「人生は喜劇だと思う?」
「喜劇にしては悲しいことが多すぎるね」
- 情けない 04/05/30
まあその、粋を気取ってひょいと下げた頭で暖簾を掻き分けて入ったと思った瞬間に閉まっていた扉に激突するわけだがね、暖簾出してる時には扉を開けておいてくれないか。もう少し勢いがあったら硝子ぶち割ってたと思うぜ。少しばかり残っていた照れが潜る瞬間の微妙な制御に繋がって痛い音だけで済んだがね、その後それでも開けて入るべきかそのまま踵を返して去るべきか迷ったわけだ。結局硝子の向こうで小さく頭を下げた店の亭主と目が合ったから仕方なく入ったがね。冷房が効いていて扉を開放したくない事情は判ったから、それなら無理して暖簾を出すのは止めておくれよ。でなくともせめて暖簾と扉の間に余裕を持たせておくれよ。今後暖簾を潜る機会がある時は腰が引けてしまうじゃないか。頭から突入する方も再考の余地はあると思うがあれじゃまるでドリフだぜ。
こう、歩いている時にお互いこのまま直進したら衝突してしまうと確信する瞬間があるね。ごく冷静に右によけると相手も同じタイミングで同じ方向に寄る。それなら俺はこっち行くよと反対に寄ると相手も全く同じことを考えて同じタイミングで同じ方向に寄る。この段階で既に波長がぴったり合っているから歩くリズムも同じでね、同じ方向に進んでいるなら完璧な二人三脚の相棒になれると思うが、それが正面で向き合っているから困るわけでね。大体二回同じ方向に寄ってしまうと結構距離が狭まって焦りが出てくるね。んじゃ俺やっぱり右!とそれまでより機敏によけると相手も同じく機敏に合わせてくるね。もう余裕がないから歩幅は小さく横には大きく動くね。更に反対によけるとそれでも合わせてくるね。ついに進めなくなって立ち止まって、その場で向き合ったまま真横に右・左・右というのはとても不毛だと思うんだ。顔見合わせて小さく笑ってから体を半身にしてすり抜けるのは、和むにしても傍から見りゃただの馬鹿だぜ。ああいう時には船舶の回避規則みたいに「かち合いそうな際はお互い必ず右に寄ること」と大きく啓蒙宣伝したまえよ。
- 強敵 04/06/01
まずエキスパンダexpanderとは、太目の鉄線を螺旋状に隙間なく巻き固めたもので発条と考えてよい。これをそれぞれの端に付いている把手から引っ張ると元の形に戻ろうとする形が働き、その力に抵抗することで腕や胸の筋肉を鍛える目的の器具と了解されている。
その昔、不燃物の中に奴がさりげなく置かれていた。捨てると表現するほど乱れておらず、持主の「何方か拾って活用してくれたなら本望なり」とする意思が感じられたので持ち帰った。本来の目的である自販機のお茶をごぼごぼと飲み、一息ついて早速遊ぶことにする。かつては鮮やかな濃青であったろう把手は力のない空色であり、それは陽に晒された洗濯バサミを想像されると理解頂けると確信する。三本ある発条は金属の輝きを失っている。
少し固めのアコーディオンのつもりでぐいと引っ張ってみると、一瞬だけ伸び、直ぐにくわしゃわんと元に戻った。思っていたより奴の底力があるのか単にこちらが非力なのか或いはその両方なのか、とにかく本気で構えねばならないことを了承したので立ち上がり、肩幅に踏ん張り、上体を反らし気味にしてこの形はラジオ体操の中にあった気がすると考えながら、しばしぷるぷると震えていた。やがて発条を体に沿わせることで少し楽になることに気付いた。
ここから先は完全に定石通りの展開で、よしと戻した瞬間拡がっていた発条の隙間にシャツの下の肉ごと挟まれた。右の乳首あたりを噛まれているので左右の腕力が等しくない事を悟りながら、あまりの痛みに平常心は霧消し、拡げて外そうとするが痛みで前屈みになっているから伸びない。火事場の馬鹿力という言葉と現象が報告されているが、あれは心底よりの危機にのみ発動されるのであって、「エキスパンダに噛まれた」くらいでは脳が火事場と認めてくれない。
とにかく痛いから噛んでいるあたりの発条を手で掴んで引っ張り外すことにする。把手を肘に抱えて無事に外せたが、お約束で今度は指の肉が挟まれる。もう状況に倦んでいるから勢いを付けて一気に腕ごと振り下ろして外した。外れたエキスパンダは加速しつつ落下するわけだが、さも当然のようにその先には靴下も履いていない剥き出しの足の甲が待機しており、それまで踏ん張っていたから体重移動は気分だけ、動けない足の骨を的確に直撃し、「たいたいたい」と二三度跳ねてから防御姿勢をとるべく転がってみた。
ぶつかりながらテーブルの下に潜り込み、掌を擦り合わせながら噛まれた胸をマッサージしていると、衝撃で倒れた栓をしていなかったお茶がテーブルの縁から丁度首筋のあたりにとととぱちゅぱちゃぱちゃぱちゃ、「ちべっったいっ!」と叫んで身を起こすと、そこはテーブルの下だと判っていながら頭をぶつける。
駄々を捏ねていた幼児が不意に静まり、不機嫌な顔で起き上がってすたすたと歩き行く姿を想定してほしい。その雰囲気でむっくり身を起こし、お茶を立て直し、エキスパンダを蹴り飛ばし、鏡に向かってシャツを捲り上げて噛まれたあたりの様子を見、足を引き摺ってベッドに横たわった。
乳首の真上にくっきりと付いた鋭い縦筋のキスマーク、この形を残せるのはエキスパンダのほか箪笥くらいのもので、てのひらの十個近い血豆をなぞりながら少し泣いたことは今だから言える話であり、つまり奴を甘く見てはいけないということだ。
- 開け 04/08/15
硝子の扉や仕切には時折金属製オセロ駒サイズの物体が張り付いている。
何故張り付いているのかと言えば、ここには硝子がありますよとの目印らしい。綺麗に磨けば磨くほど透き通り、空間を拡く感じさせる為に選ばれた筈の硝子に無骨な金具を貼り付けなければならないとは皮肉なものだ。硝子の自動ドアにもよく張り付いている。表と裏で微妙にずれているのがまた気になる。
ところで自動で開く扉にあっては、足踏加圧式・赤外線感知式ともに時折鈍い奴がいるもので、自動で開く筈の扉の前に呆然と佇む時の侘しさと焦りは悲しみを呼ぶ。それでも開かない事には進めないから軽やかな足捌きと胡乱な手つきで踊る羽目になる。誰に見られることのない状況であっても恥かしい。
従ってこの状況では落ち着いた対応が望ましい。まずは立ち止まって加圧式か赤外線かを冷静に見定め、加圧式ならば見苦しく飛び跳ねたりせず重心をさりげなく移して自由になった足でそのあたりを足首の捻りだけで探る。誰かにそれを見られていた時は気拙いので、平然とした顔で足を僅かに動かしつつ、大袈裟に指をぱちりと鳴らす。呼吸が合えば指を鳴らした瞬間に扉が開き、醜態を晒さずに済む。頭上にある赤外線感知の場合は鳴らす指を感知させるように動かせばよいのであって、指を鳴らして扉を開かせるこの行為は不思議に好印象を与える。
問題は加圧も赤外線感知も非常に鈍い場合だ。何度か、せいぜい三度までだが指を鳴らし続けても静まり返っていることは結構あるもので、周囲の観衆も静まり固唾を飲んでいる。ここでまた見苦しく飛んだり跳ねたり扉の向こうに知り合いなど居ないのに手を振ったりなどの行為に走りたくなるが、更に堪えて気障を貫く。
すなわち今度は指の関節をぺきぱきぽきぱきと鳴らすのだ。当然鳴らしながら加圧式ならば足で敏感な場所を探っているし、赤外線ならば関節を鳴らしている両手ごと感知させようと少し大きな身振りになっている。しかしそこまですれば大抵は開くツボを見つけることが出来るので、何じゃこら貴様勝負したろやないけの雰囲気を漂わせつつ関節をぺきぱき鳴らした直後に自動ドアがうよーんと開く。すれば観衆は憐憫の嘲笑ではなくて感心の微笑みで見送ってくれるのだ。唇の端に笑みを浮かべ、サングラスをくいを上げて再び歩き出すと気分はもう殺し屋だ。
稀に赤外線感知式の鈍い奴の、扉に近付き過ぎて感知範囲が自分より背後の空間を対象としている場合もある。何をどうしても完全に無反応であるから焦るわけだが、その疑いがある際は関節を鳴らす際に少々反り返ればよい。鳴る指の関節がなくなったら首関節を鳴らしながら感知範囲を探り、それでも無理なら諦めて格好悪く逃げ出すしかない。
- 氷 04/08/24
水と氷は体積が違う。
小学生の頃には、運動会の水筒に氷を詰めるのが無性に嬉しいわけで、とにかく氷の存在が嬉しいのであり、まだ固体を維持している氷をぼりぼり齧ることを楽しく思う時代だ。
ところが親なる人は「氷を入れ過ぎると溶けた際に溢れて漏れてくるから」との理由で氷を多く詰めたくても制限する。ここで水筒の中をほぼ氷詰にしてしまいたかった子供の頭には、「氷が溶けると水になって体積が増す」と入力される。そして水筒にぎっしり氷を詰めたくて仕方ないのに精々三・四個程度しか入れて貰えなかった恨みがこの記憶を増強している。
真相をごく最近知って余りにも情けなく思ったわけだが、ファラデーを読んでようやく正しい理解に修正されたことは遅過ぎる気もするがとりあえず喜ばしい。水と氷は比重が違うから氷が水に浮かぶのであって、氷が水に浮かぶ以上、水よりも氷の方が密度は少ないわけで、つまり同じ体積の氷と水では、氷の方が軽い。しかし氷と水は本質的に同じ物質であり、氷を溶かせば水になり、水を凍らせれば氷となる。ここに同じ体積の氷と水が並んでいると仮定して、氷を溶かした場合、氷が溶けて出来た水は、元よりある水と同じ体積になるわけではない。溶けた方が少なくなるわけだ。重さが違うから氷は水に浮く。氷の方が軽いから水に浮く。つまり水を凍らせると膨張して氷となる。反対に氷を溶かせば「収縮して」水になる。
こら。そこらへんの親共よ。氷が溶けて溢れて漏れる筈がないではないか。純真な子供を騙してはいけない。例えそれが「味が薄くなるから」「腹を壊すから」といった正当な理由であろうとも、適当に「漏れるから」などと馬鹿にした誤魔化しをするな。子供に対して嘘をつくな。如何に深い親心であろうとも、子供を結果的にであれ騙す形になることは避けるべきだ。
とは言うものの、その程度ならどう考えても理科の授業あたりで心得ていて然るべきである筈だが、残念ながら「氷が溶けたら溢れて漏れる」は恨みと一緒に記憶の底に沈んでいるから、多少の大人になってみても「氷は溶けると嵩が増す」と覚えたままで、喫茶店などの氷で嵩増しされて実質ダブル程度しか入っていないジュースであっても、全く飲む気のない水であっても、取り合えず「溶けて溢れる前に少しだけ水面を下げておこう」と啜る行為が、ただの馬鹿ではないか。
そうだ。冷凍庫で作る氷は、製氷皿で作る氷は、いつもいつも盛り上がり嵩を増して隣とくっついていた。明らかに氷が嵩を増すことを理解はしていた。それでもなお、「氷が溶けると更に嵩が増す」と思い込んでいたのは、普通に考えて噴飯物だが、それは確かに水筒に氷を沢山詰め込みたかった頃の残滓が作用していたに違いない。
- 紛失 04/08/25
眼鏡を紛失したと狼狽える際にまず探すべき場所は、机や棚ではなく、窓枠でもなく、洗面台付近でもなく、まず額に掛かっていないか、次に手に持っていないか、そして実は掛けたまま探しているのではないかと疑うことであり、それを心得ておれば大抵の場合時間の節約が可能だ。
絶望感に包まれたまま「眼鏡あれへん!」と悲痛な叫びをあげる時、ふと見た鏡の中の自分が眼鏡を掛けたままでいた瞬間の照れは、存在の確認からくる安心を割り引いてもなお消えない。それがサングラスであるのに何故掛けたまま探していたのかと自らの間抜けさ加減に愛想を尽かして八つ当たりする先は鏡だ。お前もっと目立つ処に居れよ。
探すのをやめた途端に見つかるのはよくある話ではなく、探すのを諦めて手遅れになり、やがてその前後一切合財を忘れた頃に見つかるのがよくある話だ。「塩あらへんがな」と気付いてはみても、少し探しただけでは見つかるわけもなく、諦めてその場を対処して、新しく塩を入手していつものように置場所を固定する決意をし、そして一切合切を忘れた頃、冷凍庫から先代の塩が発見される。ばたばたしていたから間違えて放り込んだらしい。試しに振ってみると中の塩は頑固な塊となっていてどうにもならない。解凍するのは少し怖いので取り合えずその辺に放置しておく。数日後、白かった塊は一部が透明の結晶へと成長しており、阿呆臭いのでそのまま捨てる。
紛失し易いものは特別に置場所を固定すると紛失率が限界まで下がることになる。しかし幾ら完全を求めても紛失とは人々の営みの中にあり、例えば不覚にも酔ってしまうと置場所に配する行為は省略されるのであり、目が醒めて一通り復活の儀式をこなした後に紛失が認知されるのである。普段から置場所を固定していると、あるべき物がそこに存在しなければ恐慌に陥り、「うおおおおおお。鍵!鍵ないぞ!」と全てのポケットを漁り、周辺を掻き廻し、半泣きで棚などを探り、ついには諦めて予備の複製鍵を出動させる覚悟を決め、複製の更に複製を作る為に着替え肩を落としたまま外に出て、そこで鍵穴に挿さったままの鍵を発見する。
「靴がない!」というのもかなりの衝撃であって、何故靴が玄関に存在しないのかが理解不可能だ。玄関になく、もしかすると外で脱いで入ったのではないかと外を確認してもなく、脱がずに入ってそこらで脱いだのではないかと部屋を隅々まで探してもない。まずは落ち着いて便所にでも入ってゆっくり思い出す努力をしてみようと扉を開ければ何故かそこに在る。
場所を固定することで紛失率を低下させることは相当の効果が見込まれるのだが、同時にそれは探索能力の著しい低下も招くのであって、その線を何処で引くかは個人差があるにしても、まず心掛けておくべきは「物は紛失して当然」という思想である。探し方の手順を確立するか、いつもいつも狼狽えるか、潔く諦めるかの選択をすることになるが、それは紛失した物の価値によって選択されるべきであり、常に同じ対応をしているようでは頭が固い。
- てるてる坊主 04/09/07
てるてる坊主の話になった。
晴天を祈る為に、生贄を首吊りにして捧げる効果の全く保証されない呪術であるが、あまりにも簡便であることから暇潰しの一種として作成されることが多い。
作成するには塵紙と糸に輪ゴムと油性の筆記具があればよい。ここまでは合意したものの吊るし方で紛糾した。
「首から吊る」
「頭の天辺から吊る」
「背中から吊る」冷静になって作成手順を思い起こしてみると、手前の場合は首から吊るすが、しかしそれは残酷であるばかりか吊るされた姿が俯き加減で効果の程が疑問である旨の反論があった。頭の天辺から吊るす派は、作成に於いて頭の形を整えて首を縛る前に脳天を貫通させねばならず、丸めた脳を包んで首を縛る標準的な手順から大きく外れることで、それは少々煩雑ではないかと疑義を呈した。糸の貫通など形が整ってからでも針を使えば問題ないとの弁明が為されたが、たかがてるてる坊主に針まで使うのは大人気ないと切り捨てられた。背中から吊るす派は、主に強度と安定度が攻撃された。
吊るし方は統一など不可能である事が合意されて、次に容貌の提示に移った。油性か水性かで揉めることはなかったが、その表情で再び意見が分裂した。鼻を書くか書かないか、口は開いているか閉じているか、笑みを浮かべた曲線の口か、真一文字か、への字か、点か。目は点であることに全員めでたく同意したが、眉毛の形でついに口汚き罵倒合戦に突入した。ハの字か、逆ハの字か、一一か、あるいは書かないか。
組み合わせの多さが災いし、同盟関係を結ぼうにも誰と誰が似ているのか判断不可能であり、じゃあ作ってみようとの提案は「そこまでする程の事じゃない」と却下され、何故てるてる坊主如きが激論の対象になるのか理解出来ないまま、場の回転数がいよいよ絶頂に達したと思しき頃、誰かの「顔なしじゃ駄目か?」発言により突然の沈黙が訪れた。各々それまでの興奮を照れつつ、これは時間潰しの話題として絶妙なものであることを認識し、さりげなく話題は逸れてゆく。
しかし今考えてみれば、顔は書いてある方がよい。布ではなく塵紙を使うことで、微妙な湿気を吸収して顔が萎びてあれば雨の予感・ぱりぱりに乾いてあれば晴れる予感の、顔を見て雨かどうかが判断出来るようなてるてる坊主の作り方と容貌を知りたく思う。
- ストロー 04/09/25
ストローの包み紙を破く時、端を少し切って引き摺り出すとか、包み紙を蛇腹ふうに約めるとかせずに、中央を両手の指先で掴んで捻り切り、何かのアンプルを出すように右手にストローを保持したまま左手の包み紙半分を抜き、紙を置いて左手でストローを抜き出し、続いて右手に残った紙を置いたあと左手にあるストローを右手で掴んで飲物に挿す。
この手順が確立された理由とは、つまり首が蛇腹式で折れ曲がるストローを上下反対に使った経験が数限りなくあったからだ。別のことに気を取られたままストローを漫然と飲物に挿すだけである場合、安物のストローならば天地関係なくてよいが、多少気取ったストローの蛇腹を底に落とし込むと吸引に際してくききききと力なく折れ曲がる。即座に天地反転させればよいだけなのに、意地になってそのまま「俺はこれでいい」と突っ張るのは我ながら損な性格であると思う。
蛇腹がもう少ししっかりしていた場合は、飲み進むにつれて水位が下がりストローがほぼその役目を果たし終えたところで天地逆様であることが発覚する。一切の問題なく事態は進行したにも関わらず、最後にその現実を直視させられる屈辱は通常「恥」と形容される。
蛇腹の上下を確かめるくらい何でもないことのように思えるし、上下の間違いもまた何でもないと思える。しかし実際に間違えていた場合の心理的衝撃は、パンツの裏表を間違えて穿いていたあたりに相当する。こんな馬鹿なことをする自分が信じられないわけだ。信じたくなくてもそこに突き付けられた証拠は注意力の散漫を明確に表現しているから心が沈む。
かくして現在は、ストローの包み紙を破くにあたっての少々煩雑な手順が試行錯誤の末確立されている。中央で捻じ切らずとも端を切って左手で引き出し、右手に持ち替えるだけで充分なのだが、小さい方の切れ端が目障りであり、これは摘んで丸めて灰皿にでも放り込めばよいだけなのに、中央で切り離すことで様式美を追求したつもりになっている。ほぼ同じ長さの包み紙は重ねて折られて箸置の如く結ばれ、汗をかいた杯の腹に貼り付けられる。そして得られるのは「人の話を真面目に聞かない」という的外れの評価である。
- 傘 04/10/10
傘は余り好きではない。
そもそも傘に限らず荷物を手に持つことが大変に嫌いであり、しかし空いた手はポケットに突っ込んであるから空けても意味はないのだが荷物を持つことで崩れる均衡が腹立たしい。傘は軽くても長さが存在感を主張していて邪魔だ。
仕込まれた発条を外すと勢いよく開く種類の傘には風情がない。しかも雨の中をずばんと開けば雨粒が跳ね飛んで迷惑この上なく、下に開くと裾に飛沫、上に開けると間の抜けた姿を晒すことになる。たとえ金属製の骨にビニールであろうとも、まず少し開き中ほどは力を抜いたままゆっくりと、一呼吸置いて差す高さにしてから最後にぱちんなどの無粋な音をさせないよう静かに留めるような、つまり襖を開ける時の気分と雰囲気をもって傘を開くべきなのだ。
唐傘の美しはその骨の数にあり、それを取り入れた古風か現代風かどう呼ぶべきか迷う傘があり、当然自動で開く傘ではなかったから喜んで買い、その日のうちにコンビニで盗まれた。とても気に入っていたのは僅か五時間ほどで、数千円が一瞬で消えているとやはり落ち込む。
折畳傘も正直に言えば嫌いであるが、丹念に畳み込むのは集中力が高まる気がして楽しい。御猪口と表現される傘が裏返った状態になるとその場で打ち棄てたくなるのであり、そもそも風が強ければ雨粒は真横に飛ぶので傘を差す意味がなく、「たかが雨やないけ。酸性雨で溶けるわけでもないし。禿げたら嫌やけど」と思いながら平然と濡れて歩くことを選ぶ。
傘はとにかく壊れやすく、そして盗まれやすい。だから安いもので済ませようと考えるから売るほうの値段も段々安くなり、そして安くなればなるほど粗雑に扱うからすぐに壊れ、安くなればなるほど「この程度なら盗んでも盗まれても構へんやろ」と誰もが考え、傘が軽んじられる傾向が益々顕著になる。
回転させて傘に付いていた水滴を飛ばすことは注意していないと無意識にやってしまうが、格別意識をせずにくるくる回転させていた場合、周りの人が警告してくれなくても握りが勝手に外れて天誅が下る。しかし取り付ける為に再度回転させてしまうから反省には遠いようだ。
- 傘盗人 04/10/28
傘は盗まれることが前提となっている。
一日で三回盗まれた事が怒りの闘志を掻き立てた。全て百円均一店で買った傘であるから金銭的損失は煙草一箱にほぼ等しいので問題ない。幸い雨は降り止んだので四本目を買わずに済んだ。一本目はコンビニエンスストア、二本目と三本目はそれぞれ別の本屋にて拉致されたわけだが、三本目が跡形もないことを見た瞬間、余りにも馬鹿馬鹿しくて欠伸が出た。そして決意したのだ。傘を盗まれ難くする技術を追求してみよう。
百円均一店が今ほど膾炙していない時代は積極的に「天下の回りもの」を実践していたが、たった百五円で実用に絶えうる傘を入手可能となってからはお行儀よく暮らしているのであり、だから一日六時間ほどの内に三本も消えてしまったことが余計に腹立たしい。
物事全て相手の立場で考えることが理解を早めるのであり、ここでは傘盗人の心理に同化すればよい。それはかつての経験上至極容易な事である。傘を薄袋に挿入して店内を放浪つくならば何も問題はないのだが、傘に限らず手に持つことが邪魔である性格を有する者として、傘立にぶち込むことを前提として話を進める。
傘盗人の心理にあっては、傘立の中のどの状態の傘に魅力を感じるのか。まず、没個性的な色調の、つまり黒一色か透明ビニールかのどちらかを選ぶ。間違えたと釈明し易いことと、元の持主も間違えて似た別の傘を手にするだろうことを期待している。そして、濡れ晒しのまま傘立にぶち込まれた傘よりも、畳んで留めた傘の方が引き抜き易い。更に、傘立の端の方にぶち込んである傘ほど歩速を落とさずに素知らぬ顔を作って抜き易い。中央の方で入り組んだ「傘の内側に傘」などのややこしいあたりは一旦立ち止まる必要があり、それは僅かの危険をも除去する本能からして敬遠するのだ。つまり傘盗人が狙う状態の傘とは、「傘立の端に、畳んで留めてぶち込まれている、黒か透明のもの」である。
となれば対策は簡単に導き出せる。傘立の真中のごちゃごちゃしたところに畳まずぐちゃぐちゃに濡れたまま、がちゃがちゃした絵柄の傘を放置すればよい。ただし余りに高級な雰囲気の傘である場合は逆効果となることに気を付けねばならない。
そして実験した。午前中コンビニエンスストアの傘立の真中に茶色の傘を畳まず放置し、意図的に忘れて雨の中を潜り抜ける。夕方再び訪れた際に残ってあれば傘盗人対策の効果が実証されるわけだ。
さて、実験結果を報告せねばなるまい。夕方再び訪れようとする頃には雨がすっかり止んでおり、肌寒い風が音もなく身を包む。路面は既に乾いていて雨が止んで後、ある程度の時間が経過したことを示している。無事に残っているだろうか。それとも検討空しく連れ去られただろうか。おおコンビニが見えてきた。
コンビニの入口にあった筈の傘立は片付けられていた。確かにもう雨は降っていないがね。雨の降ったその日の夜までは傘立くらい出しっ放しにしておきなさいよ。朝に傘を持って出たり途中で傘を買ったりした人が訪れることを考慮しなさいよ。雨が止んでいるから乾いた傘なら店内に持ち込んでも構わないとの思想は理解出来るが、俺の傘は何処へ行ったんだ。つまり。
実験は成立しなかった。従って各員独自に技術を確立するがよい。もう本当に馬鹿馬鹿しい。
- 苦悶 04/11/30
超ひも理論について調べながら足を組み替えた時に金玉をごりっと挟んで苦悶した。
そうか。これで説明出来る。男にしか判らないとされているあの痛みが説明出来る。男たるもの普通に生きておれば何度かは打撃を受けるもので、手前も当然酷い事例がある。小学校六年時分に放課後近所の友人と遊んでいる最中、その年頃の子供の思考回路など想像出来ないが、想像出来ない割に大して成長した覚えもないが、とにかく当然のように意味不明な行動をするわけだ。
きっかけなど忘れたが「ガードレールの上を歩く」という容易く惨状が予想出来る遊びが始まり、当然それは序々に規則が整えられてゆくわけで、最終的には「十秒でどこまで走れるか」という恐ろしい取り決めが為された。ガードレールの上とはつまり鉄板の端であり、綱渡りの綱よりも遥かに薄く細くなっているから立ち止まると左右どちらかに傾くのであって、途中にある支柱は無視されるからともかく一気に駆け抜けねばならなかった。
跨いだところで辛うじて爪先立ちになる程度の子供がするべき遊びではないのだが、何故か盛り上がっていたから誰も危険とは考えない。通常ガードレールの上は走るように設計されていないから予想通りの悲劇が待機している。足を踏み外した瞬間咄嗟に左右どちらかへ大きく飛べば回避可能と考えるのは余裕がある場合に限られ、両足を同時にそれぞれ左右へ踏み外すとその場で垂直に落下する。
辛うじて爪先立ちが出来る子供の股に鈍い刃が迫るのだが、その刃が垂直であったならば恐らく股関節が粉砕されただろう。しかしながらガードレールの天辺は垂直よりやや角度が浅くなっており、すなわち上を向いている面と体重を乗せた股間の間に金玉が緩衝材として挟まれたから、どの骨にも異常はないまま鈍痛で呼吸が出来ずに痙攣していたのだ。
この鈍痛を淑女諸姉に説明する適切な言葉を発見した。ブラックホールだ。金玉に打撃を蒙ると下っ腹にブラックホールが発生し、気力ほか種々の感情や雑念・思い出・当面の課題などなどあらゆる思考と生命エネルギーが無制限に吸い込まれてゆき、例えその瞬間世界が終末の秋を迎えようとも微笑みをもって受け入れるほど苦しい。呼吸不能だから喋ることが出来ずに「大丈夫?」と訊かれると「うんうんうんうんうんうん」痛いという表現を超えていて、ひたすら「何でもいいから楽になりたい」とだけ考えている。
そんな恥ずかしいことで病院に行くことなど考えもせず、しかし結局潰れもせず出血もなくて排出作業も屹立衝天も正常に機能するのだが、やはり影響として弾丸諸君の製造量が少ないのであり、常時安全である以上に馬鹿の血筋を自らの代で断つ事が出来るのは歪んだ喜びでもある。
- 虹 04/12/06
虹とは光線と霧の角度を調整すれぱ見えるものだ。
両端は必ず地面に突き刺さっているか途切れて消えているのであって、しかし完全なる虹とは円形になっているらしいことは何かの写真で見た覚えがある。あれは確か尼亜加拉瀑布だったろうか、七色の輪が落水を背景として宙に浮かんでい構図は神秘的と呼べるものであった。
「四角い太陽」と「真円の虹」は死ぬまでに是非一度見てみたい現象なのだが、見ることの可能な場所が限られているならば、その場所へ行くしか方法はない。しかしながら見えるかどうか判らないのに遥々太平洋を横断するほどの余裕もないのでおそらく一生適うことのない夢だろう。
通常の虹が極めて近く見えたならばつい手を伸ばして触れたくなるのは本能であろうが、それは視線の角度を上手く保ったままでいることが要求される。失敗すると忽ち消失してしまい再び見える角度を探そうとしている間に太陽はあっさり雲に隠れてしまうことになっている。その場を動かずじっと待機して、ついに忍耐力が破裂してどこかへ去ろうとした瞬間に陽が差すことになっているのも腹が立つし、その場でじっと待った甲斐あって再び陽が差した場合でも、太陽の位置が微妙に変わっており二度と見えなくなっているのはお約束と呼ぶべきなのか。
それでも水を撒いたりする機会があれば可能な限り虹を出そうと試みるわけで、理科に通じる全ての科目が苦手であることから虹が上手く見える角度の調整方法を知らず、仮に見えても円にはならず、どうにか円の虹を出そうと毎回太陽を背にしたり直接見たり横に向いたりしつつ、水をなるべく霧状にしてこれまた前や後ろや左右に散布してどうにか虹を発生させようと苦心するうちに、毎回毎回迂闊にも真上に吹き上げてしまった水を被る羽目になり、そこで必ず我に返って諦めることになっている。
- 選 04/12/17
独断と偏見で個人的な十選などを作ろうとするのは難しい。
たったひとつを選ぶ場合、それはそれであれかこれかで迷うのであり、しかしひとつならば間違いなく独断と偏見であるから問題はない。個人的な選では独断と偏見に左右されるのは当然の話であり、むしろ個人として選択が独断と偏見を排除するほうが難しい。だから好きなところだけを選べばよいのだ。
それが五選程度であれば全て独断と偏見でどうにかなる。しかし十選となれば状況は変わる。前半は順調に選択を重ねても、後半で迷い始めるのだ。「あの分野からひとつ入れよう」「この分野からもひとつ入れた方が」「そうなると全体の順番を入れ替える必要が」「あ、これは番外だ。番外も同時に作ろう」「もう一度最初からやろう」「やっぱり飽きたからやめよう」
独断と偏見で作っている筈の選が、何故途中でバランスを取るような方向に走るのか。最後まで独断で駆け抜ければよいではないか。
これを避ける方法が三つある。第一の方法は、煩雑さを覚悟の上でジャンル別に選を作る。ジャンル毎に独断と偏見が活躍するから個人的には満足するが、性格を色濃く反映する選とはなりにくい。そこで第二の方法としてジャンル別の上位を機械的に選び、それを格付けする方法だ。しかし「こっちの二位よりあっちの四位を入れたい」などと再び混乱が始まる。そして第三の方法としてある程度の数を揃えた上でトーナメント形式による選出法に辿り着く。
しかしながらここには罠がある。まずトーナメントならば予選免除いわゆる予免を作りたくないから、適正な数を揃えねばならない。そこでかなりの時間を要した上で、次に組み合わせ方法は如何にすべきかと熱中する。既に当初の目的から遥かに脱線している。いつの間にか楽しみに変化した諸々の整理を終えて、トーナメントを開始し、戦わせてゆくうちにふと「これでは第一位を選ぶことになってしまうようだ」と気付くが、最早戦わせること自体が楽しいから続行する。しばらくして「十選だったのにベスト8までしか選べない」とも気付くが、もう止められない。
最後に嬉々として敗者復活戦の組み合わせを考えたりしていると、つくづく無駄な時間であるなと感じるわけだ。
- 精算 04/12/18
例えばスーパーで夕方ならば精算の列が長い。
その場合、常連である人や観察力の鋭い人は最も速く流れるところを的確に選ぶことが可能との噂がある。速い遅いとは言ってもその差が一・二分程度ならば、速そうなところを選ぶのは無意味に思える。しかしながらどこを見ても数人以上並んでいる場合は本能的に速く進むところに並びたくなるのであって、その選択が迫られる場面での話だ。
どの精算列も五・六人並んでいて非常に滞っている印象があり、どこに並んでも大差ない待時間を要すると察せられる。それでも精一杯状況を読もうとする。まず一列だけ飛び抜けて長い列は七人いる。まずそこは外すべきと思ったら、レジの中には品物を通す人と支払い釣りの人つまり二人居る。これはどういうことか。皆が皆二人居るから速いだろうと思って並び長くなったのか。それともたまたま長い列にたった今救助が入ったのか。よく判らないが他は全て一人で精算作業をしている。どうする?面倒だからそこで勝負をかけるか?
八人目に並んでみた。並ぶとガムや煙草や電池の陳列に邪魔されてレジの中が見えない。それでも二人居るならば他と同じ程度か少し速いだろうとの期待を担ぐ。
さて、並んでいる間は多少の時間があるわけで、あたりの文字を眺めていると「一個が85円、六個で498円」何だか安そうに見える。つまり六個纏めて買えばどのくらい割安になっているのか。計算してみよう。85×6は、80×6で480、5×6で30、足して510、つまり12円安いから、一個あたり二円の割引、たった二円を割引と呼ぶ度胸が信じられなくて何度か計算し直してみるが、やはり割引額はたった二円なのであって、これに騙されたら悔しいだろうなどと考えていても、列は全然進まない。
他はすいすい流れているが、こちらはやっと六番目の位置まで来たところだ。著しく通行の邪魔になっているが、多分俺の責任ではないと思うぞ。後ろに三人ついているから計九人並んでいる。それにしても遅すぎやしないか?
五番目まで来てついに真相が暴かれた。品物を通す人はレジ作業が本日初めてらしく、割引のシールでどこを押せばよいか混乱し、同じ品物が複数あればどこを押せばよいか混乱し、更には区切らずに次の人の品物を通してしまい、レジがぴいぴいと鳴り始めた。
列が多くて救助に入ったのではなくて、研修中故の救助による二人作業であったことが判明した頃には既に四番目まで来ており、混乱したレジの復旧を待つしかなく、レジ一人作業の隣がすいすい流れるのを見て自らの観察力の至らなさに愛想が尽きた。
- 裏目 04/12/19
静かに落ち付いて振舞おうとすればするほど裏目に出る。
目測を誤って足の小指で何かの角を蹴るのは当然の儀式である。場合によっては肩をぶつけて体の方向が一瞬に変わり、しかし慣性の法則に従う結果斜行するのであって、およそ気障とは程遠い。
「何もないところで躓く」も相当な屈辱感が残る。自らの踵に躓く場合は内股になっていたことが判明するし、何もない平坦で磨き上げられた床に爪先が引っ掛かるのは腿上げの力が衰えていることを示している。
セルフサービス式の喫茶店で飲物を買う列に並んでいると、目の前に冷蔵ショーケースがあり、中にパンやサンドイッチなどが並んでいる。セルフサービスならば自ら摘み上げ提出精算するのであろうと考えて卵サンドに手を伸ばすと、ケースのこちら側はガラス張りになっていて突指する。余りにも磨き上げられていて、また天井の照明が反射しないような角度になっているから困る。
自動ドアとは言っても「ここを押してください」もしくは「ここに触れてください」という表示がなされた半自動ドアの類があり、押すことに気付かず数秒突っ立っていると、出てくる人が押すのを見てやっとそうだったのかと合点する。照れるから一旦道を譲り、入るべく一歩進んだ瞬間に閉まろうとしたドアに挟まる。
電車の中で立ちながら本を読んでいて、乗降により位置が流される場合、吊革から一旦手を離す。各々の場所が確定してから発車寸前に再び吊革に手を伸ばすわけだが、本に集中しながらなので吊革に伸ばした手はその辺を必死に探っている。一度で吊革を捕まえればよいが、幾度も空気を掻いている状態は恥ずかしい。
多少格好をつけて海岸で煙草を吸おうと試みても、風が強すぎて火が点かない。こちらが歩行者として車に道を譲ったら調子に乗りやがった七・八台が通り過ぎるまで待たねばならない。毎度毎度「手前だけが特別に不幸ではない」と自己暗示をかけるのは疲れる。
- 灰皿 04/12/26
灰皿だ。
喫煙者ならば大抵の者は灰皿をひっくり返してうんざりした経験があるだろう。中でも憎悪するのは麦藁帽子を裏返したような、UFOを上下二枚におろした形の、吸殻と灰を撒き散らす為にひっくり返す必要さえない、ただ傾ければシーソーの原理で勢いよく噴散する奴だ。回転させて投げればさぞや遠くまで飛ぶだろう。
円盤を叩き伸ばして角度を付ければそれでよしとする安易な製造方法により大量に生産されて、重ねて保管出来ることから安手の早出し飯屋などで見かけるわけだが、少し触れただけで大袈裟な音とともに跳ね回り、運がよければそのまま落ち着くのだが、通常は辺りを汚染する。
手が当たって跳ねた場合、当たった手が抑え付ける形になり、重力に忠実に従った吸殻と灰が手に降り掛かる。不幸にして喫い差しの煙草が縁に乗せてあれば、それも愚直なまでに重力に従う結果灰塗れの手に接触し、「どわっちゃあ」と手を真上に振り上げてしまい、吸殻と灰は益々飛散し、糞っ垂な灰皿はからんかららんと鳴り続け、火のついたままの煙草は吹っ飛んで都合よく服の上に着地して穴を開ける。
ロケット花火という近所迷惑な花火があって、あれはボールペンのキャップの如き形の片方が閉じられた筒の奥に火薬を押し詰め、それに繋げた導火線に点火すれば火薬の勢いは開口方向にだけ向けられるので推進力が発生し、竹籤で方向を安定させつつ喧しい音で飛んでゆき、最後に鳴って終わるものもあるが、基本的にそのような仕組みになっている。このロケット花火の火薬は当然危険物であり、間違っても目的外の遊びに使用してはならない。穿り出した火薬に点火するなどしてはならないし、その火薬が白色で煙草の灰に似ているからと言って灰皿に少しだけ振り掛けておき、それを知らない誰かが灰を落とした瞬間「しゅぼわん」と燃えて驚かせるような危険な悪戯など絶対にしてはならない。まだ一服しかしていない煙草が一瞬で真っ黒になるのは酷いことだし、心臓に悪いし、火事の危険がある。全体的に見て洒落にはならない。
洗い立ての硝子や陶器製灰皿に喫い差しを置いておく場合、稀にぴしりと鳴り真っ二つに割れる事がある。冷却と加熱が極端であった故の結果らしいが、焦るあまり燃えている煙草を処理しようと片割れに押し付けて消すわけだが、あの場合はひとまず咥えて落ち着いた方がよいのかもしれない。
- 自動販売機 05/01/03
自動販売機との戦いは常に敗北している。今回もまた。
新札が発行されてより薄々嫌な予感はしていたが、ついに激突する日がやってきた。硬貨を取り出し易い小銭入れを使っていることが災いして百円玉前後が品薄であり、一枚だけ残っていた新千円札で勝負が始まる。煙草ごときに一万円札は使いたくない。
最初の目的地であるへたれなコンビニは正月だからと閉店している。それは仕方がないから並んでいる煙草の自販機に少し緊張しつつ野口英世を挿入してみた。ひとまず吸い込まれて、一瞬の間の後にずるずる出てくる。二台あるからさして落胆もせず続いて試すがやはり受け付けられない。新千円札が無理なら無理と表示したまえ。
次なる目的地は煙草の自販機が四台並んでいるから間違いなく目的を果たせようと考えていたが、四台全て「だめでした」と項垂れて戻ってくる英世が情けない。ここで六台連続負けとなっている。すぐ近くに一台あった筈だ。あれで駄目なら熱い紅茶でも買って小銭に崩そうか。
また次の一台も当然のように使えない。ならば仕方あるまい。気が変わった。紅茶はやめだ。とことん勝負してやろうじゃないか。最早銘柄は何でもよい。ともかく英世で煙草を買うのだと決意を秘めて次の自販機を探す。目をやると通りの向こうに二台あるようだ。
渡って近付くと新千円札は使えませんと書いてある。二台とも書いてある。これで九連敗となった。少し離れて飲料自販機がある。紅茶はないがココアはある。もうここで諦めようか。自販機に十連敗なんて馬鹿馬鹿しい限りだ。よし、もうココアでいい、崩そう。英世くん、君はよくやってくれた。あれほど連続して偽札と疑われても挫けずに突入を繰り返した勇気を手前は決して忘れない。さらばだ。君は煙草ではなくてココアの為にその身を崩すことになるが恥じることはない。本当に感謝しているよ。
ところがココアは出てこない。不審に思って表示を調べてみると「釣銭切れ」が輝いている。ならばと十円玉を二枚投入しても依然として釣銭切れが赤いままだ。眼を近付けて価格が120円であることを確認し、釣銭が切れていることの説明を求めていたら、なんと「百円玉釣銭切れ」俺は百円玉が必要やねん!やあ英世くん、また逢えたね?
図らずも十連敗となってしまった。確かもう少し遠くに三台並んでいる煙草自販機があった筈だ。あそこで駄目ならいっそ煙草を止めてやる。
結局、煙草は止められなかった。
- 中華匙 05/01/15
レンゲと呼ばれる中華匙がある。
小学生なら持手のところまで窪みがあることに着目して液体を流し素麺の水のように飲もうとして服を汚すわけだが、蓮華の花弁に似ていることが名称の由来であるそうだからそれなりに敬意を払って然るべき存在だ。
しかし正直に本音を言わせて貰えば、あれは「喰いにくい」と思う。余人がどう考えているか知らないが、手前はあの中華匙を信用していない。液体を掬って口腔に流し込むなら確かに適しているが、ぱらぱらにほぐれる焼飯を喰う場合、序盤は快調でも終盤になると掬えず、已む無く皿に口を付けて掻き込む羽目になる。
皿に口を付けることが許せない美意識から皿を傾けて無理矢理掬おうと努力する姿は、傍から見て痛々しいことが自分でも判っている。厚い縁を乗り越えて無事に積載されてくれたなら問題ないが、追い込みすぎて傾けた皿の上から飛び降りようとする奴等が居る。仕方がないからひとまず一箇所に集めて匙の裏で押し固め、一気に掬おうとしても必ず脱落する奴が居る。
それだけではない。そもそも液体を掬うのに適しているから深く設計されている。焼飯を掬って喰べる場合、歯や上唇が匙の中央を浚う事が出来ないのであって、だから喰べている最中は匙には張り付いた奴等が非常に汚く見える。上唇で強引に浚う為には鼻を隠すほど匙を垂直に立てねばならず、その際匙を持つ手は親指で眉間を擦らねばならないから間が抜けている。横に持って喰えば問題なさそうだが、その場合上唇で匙に吸い付いている姿を周囲に晒す覚悟が必要だ。
皿へ盛られた焼飯に箸を使うのも違う気がする。焼飯を喰う為には匙でもなく箸でもなく、塊を掬い易く押し固めることも可能で残党も落ち着いた処理が可能な熊手が最も適していると考えているのだが、かつて中華料理屋で「フォーク下さい」と申し入れたところ、把手に熊猫の絵がついた小さな御子様用フォークを渡された事が精神的外傷となっているから、仕方なく中華匙で喰べる焼飯の様式美とは如何なるものかを考えながら掻き込む。
- 穿く 05/01/18
何かの験を担いでいるわけではないし殊更意識するわけでもなく、なのに自覚のないまま確立された方針のひとつに「ズボンをどちらの足から穿くか」という事例が挙げられる。手前の場合は常に右足から穿くことになっていたらしい。それを知るには次の行動が必要だった。
まず火鉢のような形に脱ぎ捨てられていたズボンを穿こうとして、ひとまずベルトごと掴み上げると蛇腹式に折り畳まれていた足の筒が伸びる。そしてまず左足を突っ込むと狂おしいほどの違和感とともに重心が後方に移動する。右足だけで立っていて重心が後方に移動した場合、左足を後方に差し出せばそこで落ち着く。ただし足がズボンに引っ掛かっていないことが前提条件となる。
足を突っ込んで体勢を崩したのだから当然左足は途中まで差し込まれている。慣れている足ならばいっそ穿いてしまってから後ろに足を出せばよい。しかしズボンを穿く際に右足一本で立つことが既にぎくしゃくした動きなのであって、また穿く際には引き上げる手との連携も重要となるが、普段必ず右足から穿いている以上右足の為の動きしか出来ないので左足からズボンを引き上げる所作がぎこちない。
そうなると右足一本で跳びながら均衡を維持するか潔く受身をとるかの選択しかないわけであり、咄嗟に「今片足で跳び廻ったら悲劇の連鎖が確実に発生する」と直感したので引力に従い後ろ受身をとった。そして無意識ながら常に右足から穿いていたことを知り、折角転がったのだからと両足を上げて一気に通し、足を下ろした反動で立ち上がると、長めに設定してある裾を踵で踏み再び後ろに倒れた。いくら何でも裾は予想していなかったので受身をとる暇はなく大の字に伸びた。
だから例えば映画などで慌ててズボンを穿こうとしているシーンを撮影するならば、役者に対して「普段と違う足から穿け」と指示するだけで慌てている雰囲気が完全に再現出来るだろうと思う。
- 耳抜き 05/02/09
耳から聞こえる音が変に遠くから響いているなら耳抜きをすればよいが、耳抜きを知らない場合は必死で唾を溜めて飲み込み顎を体操させて切り抜けようとする。耳抜きなら鼓膜の不具合がすぐに解消することを知ると早速やろうとするが、「鼻を摘んで鼻からいきむ」という行為は子供ながらにも矛盾を感じるのであって、摘む指をつい緩めて鼻水が噴出する。仕方がないから思い切り鼻をかむと鼓膜が更に突っ張るのであって、余りにも嫌な感覚だから顎を必死で動かしているうちにふと直る。
耳抜きという行為を体得したのはなんと大学生になってからであって、それまでは鼻と耳が奥で繋がっていることは理科だか何かの授業に於いて頭の内部の図を書き写す課題を通して頭では理解しているが、実際に繋がっていることを体で確かめたのは不幸なことに煙草を覚えた後だった。
煙草を当然のように喫っていると、時折「鼻から喫ってみよう」とか「火の方から喫ってみよう」とか「舌で煙草を消してみよう」などと考えるもので、その中に「そうだ。喫いながら覚えたての耳抜きをしてみよう。耳から煙が出るぞ」があった。耳抜きをやっと覚えた頃とはともかく始終鼻を摘んで鼓膜を酷使していて、随分な音で空気が鼓膜のどこかを抜けるのを楽しむ。煙草の煙を溜め込んで耳抜きをすれば耳から煙が出るのではないかと考えるまでの距離は呆れるほどに近かった。
さて、実は「煙草の煙を耳抜き」は、この時一回きりしか経験がないのでその感想が標準であるかどうかは知らない。何故一回きりかと言えば当然その経験が精神力を著しく傷付けたからだ。煙草の煙を肺に呑んだまま耳抜きをすると、どうなったのか。
「ぐぇあぁあぁぁぁあっ。あっぐ頭の中が痒っいぃぃいいいぃぃ」
その折目の前に友人がいて耳から出るかどうかを目視していたが、全く出なかったらしい。つまり本来はフィルタや鼻の穴に付着するようなタールがとても調べる気にならない進路をとって鼓膜まで達し、初心で敏感な内壁にこってりと付着したわけだ。「鼓膜の奥が頭の中が猛烈に痒い」とは余りにも衝撃的で斬新な体験であった為、以降しばらくは普通の耳抜きさえも怖くて出来なかった。何故痒くなるのかは知らないが、知ったところで役に立ちはすまい。新幹線や特急でトンネルに突入した瞬間に煙草を喫っていたならば、耳抜きではなく顎の体操と唾の嚥下で対処するのが賢明だ。
- 免許更新 05/02/27
免許の更新期間が誕生日の前後合わせて二ヶ月になっていたとは知らなかった。
慌てる必要など全くなかったわけで、しかしそれよりも更新通知書をよく読めば書いてあったことが情けない。糊付されていて隅に爪があり「ここから剥がしてください」と書いてあるから剥がしてみて、格別の情報はなかったから更新に必要な物品を点検して更新に向かった。
本当に写真は必要ないのかと疑いながら電車に揺られていると、「印鑑忘れた!」更新通知書には印鑑が必要とは書いていないが要らない筈はなかろう。仕方がないから途中で三文判を買う。
番号の順に回遊していれば簡単なのだが、回遊の途中で更新通知書を引き剥がされた。二枚に折り畳んであるのではなくて三枚に折り畳んであったらしい。見ると更新期間や手数料等の最も大事な情報が隠されていた。これを知らずに更新しようとは恐ろしい。そういえば前回の更新では全部開いたような記憶もある。
試験場には駐車場もある。当然車が沢山停車している。ナンバープレートに薄く緑がかった透明の板を被せてある車がざっと五・六台居た。あれは確か速度超過で写真撮影されても適当に反射して実際の番号が写らないようになっているという、販売者が逮捕された品ではないだろうか。
退屈との評判しかない啓蒙映画は実に楽しめた。「悲しみは消えない」と題された映画で主題歌はさだまさしの「償い」主演は永島敏之なのだが、見所は何といっても「取り調べ警官役のいっぱいいっぱいの演技」「被害者の弟役の操り人形のような演技」に尽きる。人身事故の悲しさと悲惨さを訴える映画で笑わせてどうする。
結局最後まで印鑑は使わなかった。手続きが大幅に簡略化されているのは非常に喜ばしいが、ライター並みに増殖を続ける印鑑群をどうしろというのか。
新しい免許を手にして建物を出ると、そこは喫煙所だった。小憎らしい配置に笑みが零れる。
- 習慣 05/03/07
その習慣が無意識であればあるほど突発事態に対して不審な行動をとる。
小学生の頃には避難訓練なるものが行われる。まず訓練である旨の放送がなされ、ひとまず地震が発生したとの想定で机の下に潜らねばならない。授業が中断されることは喜ばしいにしても机の下に潜るという行動は何故か抵抗があってみな不真面目なままである。机の裏に鼻糞を見つけて騒ぐ奴、机を肩に乗せ立ち上がって中の教科書をぶちまける奴、一通りの騒ぎを終えると「上履きのまま運動場に集合」と念入りに放送される。
普段は上履きで外に出ると叱られるから大抵は嬉々としているが、それでも靴箱の周辺まで来ると必ず履き替えてしまう習慣が身に付いているもので、それを防ぐ為に教師が数人「履き替えないで!」と代わる代わる叫びたてる。運動場に整列して数えられ、退屈極まりない校長の御託を聞き流して教室に戻る際、出る時に履き替えて怒られていた奴を馬鹿にしていた人間はそのことを思い出しながらも上履から下靴に履き替えて教室に戻ろうとする。なんと強固な習慣であるか。
靴箱が並んでいれば履き替えねばならない衝動に囚われるわけで、考えてみればこれに類することは多々ある。駅の切符売場で直前まで「通り過ぎるべし」と念じていても、人の流れを避けているうちに券売機の方へ寄ってゆき、気がついたら行くつもりのないところへの切符を手にして茫然としている。
開いている玄関の鍵をわざわざ閉めてから入ろうとする事例などは日本中の経験を合わせると途方もない数になるだろう。これらに共通するのは確かに無意識であるが、無意識である以上に「注意力の散漫」と呼ぶが相応しい。杯と信じて注いだ酒は灰皿に溢れていたり、ライターを咥えて煙草をぽっきり折ったり、これらは単に間が抜けていてるとも評されるが本人は別の事に意識を集中しているつもりでいる。だから眼前の問題に対して注意力が及ばずに不本意なる評価が下される。
ひとつ聞きたいのだが右目と左目と右耳と左耳と右手と左手をそれぞれ独立して活動させるなど一体誰に出来るというのかね。
- カンニング 05/03/20
カンニングについて。
御存知の通り試験突破技術として認識されているものだ。cunningの本来の意味は「狡猾な」という形容的用法が主であり、英語では「cheatingチーティング」と呼ぶ。
「東京都大学の人々」というどたばた小説短編集の表題作はカンニングを扱った珍しい小説で在学中に読んだのだが、その内容の面白さから映画化されたものの壮絶なこけ方で今も語り草となっている。この原作にはカンニング技術が色々載っている上、実に面白いから読むことを薦める。小説嫌いの人でもこれは楽しめる。
大学の大講堂試験では楽だったが、英文読解ゼミの単位を落としてしまう。卒業論文はゼミで提出することになっていたのだが、三年次の授業選択の時期に資料を読んでいたところ、何故かゼミは必修ではないことに気付いてしまった。単位の管理はコンピュータが導入されていたから数だけ合わせれば問題なかろうとの読みは的中し、卒業論文を書かずに大学を卒業してしまった。ここでもカンニングは関係がなかった。
チャイ語と呼ばれていた中国語は必修であり、聴取試験と記述試験を組み合わせた語学力向上には効果のある試験であったが、語学力向上には余り興味のない学生一同は様々に秘術を凝らす。とはいえ頭のよくない大学であるから試験内容が難しくても老師は「ここが出る」と事前に教えてくれる。それをただ暗記すればよいのである。暗記するだけでも多少の効果があると老師は知っているのである。しかし学生は暗記さえも面倒でカンニングに走るのである。結果腕の内側にびっしり書き込み隙を見て掻きながら引き写そうと目論む奴、弦の太い伊達眼鏡に書き込んで眼を擦りながら確認しよう動きを練習している奴、小紙片を忍ばせる奴も当然居る。試験直前にそれぞれの方法を自慢していたが、至って普通の学生の姿である。
手前も暗記はせずに多少の策を弄した。「何を書いた?」と問われたのだが、カンニングするかどうかではなく、することを前提に内容を問うあたりは俺もお前も当然共犯者という意識が伺われた。試験は時間通りに始まるのであって、その為に老師は休憩時間中に姿を見せる筈なので注意深く「俺はせん」と答えておいた。予想通り早めに老師が来て、慌てる学生を無視して出席番号順に席を割り当てる。これで机に書いていた奴は全滅となり、後方の席に当たった奴には幸運が行く。手前は前から二番目の席だった。
席順の決定したここからが勝負であった。残る時間は五分もない。前から二列目という不運な席ではあったが暗記していないので勝負をかけるしかない。手前は最後の追込と見えるような猛烈な勢いで試験に出るあたりを薄い紙に書き続けた。この薄い紙は複写伝票と同じ仕組みであり、書いた字は無事机に転写された。再履修はこうして乗り切ったのだ。
- 雨 05/03/26
自転車で快走している最中に突然雨が降ってきた。
そもそも天気予報に興味を持たない理由は「雨が降るか降らないか」「傘を持ってゆくべきかどうか」を断定せず、降水確率などとぬかして誤魔化す態度が気に喰わないからだ。断定すれば予想を外した際に抗議が殺到するであろうし、それを根拠に玉虫色の予想へと進化してゆくわけで、「降水確率100%でも一ミリ降れば予想的中」「降水確率10%で100ミリ降っても予想的中」という占い師の如き処方が許せないから天気予報は大抵無視する。
無視した結果、外出時に雨が降っていない限り傘を持たないという単純な行動原理に支配される。すると急な雨に対して「なんで突然雨降るねん!」と怒り狂うことになる。街中を歩いている場合ならばどこかしら雨宿りの場所が見つかるものだが、自転車で遠出をしようと企み堤防沿いに数時間走り続けて、所用を達した帰りの道で急な雨に襲われると何もかもが嫌になる。
川沿いだから高低差がなく見晴らしも良いのでまさに快走と呼べる。交差する道路は滅多にないので体力を消耗する急制動急発進が少なくて済む。発動機の付いている車両は一切進入禁止であるから事故の心配はまずない。
そこに雨が降ってくるだけで川沿いの長所は全て短所に変化する。高低差がないので路面が均一に雨水を浮かべて重くなる。見晴らしが良すぎて雨宿りをする場所がない。交差する道路が滅多にないのですなわち逃道が封じられている。車両は通行禁止なので雨宿りが可能なバス停さえない。ただずぶ濡れになって泣きながら走り続けることしか許されていないのだ。
古本屋を巡って買い漁った数冊の辞書が濡れてしまうことの悲しさが泣いている理由であるが、止みもせず雨宿りも出来ない以上ともかく走り続けるしかない。これが国道沿いの道を選んでいたら、重い荷物を背負っての急制動急発進に苦しんでいただろう。しかし雨が降ってきたら休める場所など幾らでもあったろう。飲食店がなくても歩道橋の下で休憩出来たろう。
途中でやっと交差する道路があったから喜んで曲がり、初めて通る道で見た事もない町に進入する不安を押し潰し、血走った眼で雨宿り可能な場所を探す。町とは基本的に駅があり、その周辺に繁華街があり、その周辺に住宅地がある。住宅地の中を通る道路は狭く、歩道など飾り以下の役割であって、歩道の中央に佇立する電柱が自転車の通行を拒否しているので雨の中を前後車に挟まれて車道を走っていると対向車は容赦なく水飛沫を浴びせてくる。
やがて少し拡い国道に出て、相変わらず降り続ける雨を逃れる飲食店に遭遇しないまま歩道橋があったので疲れ果てて休憩する。歩道橋には地名表示板が設置されており、それによると繁華街には入らない道を通って次の町へと続く道を走ってきたらしい。つまり知らず知らず町を迂回しながら道に迷ったというわけだ。休憩していると雨脚は更に激しくなってゆく。
- 並列処理 05/03/28
頭が朦朧としている時に「カップラーメンを喰おう」「ついでに冷蔵庫のお茶を飲もう」と思った場合、並列処理が出来ないほど惚けた頭は勝手に最適化の処理をしてしまい、カップラーメンに冷たいお茶を注ぐ。「どうすんねんこれ!」お茶を慌てて捨てると湯に溶けてスープとなるであろう粉末も一緒になって流れてゆく。
味付けは後で考えるとしてまず落ち着こう。当面はお茶を被ってしまった麺を如何にすべきか。放っておいたらふやけるだろう事が容易に想像されるので急いで湯を沸かすべきか。容器を移して水を張って電子レンジで勝負に出るか。天日で干すか。いっそ捨てるか。それとも冷凍庫に放り込んで凍らせてから忘れた頃に捨てるか。
結局湯を沸かしてから醤油で味を調えたつもりで不味い麺を啜る。難しい事例を同時進行出来ないことは仕方のない話だ。しかし幾ら頭が惚けていてもペットボトルの蓋を外す行為を杯に繋げられずカップラーメンに注ぐのはおかしいと思う。口から色のついた液体が不規則に注がれているのに意識は「もう少し」「もう少し」「そこの線まで」ペットボトルの蓋を閉めようとしてやっと気付く。「これ烏龍茶やんけ!冷たいやんけ!」以降は上の通りだ。
完全に別種の行為を平行して行う場合は一方を処理している間にもう一方を完全に忘れてしまう。似ている行為の場合は必要以上に注意を払わねば間違った処理をしてしまい、強制終了を招く。よくある教訓だがこれを活かすのは困難だ。