れゆく方向にあるだろう。すると公衆電話に慣れていない者が使う際にほぼ確実に耳障りな音を立てて電話を切ることが増えることも大いに考えられる。偶然公衆電話で掛ける所に立ち会った際に「切る時にはフックを指で落とすこと」を伝えてゆかねばならない時代がやってくるのだ。

 それはそれとして、電話を切る時に、指先の僅かな力で静かにあっさり切れてしまうことは、不快感の減少という恩恵が伴ったわけだ。しかし「怒りに震えて受話器を叩き付けて切る」という憤怒の発散作用も失われた。色々ややこしい話になって「もう終わりだ!」「二度と掛けてくるな!」と怒鳴りつけて切る際に、フックを落とせば切れる旧式の電話ならばそこに受話器を叩き付ける事で相手に怒りを伝え、同時にその衝撃が多少の精神安定を齎し、やがて電話そのものが相手に思えてくると「そんなに乱暴に切る事もなかったか」「あっちが原因だが、なんとなく悪かったかな」と暫し逡巡の時を迎える。これは叩き付ける行為があってこそなのであって、携帯電話で最後通告を突きつけた後、指先で「ふつ」と切った時は怒鳴り付けた際の昂ぶりがそのまま持続しているので怒りのやり場がない。つまりフックとは、「怒りのやり場」であったのだ。昂ぶったまま手の中の電話を握り潰したくなる感情はやがて椅子に向かったり床に向かったりするのだが、これでも完全な発散はなされず、従って相手に対しての反省意識は育たない。手の中に指先二つ三つで掛けることの出来る電話があるからその怒りは関係ない第三者に対して愚痴という形の迷惑電話となる。そしてこの愚痴電話で少し反省色も育つ場合があるわけだが、愚痴を終えて電話を切り、反省が育った頃には自ら流した愚痴が様々な情報を加えて周辺の知人友人に駆け巡っていて、また相手方のそれも同様駆け巡っていて、当人同士既に反省して素直になっている頃に「あいつはあんなこと言ってた」という情報が掛かって来て、ついには修復の不可能な溝が完成する。

 「がっちゃん」と切ることで、ある程度取り戻せていた筈の落ち着きが失われた結果、「手軽に繋がって手軽に切れる」という電話の現象を人間関係にも齎しているように思える。


電話転送地獄 03/12/30

 君は転送地獄を知っているか。

 留守番電話程度の機能が付いていれば大抵転送も設定可能であったが、転送する先がないなら意味がない。一般回線に加えて携帯電話を買った時、ついに転送機能を使う機会が訪れてわくわくしながら転送番号を設定したわけだ。とりあえず携帯電話を手に家を出て、最も近い公衆電話に行き、無人の家に掛けてみる。転送されたら握り締めている携帯電話が鳴る筈だ。ところが延々呼び出し続けているから「留守に設定」し忘れていたらしいことに気付く。少し疲れながら戻って何回鳴ったら転送するか、そして忘れず留守を設定してから再び公衆電話へ。

 「 転 送 します 」

 着信した携帯電話に見慣れた番号が浮いている。左手の公衆電話から少し離れた家を経由して右手の携帯電話に繋がったのだ。不思議に感動して両手の受話器をそれぞれ耳に当て、一呼吸おいて「もしもし」と言ってみた。多少の時差がステレオ効果をもって頭に響くのが妙に笑えたが、単に公衆電話から携帯電話に掛けたのと同じ状態であるだけのことに思い至った。

 とりあえず転送機能の使えることが判って安心し、携帯電話の説明書を読んでいたら、こちらも当然転送機能がある。人の子ならば「携帯からも家に転送を」と考えたくなるではないか。複雑な操作に難儀しながら設定した。しかし公衆電話まで行くのはもう馬鹿馬鹿しい。家から掛けてみよう。どうなるのか。「転送ですぴぱぺぷぴぽぺぽ」

 「つーつーつーつー」

 当然の話だが転送先の今受話器を握っている電話は通話中であった。そらそやなと飽きそうになった瞬間、「お互い転送するんやろ?外から掛けたらどうなんねん?」結局公衆電話に走った。家に掛けてみたがなかなか転送されない。「そうや、さっき家から携帯に掛けたし。あれで留守設定解除されたんちゃうん?」果てしなく間抜けだが家に戻り、留守に設定し、また公衆電話に戻り、そして「 転 送 します 」携帯が鳴り出した。しまった。音を消したおけばよかった。公衆電話に噛り付いていて、携帯が鳴りっ放しとはいかにも阿呆の構図ではないか。人が通らないうちに早く転送早く転送と祈っていると、ついに携帯電話が「転送です」よしゃああああ成功や。

 これで掛かってきた電話は全てとることが出来る。携帯電話の電池が切れても問題ない。しかし。たかが電話の癖に学習機能が付いていて、一度転送するとその電話は出られないと勝手に判断してしまう。するとどうなるか。一回コールして「 転 送 します 」一回コールで「転送です」一回コール「 転 送 します 」一回コール「転送です」早過ぎるのだ。取る暇がないではないか。「転送します」直後の「ぴぱぺぷぴぽぺぽ」が妙に苛立たしい。

 結局まともに使えないことがよく理解出来たので携帯電話の転送設定は解除した。誰かが掛けてくる前に自分で試しておいてよかったが、かなり情けない話であった。


ダイアル 04/01/21

 古い電話に対する郷愁は尽きないようだ。

 「じーころころ」と数字円盤を回す型の古い電話は今となっては珍しい。あの円盤を「ダイヤル」と呼び、電話を掛ける事を「ダイヤルを回す」「ダイヤルする」と表現した時代がかつてあり、その時代を反映した幾多の名曲が生まれそして今、それらの曲は内容がいつの時代にも通ずる普遍性を持っていながらも「ダイヤル」の一語があるせいで懐古の対象となってしまう。

 0を回す時に感じる遠回りの歯痒さ、1を回す時の短さからくる焦りに似た喜び、ダイヤルを回して戻る時のどこか緊張を秘めたふうに思えるもどかしい速度、いつか見た映画の真似をして鉛筆の尻で回してみた時の気恥ずかしさ、あれらはもう過去の物となってしまったのだろうか。

 ところで「ダイヤル」とは何だろう。そもそも「ダイヤル」か「ダイアル」か。日記を「ダイアリィ」と呼ぶがこれは如何なる関係なのか。気になるから調べる。大修館ジーニアス大英和、研究社大新英和、小学館ランダムハウスをあたった。

 結論から言うと「ダイヤル」は「dial」で実は「ダイアル」であった。語源は中世ラテン語で「dialis・毎日の」から来ている。「ダイアリィ」はこの流れを汲む正統の後継的言葉だ。また「dial」は日本語でこそ一般的にほぼ電話を指しているが、英語ではもっと広く指針盤・文字盤のことを指す。電話の回す数字盤が指針盤に似ているからダイアルと呼ばれるのは当然の話でもある。「金庫のダイアル」とは日本語でも使い、それが僅かに本来の意味の名残でもある。更に英語では「dial」を日時計や鉱山用コンパスにも使う。テレビの「チャンネル」とは日本語の感覚から理解すればあの電源と音量調整を兼ねた「つまみ」を連想するわけだが、英語ではこれを「dial」となる。また俗語で「人の顔を指す」ともある。

 「ダイアル・イン」は和製語で、実際は「dialect line」となる。どこかの保険屋の登場で馴染みやすくなっているだろう表現である。腕時計の文字盤は「the dial of(on) a wristwatch」であるし、「spin (目的人)'s dials」は米の俗語で「(目的人を)興奮させる・刺激する」となるらしい。これは「ネジを巻く」よりも「ツボを突く」の方が相応しいかと思われる。しかしこの言い回しに至る発想の根本が同じであることは、なんだか楽しいと思いませんか。

ベル 04/06/05

 隣で「ひとぉぉぉつ人の世生き血を啜もしもし?今電車!」携帯電話、桃太郎侍での呼び出しは周囲の心臓に悪いから止してくれないか。うつらうつらしていたあんちゃんは突然「ひとぉぉぉつ」と凄まれて焦ったよ。

 ところで「ベル」とは鐘で、しかし「電話の鐘」とは言わず、「電話の鈴」もまた聞いたことがないから「ベル」が日本語として定着していることが判る。「電話の音が鳴る」とは言わず、「電話が鳴る」と言い、それならば電話の音とは何かと考えれば、「呼出音」とは少し違うようで、しかし受話器の向こうで響いているのは紛れもなく呼出音で、それでもやはり電話が鳴って「呼出音が鳴っている。誰だろう」とは明らかに言わないのであって、これは「呼び出す」音だから呼び出す側はそれでよいが、呼び出される側から見た電話の音、「ベル」に適切な漢字を振るならば何が適切か。「呼ぶ」の対義語は何か。「応じる」ならばそれに関連した言葉を繋げればよいわけだが、残念ながら鳴っている電話に対して「応じる」という概念を持ち難い。明らかに「電話に呼ばれている」印象しかない。

 そこで携帯電話の氾濫時代、これを着信音と呼ぶようになった。様々な着信音が溢れる中でさすがに「ベル」では具合が悪かったのだろう。これは携帯電話が齎し普及した日本語として特記に値する。よくやった。誉めて遣わす。

 しかし円盤旋廻式の古い電話機が叫ぶ「じりりりりりりん、じりりりりりりん」を「着信音」と呼ぶことに躊躇いを覚えるのは何故だろう。あれは着信音ではなく確かに「ベル」であった。しかし椀状の金属をどつきまわすことで音を鳴らすという仕組みは、考えてみると仏壇にあるじゃないか。漢字はあれから流用すれはよい。ところで仏壇にある「ちーん」と鳴らす奴は何と呼ぶ代物かね?

 しばし唸っていたが、どうしてもあの金属の椀の名称が思い出せない。それより以前に正式名称を聞いたことがあっただろうか。あの「ちーん」を何と呼ぶ?鳴らす行為を何と呼ぶ?通夜や葬式の場では「焼香」の一言で誤魔化されていた気がする。そうでないときは「ちーんしておいで」「お祈りしておいで」で済まされていた。

 結局調べてみると、あの家庭にあるちーんや由緒ある寺にあるくわーんは、「りん」と呼ぶらしい。「リーン」という音が祈りと共に仏の世界まで届けるべく打ち鳴らす為の仏具であるという。 「鈴」と表記したり、丁寧に「おりん」と呼ぶこともある。

 「りん」ではさすがに電話の音として当て辛いので、「じりりりりりりん」のことは残念ながら「ベル」と呼んでおくのが無難であるようだ。


受話器 04/06/17

 高性能の集音機能が付いているハンズフリーの電話は既に出回っているのだから、それにぬいぐるみを被せた電話なりを出せば少し面白いのではないかと思ったりする。

 昔のことだが、今でもあるだろうがUFOキャッチャーでスピーカを内臓したウルトラマン人形があった。音量の調節は出力する側だけで可能だったが、あのような形で集音機を加えれば電話として機能する筈だ。違うか。人形に釦をつける必要はなくて、あくまでハンズフリーコードの発展形のものと考えればよい。

 例えばぬいぐるみ仕様ならばぬいぐるみに話しかけるように電話をする。人形仕様ならば人形に話しかけるように電話をする。そんなもの欲しくもないしどうも危険な姿が想像されるわけだが、単純に売れるかどうかで考えた場合、それなりの需要が見込めると思うのだ。

 また複数の子機を持つ電話の場合、ひとつだけををぬいくるみ仕様にすれば突き上げ需要も期待出来る。

 さて、言い出しではあるが俺はいらんしと言いたいところを堪えて、無理矢理に欲しい際物受話器を考えると、あれかね、例えばダースベイダーの生首型電話か受話器でベルの音は呼吸音とか、バットマンの仮面型でバットダンスのベルが流れながら壁にバットサインが浮かぶとか、権利の関係で無理にしても、ある程度工作に強ければ自分で作れなくもない気がする。

 単純に髑髏の形で眼窩に赤電球を仕込んでおいて受話器の向こうの声に反応して点滅したり、下顎をかちかち動かしたりする程度のものなら誰に遠慮することもなく作れると思うのだ。この場合のベルは髑髏の笑い声、釦は歯の一本一本を利用する。子機として通常の形をした受話器を配し、部屋の少し離れたところで眼を赤く光らせて歯をかちかち言わせている髑髏と会話している気分で電話をするというのはやっぱり趣味が悪いだろうか。

 やがては画面に相手の姿が見えるのが当然となり、その先には立体投影像を相手に通信する時代が来るのだから、所詮は一発花火の徒花としても予め徒花と承知した上で上手く咲かせることが出来たならば、誇るに足る玩具だと思うのだ。


捩れる 04/07/09

 螺旋状に巻かれている電話の本体と受話器を繋ぐ電線が、挨拶もなく無論断りもなく捩れているのは何故か。

 携帯電話が主流となり、コードレスフォンが当然のように普及しているからこそ、古き電話の姿を、その記憶を残している間にせっせと綴るべきなのだ。

 触れる機会があって、何故これは捻れるのだろうかと疑問に思い、色々試しているうちに何となく判った。途中で受話器を持ち替えるから捻れるのだ。電話機本体は、右利きが大勢であるという信念により右手でダイアルなり釦なりを突付きまわすことを前提として受話器が左側に位置している。受話器に繋がる電線もよく見ると左側から出ている。だから仮に左手で受話器を取り上げたとしよう。しかし途中で右手に持ち替える際、相手の声を聞き漏らすまいとして聞こえる穴を自分の顔に向けたまま、こちらが話しながらであれば声を遠くしたくないから尚更、つまり持ち替える一瞬は耳に当てる穴を見ていて次の瞬間目的の耳へ最短距離で運ばれる。これはつまり半回転半したことになるわけで、やがて受話器を本体に戻す時にそのまま自然に置くと更に四分半の回転が加えられ、都合一回転することになり、捻れる。この蓄積が勝手に捩れてゆく原因だ。

 電話の受話器を繋いでいる線は時計回りに下降していて、同じ方向に捻れる場合は団子状に絡まって伸びなくなり、電線は序々に短くなってくる。反時計回りに捻れると、一部で直線が出現する。更には直線と直線の間で一時的に反対回りの螺旋になっていることもある。

 幾世代も前の電話ボックスでもやはり螺旋が更に捩れていたのであり、それをくるくる回してあるべき姿に戻しても、ところどころがだらしなく伸び切って侘しさを興させる。やがて「捻ってはならん」という思想のもと、編まれた布地を外皮に太く強張った電線のものが登場した。あれは確かに捩れはしないのだが受話器と電線を無意識に弄ぶ際、どうしても折り曲げてみたくなるのであって、皆が皆そう考えるものだから結果としてその電線は捻れたものより悲惨な姿になる。

 会話を交わしつつ螺旋電線を指に巻き付けては解き、また巻き付けたまま不意の動作で受話器を取り落としそうになったり、螺旋の中空に鉛筆を通してみたり、電線も電話の内容も近道などしてくれないのに螺旋同士を噛み合わせて無意味な円を作ってみたり、果ては螺旋を一旦ほどいて反対方向に巻こうとしてみたり、あれはやはり単なる電線ではないみたいだ。螺旋の如く遠回しに想いを伝えようとした、そのもどかしさを懐かしく思う。


利便 04/09/04

 電話番号を覚える習慣が廃れつつある。

 携帯電話の普及に伴い、携帯電話そのものが電話帳の機能を果たすようになり、また家庭用の電話にも番号登録や短縮釦機能が付与されたことで、頻繁に掛ける先の番号ほど覚える必然性が失われつつあるのだ。

 特別覚え易い語呂の番号であったり暗記する理由が求められる場合を除いて、今覚えている電話番号は、勤先や実家など数えるほどしかないことも考えられる。急激な普及により、電話に対する意識もまた急激な変貌を遂げた。それは「なくてはならないもの」から「あれば便利なもの」への移行であったが、なのに依然として「なくてはならないもの」とする考えを引き摺っていて、そのまま「なくてはならないものである」と勘違いしたまま話が進んでいる。

 少し考えてみよう。十年前に携帯電話はなくてはならないものであったか。この十年で携帯電話が必要不可欠なまでに社会が変革されたのか。利便性は大いに認めるところだが、所詮は「あれば便利」であることを思い知る為に一度水没させねばならず、しかし携帯電話を全能と信頼しているから、失われた場合に不便であると思い込む。

 電話帳機能やメール機能といった付加的な部分を重用し、完全に依存しているから突発事態に最も大切なものは何であるのか正しい判断が出来なくなる。意思の伝達手段のひとつが失われただけで極端な不便を来すのは、それ以外の伝達手段を軽んじているからではないか。

 電話帳になり、カメラになり、財布になり、やがて個人認証の機能も持つだろう。そしてそれなしでは生きてゆけなくなるまでに支配されてしまうことへの怖れを抱きはしないのか。「本当になくてはならないもの」となってしまってからでは遅いのだ。電波が届くかどうかを常に最寄の基地局と通信している以上、今でさえ電源を入れておくだけで半径数百メートルまでの位置特定が可能な恐怖の実態を知っているのか。目先の不自由さに惑わされて、この先に待っている真の不自由に震え、畏怖する。


連絡手段 04/10/06

 携帯電話の普及にメール機能が付与された結果、連絡する回数が、近い人とはより多く遠い人とはより少なくなる傾向にある。

 近い人とは同様に携帯電話にメール機能を持っていたりパソコンでメールを利用する間柄のことで、遠い人とは携帯電話を持っていなかったり常設電話さえ普段日常的に使わない者を相手にする場合は電話を掛ける必要がある。

 常設の加入電話と携帯電話の普及により、電話が一家に一台から一人に一台となり、迅速かつ的確な連絡が可能となったが、一家に一台以前の時代から重用されていた電報の持つ機能が失われようとしている。今では慶弔事に特化しているが非常の緊急連絡手段として確かに時代を担っていた。電報の衰退は片仮名に固執したことも原因のひとつであるが、一般加入電話の普及に伴って次第に利用が減少し、電電公社の殿様商売に嫌気が差していたところに郵政省のレタックスが殴り込んできた。最早敗勢は必至であり、巻き返すべく台紙に凝ったり音が鳴ったりの高級感で包み込み記念品としての立場を選ぶことで今のところ衰亡を免れている。

 携帯電話のメール機能が意味するところは手紙の代替であり、生活の速度が増すにつれて比重が移動している。元来手紙と電話の間に位置した電報に代わるのがメール機能であり、今の電報機能である記念品としての位置が今度は手紙になりつつある。電話の位置はあまり変わらないが、元の手紙の位置に対応する現在の手段は模索中であるのか手紙のままなのか不明だが、もしかするとパソコンを用いるメールがその立場に臨むかもしれない。ある何かが衰退する際にその価値は一時的に下がるが、相対的に重要度は増す。そして希少価値としていずれ盛り返す時期がくる。それは世代交代を反映した郷愁や強引な復権もあるが、過ぎた時代の息吹を懐かしみ触れたくなるのは擽ったい娯楽だ。

 そして重要度が増すとはつまり手書きの手紙が古色蒼然たる形式に則りしたためられていた場合に、通常の連絡手段とは違った印象を与えることを意味しており、それは携帯電話やメールでは得られない充満が送り手と受け手の双方に残る。それは上の世代への媚ではなくて上の世代に対する礼儀でもあるのだ。


同時通話 04/12/05

 電話には同時通話と呼ばれる機能がある。キャッチホンと呼ばれる。

 その昔、ある人と通話中に別の人から掛かってきた。相手の声に被さって呼出音が響いているからキャッチが入った旨を説明し、切り替えてから出て、同じ話題のことであったから時間的偶然に驚きはしたものの絶好の機会だからしばし待てと元の通話相手に切り替えてみると、保留されている。さほど待たせたつもりはなかったが、やはりこのような機能は失礼なものだから便利ではあっても不要であると考えていると、保留音が止みいきなりこう言われた。「あ。こっちも繋がってる」

 直後しばらくは皆が混乱していてあちこち切り替えて、繋がったり保留されていたりを繰り返し、ようやく状況を把握した。つまりこうだった。

 AとBが普通に通話している。その最中にCがAに電話を掛ける。AはB・Cの両方と同時に繋がっている。そこへ更にDがBへ電話を掛ける。BはA・Dの両方と同時に繋がっている。つまり四人が同時に接続されている。単純な図で表すとこうなる。「C-A-B-D」。ただしCはAとしか話せないしDはBとしか話せない。切り替えられて話が伝えられ、また戻って話を受け渡し、それは伝言ゲーム並の怪奇さであった。

 キャッチホンを使う機会など殆どないままいきなりこのような状況に直面したから最初の通話相手と共に意味の不明な盛り上がり方をし、結局のところ話の目的は全員が「麻雀の面子を揃えよう」だったから、ではこの四人でやろうと話が纏まったのは当然の成り行きであった。

 今思い出して、この仕組みを使ったキャッチホンで最大何人繋がるかという記録に挑戦という発想が湧いたが、よく考えるとその確認手段がない。伝言で確認する手段は不可能であることを我々は皆知っている。しかも途中で切り替えを間違えて切断してしまう者がいるかもしれず、非常に難しい。

 ならばと転がして、その難しさを記録にすればよい。つまりAにBが電話を掛け、BにCが電話を掛け、CにDが電話を掛け・・・と続けてある程度の人数が直列している状態を保つ。そこでAからの伝言が正しく伝わるのは何人かという著しく無益なイベントは、無益であるあるばかりか電話料金が発生してしまうので誰もやってみようとは言わないわけだ。




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