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九九
迷子
ハンモック
糞詰まり

目覚まし時計
目覚まし騒動
自転車盗難
天中殺
廃車
占い
血の涙
倒れる時
真の姿
乗物酔い
ゴキブリ
旧五百円硬貨
賽銭
眠気
イヤホン
変態
いぼいぼ
階段
滑る


「喜劇と笑劇の違いは何だろう?」

「本質を描くか現象を描くかの違いだろう」

九九 03/02/06

 小学生の頃九九を習った筈だ。完全に暗記するまで繰り返し繰り返しあの退屈な呪文を唱えた筈だ。あれは何年生のことだったろうか。夏休み明けに暗唱テストがあったことを覚えてはいないだろうか。

 アメリカでは「九九」は「12×12」まであるという。なるほど1ダースはよく使う単位であるし12を分解して計算し易くするよりは暗記してしまう方が手っ取り早い。度量単位もメートル法でないとなればますます基本的な計算能力が要求される。にもかかわらず「アメリカ人は計算が速くて正確」という噂をまるで聞かないので、計算する能力の必要ない社会なのか、合理的かつ原始的な方法で対処しているか、あるいはその両方なのだろうと思う。

 考えてみると「九九」は小学校で習ったあらゆるくだらない事の中で唯一、役に立っているとは思わないか?

 さて、この「九九」典型的な日本の教育を受けた手前は当然いまでもスラスラと暗唱できる。何故ならば「九九」のうちのどの段のどの数であろうと迷わず反射的に正確な答えが出るからである。

 と思って試しに最初から暗唱してみた。

「いんいちがいち、いんにがに。いんさんがさん」

※ここで「九九」を「1×1」から「9×9」まで暗唱してみてくれないか。

 実際1の段など現実には使うことがなく、「どういう言葉で言っていたか」を思い出しながらであったからややぎこちなかったように思う。それでも間違えることはない。

 2の段、3の段は普段無意識に使っているらしくてあまり迷うことがない。

 4の段から怪しくなってこないか?反射的に口をついて出ると言うよりは妙に考え考え言わなかったか?すこしつかえながらもこの段を言い終えた時ひやりとしなかったか?

 5の段は簡単なのあっさりいくと思っていなかったか?「5×7」から「5×8」あたりで少し迷ったことを隠すつもりか?

 6の段。そろそろ自信がなくなってきていないか?すっかり暗記してもはや本能とさえ言えるはずの「九九」を暗唱する為に、「九九」を思い出さなければならないという矛盾に気が付いたか?

 7の段。手前はついにここで力尽きた。「ないちがいち、ななにがに。ななさんがさん、ななよんがよん・・・・・・」何かが違う気がしていながらそれでも止まらない。「ななごがご、ななろくがろく・・・」6の次が7だから「なななな・・・・・・・・・・・・をよ?」なななな。やっと気付いた。ここは「しちしちよんじゅうきゅ」であるべきだ。べきだと言うよりそうなっているはずだ。はずだと言うよりそうなのだ。

 あまりのことにしばらく放心状態であった。まさか九九を間違えるとは。しかも「7×1が1」以降小刻みにしか増えていないではないか。「7×7」までいってやっと気付くとは。しかも発音が「なななな」最初は(妙に言いにくいな)としか考えなかったことが増々烈しいではないか。しばらく茫然として、それでも「生活の中ではこんな間違いはしないから」と自分に言い聞かせて再び7の段に挑んだ。まさに挑んだと言うにふさわしい覚悟だった。「ちょとあんしょしてみよ」当初のそんな気分はもうどこにもない。そう7の段は「なな」ではなくて「しち」であるから

「しちいちがいち。しちにがに。しちさんがさん。うがああああああああああ」

 何故たかが九九ごときに。今回はうっかりという言い訳が使えないので落ち込んだ自分を慰める為にでっちあけた言葉。「『しち』と『いち』は似てるから」引き摺られた「しちにがに」は努めて忘れるようにした。意地である。これは九九からの挑戦である。いや自分への挑戦である。違う、若き日の自分への激励である。もうわけがわからなくなっている。

 「しちいちが・・・しち。しちにじゆゆゆゆゆうし。しちさんんんんんんにいいいいいいいじゆゆゆゆゆゆいち」何故か慎重になっている。この段を暗唱する為にひとつひとつ確認しながらなんとか間違えずに進んでいった。が。落とし穴は当然ある。ペースを掴んで波に乗ったと思った瞬間「しちごさんじゅうご!しちろくよんじゅはち!しちはごじゅろく!」激しい。実に激しい。アラビア数字に変換してみよう。「7×5=35!7×6=48!7×8=56!」何故7×6が48になる。しかも7×7が抜けている。

 もう諦めようと思った。俺には無理だ。単体では間違えないのに。もう九九なんて忘れたよ。そんなもの役には立たんよ。電卓があるよ。もういいよ。


迷子 03/02/10

 初めての土地を歩く時には大抵迷子になる。しかもそれを楽しんでいる。特別急ぐ用事がある時は事前に目印などを調べておくから迷うことはないが、そうでない時は進んで迷子になっているようにも思える。

 一応の目的地まで真っ直ぐ行けばよいものを、左右に商店があり小路があり裏路地があるとつい踏み込んでしまうのだ。最初のうちは凡その方向を角度として理解しているから大体この方向だと見当を付けて強引に進んでいくと、思いがけない場所に出たりする。突然大通りに出たりこじんまりとした神社があったり、行き止まりだったりする。そしていろいろ寄り道をしている間に次第に方向感覚を失い、適当に彷徨い歩いているうちにどこかで見たような辻に出る。

 ここはさっき通った。では別の道を行こう。

 これがよくないのだ。迷子になる決定的な瞬間である。一度通った道は二度と通りたくないものだから、その都度新しい道を選んで歩き、しかも引き返した方が明らかに得策であることがわかっていながら引き返そうとしない。進んで迷子になっている。常に新しい道を選びながら寄り道をしつつ目的地まで目的地まで辿り着こうとするのは不可能なことであり、迷子になって当然とも言える。不幸にも行き止まりに吸い込まれた時には何故か負けた気になる。

 その迷子の状態を実は楽しんでいるから手に負えない。「この道の先には何があるか」「ここを進んでいくとどこに出るか」「目的地の反対方向な気がする」などと思いながらも躊躇なく進む。完全に迷ってしまった時には反省などしない。完全に迷ったことがわかると俄然「目的地まで一発で辿り着いてやる」と燃えてくる。実際のところ方向音痴ではないから真面目に行けば簡単に辿り着くのに、わざわざ迷子になってからでないと真面目になれない性格が、これは最大の欠点であるかもしれない。


ハンモック 03/02/22・23

 歩きの旅といっても軟弱なハイキング等とは全然違うもので、まず前提として野宿の覚悟をしなければならない。野宿とは言え駅やバス停など、屋根さえ設備として在るならばどこでも構わない。テントに寝袋を持って行くとなれば多少それらしくもなるが、嵩張る上に重いのは致命的な弱点であるから極力荷物は減らすことなる。結果、装備品としてはその地域の「ツーリングマップル」、予備下着靴下を各二組、旅日記を書く為のメモ帳、それだけになってしまう。リュックなどではなく、普通のスーツケースで完全に間に合う。自分としては相当旅慣れたつもりでいるが、通常「家出」と間違えられることが多い。

 その誤解を解く為にある時からハンモックを装備に加えることにした。両端を広げて支える為の部分、ブラインドの上端と下端に相当するところが折り畳み式であればさほど重くはないし、かさ張らない。テントと寝袋を持つより遥かに楽であるから随分気に入っていた。しかし、欲というやつは尽きないもので、次第にこの支え木さえも鬱陶しくなってくる。いつか読んだグリンベレーのサバイバルマニュアルでナックルモックを見たことを思い出し、ロープのみで出来ている折り畳めば拳サイズにまでなるハンモックをどこかで売っていないかとホームセンターからアウトドアショップまで捜し回る羽目になる。どこにも売っていないことに絶望してついには「ロープ買ってきて自分で編んだろやないけ」となる。それでホームセンターにてロープを選ぶ。まず太さがいろいろあってなるべく細いものを使いたいが、強度に不安が残るのは避けたいので3mmではなく5mmのものにする。しかし次にビニールか麻かの選択を迫られる。それまで使っていたハンモックは麻のロープであったが、朝露、汗、ウィスキィなどが染み込んだ挙げ句雑草が絡まったり結び付けた木の幹の香りが移ったりしていたので、ビニールを選んでみる。

 一体どれだけの長さのロープを買えばよいか。

 これが難題であった。買う前に計算などしない文系の業をこの時程呪ったことはない。幸いホームセンターのロープ売り場には客など全く来ないので素早く寝転んで身長ふたつ分の長さを床のプレートを目印にして割り出す。横幅は70cmもあればよかろうと勝手に判断してみるが、では縦に何本使うのか。ハンモックの基本的な構成としては玄関あるいは台所にくじ引きのように垂れ下がっている紐を隣同士で編んでゆく形だ。従って多くあれば目が細かく強度も増す反面かさが増える。少なければ目が粗く強度に不安が増すがかさは減る。しばらく考えてみたが、答えなど出る筈もなく、「横70cmやから5cm刻みで14本。と、はしっこで15本」これが文系だ。

 その後は電卓コーナーで速やかに必要量を計算する。「3.5m×15本。50mでええか」それを買ってきてまず3.5mの長さに切らなければならない。しかしすべてをその長さにすると括り付ける部分が不足するので両端の二本は5m程にしなければならないことにやっと気付く。5mを二本とって残り40m。では4mにして10本に割るか。長いかもしれない。えい面倒な。巻き付けてあったものを全部引き出して半分ずつ折り畳んでゆけば1本が2本。2本が4本。4本が8本。8本が16本。完璧ではないか。予定より少し短くなりそうだが、だいたい3.5mなど物差もないのにどうやって計るつもりでいたのか。

 それでまず5mを二本とろうとするが、当然5mなど計ることが出来ないから、「大体このくらいの長さやったかな」と両端にあたる二本を切ろうとする。長さが適当であっても折り畳みさえすれば均等になるから気が大きくなっている。しかし、ぴっちり巻き付けられていたビニールロープを甘く見てはいけない。まあ、早い話がパーマ掛かっているわけですな。しかも相当性悪な。

 さて、まず両端の二本約5mを取るべくゴロゴロ引き摺り出してみたが、すぐに失敗するであろうことが判明する。どれだけの期間巻き付けられたままでいたのか知る由もないが、実に強烈なパーマが掛かっていたのだ。まだ何もしていないうちから失敗を認めるのはかなり悔しい。そこで例によって「意地でもやったろやないけ」となる。まず玄関の内側の取手に最初のはしっこを結び付け、軸にペンを通して後ずさる。何ヶ所か経由して窓の鍵に結びつけて折り返して玄関まで戻ってまず両端の5mを二本取ることに成功する。これを解くとちりちりになることが目に見えているのでそのままにして次は

「全部引き出して1本が2本、2本が4本、4本が8本、8本が16本の等分作戦」

 残りは約40mあるのだが。それを部屋の中で全部引き出して折り畳んでゆけると思うか。無理に決まっている。文系にもそれぐらいはわかる。従って最初にたてた計画はあっさり放棄せざるを得ない。結局玄関の取手からさっきより少し短めに繰り返し取れるだけとる、短く余ったら合掌だ。

 今度はどこにも寄り道せず直線で張る。いや、いちいち張っていられない。一本だけ長さを取る為に結びつけておいて順々にその長さで切り、床に落としておけばいいではないか。

 17本とれてしまう。しかも余る。短くなるかもしれない。完成図を想像しないようにして作業を進める。既に17本取る段階で飽きているのだ。

 まず十七本をまとめて掴み、ねじって結ぶ。長方形のハンモックではなく木の葉形になる。そして編む作業に取り組むのだが、3m超のちりちりになったビニールロープを二本まとめてだんごを作る時に通さなければならない。その3mがなんと長くて腹立たしいことか。絡み合ったラーメンのように関係ないロープまでついてくるし両手を精一杯伸ばしたところでせいぜい1.5m、最初の団子で暗澹たる気分に包まれる。もはや結目をいくつ作ればよいかという計算をする気力もない。かといってここでやめたくはない。選択肢はただひとつ。惰性で茫然と結び続けるだけだ。

 第一列の結目が揃った段階で少し気を取り直す。後はひたすら隣同士を結び続ければよい。ここまで三時間かかっている。徹夜になりそうだ。覚悟を決めて取り組む。

 当然例によって落とし穴がある。四列目あたりで拡げてみたところ、編目が細か過ぎるのだ。スイカを包むのではない。これはハンモックなのだ。解くなど考えもしないから以降は少し列と列の間をあけよう。

 その結果列が揃わなくなる。微妙にずれて七列が六列と合流している。阿弥陀籤ではないのだぞ。ここで腰が軋み始めたので柱の上の方へ結び付け、玉簾の様にして立ったまま作業を続ける。

 隣同士を結び付けるのだが、結んだ後垂れ下がるときに右寄りか左寄りになるかわからないので右端からスタートした奴が今どこにいるのかわからない状態になっている。「やっぱり阿弥陀籤やんけ」と呟く気力すらない。試しに残りを手櫛でほぐしてみたところ、何故か下端が揃わない。おかしいではないか。きちんと同じ長さで取った筈ではないか。

 「ところで5mの奴は?」

 忘れていた。どうするつもりだ。仕方がない。一番右端と左端の目の中を上下上下と通せばいい。強度なら絶対に大丈夫だ。このごわついたロープを見ろ。このちりちりになったロープを見ろ。この激しくパーマのかかったビニールロープを見ろ。心配はいらない。絶対に心配はいらない。

 下まで結び続けて下端をねじって結ぶ。5mを通す。出来たか?出来たようだ。畳に広げてみよう。少し小さいようだが。これだけ結ぶとちりちりも気にならなくなる。目が最初密で段々粗くなっている。疲労度と集中力の衰退をそのまま現している。上に寝てみる。「短い」これではハンモックというよりも吊るした網椅子にしかならんぞ。

 翌日木に括り付けてみたところ、ベビーベッド大であることがわかる。そして黙って外し、捨てる。

 一年前の出来事だ。この件から学んだことがいくつかある。まず、太さは3mで十分。ビニールは性悪。3.5mと5mでは短すぎる。50mでは足りない。あらかじめ計算しておけ。そして

 「ハンモックは買え」

 買った奴を改造する方が早いし楽だ。自分で編もうとはするな。やるなら本気でやれ。丸一日かけて失敗すれば、どんな馬鹿でも次は上手く出来るだろう。もう少し頭が良ければ買うだろう。ハンモック、安いものなら2000円以下から売っている。

 この失敗を貴重な共有財産としてくれたまえ。俺は二度と作らんぞ。


糞詰まり 03/03/21

 便所がつまったこと。

 まったくよ、いい年こいて便所つまらせてる場合ではない。あの、茶味噌をですね、流し忘れますね。それで紙が水を吸いますね。すると干上がりますね。茶味噌固まりますね。つまるんですね。

 いまどきのホームセンターには先っちょがゴムのお椀状になっている「ずぼこっずぼこっ」て出来る奴を置いていないんですね。ぼろい荒物屋か金物屋に行かなければ多分ない筈です。棒かなんかを差し込んでほぐして貫通させるのもなんだか侘びしいのでやっぱりあれが欲しいですね。

 それより何よりあれの名称は一体何なんでしょうか。

 あれ一度使ったらまず便器の水で便器ブラシで洗い、屋外で陰干しし、次に外の水道で洗剤つけて洗って再び陰干し、最後に風呂場で入念に洗って再び陰干し、実に手間のかかる奴です。しかも置いておく場所がない。そのうえ何度も何度も使うわけではない。ホームセンターで置いていない理由が判ります。

 さて、まずこれから界面活性剤系の洗剤を溶いて便器に張り、頃合を見て流してみるつもりですが、それでも駄目なら「ずぼこ」の出動準備に取りかからなくてはなりません。そのためにまず買いに行かなければなりません。そのためにまずどこで売っているか探さなくてはなりません。

 およそ六時間後、結局ですね、売っている店を見つけることが出来ずに、界面活性剤系洗剤及びゴム手袋及び「ペットボトル洗いたわし」によって[ずごごごごご]と流れました。あれですね、軸がグネグネ曲がる奴で先っちょが耳掃除のようなボワボワのついてるあれ、ボワボワと言うてもそこはペットボトル洗い用ですからかなり突っ張っております。おかげで引き抜く時に「ピンピンピン」と茶味噌と溶けかかった紙が飛び散って結局トイレを徹底的に掃除することになりました。まあ、あれやね。やっぱりトイレはきちんと流しましょうな。

 追:その後何故かスーパーで見かけて名前を確認したところ、「洋式トイレ通貫カップ」の名で売られておりました。あれはお椀ではなくて壺状になっているんですね。で押し込んだ時にはじめて下半分が内側にのめり込んでお椀のようになるようです。昔のやつは普通にただのお椀状やったんやけどねえ。


薬 03/03/27

 薬は殆ど飲まない。

 常用していると、いざ危機にある際効果が薄れる恐れがあるからだ。薬の名前も殆ど知らない。知ってはいても何に効くのかまでは判らない。「大正漢方胃腸薬」「便秘にはコーラック」「痔にはボラギノール」など、薬の名前を症状と対で覚えている場合ならまだ楽だ。「キズドライ」も大変判り易くてよろしい。目薬もいろいろ目的別にあるのだろうが、「とりあえず目薬である」ことだけを頼りに、容器がそれらしき形をしていれば、銘柄にはこだわらない。つまりなんでもよい。

 正直なところ赤チン・湿布・正露丸、これだけで生きてきたようなものだ。それ以外に薬といえば精々「トローチ」「キップ」ぐらいのものであろう。特別健康体というわけではなくて、普段全く薬を飲まないので、何らかの危機には、とりあえず、煙草を止めてみる。野菜ジュースを多く飲む。症状が悪化して最早これまでと感じた瞬間薬局へ行く。病院は不思議に嫌いなので、手前の最後の手段とは薬局なのである。

 それで覚悟を決めて薬局に向かうわけだが、シャンプーなどを山積みにしてあるのを見て、やや怯む。薬局ならもう少し威厳が欲しい。籠に入れて日用品を特売している薬局は何となく信頼性に欠ける気がしないでもない。それでも自分が既に退引きならない状態であるから店内に突入する。有線放送が信頼度の低下に拍車をかける。薬局としては、自動ドアから小綺麗な店内に、消毒液の香り、優しく微笑んでくれる薬剤師のお姉さんの組み合わせが理想であるが、通常生活用品の特売を跨いで解放ドアを通って有線放送を聞きながら倉庫の様に積まれたありとあらゆる薬の壁をすり抜け、奥のカウンターで症状を説明しようとする相手はマスクをしたおばはんである。例え健康体であってもこれを体験するだけで熱が出ると思う。

 喉が痛いの熱があるの頭が痛いの適当に言うと、適当に選んで持って来る。これが男の薬剤師であれば、若くて綺麗なお姉さんであれば、「即座に選んで持ってきた。なんて優秀な人だろう」と感動するのであるが、最前まで知り合いと話をしていたところに割り込んで相談した身としては、おばはんが素早く持ってきた薬は「ホンマにこれでええんか?これ売りたいだけちゃうんか?さっさと俺追い出して世間話に戻りたいだけちゃうんか?」という疑惑が渦巻く。年を重ねた経験から素早く選ぶことが出来るのだろう。こちらが何となく自信なげに説明した症状から最適の物を選び出したのだろう。そう思いたい。思いたいが、無理だ。

 「むう」と迷っていると更にいくつか持って来る。違いをわかりやすく説明しているらしいが、どうでもいい。どうせたまにしか飲まないから何を飲んでも覿面に効くのだ。ひとつ選んで「これにします」

「サイズは?」

 ここは何か。ハンバーガー屋か。それとも仕立屋か。心の中でそう言っている間にまた消えて戻ってきたおばはんの手にはその薬の大・中・小。薬など買い馴れていないからとりあえず中を買う。ぎりぎりでしか薬を飲まない代わりに飲んだ時に劇的に効く体質になっているから、全部使い切る前に治ってしまう。こうして増々薬局に行くのが嫌になるというわけだ。


目覚まし時計 03/04/12

 目覚まし時計の話をしようか。

 実のところ寝起きが悪くて朝は極端に苦手である。苦手であるから目覚まし時計には逆恨みしている。そして増々朝が嫌いになってゆく。

 例えば朝も早よから授業の頭に出席を取る必修科目があり、何としてでも起きなければならない事態に追い込まれる。そうなると目覚ましが一つだけというのは不安であるから予約機能のあるものは総動員して朝に備える。まず目覚まし時計を目的の一時間前に設定し、電話のモーニングコールをその十分後に設定し、CDラジカセを更に十分後に設定し、もう一つある目覚まし時計を更に十分後に設定する。

 これらはベッドから近い順に鳴ってゆくことになる。まず枕元の目覚ましでとりあえず目が覚める。覚めるが起きることはなく伸ばした手で直ぐに止める。しかし十分後、少し遠い電話が鳴る。それでも起き上がることなく体を伸ばして電話を止める。また落ちそうになった頃ラジカセが鳴りはじめる。仕方なく起き上がり止めにゆくがまだ寝ながら歩いている。うんざりしながら戻ってまた落ちそうになっていたら部屋の一番遠くにある目覚ましが鳴る。止めにゆく頃には相当機嫌が悪い。

 何回かはそれでも一応起きることが出来ていた。しかし人間とは状況に馴れる動物であり、とくに前日酒などを飲むと次の日の朝は驚く程の対応をする。

 まず枕元の目覚ましが鳴った瞬間止めるわけだが、その後我ながら寝起きとはとても思えない確実な足取りで部屋中の目覚ましを全て鳴る前に止めてまわる。そして寝る。「必修・・・出席・・・無理・・・」

 何度もこれを繰り返すとさすがにこれではいけないと思いはじめる。人間とは学習もする動物である。時計の時間をきっちり合わせて、どうせ全部止めてまわるなら一斉に鳴りだすように設定しよう。いくら合わせたつもりでも必ず数秒ずれる。そのずれを冷静に聞き分けながら起きるとき、大変機嫌が悪い。

 そして機嫌が悪くならないような状況を学習してゆく。ラジカセは止めることなくそのまま流せるように音量は普通にしてラジオが鳴りだすようにする。これで止めにゆく必要はない。一番遠い冷蔵庫の上に置いてあった目覚まし時計は叩き壊してしまわないうちに使わないことを決意する。目覚まし時計はラジオとセットになっているもので時計をカバーするプラスチックが円盤状で回転して時間を設定出来るので止めるときには目盛りをふたつずらして二十分後に鳴るようにする。電話はそのままでよい。

 これで快適になった。しかし起きることも出来なくなった。


目覚まし騒動 03/04/13

 試行錯誤の末、必修のある前日は、夕方に寝て深夜に起きてそのまま朝まで過ごすことになる。素晴しい。ここに夜型人間が誕生したわけだ。

 電話のモーニングコール機能は二度寝防止のため、二度鳴るのでこれも時として腹が立つ。半分寝ている時に受話器を取り上げてみると

「 午 前 八 時 零 分 です」

「 六 秒ごとに 十 円の情報料が」という声を思い出させるこの起こされ方は情けなくて仕方がないのでやがて受話器を持ち上げることなく、片側をおよそ45度ほど上げてフックが上がった状態にしてから戻す。機械の声を聞くことなく指一本で電話を鳴り止ませることが出来る。あわてて受話器を取ろうとして手が滑ったときと同じだ。この技を完璧に修得したころに、朝方鳴る電話を止めた。もう一度鳴ったのでもう一度止めた。更に鳴ったので更に止めた。次の瞬間何かがおかしいと感じる。今三回鳴らなかったか?ベッドの中から手を延ばして上体を不自然に捻って三回目を止めた格好でしばらく凍り付いていると又鳴った。そっと受話器をとっておそるおそる耳に当ててみると

「なんで切るねんお前」

 状況に慣れ過ぎると突発自体に対応出来なくなる。なんで切るねんと言われて「モーニングコールかと思てん」「誰からの?」「いや機能の」「昨日?誰?」「・・・ちゃう。電話の機能・・・」「・・・あ、そか・・・すぐ切ったもんな」「・・・」空しい。

 目覚まし時計を八時に設定しておいて、そのことを忘れて結局ずっと起きていて、鳴るより早く家を出ることがある。鳴るように設定したままである。するとどうなるか。いろいろあって夜九時前頃に帰って来て鍵をまわしてドアを開けた瞬間奥の方で目覚ましが鳴っている。「ふおおおおおお。ずっと鳴ってたんかい!」慌てて駆け寄り止めることになる。

 帰って来たときに鳴っていたので慌てて止めようとしたら止める寸前に鳴り止んだことが一度だけある。一時間誰にも邪魔されず延々御用を果たしたわけだ。目覚まし時計が勝手に止まる貴重な瞬間を目の当たりにした希有の体験である。しかしよく考えてみるとこいつは朝も鳴っていた筈だ。近所迷惑な奴め。

 時として妙な時間に設定しなければならないこともある。「徹麻やろう」夜の十時に起きるべく設定する。不思議なことに爽快に目覚める。機嫌良く目覚ましを止めて出陣する。次の朝はそのまま起きっぱなしだから問題はないが、問題はその次の日、目覚ましを設定しても十時まで鳴らない。

 ある程度酒が飲めるようになり、寝酒をするようになると、深い眠りに唖然とする程のすっきりした目覚めが出来るので目覚ましの問題はなくなった。それてそれで別の問題に繋がるのだが、別の話だ。


自転車盗難 03/04/29・30

 自転車の鍵というものは、さも当然の如く紛失する。

 自転車の鍵の紛失に慣れてしまうと落ち着いた物腰で一旦家に帰り、レンチとプライヤを持って来て鍵を壊す。壊し方も手馴れたもので前鍵二分後鍵三分、怪しさなど微塵も感じさせない手早さだ。チェーン錠はどうかと言うと、少しばかり力と時間が掛かり、壊すのに手間取るのが嫌だから使ったことはなかった。

 あらかじめ鍵を紛失した場合に備えて、壊しやすい物を使用していた辺りが健気で微笑ましいが、今考えるとそれは同時に盗難に遭いやすいことも示している。事実盗まれた経験もあるが、その時は籠が前衛的な形になって戻ってきた。

 実際のところ、傘の芯で開いてしまう前鍵なら上から蹴り下ろせば0.5秒でそのまま乗ることが出来る。後鍵、サドル直下にスライド手錠のように施錠するタイプのものは鍵穴にプライヤを突っ込みこじ開けロックを解除する。それからキーホルダーのリングを抜く要領でからりと外す。

 自分の自転車の鍵を壊すこと五回、自転車を分解すること三台[公式発表]いい加減慣れるというものだ。何台盗んだのかとは、誰も訊かないようだから言わない。

 自転車は簡単に盗まれます。本気で持っていこうと決意した泥棒相手に何をしても無駄です。確かに鎖錠は少し躊躇しますが、その自転車が鎖錠をするほどの価値があり、なおかつ鎖錠をぶち切ってまでも盗む価値のある自転車ならば迷うことなく持っていくでしょう。手前がではなく泥棒がです。ただし高級有名商標ものの自転車を狙うプロではなくて単に「疲れたから、ちょい、借りるし。返さへんけど」という泥棒ならば鎖錠は効果があるのか。多少はあるでしょう。もっと楽に外せる自転車に狙いを定めます。では高級自転車ではなくて鎖を標識の根やガードレールに絡ませてあるならば盗まれる恐れはないのか?

 ある。実に簡単な方法がある。

 自転車で大阪から九州まで行ってしまうような者から言わせて貰えば、実際には鍵を壊すより前輪を外すほうが楽なんですよね。

 説明はややこしいので自転車泥棒の背後霊視点で話を進めよう。

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 さて自転車を盗みたい泥棒がいる。いくつか自転車があるが、鎖錠で前輪とフェンスを絡ませてある自転車Aがどうしても欲しいらしい。さて取り出したのはモンキーレンチ、これ一本で鎖錠を外すつもりか。いや違う。前輪の車軸のナットを外し始めた。右面左面両方間のナットとワッシャーをポケットに入れた。なにやらタイヤに目を近づけている。何を見ているのか。呟いている。「26インチか」あたりに目を走らせ、別の自転車のタイヤを見ている。後鍵の前輪鍵なし26インチ自転車Bを見つけたようだ。同じくレンチで前輪のナットを外し始めた。ナットとワッシャーは一旦ポケットに入れてあとでどこかに捨てるようだ。その場に置いていくのはなんとなく不安であるらしい。二台の自転車共に前輪のナットを外してある。つまりハンドル柱を持ち上げるとタイヤはこてんと倒れる。自転車の前輪の留め方は「二股フォークに箸を挟んでフォークの表と裏のぎりぎりのところに輪ゴムで留める」のと原理は同じであって、フォークは車体、箸は車輪の軸、輪ゴムはナットであるから、輪ゴムを外せば箸はフォークの先に向かってするりと抜ける。ナットを外すだけで前輪が外れる所以だ。そうして辺りに人影のないことを確認してから後鍵の自転車Bの前輪だけを持って、前輪が鎖錠でフェンスと絡まっていた自転車Aのところに行く。自転車Aを持ち上げて前輪を外して、持ってきた自転車Bの前輪を前輪のない自転車Aに装着する。挿してナットをしめるだけだから実に簡単だ。早い。前輪が簡単に外せることを知っていて鍵のついていない前輪と鍵のついていない本体を組み合わせて素早く鍵を壊した形跡のない、もっと言えば鍵などどこにもついていない自転車が一台誕生したわけだ。ああ、もう乗っていってしまった。残っているのはそれぞれ鍵でフェンスに絡めた二台の残骸だ。

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 背後霊はその場で鎮座して頂き、その後の様子を報告して貰おう。

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持ち主が帰ってきたようだ。二人の友達だろうか。もしかしてこの二台の自転車ABはそれぞれの自転車なのだろうか。はたと足を止めてしばらく呆然としている。突然叫んだ。

「ぬをををををををををををを前輪がねえ」

「のををををををををををを前輪しかねえ」

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 如何でしたか。こんなに簡単に盗める、もとい、盗まれる方法がある以上、防御策として有効な方法など殆どありません。弁慶の如く武装させるならともかく普通の自転車にそこまでする気には到底なれず、とは言うものの矢張り盗まれるのは嫌だという貴方には、「盗まれにくい」方法を伝授致しましょう。ここに辿り着くまでが長い。調子こいて背後霊を召還している場合ではない。やけに詳しくリアルだという突っ込みは封印して頂きたい。よろしいですか?

 自転車を盗まれ難くする方法=「高級豪華な自転車」の隣に止める。そういう自転車がなければ、「簡単に鍵を外して盗めそうな自転車」の隣に止める。泥棒の気持ちになってみて、どれを盗もうか迷ってみればいい。すると自然に止める場所が決定する筈だ。そしたらあとは鰯の頭に祈るがいいさ。


天中殺 03/05/09

 天中殺とは一発当てようとした占い師が仕掛けた言葉であって、その目論見どおり流行したが、聡い人はすぐにからくりを見抜き、やがて廃れた。しかし、不幸が折り重なる状態、所謂「弱り目に祟り目」をずばり「天中殺」と表現するのはなかなかに楽しい。というわけで、天中殺に入ったある男の話を。

 それは吸っていた煙草が苦く不味くなったことで体の調子がおかしいと感じたことから始まる。妙に痰が絡むので覚悟を決めて薬局に突入し、ネオ・シーダーを入手する。それでも喉のいがらっぽさは治らず右側頭部がきりきり痛み出す。耐え難い痛みだ。図書館で頭を抱えて眠ってしまう。

 目が覚める。駄目だ。風邪かもしれない。ビールを飲んでみよう。最も気に入っている銘柄のレギュラーサイズの缶ビールを買ってみる。一缶飲むのに五分もかかる。何しろ一口だけで喉が勝手に閉まってそれ以上の流入を阻止するのだ。どうやら本格的に風邪を引いたらしい。

 そしてふらふら歩いていると車に撥ねられる。右から出てきた銀色の小型車が止まらず、どん。ボンネットに腰掛け、車の左側に転げ落ちたらしい。受身で命を繋いだのはこれで二度目だ。その昔原付でダンプの左折に巻き込まれたあの時も死ぬかと思った。一緒に逃げるように左折しても巻き込まれるんよ。それで小型車から降りてきた人が「大丈夫ですか!」答えて「ちょっと痛いけど大丈夫です。うく」と顔をしかめる。警察にはなんとなく行きたくないので「大丈夫ですか警察ですか救急車ですか」と言い募る気の良さそうなおじさんに「警察呼んだらややこしくなるでしょ。保険料も上がるし。僕も以前人にぶつけていろいろ大変でしたから」

 彼は教習所以来四つタイヤのある車を運転していない。「でも病院は行ったほうが」「ええ。一応行ってみますけど大丈夫だと思いますよ」「じゃあ病院まで乗せていきますよ」「いえいえ大丈夫です。歩けますし。階段から落ちたことにしますよ。大丈夫ですから。お急ぎでしょ?」「はあ。あの。そうですか。では。あの。じゃあ。これで」財布の中のお札を全部掴み出す。二万四千円。当たり屋開眼の瞬間である。「あ。そうですか。では。これから気をつけて運転してくださいね。それでは」「ほんとにすみませんでした。では」車が去っても当然病院など行かない。右膝が少し痛むが普通に歩ける。さて、このお金。どう使おうか。

 パウダーマッサージに溺れた。

 ところが寝返りを打たされた時に変な角度に捻ったらしい。「あぎい」右膝に電流が走る。日本語は通じないが痛いことはわかるらしい。新人だとの触れ込みでおばさんと一緒に客引きしていたその子はおろおろするばかり。「OKOKいたたた」「イタイデスカ」「うん右膝痛い」「ミギヒザ何デスカ」本当に新人らしい。いい腕しているが言葉が通じないのはいざとなると困る。焦りまくったその子は奥に消える。

 呼び込みのおばちゃん登場。嗚呼。所詮は泡銭なのか。

「階段から落ちて・・・。右膝痛くて・・・。」「そう。じゃ優しくしてあげる」待てえええええええええい。新人はどうした。「日本語わからないからね。大丈夫よ。私が優しく」

 書きたくないことがいろいろあって、店を出るとき、右足に力が全く入らなくなっている事に気付く。踏ん張ることが出来ないのだ。かくん、と崩れ落ちそうになるので自然にびっこを引きつつ歩く。喫茶店で一息入れてメモ用紙を整理するべくテーブルに広げておくと当然のように紅茶が零れる。

 どうもここの街は相性が良くないらしい。次の街に行こう。

「人身事故発生の為現在ダイヤが乱れております。乗客の皆様にはご迷惑をお掛けしますが・・・」終電間際なのにすし詰め。痛む足で立ったまま。

 サウナつきのカプセルホテルに飛び込んで、まず汗をかいて風邪を治そう。サウナ水風呂サウナ水風呂サウナ水風呂サウナ水風呂サウナ。五回の表、脱水症状で倒れる。脱水症状というものは足が痙攣する。偶然だが右膝を痛めている。水をかけられ水を飲まされ意識がはっきりすると右膝の痛みもはっきりする。乾燥機から出した洗濯物のうち、靴下が片方ない。

 彼は今、痛む右足を引き摺りつつ、長い旅の途中である。

 まだ風邪は治っていない。


廃車 03/05/17

 廃車にしようと見積もりに出したら笑う気にもならない査定額に呆れ返ってある計略を実行した男がいる。

 まず車の中の大切なもの、特に金目の物をすべて引き上げ、事実上カスとしか言えない状態にしてからパチンコ屋に行き、スペアキィをわざとドアに挿しっ放しにしたまま数時間じっと遊ぶ。何とか査定額より少し多い額の勝ちを収めて駐車場に戻ると物の見事に盗まれている。踊りだしたくなる気持ちを抑えてパチンコ屋の店員に車がないことを告げ、一緒になって一通り駐車場を回って陰も形もないことを確認し、警察に連絡することになる。

 パチンコ屋としては「責任は一切ない」と明記した看板を掲げてあるので何も不都合はない筈だが、やはり少しは具合が悪いらしい。「もしかして鍵を挿しっ放しにしていたのでは 」鋭い奴と思いつつ「あります。ほら」と普段使っているほうの鍵を見せる。

 普通に廃車にしたほうが楽だったのではないかと思える諸々の手続きを経て、最大の目的、保険会社との交渉が始まる。詳しく言わなかったが、知恵袋がいたらしい。結果的に廃車にするより遥かに多くのお金が手元に残った。

 という話を聞いた奴が感心して同じことを試みる。

 しかしまず十年物の軽自動車で実行しようとする時点で無謀である。盗んでもらわなくてはならないのだ。中古で買ったその車の保険を確かめ、まず金目のものを引き上げることにする。ところが、軽自動車に乗り、保険を狙うような奴であるから金目のものなどない。ジャッキセットを車内に残しておくかどうか散々迷った末に役に立つことがあるかもしれない、と引き上げる。当然カーステレオなど積んでおらず、ジャッキセットが唯一の金目のもの、金気のものだと思うが、最も価値あるものだったらしい。カス以下の走る粗大ゴミと化したその車を運転してパチンコ屋を目指すが、かつてスペアキィを紛失したことを思い出す。キィを挿しっ放しにするために、盗まれた後過失がないように鍵はもっていなければならないから、盗ませるためのスペアキィを作らなければならない。思わぬ出費に少し不機嫌になりつつ、スペアキィをもって改めてパチンコ屋を 目指す。程よく郊外で程よく寂れていて程よく派手な車が止まっている。ここなら簡単に盗んでくれそうだ。駐車場を一応回って監視カメラがないことを確認し、キィをドアに挿したまま入店する。

 彼の不幸は普段パチンコをしないことだ。意味がわからないまま手持ちの二万円を使い果たし、少し早いが仕方なく駐車場に戻る。盗んでくれただろうか。盗難保険で設けることができるだろうか。その小さく薄汚れた車は遠くから一目見て判別できる。駐車場に一歩踏み込んだ瞬間、無事に止まっている。駄目だったか。その後、二件のパチンコ屋でも放置して無事だったことから誰も盗んでくれない車に乗っていたことに少し寂しさを感じる。

 すでにかなりの出費がある。見積もりには出していないが、引き取り料としてこちらがいくらか払わなければならないことは感付いている。誰も盗もうとしない程の車なのだ。どうにかして保険を。

 ここで彼はついに自作自演狂言に走る。車に自転車を積み、山奥に向かう。誰も来ないところでよく働いてくれたその車に「ありがとうな、ごめんな」と呟き、車を壊し始める。ナンバープレートは外して別の日にどこか遠いところに捨てるつもり。タイヤはすべてナイフで切り裂き、ガラスはこぶし大の石を繰り返し投げて皹だらけにする。ボンネットもドアもぼこぼこにして割ることのできるライト類はすべて割る。だんだん熱中してきて罪悪感が消え、シートの首を外して放り投げた時点で手を止める。最後に鍵を壊しておこう。鍵穴にマイナスドライバをねじ込み、捻り回して壊す。

 さあ、自転車で帰ろうか。帰りはずっと下り坂であるから楽なのだ。帰ってきて、自分の駐車場から車が盗まれたことにして警察に連絡する。

 うんざりするような手続きを経て、保険会社に連絡をする。さあ、盗難保険だ。

 わくわくしながら連絡待ちの日々。やがて一本の電話が警察から入る。「盗まれた車が見つかりました」「残念ですが走れる状態にありません」「かなり壊されています」「タイヤどころかホイールごとないのでレッカーは無理です」「エンジンもありません」「もう乗れないので廃車ですね」誰だホイールを持って行ったのは。誰だエンジンを持っていったのは。

 運送費。パチンコ代。スペアキィ代。廃車手続き。スクラップ引き取り料。三十万円で買った車を処分するために、また三十万円かかったという。

 彼を与太郎と呼びたい。こういう馬鹿が本当にいるのだ。


占い 03/05/23

 さて、ところで貧乏な格好をした占い師を信用するだろうか。それともド派手な格好をした占い師を信用するだろうか。あるいはどちらも信用しないのだろうか。貧相な占い師が「運命は自分の手で切り開くのです」まずはお前が自分の運命どうにかせいやと思うだろう。ぎんぎらぎんの占い師が「運命は自分の手で切り開くのです」あなたきっと自分の手では何もしてへんやろと思うだろう。

 盛り場の灯が消える頃、手相などと書かれたぼんぼりの灯りがよく見ると蝋燭ではなくて盗電していたりする。占い師は厳密に「占いをする」のではなくて「悩みを巧妙に聞き出して当てたと思わせる」セラピストもどきが主流であるから、悩みを誰かにぶちまけて聞いて貰えばすっきりする、というならそれでもいいだろう。

 なお、手前は中学生の時、親の本棚にあった占星術の本を読んだことがある。おのれは何とか木星であるからそこを見よ、とあったが、これだけ字があるのに勿体無い、と考えて最初から全部読んだ。全部読むと全部当て嵌るように書いてあることがわかった。それ以降まったく占いを信用していない。時々雑誌の占い欄があって、そこしか読むところが残っていない場合、やはり全部読む。全部読んでみて性格分析が全部当て嵌ることを改めて確認し「相変わらずやっとるな、騙して騙されて尚も双方共に幸せになるならめでたい事だ」とうつろに思い、やがて阿呆らしくなる。

 手前は魚座であるが、「魚座の貴方はロマンチスト」「魚座の貴方は芸術家」これをうんざりするほど繰り返されると確かに多少洗脳された気もする。しかし芸術家が全員魚座ではないし、魚座が全員芸術家でもない。それをわかっていながら芸術家を志していたらどうなっているかを夢想することもある。ロマンチストかもしれない。

 占い師の手口はほぼこうだ。

 「今年出会いがあるでしょう」出会いはいつだってある。気付かないか、気にいらないだけだ。

 「何か悩み事がありますね」あるから相談している。それを「どうしてわかるんですか!?」君には一生わからないと思うがね。

 「人間関係ですね」大抵そうだろうね。ペット探すなら張り紙とペット探偵だろうからね。

 「将来の不安ですね」誰でも不安だろうね。ところで占い師の年金どうなんだろうね。

 占い師は統計学と心理学を適当に組み合わせて相談者の心の安定を図ろうとする。巧妙に組み合わせることが出来るならば「どこそこの母」などと有名になれる。

 「なくした物を見つけてください」
 「それは大切なものですね?」
 「占いで当ててみてください」
 「では手を見せてください」「これが生命線」「これが頭脳線」「これが運命線」
 「なくした物は」
 「ちょっと待って」「今貴方悩み事がありますね」
 「そうですね。時間の無駄かどうか悩んでますね」
 「何か大切なものをなくしましたね?」
 「最初にそういいましたよね」
 「貴方はそれをなくしたことで困っていますね」
 「貴方は信用なくすと困るでしょうね」
 「何しに来たんですか」
 「鍵をなくしたんですが」
 「東南です」
 「今凄く適当に言いませんでした?」
 「すいません。貴方は私を信用していないようなのでこれ以上お相手できません」
 「さいですか。では」
 「あちょちょちょと」「心ざしを」
 「東南で見つかったら御礼にきますわ」
 「ああっ。貴方。近いうちに非常によくないことがあります」
 「いつものことやし」
 「貴方のそういう心が」
 信号ダッシュ。

 まあ、確かに茶柱が立てば嬉しいですけどね。


血の涙 03/06/01

 「血の涙」、空想の産物ではない。

 何度も流したことがある。とは言うものの、どこかのマリア像の如くべったり流れるわけではない。

 ものもらい、この言葉どうにも馴染みが薄いので「めばちこ」とさせてもらうが、瞼の際や裏が化膿する状態がある。寝起きどころではない腫れ上がり方に外出する気も失せるわけだが、眼科に行くと、切開されて膿を出し、ラベルのついていない目薬を処方される。しかし病院が苦手な奴は、瞼を無理矢理ねじってしぼってどうにかして自力で潰そうとする。「代わった所に出来たにきびだ」と自らに暗示をかけ、ぼろぼろ涙を零しながら目を抉るようにいじり倒す。

 微かに瞼が腫れる感じがして縁をじっくり見ると出来物の芽がある。これを放置すると出歩けなくなるので潰すべく色々な角度に瞼をこねくり回すわけだが、芽が小さい内はどうにもならない。医者ならどうにかしてくれるだろうが、医者にかかるのが苦手な場合、もしくは保険証がない場合、あるいはその両方の場合、針を使って突付くのは怖すぎるのでどうしても爪が主なる道具になり、しかし爪では芯が出て来ずに薄い膿液が染み出すだけで苦痛は続く。

 瞬きするだけで違和感を、出来物の存在を知覚する段階になれば、立派なめばちこに成長している。外出するのを躊躇うほどに成長すれば、簡単ではないが、潰せる。ただしくれぐれも立ったまま鏡に向かって瞼を捻るのは止した方がよい。途中で平衡感覚を失って必ず倒れそうになる。めばちこのある方の目は涙でよく見えないし、ない方の目はずっと変な角度で鏡を睨んでいたから霞んでいる。頭ががんがんして「くっはあ」とよろけるのは非常に危ない。

 さて、膿を潰して芯まで出すと、一瞬目が曇る。これには最初驚くだろう。膿液が目に一瞬で広がると目潰しを喰った気がして怯んでしまうが、落ち着いて目薬を点し、目薬ごとティッシュに染み込ませて拭き取る。芯も白目に張り付いているからティッシュに吸着させる。一息入れて、潰したできものの跡をもう一度、残りの芯がないかぐっと押す。するとにきびではそういう時血がじわりと出るだろう。めばちこでも同じだ。血が出る。そしてそれをティッシュで拭き取ると、ピンク色の涙が染む。「血の涙」だ。

 くだらない?そんなことはない。「勇午」という漫画で血の涙とは非常に薄いものでせいぜいピンク色に滲むだけだという記述があり、思わず快哉を叫んだものだ。「そうそうそうそうピンク色ピンク色。ちょっとの血は涙で薄まったらピンク色になるんよそうそう。こっちはめばちこやから非常事態やけど。でも常に少しずつ血が出る体質の人なら拭いたときはピンク色になるんやろな、いつでも」

 花粉症の時期、目をこすってしまってめばちこが出来てしまったら、一度自分で潰してみては如何だろうか。「血の涙を流したことがある」と言える経験が出来る筈だ。

 手前はもう四回血の涙を流した。今年はまだない。血の涙、ピンク色であるが、血は血だ。病院は、だって怖いじゃないか。膿を切開なんて。悪化したらどうするか。知らんな。目薬と気合でなんとかするさ。


倒れる時 03/06/12

 例えば唇や頬の内側を噛んでしまう時、血の出る場合と出ない場合があるが、血の出る場合、何故か噛む瞬間いや直前「あ!噛む!」と思ってから噛んでしまうのは手前だけなのだろうか。「噛みそう」などといった弱気な予感ではなくて実に自信のある予感があり、ほぼ同時とも言える間隔で「ぐに」血が出るわけだ。

 「噛む」と考えてしまうから反射的に或いは無意識に噛むのか、対処は不可能ながら確実な予知なのか、よく分からないが「くそう。わかってんに噛むなよ」とやり場のない怒りが血とともに滲む。

 「やばい」と思った瞬間つい噛み締める癖が原因なのだろうか。「やばい、噛む!」で噛んでいては意味がないのだが。しかし何かを咀嚼している時、「噛む!」と思った次の瞬間はそれまで規則正しく噛み合せていた筈の歯が不整脈のように突然乱れる。「もぐもぐもぐもぐぐぐ」「あ痛とわ」何故だ。

 これはもしかしてあれか。ゴルフで、手前はゴルフをしないが夏坂健のエッセイは面白いので読んでいたが、ついでに冥福を祈りつつ、ゴルフで「スライスしてはいけない」と思いながら打つと見事にスライスする原理と同じなのだろうか。強迫観念と体による負の学習機能が作用している気がしてならないのだ。

 「箪笥の角に小指をぶつけないように避けて通ろう」と考えて、「ぶつけたら痛いからな」とも考えて、確実に避けたつもりで「がつ」「うぐふ」何故だ。「だから避けようと」「だから痛いと」「避けた筈やのに」「痛ったいがなむおう」激痛と呼ぶに相応しいにも関わらず不思議に骨に異常はない。折れてもいず、皹も入っていない。箪笥に小指ぐらいで病院など行かないから確実に異常がないとは言い切れないが、大抵は痛みが治まると忘れてしまう。「そういえばぶつけたが」程度に思い出すわけだが、もしかすると足の小指とは凄く頑丈なのだろうか。骨は折れない代わりに痛みが激しいだけなのか。

 低い鴨居に「頭気をつけよう」一度目はまず無事であるが、二度目には必ず星が散る。

 この「星が散る」という表現は長い間漫画の中の表現だとばかり考えていたが、実際に星が散ると「ああこれか」と納得する。その後寝起き、久しぶりに煙草を吸った直後、貧血、湯当り、脱水症状、伸びをして血が頭に届いていない瞬間など、よくよく星が散っている。栄養状態に難があるだけかもしれないが、この瞬間は既に快感をも伴っている。

 蛍よりも小さい光が視界一面無数に跳ね回り、それは近いようで遠いようで掴むことの出来ない二重露出のような距離感に、星を見つめていると平衡感覚を失ってぶっ倒れる。

 虚弱体質ではない筈であるが、何故かよく倒れる。倒れそうになって踏ん張る勝負も楽しいが、意識が飛ぶ瞬間を体感する誘惑にあっさり負けることも多い。うんこ座りをして深呼吸を十回して急に立ち上がると頭に血が足りず、視界に灰色のもやがかかって耳がざーと鳴り、そのまま踏ん張って飛びそうになる意識を捕まえておく戦いをするか、「ふっ」と飛んでぶっ倒れるか、周囲の状況にもよるが、体中が痺れて痛覚が麻痺しているのでたまにやってみると面白い。こうして倒れる瞬間は女性のオーガズムの感じと似ているという話を聞いてからは複雑な気分であるが、まあよい。

 それから倒れる瞬間に必ず何かの角にぶつかる角度で顔と頭が落ちてゆくのは納得がいかないが、今のところそれで大怪我をしたことはない。


真の姿 03/06/16

 今まで着々と積み重ねてきた「物静かで生真面目な人」というイメージがこのメールマガジンによってがらがらがらがらと崩れ落ちる音が聞こえる。残念なことに髪の色や服装と眼つきで「普通の人ではない」と認知されることも多く、弱弱しい無精髭がそれに拍車をかけている。

 もとより会ったことなどなく、このメールマガジンを購読しているだけの方々であれば、どたばたコラムをそのまま信じて途方もない間抜けな奴と思われてしまう恐れがある。そこで少々妄想を打ち砕くというか真の姿を知らせるべきであろうと思う。

 まず、物静かである。決して居酒屋で酒の出が遅いとテーブルをだんだん叩いて「早よ持ってこい言うてるやんけ!」と叫んだりはしない。

 一升瓶を剥き出しで担いで持って駅のホームに立つと朝の混雑時の筈なのにさっと道が開けたりはしない。

 「シートベルトを締めよう」と書かれた摩周湖あたりの幟を旅の記念に持って帰ったり部屋に飾ったりはしない。

 四国をヒッチハイクで回るつもりで誰も乗せてくれず丸亀から池田の辺りまで延々歩いたりしない。

 酔っ払って先輩の部屋の壁をぶち抜いたりしない。

 切り替えギアの壊れた自転車で九州まで行く途中野宿していたら「迷惑だから」と寿司の折詰で追い払われたりしない。

 ダンプの左折に巻き込まれて死にかけたりしない。

 川で冷やしていたスイカを追いかけて溺れたりしない。

 電車の窓からゲロを吐いたら丁度反対の電車が来て向こうの窓に「ぴしゃしゃしゃ」とかけたりはしない。

 安眠枕で寝違えたこともない。

 寝起きの一服が寝起きの小火になったこともない。シェイカーで必死に消したりもしない。

 「スピリタス」をワイングラスになみなみ入れて火をつけるとグラスがぴしぴし割れて火が流れ出してパニックになって靴下を回転させながら叩きつけて消そうとしたこともない。

 JRの改札がまだ自動ではない時代、150円で上野駅から奈良まで帰ってきたりはしない。証拠の切符はインクが薄れて消えてしまい、ひとつの時代が終わったなどと溜息をついたりしない。

 柳生の里で浮浪者に間違えられたりしない。

 温厚篤実、品行方正、物静かで極めて落ち着いた人物像が浮かび上がってきたことと思う。コラムのどたばたはすべてネタである。趣味はと問われて「読書」「旅行」「映画鑑賞」と答えるほど凡庸な人間である。にも関わらず、だ。何故友達に友達を紹介されるとき、「ああ噂の」「ああ例の」と挨拶に枕詞が付くのだ。普段どんな噂をされているのだ手前は。そして何故挨拶が皆一様に「生きてたか」なのだ。おかしいとは思わないか。生きとるわい。うおお。たった今リーチツモドラ六というふざけた親倍を和了られたところだが、俺が何をしたというのか。可哀想に対面5500点しかないじゃないか。東二局だぞまだ。うおおおおおお。下家四暗刻ツモりやがった。まじでか。おいおいおい。終わったがな。・・・・・・・・・・・・。それよりな、梅雨腹立つよな。もうな、嫌やねん。梅雨。梅雨でなくても普通に雨降るけどな。雨男やし。でなくてな、動けんのよ。傘ないのよ。折角強烈な風邪治したところやのにぶり返すの嫌。ほんでな、もうな、今日な、今な、静岡に居るんやけどな、これからまじでどないしよか。選択肢はいろいろある。まず北海道に旅立つ。一年以上振りに実家に戻る。名古屋辺りで沈没してみる。やけくそでタイに跳ぶ。さあ、他には?


乗物酔い 03/06/27

 乗物酔い、これは体質なのであって仕方がないと諦めている。三半規管が弱いわけだからキリキリ舞をした後は当然しばらく立ち直れず、轍に嵌った自転車のように望んでいない方向へよろよろ進んでへたり込むことになる。へたり込むと体はもう止まっているが感覚はまだ止まっていないので、視界が時計回りか半時計回りに回転している。この回転する方向は最初のキリキリ舞の回転の方向と関連があるように思うのだが、最初どちらに回転すれば右に斜行するのか左に斜行するのか、その後へたり込んで後に視界が時計回りになるのか半時計回りになるのか、具体的に知るべく実験するも、うねる視界に結局どうでもよくなる。

 乗り物に酔った時の気分の悪さは格段の趣があって、お酒の酔いとはかけ離れた感覚であるから、車に酔う前に酒に酔ってしまえというのは例えるなら箪笥にぶつけた足の小指に熱湯を浴びるが如き苦しみとなる。そもそも酒の酔いは気持ち良くなるのだが乗物酔いは気持ち悪くなるだけであって、確かに酒も過ぎれば視界が異次元の様相を呈してくるが、こちらの場合は頭の働きが鈍くなってくるので気分が悪いから吐きたいと思った瞬間一見シチューのようなものが奔流となって溢れる。気分が悪いよう吐きたいようと訴える猶予がない。その点乗物酔いにあってはその猶予はたっぷりあって、しかもその気分の悪さは序々に増大するのであって、いっそ吐けば気分がよくなるのかとも思いたくなる辺りではまだまだ序の口だ。この段階では吐きたくても出ない。やがて頭がくらくらして胸を掻き毟りまっすぐ立っていられなくなるまで苦しみに耐えると何かが込み上げてくる。しかし乗物酔いの場合、吐いたところで振り出しに戻るわけではなく、「吐きたくなるのは付録」であるから、胃を空にしたところでまっすぐ立っていられない気分の悪さは変わらない。

 最も危険なのはバスである。バスの特にタイヤがぽっこり突き出している上の座席は複雑極まる振動に加えて右左折する際の横揺れ、ゴーストップの前後揺れの三所攻めにより、例え窓を開けて外の空気だけを吸っていても頭の芯がどんよりしてくる。タクシーも危ない。運転に馴れているから客として乗り心地がいい筈なのだが、運転に馴れているという事は、つまりそれとわからない急加速急ブレーキを多用するのであって、普通の人なら何ともなくても乗物酔いする人種は急加速急ブレーキを感じなくても正直な体が勝手に反応して酔うのだ。当然船など最初から覚悟せねばならない。甲板に出て風に当たれば、横たわって接地面積を広く取り船の動きに同調すれば酔わないというのは普段酔わない人の対処法なのであって、普段酔う人ならば、風に吹かれると潮の香りに「うっぷは」横たわるとエンジンの響きに「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛」つまり何をしても無駄なのだ。当然乱気流に突入した飛行機など墜落のことまで思いが及ばず淀んだ空気に漏れ聞こえる悲鳴が絶大なる効果を発揮して様々な物が出てくる。気車も実は危ない。私鉄やローカル線の気動車はもともと激しい振動と共にローカル線であるが故の曲がりくねった経路に目一杯車体を傾けて走る。精神を統一して早く次の駅に着いて一息入れさせろと願っていてもローカル線であるが故に駅と駅の間が長い。それでも何とか耐えていたところに突然鳴り響く汽笛によって防壁が脆くも崩れ落ちてしまう。ローカル線であるが故にいろいろな動物が線路を横切るからだ。電車なら大丈夫か。残念ながらそんなことはない。電車は最近高速化が進んで窓が開かない車両が増えている。高速ということはつまりそれだけ揺れるのであって、あとはどうなるか想像がつくだろう。連結部に酸っぱい匂いが立ち込めていたならば、それは手前の残像と考えて差し支えない。


ゴキブリ 03/06/28

 飲食店でゴキブリが出た時、店によっていろいろ符丁があるそうだが、今までそれを見破ったことがない。今回たまたま判ったのは、ゴキブリの第一発見者が手前であるからで、壁に沿ってさりげなく歩くゴキブリをなんとなく眺めていたら何か気配を感じたので振り向くと、立ち止まって同じくゴキブリを眺めていた給仕の女性と目が合った。一瞬彼女の口が「あ」の形に開き、息を急に吸い込んで上体を反らしてから素早く一礼して小走りに去った。すぐに調理場のほうから

 「五木さんがお見えです」    イツキさん・・・。

 彼がそう呼ばれていることは、しばらくして上役らしき男性が長い柄のコロコロを持って出て来たことで判った。こちらを向いて一礼してからあたりを見回し、適当にその辺を転がしながら鋭い視線を八方に飛ばし、しかし五木さんは隠れる場所があるのか秘密の通路があるのか姿を消してそれきりであったから、やがて五木さんを捕獲することを諦めて奥に戻った。

 飲食店に五木さんぐらい居て当然であるし、飲食店でなくとも普通の家にも必ず居るし、ことさら騒ぐ程の事でもないから悠然と眺めていたわけで、確かに出された料理の中からすね毛の生えた五木さんの足が飛び出していたら背を凍らせて悲鳴も上げようが、向こうのほうを歩いているだけならば「こっち来んなよ」くらいの暖かい目で見ることにしている。両面テープのコロコロに張りつけて捕獲する戦法は初めて知ったが、考えてみれば、ゴキブリではなく「五木さん」と呼び、騒ぎを大きくしないよう努めているのだから、飲食店故に殺虫剤などもってのほか、捕虫網も一目で知れるし、店員が丸めた新聞紙を持って駆け回っている飲食店もあまり印象はよくない。「やった!潰した!」等と叫ぶ声はなるべくなら聞きたくはない。安全で音もせず一見ただの掃除に見えて五木さんを駆除する為の方法として、長い柄のコロコロが採用されたのは確かに順当な選択だ。

 そう考えていたところにさっきの五木さんを取り逃がし肩を落として去った上役らしき男性がフルーツの盛り合わせのようなものを持ってきた。小声で「当店からのサービスでございます」何も言わず、騒ぎもせず、ただ五木さんを眺めて、給仕の女性と目が合っただけで口止料が出てきた。騒ぐ意思があるならとっくに騒いでいる。手前は外見で得をしているのか損をしているのか未だに判断がつかないのだが、とにかく他に五木さんを見た人はいなかったらしく、店内は賑然としたまま、手前のテーブルだけ妙な緊張感に包まれている。よく見ると彼は目が笑っていないのでここはそのまま受けるべきだと思い、「あ。そうですか。どうも」と答えると、深く頭を下げながらも目線を外さずこちらをぐっと見据えて「ご来店誠に有難うございます。是非またお越し下さいませ」五木さんのことは言わないでくれと訴えているらしいことがよく判ったので「はい」と三・四回細かく頷くと「失礼します」とすたすた去った。

 テーブルに残ったのはキウイ、リンゴ、バナナが配されて中央の生クリームの上にチェリーが乗っているメニューにはないであろう無造作に慌てて盛ったらしいフルーツを、これは全て五木さんの好物ではないかと考えながら眺めていた。眺めていたのはもうひとつ理由があった。どうやって食べればよいのか見当が付かなかったからだ。フルーツの盛り合わせを持って来るならば、せめて同時にフォークも持って来てくれないだろうか。結局生クリーム以外を爪楊枝でつつきまわして食べたわけだが、この手際の悪さがこの店ではしょっちゅう五木さんが出てしょっちゅう口止料をサービスしているわけではないことを示しており、まずは良心的な店と言えるだろうと考え、感謝を込めてその店の種類も名も公にはしない。

 それにしても陸上型の五木さんで良かった。航空型の五木さんであれば如何なる騒ぎになっていたことやら。


旧五百円硬貨 03/07/01

 全く旧五百円硬貨の自動販売機で使えない事と言ったらそれはもう気持ちがいいくらいで何度入れても戻ってくるからいっそのこと自動販売機叩き壊せば更に気持ちが良くなるのではとも思うが、軽く飛び蹴りしただけで鳴り響く警報器にいちいち相手などしていられないので無理矢理どこかで使う破目になる。

 人の手でお釣りを出す時、五百円玉の旧貨を選びたくなるのは人情であって、また店の方針でもあるだろうから仕方がない。ただ、何も一国をあげてババ抜きしなくともよいではないか。しかしこれは繰り返されてきた過渡期の常なる現象であるから諦めるしかない。流通量が多いせいで旧貨にはプレミアが付く可能性は限りなく低くて実際ただの邪魔物扱いを受けるようになってきている。

 「何々記念百円硬貨」はたまに自動販売機のお釣りで出てくることもある。しかし偽造して儲けの出る、偽造し甲斐のある五百円硬貨とは同列に扱うのは酷であるから諦めて手渡しで使うしかないわけだが、それにしても冷遇が過ぎる。徹底した店では、売上の集計の際、五百円玉を新貨と旧貨に分け、次の日のお釣りには旧貨だけを用意するという。

 何とかして旧貨を使おうと「古本」とある看板が煌いたのを見逃さずに飛び込んでみたら、まずUFOキャッチャーがあった。「中古ゲームは二階へ」成程、古本は添え物か。しかし一階は全て古本だろ?掘るぞ。狩るぞ。しかし意気込みも空しく九割方漫画の古本であった。文庫は哀れにも隅の棚一面だけにひっそり並べられていて、これでは期待など出来はしない。しかしそれでも何かあるかもしれない僅かな望みに賭けてみる。端から順番に見ようとすると、天井から紙が垂れ下がっている。

 「一冊10円」

 10円ですか。100円ではなく10円ですか。チロルチョコの10円ですか。消費税のつかない10円ですか。どうやら期待は完全に捨てたほうがいいらしい。しかし10円で気が楽になったので上の左端から見てゆく。一応五十音順か。出版社関係なく五十音順のパターンであるな。作家ごとに纏めてあれば文句はないが、10円棚では多少ばらばらでも目を瞑ろう。おい待て。よく見ると国内国外混ぜて五十音順ではないか。宗田理の中にソロミタが突き刺さっているではないか。なんという無秩序。この並べ方は初めて見た。五十音もおおよその見当でならべたらしく、新井素子と新章文子が並んでいるではないか。それぞれ「あ」と「し」だぞ。どうやら流し見ることは不可能だ。一冊毎に著者を確認せねばならない。並べていないのと同じことだが、幸い数は悲しくなるほど少ない。全部見ても大してかからないだろう。いくぞ。

 苦行であった。しかしそれでも丸谷才一を一冊発掘したから良しとしようか。少なくとも収穫はゼロではない。期待していなかった分、一冊で十分嬉しい。一冊か。10円か。10円か。10円。10円なあ。10円の本一冊だけを買うのか。そんな勇気があるか?いやいや折角一冊10円なのだから纏めて買おう。十冊でも百円ではないか。この店の文庫の冷遇ぶりからすれば、棚を浚ったほうが感謝されるかもしれない。ただ、今ひととおり点検したわけだが。ゲームと漫画が主力の店らしく、文庫もその傾向を反映して赤川次郎より宗田理の方が多いくらいだ。それでももう一度、基準を緩めて全部点検してみよう。適当に二冊選んだ。知らない著者だが、面白くなければ捨てればいい。10円だ。しかし、しかし、三冊で三十円。まだ罪悪感がある。せめて五冊買おう。もうろくなものがないことがわかっているから「漢字クイズ」「ドジダス」を選んだ。捨てても誰か拾って読むであろう本だ。書を愛する者として、捨てることにはやはり抵抗があるらしい。堀出物がありすぎて何を買わないか悩むより欲しくない本の中から無理矢理選ぶのは幾層倍も苦痛だ。

 へとへとになって五冊持ち、レジへ行く。10円が五冊。50円か。いや違う。消費税がついて52円だ。何だろうこの後ろめたさは。餓鬼主力の店ではないか。引け目を感じるいわれはない。なのに何故、一刻も早く店を出たいと思っているのか。ああ、すまない、52円なのにそんなに長いレシートを。ああ、すまない、そんなに立派な袋を。ああ、すまない、営業スマイルを。「ありがとうございました。またお越しくださいませ」来れるわけがないだろうが。

 しまった。旧五百円硬貨使うの忘れてた。


賽銭 03/07/03・04

 基本的に田舎育ちなので遊んでいたのは野山である。蝉を取り、甲虫を取り、鍬形虫を取る。もちろんそれだけではないが、彼らを相手にする夏はどうしても行動範囲が絞られる。すなわち椚、椈などのある森や林であって、しかし通常は森の奥深くまで踏み込むことはない。林の一角が主戦場であるが、その林は自然にあるものではなく、人の手で管理されている。当然民家などではなく、神社・寺なのであって、神社・寺である以上、賽銭箱が存在する。賽銭箱が存在する一方で小遣いを使い果たした小学生も存在する。そしてこの方程式は誰でも簡単に解くことが出来る。

 さて、いろいろやり方はあるが、試した順に紹介してみよう。いろいろな方法を試してみたということは、つまり全て失敗したということだから、犯罪教唆には相当しない筈である。

 標的は木製の賽銭箱。エアコンの室外機程度の大きさで、角材を張り渡した格子の奥にぶっ違いの板が二枚。つまり賽銭を投げた場合、まず格子に当たってむこうかこちらに跳ねて落ち、手前側から奥に向かって傾斜している一枚目の板を滑り、縁から落ちると今度は向こうからこちらに傾斜しているぶっ違い二枚目を滑り、やっと底に落ちる。Wの文字が右に起き上がった稲妻の形が、左横から見た賽銭の動きだ。

 今思えばもう少し簡単なものから挑戦して腕を上げてからの方が良かったと思う。手強すぎるのだ。しかしその神社は無人でありながらも地域の人が朝夕かなりの頻度をもってお参りしていることを知っており、週末にだけ神社関係のらしき人が掃除にくることを知っており、しかも二方を畑、一方を田圃、一方を池に囲まれた防御上かなり優秀な立地条件にあったので、昼間は完全に子供の天下であって遊び疲れて腹を空かした時、そこに賽銭箱があれば迷うことはない。

 金が入っているかどうかは判らなくても小学生なりに一週間分溜まったであろう金曜日を狙って信用できる友人と二人きりで作戦は遂行された。まずは格子から指を突っ込んでみるが当然ぶっ違いの板まで届かない。それは見ただけでわかるからまずは試してみただけだ。「何かの棒やな」木の枝を拾ってきて突っ込むとぽきりと折れて中に落ちてしまった。折れたら駄目だと今度はススキを一本持ってきて葉を剥がし先を折り取って突っ込む。茎の方を持って押し込むと撓ってするする入ってゆき、底に到達した感触がある。しかしぶっ違いの二枚目の板に沿って伸び、「奉」と書かれた正面の板の下の隅しか探れない。一度引き抜いて先を輪に結び、掬い取ってみることにした。しかしこれも失敗に終わる。真っ平で中央に穴の開いた柄の長過ぎるスプーンで見えない硬貨を掬える筈などないのだ。しかもその柄は柔らかく、どころか途中で折れてもいて、いくら探ってみても硬貨に当たりさえしない。

 一旦家に戻って作戦を練り直すことにする。家に戻った以上親の財布から抜いたほうが楽な上に額も保証されているのだが、なんとしても賽銭を抜きたい。磁石はどうか。糸の先に磁石を吊り下げたらと考えてみても都合よく磁石などない。磁石に硬貨がくっつかないことをまだ知らない小学生である。しかし糸というアイデアは捨て難く、結局セロテープを裏輪にして試してみようとなる。糸とセロテープだけを持って再び神社に出撃したのは単なる馬鹿だからであって、何か錘になる物がないと賽銭箱のぶっ違いの板を通過するのは不可能なことにやっと思い至り、平たい石を探してきて、裏輪で包む。セロテープを裏輪にすると当然内側は粘着しないので、辛うじて引っ掛かっていただけの石はぶっ違いの一枚にぶつかるとセロテープは板に張り付き、石だけ賽銭箱の奥深く滑り落ちる。

 しかしその石が、金属の響きを立てたことで硬貨の存在を認知し、俄然やる気がでて「これいけそう」とひとしきり騒ぐ。糸を引くとセロテープは板に残ったままになるが、気にせず次の石はまず糸を石に巻きつけ、その上からセロテープでぐるぐる巻きにして裏輪にする際にも複雑に折り返し、絶対に落ちないようにする。しかしそれだけ手の込んだことをすれば指先でいじりまわすことになり、粘着力はかなり衰えている。それでもぶっ違いの間を狙って落とし込む。二枚目を滑り落ちたのは相当粘着力が落ちていたからであろう。数回底をとんとんと突いてから引き上げるが、今度は二枚目の縁に引っ掛かってぶっ違いを潜り抜けられない。どうしても出せないので強引に引くと糸が切れて石は墜落する。しかしまたもや甘美な音を立てて興奮が高まり、しばらく同じやり方を繰り返してみる。一度も賽銭が取り出せないが、縁を通過する為には少し下げてから勢いよく引くと飛び出してくることを学ぶ。それでもセロテープには全くくっつかないので次第に低調子となり、ついには「もうな、これひっくり返してザーといこか」

 ところが持ち上がらない。見ると底が金属で地面のコンクリートと接合してある。「これどうやって出してるんやろ」「わからんなあ」使われている木はかなり古く雨風に晒されて神社の規模に似合わず風格があるが、全ての面を見ても鍵などなく、取出し口がない。本当にどうやって賽銭を回収しているのだろう。

 取り敢えず木製だからとはいえ、鋸やなにかで壊したりするつもりはなかった。証拠を残したくないと小学生なりに考えたのだろうと思う。ただし折れた小枝、平たい石、セロテープでぐるぐる巻きにされて切れた糸が付いている平たい石数個、ぶっ違いの一枚目にセロテープとこれ以上ない明瞭な証拠が既に残っているのだが、そのことは気にも留めない。

 まだ平たい石で繰り返してみるがやがて飽きてしまい、甲虫取りを始める。コクワガタを見つけて糸を顎に結び、振り回しているうちに閃く。「こいつで掴ませる?」「やろやろ」コクワガタの首に糸を巻き直し、賽銭箱に落としてみる。無事に着陸していればよいが、ひっくり返っていては意味がない。それでも少し待って引き上げてみるが、やはりぶっ違いの二枚目で引っ掛かる。「登ってくるんちゃう?」登ってくるならば脚を使っている筈であり、賽銭を掴んでいるわけはないことに気付き、もう一度落とす。しばらくするとかすかに「チャリ」と鳴った。その瞬間二人は動きを止めた。蝉も鳴き止んだ気がする。何故か小声で「そーっと」「そーっと」と言い、ゆっくり引き上げる。縁に引っ掛かって少し戻して遊びを作り、勢いよく引き抜く。

 ギロチンであった。「あああ」「わあああ首」思わず糸を離してしまい、首は賽銭箱の中に滑り落ちた。吸い込まれてゆく糸の残像が鮮やかに目に焼きつき、しばらくして「・・・もうやめとこか」

 結局その後は「針金の先にセロテープ」で一円玉と五円玉ばかりを延々と引き揚げ続けて厭になった。紙幣を一度でも引けば今でも続けているかもしれないが、中が見えない賽銭箱には紙幣など入っていないことを学んだ小学生は、その後、自動販売機の前の溝、パチンコ屋の溝などを攻めることになる。まずは平均的な小学生だった。


眠気 03/07/30

 例えどんなに眠くても、何か理由があって強引に目を覚まさなければならない時は悲しい努力を繰り返す。

 すとんと眠りに落ちるその直前とは実に気持ちがよいもので、全身が水羊羹に包まれたように気怠く、それはそれで至福なのだが「このまま寝てはいかん」という状況にある時、本能に反逆するべく抵抗勢力が次々と決起する。これが一斉に抵抗運動をすればよいのだが、遺憾ながら本能に挑む抵抗勢力を操るのは、普段は本能に従属している理性であり、そして理性が起こす行動は、眠すぎる本能下では、多方面作戦の展開が苦手ときている。通常なら本能が理性に従属しているべきであるが、勘で車内検札をかわそうとして訳の判らない駅で降りてみたり、勘で図書館を探し当てたり、勘で真夜中に煙草を販売している自動販売機を見つけたりする生活では、理性など何の役にも立ちはしない。

 そして信号待ちの一番前でかくん、と堕ちそうになっている時に「寝たらあかん寝たらあかん」と抵抗勢力一番手、まずは背伸びの運動から始める。大きく手を上げはしないが、上体を逸らし気味に伸ばしながら、後ろに倒れないよう腰を前に突き出してバランスを取る。そのまま全身を緊張させて足も伸ばすと、何故か勝手に踵が浮いて爪先立ちになっている。そのまましばらく逸りっ放しでいれば多少は効果もあろうが、まるで図ったように信号が変わるのであって、第一次抵抗運動はあえなく失敗する。なかなか信号が変わらない時も成功はしない。何故ならば、極端なまでに眠いところへ急に伸びなどすれば、血液がどこへ流れてよいものやら混乱して全身を駆け巡り、結果としてよろける。信号待ちの一番前でよろけている場合ではないから、信号が変わらない時は自ら抵抗運動を中断せざるを得ない。信号待ちでない時には効果があるが、そういう時は大抵またすぐに眠くなる環境であることが多い。座っている場合は上半身を後ろに捻って正面を向いていた際の椅子の背の右側を右手左側を左手で掴み、腰をそのままに手に力を入れると脊髄背骨肋がぱきぱきぱりみしみしと鳴り、内臓があるべき位置に収まる感覚も楽しめるが、座っているならどうせすぐ眠ってしまうから無駄なことだ。

 犬や猫を飼っている方々にあっては、「伸び」が眠気覚ましの効果的な方法であることを御存知かと察する。なんとなく暇でも潰そうかとそこにぐたっと寝ていた奴を突付いてみると「なんですのもう。何かするんですか。はいはいわかりました」という表情で両足を前に出して「くあああああ」と伸びをする場面を必ず見たことがある筈だ。「さて」という顔を見て、伸びをするだけでそんなに簡単に眠気を吹っ飛ばせるのかと感動し真似したことがあるだろう。後足を一本づつ伸ばしてぷるぷる震わせている姿も実に気持ちが良さそうだが、しかし真似をすると確実に脚が吊るので、あれは人間向きではない。

 では冷水で顔を洗ってみよう。実に気持ちがよい。顔の脂汗とともに眠気も洗い流される。眠気とは顔に張り付いているものなのだろうか。しかし冷水で効果があればあるほど、時間が経つと生温い空気に顔面を嬲られ、「あかん。さっきより眠なった」冷水洗顔効果の持続時間はわずかウルトラマンほど。

 次なる抵抗勢力は飲み物。早くも外部よりの手助けが入る。カフェインが入っている茶紅茶珈琲を飲んで効果があるのは普段茶紅茶珈琲を全く飲まない人に限定されるのであって、「俺珈琲は飲まへんねん。その代わりな、どうしても眠くて耐えられへん時に飲んだら効果あるやろ?」残念ながら珈琲を飲まずに紅茶を飲んでいるからカフェインに対する耐性は十分あるのでこれも無駄な抵抗だ。ビール及びウィスキィという手もあるにはあるが、これは即効性はあり、しばらくは復活出来るものの、副作用として酔いが醒める頃には理性がお留守になっているから、一切の抵抗をせず眠り込んでしまうので、眠気を長期的に吹っ飛ばすことの方法としては用いてはならない。

 更に抵抗を続ける。「寒ければ目が醒めるだろう」眠過ぎる時に洟水が垂れてきたらもう死にたくなるのであって、そういう時は集中力が欠けているから洟を噛む際に下部をしっかり密封出来ず、勢いよく噴射された洟水はシャツに付着して絶望感に襲われる。

 百会・合谷などのツボを押しても眠くて痛くて眠いままであるから、合谷にじんじんした痛みが残ったまま必死に欠伸を繰り返しては頭を振り続ける。

 どうしたら眠気が吹っ飛ぶのか考え込んだら寝てしまうので、煙草でも吸って落ち着こうかと一服付けた次の瞬間ぼろりと煙草が落ちて「今寝てたか?寝てたな?」

 そして「そうや!これで眠気完全に飛ぶわ!」と素晴らしい方法を考えついた直後に目が醒めて夢だったことがわかる。


イヤホン 03/08/08

 インターネットの接続環境が整うとまず靄なしエロサイトに行きたくなるのは当然の話であって、しかしダイヤルアップで海外に繋がれてしまったと騒いでいたその昔に比べ、定額制の契約を交わせばどこまでも強気になり、ウィルスなど気にせず、あっちへこっちへ飛び跳ねるわけだが、やたら立ち上がる別ウィドウにも負けず、まるで意味のない年齢認証にも負けず、どれが本物の「Enter」なのか迷いながら眼と下の眼を血走らせて夜も昼もなくなる。

 あるとき辿り着いてみて、音声が音声なのでイヤホンを使って鑑賞していると突然インターホンが鳴った。誰かが来たらしい。その日その時そこへ来る予定の者など誰もいない筈であったから驚いたのだが、そこで動揺せず落ち着いて座っておればよかった。自分にしか聞こえていない筈のイヤホンから聞こえてくる音声を「聞かれたらまずい」そして「誰なのか出なければ」という混乱に思わず立ち上がった瞬間イヤホンが差込口からぷつと抜けた。

 途端に音程の安定しないカンツォーネとそれを絶え絶えに追い掛ける息遣いの荒いバリトンが大音量で響き渡る。まともな判断力は既に忘却してあるから思わず咄嗟に

 イヤホン穴を指でぴったり塞いだ。

 直前までそこを通って音が来ていた、と真空状態になった頭の中で健気にも考えたのか、ただの本能であったか定かではないが、とにかく本体側のイヤホン穴を親指の腹でぴったり塞いでみた。過呼吸カンツォーネと酸欠バリトンはますます盛り上がっているが、音量はそのまま、停止にしようかイヤホンを挿そうか迷っているうちに「ま、どうせ新聞か宗教の勧誘やろ。聞かしたれ」と落ち着きを取り戻した。諦めただけでもあるが、イヤホンの先を弄びつつ、芸術的な角度の戦いを鑑賞しているうちにふと、客人は誰で何をしているだろうかと思い、愛音を殺して玄関へ行くと、暗くあるべき筈の玄関に明りが差し込んでいるではないか。明り。明りだと?なんと。郵便受けから覗かれているではないか。しかしあれは角度が厳しくて三和土しか見えない筈だ。それは何度も確認したことがある筈だ。焦るな。これ以上玄関に近付くな。しかし誰だろうか。まだ耳からはイヤホンをぶら下げたまま、本来持つ性能をまったく発揮せず海外に繋がっているにしては低俗な動画とそれに連動する音声をイヤホンが抜かれて大音量でわめいているパソコンと、郵便受けから覗かれている玄関との真中で、立往生してしまい、アホらしいので煙草を一本点けてみた。/p>

 この騒ぎがどう収束するか興味が湧いてきたので灰皿を引き寄せ、座り込んでバリトンが力尽きるか覗きが飽きるかどちらが先だろうかと考えていると急にバリトンが加速した。どうやら蝋燭の最後らしい。無事にいのちを撒き散らして動画が終了すると、しばらくして郵便受けの蓋が、ゆっくりと戻り始めて音を立てないようにとても静かに慎重に閉じられた。必死で聞いていたのだと思う。何かの勧誘であれば、隣にゆくだろうからそこの遣り取りを今度はこっちが盗み聞きして何者かを確認しておこうと一歩玄関に踏み出した瞬間またインターホンが鳴って肩をびくりを震わせてしまった。誰なんだ貴様は。余韻に浸ってしかるべき大切なところにインターホンを鳴らして邪魔するとはいい肝してるじゃないか。どんな面か拝んでやるぜ。勧誘ならば覗き見てたろと逆襲してるぜ。

「NHKです」

 いや違うんですよ。あれはパソコン。パソコンですパソコン。テレビじゃなくてビデオじゃなくてパソコンなんですよ。テレビはないですから。「ない」の前に「見て」が省略されてるけどそればどうでもいいけど。パソコンをね、パソコンにね、パソコンでね、あ、よかったら見ます?


変態 03/09/24

 ある時ある国のある通りのある屋台である料理を食べて数時間後、猛烈な便意に襲われた。おそらく生揚げの魚のせいだと思う。

 幸いその通りの周辺は散々歩き廻って一応の地図は頭の中に出来ていたから、迷わずスーパーへの近道を、上下動のない摺足で亡霊の如く進んだ。亡霊らしく青褪めてもいたが、それは空だけを切ろうとしたらウニが噴出しそうになり、焦ったからである。かなりの液状化が進んでいるらしく、少しでも油断すればすぐさま爆撃が始まりそうだ。額の汗を垂れるに任せてスーパーに辿り着いたが、そのスーパーは不必要に改築を重ねており、先見性のなさを誇示するかのように、まず入口から半地下へ降りねばならない。臀部の穴周辺の筋肉が、通常歩行による左右対称の前後運動の際はまだ楽だが、ここに「階段を下りる」為に加えられる上下のねじれが穴にとってかなり危険である。

 ここを先途と見極めて、無理矢理蟹股で締め付けたまま、平常心を貼り付けた顔で、ゆるゆるゆるゆると階段を下りる。半地下には何もなく、そのまま今度は一階に上らねばならない馬鹿馬鹿しさを嘆く余裕は、既にない。裂帛の気合を込めて一階へ駆け上がり、一番近くにあった時計屋だか貴金属屋だかの姐ちゃんに震える声で怒鳴った。

「ふぇありずといれっ!」

 英語で尋ねたから英語で答えている筈だが、持てる力の全てを穴所封鎖に費やしているから何も理解できない。それまでの人生の中で最も凶暴な目付きで睨みつつ、手で指して尋ねた。あっち?こっち?そっち?相手は手で答えた。上、そっち、ずっと奥。上?と確かめるとピースが返ってきて二階だと知れた。そっち?と確かめると、「ずぅぅぅぅぅと奥」と指差されたので、何か言うと封鎖を突破される気がしたから力なく頷き、二階に駆け上がった。事態は切迫しており、勢いをつけて走った後に速度を落とせばそこで決壊するであろうところまで来ている。階段を上り切り、そのまま走り続けた。もう立ち止まった瞬間に出るだろう。

 奥というのは、つまり遠いわけであって、脳が脈打っているのを感じつつ走っていると、やがてトイレの表示が見えてきた。正面に入口がふたつ分かれておらず、ひとつは奥に、少し手前の右の壁にもうひとつの入口。男はどっちだ!加速していてはっきり見えないが、正面の入口上には青い表示がある。そこだ!走りこんで空いていた個室に音を立てて飛び込み、鍵を下ろす余裕もなく、とりあえず扉を手で押さえただけのまま、ベルトとチャックを走りながら外していた好判断を称える余裕もなく、ズボンとパンツを引き下ろして液状化した大量の練りウニを産した。

 一息ついて鍵を下ろし、間一髪で間に合ったことに感動しつつ、腹をえぐってもう出ないと思ったところで、かぼちゃスープのようなものを流し、身繕いをして晴々とした顔てドアを開けた。

 女が五・六人いた。

 先頭の女とぴったり目が合い、狼狽えて見回すと、男便所名物「アサガオ」がない。「ぐをを、こここ女子トイレやん・・・」切羽詰って走り込んだ時よりも早い足で逃げたのは、「こんなとこで痴漢で捕まったらやばいことになりそう」と考えたからであって、スーパーから脱出し、路地から路地を通り抜け、途中でシャツを買って着替え、激しく疲れて部屋に戻り、そして事態を検討してみた。

・まず腹を壊したことは不可抗力だ
・漏らさず耐え抜いたことは偉いと思う
・トイレの表示が男女とも「青色」はよくないと思う
・飛び込んだ時には誰もいなかったのに、出たら数人いたのは何故か
・全力疾走で女性トイレに駆け込み、女性トイレから全力疾走で駆け抜けた男が、周囲にはどう見えたか
・しかし今までのところ日本人である証拠はない筈だ
・帰りにぐるぐる回って十分警戒したことも偉いと思う

結論:もうあのスーパーには行けない

どうか日本人が変態と呼ばれない為に、大和男児にあってはくれぐれも、トイレ表示を「色」ではなく「形」で判断して、日本の恥を晒さないように、変態ではない男から忠告しておく。


いぼいぼ 03/11/16

 健康サンダルというものがある。

 サンダルの、足の裏と直に接する部分にいぼいぼが付いていて、それで足裏のつぼを刺激し、「歩くだけで健康になる」という胡散臭さ極まりないながらもかなり売れている代物だ。あれはどういうわけか一度履くと病み付きになるわけだが、最初に履くときはとても痛い。しかしすぐに慣れると心地良くなる。

 しかしながら健康サンダルというものは、その機能性を前面に押し出すことにのみ意を尽くしていて、見た目は実に格好悪く悲惨な姿であるから、日常散歩範囲ならば問題はなくとも、少しの散歩で健康になれると考える程こちらも初心なわけではないから、ひとつ根性を入れてみようとした時の話だ。

 御存知のように健康サンダルは大抵ワゴンの中に480円なり380円なりで纏めて売られている。よほど売れないのか売れ過ぎて並べる手間が惜しいのか知らないが、安いに越したことはない。そして安いサンダルならば分解しても悲しくはない。幾らであったか忘れたが、とにかく500円より安い健康サンダルを買ってきて、普通の靴であれば中敷に相当する部分、つまりいぼいぼの付いた上の一枚だけ剥がして普通の靴の中に敷き、普段からこれで歩き回れば効果の大なるところ確実であろうと考えたわけだ。

 健康サンダルを分解することから始めたのだが、普通に履いているとあっさり敗れたり千切れたりするのに、意図的にばらすには難渋した。まず甲を外す為に、縫い付けられているから糸を切らねばならない。よく見るとテグスである。何箇所か切って引っ張ればするする抜けると考えたが甘い。抜けない。ビニール糸が、縫い付けてある上におそらく加熱されたことがあるのだろう、ちりちりになっているのだ。ちりちりだから引っ張ってもどうにもならず、仕方なく縫い目を一つづつぷちぷち切った。強引に剥がすといぼいぼシートが破れるかもしれない。途中で飽きたり寝たりして一日掛かって甲が外れてステーキのような形の本体が残った。

 あとはこの本体から妙に分厚い底といぼいぼシートを剥がせばよいだけだ。理屈の上ではそれだけなのだ。ところが理屈とは接着剤の存在を加味していないから苦しくなる。端に刃を入れて引き剥がす切欠を作り、「おうりゃああ・・・・あああああ?」接着剤は強力であった。いぼいぼシートと底のスポンジが簡単綺麗に剥がれると思っていた次の瞬間、スポンジが一ミリぐらいでいぼいぼシートにへばり付いていた。

 普段何かの値段シールを剥がす時、本体に汚くシールの接着面が剥がれて残ることはよくある話で、その相似状態になってしまったのだ。このような場合の基本はとにかくゆっくりじわりと剥がすことにある。しかし安物で普通に履けばすぐ剥がれてくる癖にじわりと剥がそうとすればじわりとスポンジがいぼいぼシートの裏に残る。まだ片方だけなのに既に飽きているから一気に剥がした。後でこそげ落とせばよいのだ。何ならそのまま使ってもよいではないか。しかしスポンジとは目に見えない無数の穴が開いているのであって、そして接着剤はスポンジの穴に入り込んでいるのであって、だからカステラの皮のように汚くへばりついているわけで、そして接着剤は乾いていてもスポンジは接着剤を吸収して接着スポンジ、まるで両面テープに変化しているからぺたりとくっつく。とにかくこそげ落とす為に、お湯に漬けて削ったり水の中で削ったり日干ししたり陰干ししたり色々試して結局、指と爪でちくちく剥がす方法が最も早かった。

 途中で放り出したりしたから一週間ほど掛かったろうか、とにかく健康サンダルからいぼいぼシートの分離に成功して、早速革靴の中に敷き、それで一日歩き回った。翌日健康になっている筈なのに、起きて一歩踏み出した瞬間倒れたのであって、しかしこれは血が薄いとかつぼに効き過ぎたではなく、単純に「足の裏が痛くて立ってられへん」だけであった。足の裏を見ると白いぶつぶつが一面にある。いぼいぼがそれぞれ靴擦れになったらしい。見た瞬間意識がすっと遠くなったが、どうにか持ち直して、そこで翻然と悟ったのだ。あの不恰好なまでに分厚いスポンジの底は、衝撃を和らげる為に必要であったのだ。衝撃がほぼそのまま伝わる革靴の中に敷くなど単なる拷問にしかならないのだ。

 だから格好良い健康サンダルなど存在しないのか。たまにあってもそれはいぼいぼが迫力に欠けていて効き目も疑わしく感じるのは、あれには正当な理由があったわけだ。迫力のあるいぼいぼは分厚いスポンジで衝撃を中和せねばならないのか。

 つまり、いぼいぼシートを分離するにはひどく手間が掛かるから、もし中に敷いてもその後しばらくは真っ直ぐ歩けなくなったりするから、そして梱包用のぷちぷちシートを見たら思い出して気が遠くなる恐れがあるから、阿呆なことは止めてくれ。人体実験の犠牲者は手前一人で十分だ。


階段 03/12/15

 こう、階段を昇っていて踏み外してこける時に、上手く手が出たならば冷汗一筋で平然を装って登り続けることが出来るね。これが何か荷物を持っていたりポケットに手を入れていたりすると悲惨です。手が出ない時は反射的に顔を庇うべくまず膝がその皿を呈して段の角に向かいます。これを受身と考えるには痛すぎます。それでも階段の角に膝ならば皿が割れなくても痛みは多少じっとすれば我慢出来ます。悲しいのは膝が出るより先に階段の角に脛を当てた時です。何しろ踏み外した瞬間全体重を乗せて角を脛で蹴るに等しい荒業であります故に、これは涙の出すことも忘れるくらい痛い。

 しかもそれが登りのエスカレイタであってごらんなさい。御存知のようにエスカレイタは一段一段が観覧車のように回転している。その回転がずれないように外れないように溝がある。つまりエスカレイタの段の角は鋸のように凶悪な刃を剥いている。そこに全体重をかけて脛から倒れるとどうなるか。熊の爪痕のような疵になります。しかもこの上なく痛い。一体に脛とは弁慶の泣所と申しましてそれは筋肉が付きにくいからでありますが、中にはここに筋肉が付いている人もいる。空手の人は付いていますね。ここの筋肉は何も特別な鍛錬が必要なわけではなくて、例えば恒常的に自転車に乗っておれば自然と盛り上がります。昔の日本では汲取式便所でありまして、また水洗となっても和式のしゃがむ姿勢の便所がまだ結構残っておりますが、あのしゃがむ行為とは即ち「うんこ座り」と呼ばれるもので、ヤンキーの特技でもあるわけですが、あの姿勢もまた脛の筋肉が鍛えられるわけです。「洋式便所は和式便所に比べてきばり具合が心許無い」というのは、和式の姿勢ならば尻の穴を閉めたくても閉められないからでありまして、それでも便秘時にひり出そうとしたら太過ぎて「このままでは切れる!」と必死に閉める場合は、少し腰を浮かせると締まります。すると硬ったい太っとい糞が輪切りとなって少しづつ落とせるわけですね。この場合は実に盛大にお釣りがくるわけですが、それを避ける為にも瞬間腰を上げる。この動きもまた脛の筋肉に効果を齎します。括約筋と前脛骨筋を知らず鍛えていた和式便所の衰退はそのまま締まりのない日本人化を意味しております。しかし肛門が詰まっているのに何故息が苦しくなるのでしょうか。脛のあたりは皮膚が張っておりますからかさぶたになってもすぐ割れてなかなか完治しません。しかも痒い時はもう一方の足の踵あたりで掻くわけですが、これは指で掻くの違って加減が効かず気付けば滲出液が滲んでいる。

 階段を昇っている時にこけるのはまだよい。例えとっさに出した手が階段の奥の蹴込ま滑り込んで突き指したとしてもそこで動作は一旦静止するからだ。昇っている階段を踏み外してしまい、爪を立てようとしながら空しく滑り落ちる姿というものはドリフ以来通常見ることはない。

 階段を降りる際に踏み外した場合はより悲惨な騒ぎになる。踏み外した瞬間咄嗟に横に飛んで段々と平行になって片足を直角に真っ直ぐ出せば支っかえて止まることが可能だが、不幸にして武道の経験があれば思わず身に染み付いた受身を反射的にとるわけで、当然頭から突っ込む以上前回り受身であって、しかしこの場合にあっては回転が加速するだけであるから一番下まで階段の角を腕やら背骨やらで痛めながら転げ落ちることになる。踏み外して咄嗟に後ろに体重をかけると転がり落ちては行かないが放り出した荷物は何故か必ず一番下まで落ちることになっている。うまく段に腰掛けるように尻を乗せることが出来れば最も被害は少ない。ただし角で腰骨を打つとしばらくは起き上がれない。

 いずれの場合も足首の損傷は避けられず、また精神的な打撃も多大であるからして二段飛ばしの階段疾走は極力しない方がよいとの結論だ。


滑る 04/04/09

 遥か昔「バナナの皮で滑る」というのはある種の成語か固定されたイメージに因るものと思い込んでいて、実際多少は滑るだろうが大袈裟にすっ転ぶ事はないだろうと考えていた時期がある。バナナの皮とは外側が艶やかな黄色で内側は白く所々筋が垂れている。あれを見る限り外側を下に内側を直接踏んだらすーと滑るだけのことだろうと思っていたのだ。

 バナナの皮は捨て置くと忽ち小蝿が発生するので素早く処理されるから、実際にバナナの皮を踏む機会など滅多にない。また通常道端には落ちていないのであって、これは歩きながらバナナを齧るような奴がいないのか、いるにしても単に巡り合わせが悪いだけなのかどうか、とにかくバナナの皮を踏んですっ転ぶ姿を見たことはなかったし自分ですっ転ぶこともなかった。にも関わらず「バナナの皮で滑る」という言葉の普及率は完璧に近いもので、この落差にはいつも不信があった。

 一人暮らしを始めると、買物に行く機会が劇的に増えるのだが、部屋を綺麗にと心掛けている頃はバナナを買っても床に捨て置くなどあり得ない事で、しかもごみ箱に捨てておいても小蝿が発生するから、やがて「小蝿が湧かないようこまめにゴミを処理しよう」とは考えず、「小蝿の湧かないようなゴミの出る買物をしよう」とひとつ賢くなったつもりになる。こうなるとますますバナナの皮を踏みつける機会が遠のくわけだ。

 バナナの皮を踏んだのは偶然のことだった。ある観光地の公園で、ベンチの横にゴミ箱がある。ゴミ箱は緊密に詰め込まれていてこれ以上押し込むと一斉に溢れてしまうという、表面張力擬きの状態であった。そのベンチは道から外れていて弁当を広げるに相応しい佇まいをしており、周りにはゴミ箱への格納を拒否されたゴミが散乱しており、そして夢見がちな弁当派の必需品であるバナナの皮が砂利道に落ちていた。

 「砂利道であるからさほど滑ることはなかろう」「この道は寂れているから見ている人は誰もいない」「外側が上になっているから大丈夫だろう」「踏んでみようか」まだ日本国の法律上は未成年であった愚かな若者はバナナの皮を踏む決心をした。立ち止まってから恐る恐る踏むのはどうにもわざとらしいので普通に歩きながらさりげなく右足で踏んだところ、直後右足が真っ直ぐに伸びきり、それは何故だと考えようとした瞬間背中で地面にぶつかった。転がったまま、つまりバナナの皮で滑ったのだということが理解出来るまで多少の時間を要したが、「そんなに大袈裟に滑る筈がない」とも考えていた。咄嗟に手を付く暇もないほど急激な転倒であって、伸びきった右足の膝関節に少し違和感を覚えつつ起き上がって見たバナナの皮は、擦り切れていた。

 つまりバナナの皮は柔らかいのであって、柔らかいとは即ち組織が崩れやすいのであって、組織が崩れやすいとは即ち流動するのであって、流動するとは即ちワックスと同じことなのだ。ワックスの塊を踏みつけた場合、その塊の下に段差があろうとも隙間に潜り込み段差を埋め表面が平らとなって摩擦係数は限りなく零に近くなる。バナナの皮も同じことであって、皮の上から加重した場合柔らかい組織が砂利の隙間に潜り込み一瞬で表面が平らになり、あとはそのまますっ転ぶだけだ。

 ぼろぼろになったバナナの皮を見てそれを理解し、「バナナの皮で滑る」という言葉は文字通り洒落にならないほどよく滑ることを納得し、やがて右膝の違和感も消えたので歩き出そうとしたら、少し先には既に踏まれたバナナの皮があった。それを踏んだ人もバナナの皮の滑り具合を正しく認識したであろうことを想像して、若者はしゃがみ込み、バナナの皮を砂利の下に埋めた罠を仕掛けてその場を去った。


蔓 04/05/25

 「蔓と蔓だけが絡まり合って伸びてゆくイメージ」は、じっくり考えてみると「ジャックと豆の木」の勢いよく成長する姿が印象に残っていたからのようだ。

 打ち捨てられた蔦が近くにあれば是非やってみたいと思ったのだがその気になると見つからないもので、藤の蔓が垂れ下がっているところを見つけて三つ編みにしてみたものの、垂れているから今一つ感興が沸かない。

 蔓と蔓とが密着しきれず適度に風通しのよい幹の中で鳥が巣を作る姿までも想像したわけたが、雨に対応出来ないことに思い至り、蔓の自立は無理なのかと考えた。そして見つけたのは朝顔だった。多くの蔓と蔓が絡まって幹の如くに雄々しくなり更にその周りを蔓が巻きついてゆく印象は儚く潰えたが、朝顔でも出来ないことはなかろう。

 どうせならば誰かが育てている鉢の朝顔を縒り上げて自立させ、何と呼ぶのか未だに知らない緑色の棒を抜き取っておいて、捩れた千歳飴姿の朝顔を見た瞬間の奇声を聞いてみたかったが、やはりそう都合よく人通りの少ない道端に朝顔が放り出されていることもなく、皐だか躑躅だかよく判らない植え込みに同居している朝顔で我慢する。

 そもそも朝顔の蔓とは細く、そして緻密に巻きついてあるので解くのが容易ではない。先端を除き巻き付いている蔓は発条の形で固まっているのであって、引き抜こうとすると切れてしまうのでクランクの要領で解く。一本たりとも切りはしないと決意してひたすら解きつづけ、長めの蔓を六本解放した。二株あるようだ。

 先に藤の蔓を三つ編みにした際は何本か折ってしまったので、三つ編みではなく別の形でゆこうか。そういえば蔓を乾かして籠を作る工芸品があるじゃないか。何故か昔習っていたぞ。果物籠だったり屑篭だったり時には椅子だったりするが、何も伐採、皮を剥いて乾燥、更に編む直前に水に漬け、形が整ったらまた乾燥なんて手間がかかり過ぎる。蔓が生きている柔らかいうちに伸びたら編み、編んだら伸びして枯れる頃に根を切り、そのまま乾燥させれば活け作りのような風雅な工芸品になると思わないか。これで言訳は完成だ。

 編むと言っても既にちりちりになっている解いた朝顔の蔓は殊の外扱いにくく、やや昔似たような実験をしたことを思い出しながら、編み方と全体像を検討してみた。ほぼ50センチが四本で30センチが二本、全て皐だか躑躅だかの葉の間から飛び出していてさほど離れていないので全て合流させることが可能だ。とは言え密に編むと小さくなってしまうしどうせちりちりだから細かく編むのは不可能だ。となればフェンスのようにそれぞれ上下上下と通しながら円筒形に編み上げるか。

 歩道には背を向けているから通行人の顔は見えないので気にならないが、車道で信号に捕まった運転手の視線が眩しいようだ。植え込みの中に鍵でも落として必死な人と思われているに違いない。籐細工の経験があるからこそかくなる行動になったわけだが、手は動きを覚えているから素早く円筒形に仕上げ、途中で派生している短い蔓は繋ぎとして別の蔓に巻き付け、上に余った四本もそのまま編む。

 ロケットのようになった。高さはおよそ20センチほど、葉と短い蔓と蕾と花が砲弾に飾り付けられている感じで、皐か躑躅かの上にこれが生えているというか乗っている姿はタージマハールか砲台だ。ついでに皐だか躑躅だかの新芽を剪って形を整え、下の雑草も抜いておいた。少し離れて見てみると、朝顔は植え込みの上に置かれたペットボトルに巻き付いてしまったかのようだ。蔓の先端をそのままにすると垂れ下がって胴に巻きつく恐れがあるので、先端を集めて縒り合わせた。さあ、君は自立した朝顔だ。あとは天に向かってどこまでも伸びるがよい。




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