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小田原駅
暇やねん
四つ子
交差点
駐輪
引綱

スケッチ
地震
照れ
バス
落書き
小閑
制動
自販機
某催事場
信号
眺める
防具


「素描って絵じゃないの?」

「スケッチだからね。文章でも素描と呼ぶさ」

小田原駅 03/05/10

 小田原駅の改札が高架になっていた。

 あの汚いタイルとコンクリ張りの地下道は、今では懐かしい国鉄の匂いがしてとても気に入っていた駅だった。

 少し前、小田原駅で降りたときに地下通路に下りるべき階段がなく、エスカレータで上に運ばれる際、ここ一年ずっと工事中だったことを思い出し、なるほどと納得して上に着くと輝くフロア。あまりにも新しく、そしてどこにでもあるような没個性的な改札口を見てこう思った。

「もう小田原駅でキセル出来んようになってもうた」

 まあ、それもあるのだが、とにかく悲しうございました。どこの駅でも階段・ホーム・改札すべて画一的で似通っているのは恐らくはじめて訪れた者でも動けるようにと考えてのことなのだろうか。工事の請負業者に簿外費を問いただしてみたい気もする。

 古いままのホームに輝く階段とエスカレータが突き刺さった醜悪な光景はよくあることだが小田原駅に限っては悲しすぎる。

 それぞれの駅の立地条件により、仕方なく組み合わされた雑々多々な楽しい駅が、それらの駅の温もりと歴史が、その駅独特の魅力であるのににも関わらずこの改築。確か多目的エレベータは既にあったはずだ。理由にはならんぞ。

 確かに汚かった。不便だった。エスカレータはなく、新幹線は特急券代金を払ったうえで一番奥のホームまで歩かされる構造だった。小田急の改札は中にあった。地下通路には土産物屋が並んでいた。平階の改札機と地下道を繋げる為に不思議な勾配があった。沢山電灯があったのに何故か明るいとは思えなかった。夏は暑く冬は寒い地下通路だった。そして手前はその地下通路が大好きだった。何度も歩き、何度も通り抜け、いつも国鉄の雰囲気を感じていた。

 湊町駅が終着駅式から通過式になった時以来の衝撃だった。ただ地下道から高架に切り替えただけなのに小田原駅はその魅力をほとんど失ってしまった。

 綺麗になりましたか。便利になりましたか。掃除が楽になりましたか。監視カメラをつけましたか。キセルが減りましたか。よかったですね。引き換えに失ったものの大きさを知るのはどれほど先のことになるのでしょうか。あの小田原駅の改札までの地下通路、国鉄の匂いを感じることは出来なくなった。いつか必ず懐かしむことになるし、既に落ち込んでいる人間がここにいる。


暇やねん 03/06/22

 終電が回送となって車内を清掃している人を乗せたまま出て行くのを煙草を喫いながら見送りつつ、声高に喋る職業の見当がつかない女性達と酔って寝ている男が背中合わせになったベンチを通り過ぎて立ち止まる。

 向こうから歩いてくるのはバックパックを担いでいる集団。ユースだろうか。ワンゲルだろうか。キャリーを引いている。どちらでもないようだ。半ズボン。サンダル。男女混合。ヘルメット。パドル。カヌー族だ。騒ぎながらり乗越し料金を払うのをじっと待ち、やがて改札口の下に忘れた荷物を小走りに取りにくるまで更に待ってから、切符に途中下車の印を押して貰い夜中の街に出る。

 終電の客を捕まえ損ねたタクシーの群れを無視して駅前にある街の地図を眺め、繁華街のあたりをつけ、やがて歩き出す。幸いにして雨は止んでいるが肌寒く、この街で朝まで過ごすか深夜ひっそりと走る快速に間に合うよう戻るかまだ決めずに歩いてゆく。商店街、居酒屋、煙草屋、カラオケ、パブ、風俗エステ、コンビニ、そして後は眠る街。

 貨物列車が通る音を後ろに聞きつつ奇声をあげる大学生らしき集団。どこから来てどこへ行くのかわからない男女二人連れ。徘徊している崩れた服装の中年男とすれ違い、どこかの国の訛りで「オ兄サンドウ?」と声を掛けてくる姫たち。昼でもなく夜でもないどの街でも同じいつもの深夜の繁華街の顔に迎えられる。

 タクシーの走る音しか響かない冷えた空気を吸い込み、身震いしてから裏通りに踏み込み、歩くうちに何時の間にかまた表に戻っている。駅の反対側に回って風俗店とラーメン屋が並ぶ一角を通り抜けると大通りの向こうで叫び声が聞こえる。女が車に押し込められたのだろう。皆一応そちらを振り向くが信号を無視してタイヤを鳴らして走り去る車を茫洋と眺め、ふと我に返る。ラーメン屋の若者が水を道路に流す音とジッポを点けて消した音が違う方向から同時に聞こえた。

 深夜の繁華街は不思議な程匂いがしない。有明月だけ輝く空は霧に濁った青灰の空。かなり遠くで救急車のサイレンが一瞬響き、また消える。駅前のロータリーに戻り、最早客を取ることが出来ないタクシー運転手の立ち話の声が低く伝わってくるのを感じながら時折通る学生ふう、やくざふう。

 錆びた看板に倒れた自転車、静かに眠る街といつものありふれた深夜の繁華街に身を沈め、遠くで光る塔の灯りに今日もまた、溜息をひとつ。

 暇やねん。


四つ子 03/07/05

 四つ子を見た。なぜ見た瞬間四つ子と判ったのか。ベビーカーがその理由だ。

 ベビーカーとは通常一人の幼児がすっぽり納まる言わば車輪の付いた揺籠なのであって、時に折り畳まれたりもするが、大抵は同じ形をしている。二人並んで収容されていた双子用ベビーカーを以前見たことがあって、その時はそういう物もあるのだと珍しく思っただけであったが、この度四つ子用ベビーカーを見てぶっ飛んだ。

 四人掛けである。進行方向に二人並んでおり、それより前方に押し手を向いて二人並んでいる。覆いはそれぞれから出ている。中央に屋根のない商店街の如し。電車のボックス席をそのまま縮小した様なベビーカーであった。四人とも同じ服を着ており、帽子の天辺のぼんぼりが赤、青、黄、緑と違いはそれだけであって、写真を撮りたい話を聞いてみたいと考えながら呆然と眺めている中、あたりの視線にはもう慣れてしまっているのか、車椅子よりふたまわり程大きい四人掛けのベビーカーを踏ん張り気味に押していた母親は汗を浮かべて歩き去った。

 それにしても心配なのは学費である。皆全ての段階で公立に行くとしても、同じ学年であるから同じ教材を毎年四組揃えねばならない。ただし公立なら同じ学校になるわけで、混乱は確実である。もし、親が凝って一文字違いで統一した名前でも付けていた日には、退屈とは無縁の子供時代を過ごすことだろう。

 誕生日は必然的に同じ日になると思うが、日を跨いでしまっていたらどうするのだろうか。折角なら同じ日にしてやりたいと思うだろうし、お祝い騒ぎも一日で済めば公平だ。

 高校・大学と進学する際、例え進路を変えてもタイミングは同じであるから学費と聞いただけで灰になっても親を責めることはできない。大騒ぎのまま成人すると今度は怒涛の勢いで結婚式が押し寄せてくる。全てが終わっても虚脱感に浸る暇はない。次々と孫が生まれてくる。

 何となく楽しそうに思えてきたではないか。

 しかし最近ベビーカーを押す母親が多い。もう歩けるぐらいに成長してもなお乗せている。ふらふらとどこかへ歩いていってしまわないように厳重に扱うことが親の義務であると考えるならば、高かったから出来るだけ使おうと考えているならば、利権に塗れて導入されたチャイルドシートが悪影響を及ぼしているならば、子供の足腰の発育が遅れたとしても、まあ、不自由するのは本人であるし、子育てをしている実感がベビーカーのハンドルにあるならば、文句は言うまい。

 しかし四つ子の母親にあっては、珍しいベビーカーを入手するのにどれだけ苦労したかは知らないが、歩けるようになったら速やかにベビーカーとは縁を切ってほしい。ただでさえ競争意識の強い子供が、同じ屋根の下同じ顔で同じ大きさで四人も揃っているならば、たちまちのうちに走り回ることになるだろう。すれ違っただけだが、四つ子の幸を祈る。どうか立派に育ってくれ。

 子供を子供扱いすれば、いつまでも子供のままである。そのことは、子供を子供扱いする親を見ればよくわかる。彼らはきっと子供扱いされたまま親になってしまったのだろう。核家族の弊害は叫ばれて久しい。育児のプロである祖母曾祖母の復権はこの先あるのだろうか。


交差点 03/09/09

 歪んだ交差点というものがあって、交差する一点をoとし、そこへ進入する道をA・B・C・Dとする。道Aはoを通ってCに抜ける。Bはoを通ってDに抜ける。問題は歪んでいることであって、それぞれの角度が90°で正十字を為しているわけではなく、角AoBは約75°くらいだろうか、角BoCは90°で、角CoDは105°そして角DoAは多分90°、これを線で図にすると撒菱にしか見えないが、これが真上から見た交差点の交差角度であって、当然このくらい歪んでいる交差点などよくあるのだが、ここは一味違う。歪み方が三次元なのだ。つまりAの道からoに進入する際、登り9°ぐらいか、Bからoに進入する道は下り微度、Cからoには登り微度、Dからoへは登り20°はないと思うが、それでも坂道発進は絶対したくないくらい急だ。

 丘の中腹にある交差点、当然このくらい歪んでいる交差点などよくあるのだが、実は一次元のレベルでも歪んでいて、それぞれの道からoに進入する道が直線ではなく、つまりAからoには左へ捻り込みつつ登らねばならず、Bからoは右に緩やかに曲がりつつ進入し、Cからoはほぼ直線なのだが、Dからoは強烈に登りながら鋭角で右に曲がりつつ進入しなければならない。

 この交差点の歪み具合は半端なものではなく、しかし駅のすぐ近く、バス路線でもあるこの交差点へ進入している道Aは、実はoから遠ざかるにつれて道Bと平行になる。Dの道はoから離れてゆくとまずCと平行になり、しばらく蛇行して道Aの補助延長線上にのる。

 丘の中腹で無理矢理四つ角にした理由はおそらくBoCのプロック角にある警察署の存在であろう。警察署の前に無理矢理四つ角を作ったのは、そこが田舎であるが故に、何らかの出動の際に遠回りしなくて済むようにと考えた結果にしか思えない。

 もし車のブレーキが壊れたまま超速で交差点に進入した場合、どの道からでもジャンプ台になってしまう上、進入の際にツイストが利いているからE難度級の回転運動が加えられてしまうという、この恐ろしく危険極まりない交差点には、当然信号が設置されてはいるが、まさに「強引」という言葉を具現した、信号が青になっても発進する前に皆必ず一拍子置いてしまう交差点である。

 ただ、ここでもし事故が発生し場合でも、目の前に警察署があるから至極安心である。しかし消防署が遠くて救急車は遅いだろうどころか、病院はそれより遥かに遠いので、自分で運転して行った方が確実に早いと考えられる。


駐輪 03/09/28

 自転車の無料パーキングシステム。

 いよいよ目につくようになってきた。車のコインパーキングと原理機構ともに似ている。自転車を有料で駐車させて管理すると何らかのメリットがあるからに違いないが、果たして採算がとれるのかどうか、おそらく複雑な計算式でもあるのだろうと思う。それにしても広すぎる歩道のど真ん中にある花壇を撤去したところに駐輪機を据え付けたことは、「何さらすねん」の感情が湧き起こる事を否定できない。

 試験運用期間として「約二週間無料開放します」という小細工は、それまでその一帯が無法駐輪地帯として混乱していたことに対する最後通告でもあった。駐輪機の端にある夜間照明付きの看板には「24時間OPEN」「料金は後精算」、そして「注意」として、

1.自分の鍵かけとけ
2.あらゆるトラブルに責任持たんよ
3.壊したら弁償な
4.連続駐輪五日間までな 五日オーバーは撤去な
5.満車の時は諦めろよ
6.駐車場内は押し歩きよ

 「4」の撤去とは、恐らく不法駐輪扱いとして、どこか遠くまで保管料を払いに行き、貰い下げて来なければならないのだと思う。大抵この保管場というものは自転車で行くにしても遠い所であって、てくてくてくてく歩いた時間と労力は、「自転車を取り戻すこと」に釣り合っていない事が多い。金銭的時間的損失を考えると、諦めて新しい自転車を買うほうが合理的な場合もある。「5」、満車の時はとあるが、ごく冷静な目で眺めてみて、どう考えてもそれまでの不法駐輪に比べて収容台数が劣っており、満車であろうとなかろうと、やがてまた不法駐輪で溢れ返ることは明白であり、これはもう「今まで黙認だった不法駐車を明確な不法駐車として取り締まっていく」意図が感じられる。「6」は場内も何もそこは元々歩道なのであって、しかも折角自転車があるのに押してなどいられるかと叫ぶくらい無駄に広いから、これは「事故があっても注意書きしてるもんね」という言訳用に付け足しただけに見える。いかにも天下屋のやりそうなことである。

 さて、その機構であるが、前輪を「コの字」の奥へ突っ込むと餌付いたように爪が「がちり」と出て「内の字」のようになり、前輪が絡め取られる。自動車のコインパーキングのような無賃脱出は不可能である。しかしこれだけで十分鍵になっているからといって自分の鍵を施錠する必要がないわけではない。爪を解除する為には、集中コントロールパネルに駐輪台番号を打ち込み、確認ボタンを押し、金を投入すればよいだけであるから、自分の鍵をかけていない自転車はたった数百円でごく自然に盗まれることになる。そして盗まれても管理責任はないそうだから、これはこれで危険でもあるが、初期の混乱は楽しい騒ぎになるだろう。

 反対側にはミニバイク用の駐輪システムがあり、こちらは前輪固定を電磁鎖錠で行う。一台毎にコイン投入口があり、自転車よりも多少格上であることは収益に比例するからだろうか。

 しかし無駄なのは、その駅周辺に不法駐輪見張員が徘徊していることであって、朝には一斉攻撃で押し止めようがないのだが、昼過ぎの暇そうな時に限って不愉快なまでに高圧的な態度もどうかと思うが、これらのことを総合的に勘案すれば「単に金余っとるだけかいな」との結論に達する。自転車の有料駐輪機構、これを設置してある駅を持つ自治体は、金の使い方に苦労していることが判るのだから、もし見かけたら、大袈裟な溜息でも吐いてみよう。


引綱 03/10/15

 犬を連れて散歩する時、引綱をつける事は当然であるが、これは対象が犬だからである。

 いやもう何が驚いたって子供に引綱付けてるの見たんですよ。まあ、手前は元より浮世離れした性格と生活やからね、世情には疎い。それは認めます。流行とかそういうものは全く興味がございません。でもね、今の世の中子供に引綱付けて歩くのは普通なんですか?世情に疎いから知らんのですよ。教えて下さいな。

 観察してみた。Tの字形で横の紐が肩甲骨を走っていて両端の輪をリュックを背負うように腕に通し、縦の紐の先を父親が握り締めているわけだ。最初は犬かと思ったことに責められる筋合いはない。父親は力を入れたり緩めたり、微妙に操っているようにも見える。紐は鞄や大きい荷物を固定するビニールの平べったいバンドだ。肩掛け鞄の長さを調整するプラスチック鍔のようなものがついている。三叉フォークの両端を内に推すと外れるアタッチメントもついていて、これは旅者ならホームセンターで必ず足を止める一角で全て揃う品物だ。

 走り出したがすぐに綱が張って動きが止まった。子供は前傾している。紐に支えられて前傾したまま左右に揺れている。真っ直ぐ立つより楽なのかもしれない。子供は何に興味があるのかどこかをじっと見ている。これは何だろうか。やはり迷子防止だろうか。紐がついていてなお落ち着きがないように見えるのだが、もしかすると紐がついているせいで落ち着きがないのかもしれない。

 完全な自由を与えられても途方に暮れてしまうのはよくあることで、何か制限のあった方が活発になることもまた、各々経験があるだろう。

 話を訊いてみたいと思ったらやがて駅の構内に消えてしまった。

 子供に引綱を付けることがいいことなのか悪いことなのか、実際に見ると判断に苦しむ。もし見なければ、そういう話を聞いただけならば躊躇なく「よくない」と考えるだろう。しかし人ごみの中で周囲の迷惑にならないよう引き綱を付けて、それがとても自然に見えたから何か割り切れない霞霞がかかっているのだ。見た瞬間の抵抗は確かにあるし、紐さえ付ければそれでいいのかとも言いたくなるが、では付けてはいけない理由とは何かと自問してみて明確な答えが出せなかった。

 引き綱を親子関係の象徴と見てしまう陥穽に落ちかけて、過保護と考えたくもなり、楽だろうなとも思い、それでも結局親御さんには考えがあってのことだろうから、勝手に判断してはならない気がした。

 では手前は、子供など欲しくもないが、もし子供がいたら引綱を付けるだろうか。付けないだろうか。付けたくない。それは何故だろうか。子供に引綱を付けているところを見た瞬間の驚きを他人に体験させたくないからか?そしてその意味を求められる親になりたくないからか?我が子を変な目で見られたくないとする親のエゴか?

 では子供に引綱を付けることは躾や教育で飾ったエゴではないのか?何がどうなのか。正しさなんてどこにもないことは判っているし、全てに意味を求めることか間近っていることも判っている。それでもなお、子供に引綱とは何なのか、判らなくて、判りたいのだ。

 子供に個性を要求する以上は親の教育方針にも個性が必要であることを頭に置いて、しかし子供に引綱か・・・。


機 04/01/09

 少し前のこと、なんとなく歩いておったら自動販売機が喋っていたので驚いて飛退いた。自販機が喋るといってもそこは「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」「商品をお取り下さい」「お釣りをお取り下さい」といった機械的な音声ではなく、ごく自然な話し声であって、まずどこかでラジオが鳴っているのかと考えるほど明瞭かつ自然な声であった。何が何だかともかく声の方に一歩進むとそこには自販機があったわけだ。

 その自販機どことなく妙な気がして、誰かの喋り声とそれに挟まれる笑い声を聞きながら何が不審なのか突き止めようと雨の中立ち竦んで舐めるように見回していたらようようわかった。画面が付いていて、中で宣伝画像が流れ、その話し声が聞こえていたのだ。風化を恐れずに言うと、ジョージアの広告の三人娘がニュース風のスタジオを模したと思しき所で笑い転げていた。

 自動販売機にモニタを付けることの是非を問うわけではないが、そのような機能を付ける前にまずリフトアップを徹底して貰いたい。下から手を突っ込んで金を入れずに缶を取り出すという悪戯を防ぐ為に内側に織り込まれる蓋は、つまり取り出し難いのだ。壺の中の飴を掴んで手を引き出せない猿よろしく引っ掛かっている姿は非常に惨めである。一部の煙草の自販機で導入されているリフトアップは取出口が貨幣投入口のすぐ下にあり、屈まなくて済む。しかし持ち上げられる間の微妙な時間がまだ多少苛々させられることも残念な事実だ。しかし画面を仕込んで広告するくらいならば先に使い勝手を向上させてほしいものだ。

 駅で切符を買う時、「切符をお取り下さい」今取るゆうねん。ちょっと小銭を先に仕舞おうとしただけやないけ。それだけなら別にええねんけどよ、その切符持って改札行くがな。改札は今では殆ど自動改札よ。何か信じられへんな。十年前は自動改札いうたら結構緊張したもんやけどな。もうキセルなんて時代錯誤の話やね。代わりに二枚通しの技術あるけどあれは協力者が必要やし協力者と合流するのは目的地とは違う駅というややこしさやしな。複雑な社会には複雑な犯罪いうことやね。そんで切符持ってごく普通に自動改札通ろうとしたわけよ。

 自動改札はあれよね、空いてる時は行く手が閉まってて切符入れたら開くわな。混んでる時は殆ど開きっ放しで都合の悪い切符の時に警報鳴って閉じよるね。混んでるとも空いてると言えない時な、通ろうとしたところの扉開いてるがな。そこ選んだのは別に理由ないけどな。ほんで切符通そうとした瞬間ばたんで閉まりよる。

 「今切符入れるがな!なんやねんその態度!俺がいきなり走り抜けるように見えたか!むかつくねん!あれ駅員が手動で閉めることも出来るらしいけどな、切符入れようとする瞬間閉まるなや!しかも駅から出るんやなくて構内に入ろうとしてるとこやんけ!人を見た目で判断すな!」

 まあね。券売機で「切符をお取り下さい」と言われへんかったらもう少し鷹揚に構えることが出来たかもしれんけどね。かなりむかついたから思わずそこ避けて隣の改札機から通ったんですがね。


スケッチ 04/01/24

 駅の券売機で「切符をお取り下さい」と言われるのが嫌だったから、ぴったりの小銭を投入して該当の値段を押した。正確にはタッチパネルだが、この際は関係がない。切符が出てきた瞬間に引き抜こうと指先を切符の出口に待機させた瞬間、切符が出てきたが、指の位置が出口を塞ぐ形になっていて、出てくる筈の切符を押し込んでしまった。「ぴーぴーぴーぴー」と鳴り続ける中、深爪では如何ともし難く、ついに「切符をお取り下さい」と言われてしまったが、焦るほどに切符は少しづつ奥に戻る。僅か二ミリほど見えてはいるが、引き出せない。仕方なく小銭入れから一円玉を取り出して、もう一度「切符をお取り下さい」と言われながら一円玉を使って切符を引き摺り出した。

 「吊革」これはどう見ても吊輪なのであって、革の部分は持つ為にあるわけではない。「吊革・手摺」と抱き合わせで表現されることが多いが、何故「吊輪」ではないのか。新体操の種目に「吊輪」があるから、それとの区別を図っているのだろうか。そもそも吊革を持つのは眠くて崩れ落ちそうな時輪に手首を通して革を掴む以外あり得ない。背が高すぎるならば革が巻き付けられている手摺を掴むのだがら意味がない。何故吊革なのか。もしかして昔は輪がなくて皮だけだったことの名残なのだろうか。

 弱冷房車はあっても弱暖房車はない。おかげて新たに乗り込んでくる人は皆鼻を啜り上げている。暖かさに慣れた頃、凍える外へ降りる羽目になる。

 全線全構内禁煙のとある私鉄があって、その路線駅の構内には煙草の自動販売機がある。完全禁煙を謳うならば販売をも自粛するのが一貫した態度かと思うのだがどうか。線路には残雪のように吸殻が落ちている。

 氷柱とは田舎でしか見ることがないと思っていた。あるビルの軒下に思わず笑ってしまうような細長い氷柱が六本ぶら下がっていた。暖房の外付器具から発生したものではなくて、単に外壁の水滴がたれ落ちて氷柱になったらしい。しかしその氷柱はビルの角の軒であって、あのビルもしかして傾いているのではないだろうか。その六本以外に氷柱はなかった。直径一センチほど長さは二十センチほどが等間隔で並んでいた。人工の街には自然現象も影響されるのか。


地震 04/02/25

 地震直後の時のニュースはいつからだかテレビ局内に据えた定点カメラの揺れている瞬間の映像をニュースに載せるようになった。

 あの画面の上のあたりに位置するキー局と系列局の名前が書かれた凄く効果的に揺れるように天井からぶら下がっている板はまあ、日本のどのあたりが揺れたのかが判りやすくてよいとしても、その揺れた瞬間に画面内で仕事をしていた人が、一瞬身体を硬直させてとりあえず机に手をついてから辺りを見回す不安気な様子も妙に生々しいが、普段余り見ることのない姿であるから興味深く眺める。揺れが長く続けば椅子から滑り降りて机の下に隠れようかどうしようか迷う姿もいじらしい。

 しかしあの見回す時にはどこを見ているんだろうね。真上にある書かれた局名が画面から見え続けながらも大袈裟に揺れる不自然な板を見上げて眺める人がいないのは、やはり「揺れ易く、見え易く」の目的で吊り下げられていることを知っているからなのだろう。では何を見ているのか。窓の外?時計?棚?

 小さいが長く感じる地震に遭ってこの疑問がようやく解けた。「地震で揺れている最中に見回す時は何を見たか自分を観察しろ」と叩き込んでいた頭で見たものは、直後のメモに拠ると以下の通り。

壁。天井。電灯。斜め前の人。窓枠。壁。机。壁。

 直後の頭に焼きついていた残像の順番がこれだった。あとは見たようで見ていない、つまり「何か考えている時に斜め上方をぼんやり眺めているよう」なだけであった。考えている中身は「結構長い」「皆の平静さが凄く不自然」「まだ揺れる?」「なんか笑ける」程度のもので、大した地震ではないからこれで済む。

 しかしニュースで流れる地震直後の瞬間映像には、何故か必ず偉そうな馬鹿が映りに来るね。特別な用事があるようには見えないのにしっかりカメラの中に入ってくる。そして辺りを見回したりしているが、それだけでは間が持たないのかどこかへ電話を掛けるわけだ。「次のニュース見ろ。俺が映るぞ」書類を揃えてとんとんして片付けているつもりでも、冷静な目が見るとそれは「ただとんとんしているだけ」にしか見えないのもカメラを意識し過ぎているからなのだろう。絶対にカメラの方向を見ないことが余りにも不自然だ。映りに来た人が増えても会話を交わしていないのは、「ただ慌てて映りに来ただけ」であることをお互い判っているからこその気恥ずかしさ故であり、その不自然なさりげなさでうろうろする姿は哀れみすら感じる。社長が突然社内巡察を敢行した時の社員の行動そのままであるところが面白い。


照れ 04/04/02

 さて、電車の扉が今まさに閉まらんとする瞬間ホームを駆けても空しく眼前で扉が閉まった場合、「薄笑いを浮かべる日本人」といった論調の文章等はどこにでも転がっていて、手前もその通りだと思っていたが、考えを修正する。

 何故ならば、「乗り損ねた人」ではなくて「降り損ねた人」を見てしまったのだ。長い座席の左端つまりドアのすぐ横に座っていたのだが、正面に古いオロナミンCみたいな奴が傾いて寝ていた。座席の埋まり具合はおよそ六割といったところで、まず空いていると言える状況だ。とある乗換仕様の駅で発車の鈴が鳴り、開いた扉の真横に居た手前は「寒いからはよ閉めろ」と祈っていたところ、オロナミンC突然がばと跳ね起き、一瞬で事態を察知したのだろう、膝から転がり落ちていた書類鞄を掴み、発車の鈴の中、閉まりかけた扉に突進した。

 その扉は手前の座っていたすぐ横の扉であって、手前の正面に座っていたオロナミンCから最も近いが故に選択された自然な結果であるが、低い姿勢で突進したオロナミンCの目的は打ち砕かれた。ぴったり閉じた扉に景気よく激突して、扉に跳ね飛ばされてオロナミンCは尻餅をついた。あれを確か作用反作用の法則と言ったか、それともエネルギー保存の法則だったかとぼんやり考えながら周囲の人々と共に眺めていた。

 電車に乗り損ねた人の浮かべる薄笑いは照れ隠しと思われるが、誰に対して照れを隠しているのかと言えば、それは電車に乗っている人々に向けての話だ。つまり乗ることの出来なかった一部始終を眺めていた人に向ける顔だ。この場合、それを見ていた人は発車と共にその駅から離れ、乗り損ねた人は後ろに続く車両から哀れみの視線を受けることになるが、それは電車が見えなくなるまでの話だ。乗り損ねたことを目撃していた人が行ってしまうと照れ笑いの顔は必要ではなく、また電車自体が壁となるので向かいのホームからは殆ど見えていない。ただし電車が去った直後の誰もいないホームにぽつんと残されている姿でおよそ何があったか判ることもある。

 乗り損ねた場合は電車の中と外として違う空間にいるから格別の問題はないのだ。降り損ねたオロナミンCはその点不幸であった。降りようとした寸前に閉じた扉に激突して尻餅をついた状態のまま、やがて電車は動き出す。眼鏡がよい具合に鼻に落ちていて、益々オロナミンCだ。まず眼鏡をずり上げ、同じく吹っ飛んだ鞄を掴みなおし、こう言った。

「くそっ」

 オロナミンCは顔に怒りの表情を浮かべていた。薄笑いを浮かべていたのはオロナミンCを観察していた手前以下数人の乗客の方であって、「そのような状況で笑うのは変だ、怒るのが普通だ。日本人は普通じゃない」と主張する西洋かぶれの論理をぶち壊した生き証人であるオロナミンCは顔を歪めて立ち上がり、憮然として足早に後方の車両へ移動してゆく。単にその場に居た堪れなかっただけなのだろうが、降りる筈だった駅寄りの車両へ移る後姿は物悲しく、オロナミンCが扉に吹っ飛ばされた姿を見ていた人々は、オロナミンCが車両の継ぎ目の扉を強めに叩き締めた音でついに堪え切れず、各々自らの靴あたりへ視線を固定して笑っていた。オロナミンCよ、君は日本人の汚名を返上したことを誇りに思うがよい。


バス 04/05/14

 バス停というのは不思議に楽しいもので、停留所名の中には既に行政上葬られた地名が眠っていたりするから見逃せない。

 いつか小田原市のどこかに「一里塚」という停留所を見たことがあり、正月の名所として晴着姿の記念写真を撮りたくなるわけだが、生憎なことにそこは幹線国道沿いであり、しかも歩道は申し訳程度の幅しかなく、記念写真を撮るためバス停に群がると歩行者は滞留し、歩行者の便を考えてバス停から一列に並んで歩行スペースを空けると今度は撮影者が轢かれる運命にあり、随分勿体無いと考えたものだ。あのあたりは道路を拡げるか、いっそ停留所の位置を変更して記念写真撮り放題の名所として開き直ればよいのだ。近くに神社があるならば強引に停留所を移植すれば相乗効果も見込める。

 鯰峠だか岡山あたりの県境で見たバス停の名前は忘れたが、一日一本というバス停を見たことがあった。確か九時台に一本だけあり、誰が、何処から、何処へ、何故、どうやって、何のために、利用するのか見当も付かない停留所であって、そもそも一日一本では帰って来れないではないかとの疑問が浮かばないのは、ここに帰って来てここで降りる奴はいないという確信があったからだ。そうなるとここから乗る奴もいない筈という結論になるわけであり、今もって存在の理解出来ないオブジェとして記憶している。ちなみに手前が何故そこに居たのかと言えば、偶然にも「大阪から九州まで自転車で行く」という余りにも若過ぎる時代の暴走の結果ゆえだ。あの辺は峠峠また峠、歩道に「斜度9%」なる黄色の看板を見たのは後にも先にもあの時限りであって、その看板を見た瞬間の思考推移は今でも鮮明に覚えている。

 「直角90度を100%として、10%で9度、1%で0.9度、つまり8.1度の登り坂」

 柳生の里の京都側の県境にも一日一本のバス停があった。一本だったか。数本だったか。峠の茶屋と書かれている朽ち果てた看板は営業を停止したことをその汚れ具合が示しており、丁度雨が降っていたので雨宿りをしつつ運休で絶対に来ないバスを待っていたこともある。

 よくよく考えてみるとバス運が悪い。乗っていた奈良市内の循環バスが渋滞に絡め取られ、運転手がマイクで「しばらく動きませんのでここで降りて歩く方はどうぞ」と言い、扉を開けたので、早速降りると、一分もしないうちに渋滞はみるみる動き出し、さっき降りたバスがさりげなく手前を追い越して行った。運転手は目を合わせてくれずに去っていった。しばらく先で渋滞に捕まってこちらが歩いて追い越してやったら気も晴れただろうが、当然そのようなことはなく、次に来たバスに乗るのも癪だから意地になって目的地まで歩き通した。バスは酔うから嫌いだ。。酔わなくても色々あるから嫌いだ畜生。


落書き 04/07/12

 男便所名物「朝顔」の上にはよく落書きなどがある。騙されたか捨てられたかの鬱憤晴らしに女の名前と性癖に添えて電話番号が書いてあったり、卑猥な細密画であったり、何かの愚痴であったりするわけだが、稀に虚を衝かれて笑いを堪えられなくなる落書きもある。それは名言を弄んだものや激励の言葉をうまく転換してあるもので、精神的身体的に最も無防備になる瞬間を狙い澄まして撃ち込まれる落書きの破壊力は侮れず、何かもっと面白い文言を捻り出してやると闘志を燃やすことになる。

 しかしながら思い付いたとしても公共の財産及び他者が所有する財産の破損行為は法に照らして戒めるべきであり、また都合よくサインペンなど持ち合わせてもいないから便所から出て書き留め、それが多少溜まったのでここに垂れ流しておく。

・もう一歩踏み出せ! 君の夢にはまだ遠いぞ
・発つ鳥後を汚さず
・親の教育次第
・目を逸らすなよ それが現実だ
・その涙を全て流したら もう振り返るな
・扉を閉め忘れないように
・最後まで力を振り絞れ
・心配いらない 君はもっと大きくなれるさ
・君は今人類の未来を握っている
・全部水に流そうじゃないか


小閑 04/09/11

 くそ蒸し暑い中を歩いていると視界に靄がかかり簡単に失神してしまうから、本年中に使い切らねばならないところのビール券で昼飯代わりを調達し、炎天下に二缶の炭酸活力を注入してみると新陳代謝が劇的に進んだ。また別の表現では「滝のような汗が流れた」とも言うが、とにかく元気を取り戻したので一息入れることにして煙草に火を点けた。道端で煙草を吸おうとしていたのは少し離れたところにステンレス製と思しき灰皿が目に入ったからであり、ビール二缶程度で酔っていたわけでは決してない。にも関わらず近寄って灰を落とそうと構えた手の先にある灰皿は何故か消火栓に変身しており、そのままの姿勢でしばし凍りついていたが、消火栓へ不自然に伸ばされた手から立ち上る煙が目にしみた瞬間これは傍から見るとかなり間抜けな状況であるようだとの認識を得、とりあえず掌を下に向けて消火栓の天辺に置き、体重を預けて休息の態度を装ってみた。

 閉店セールと書かれた宣伝は何処の町の商店街にも必ず見る事ができる。閉店するならばそれは商売換えであるか商売が立ち行かなくなった事例かであり、前者ならばそこに売り尽くしの文字が躍る。後者でしかも洋服を売っている店舗にある閉店セールの文字は単に売れ残りであることを示している。そもそも金策尽きて真実閉店するならば、ある日突然店が開かなくなり表には都合により閉店致しましたとの張紙が「閉店」の文字の横に花丸で彩られて走り書きされているものだ。金策に走り廻っている時期にのんびり閉店セールなどやっていられよう筈はない。何故ならば閉店セール真っ最中のところへ金を貸す者など居やしないからだ。つまり正しい閉店のあるべき姿とは、限界まで通常営業を続けた末に力尽きて行方を晦まし、店はもぬけの殻となっている状態のことだ。従って閉店セールなどの文字に騙されてはならない。

 百円均一店があったから入ってみて、店内を巡回してみると百円で売られている物の多さに圧倒された。百貨店からスーパーへの移行が今度はスーパーから百円均一へと流れるようだ。中でワイシャツを百円で売っていたから試しに一着買ってみて、具合がよければ次に来た時大量に買い込もうと考えた。そして当然のように具合が悪いのであって、まず釦穴がない。袖の切れ込みはただの飾りであって開放や調節は不可能であった。またワイシャツと見えたが実は正面の釦を外すことが可能なのは上から二つのみであり、いや首の付根を含めると三つ、形状としては通常ポロシャツと呼ばれるものだ。生地が一見ワイシャツらしいだけなのであって、正しく値段相応であることに心より納得するものである。


制動 04/11/06

 ある路線の電車に乗っていて、空席はないが混んでいるとも言いきれない状態で、手前は連結部横の短い座席の隅に座っていた。

 運転士としての研修期間がどのくらいかは知らないが、初舞台からしばらくはお目付け役と一緒に運転席に入っていることが多く、それを見る度に激励と不安が混合された情調が起動されるのだが、新人は通常緊張しているから大きな事故はない。

 制動が妙に荒い列車に乗り合わせた場合は苛々するもので、対処としては下手糞めと念ずるしかないのだが、この度余りにも制動の下手な列車に乗り合わせて考えが変わった。何しろ駅に進入する毎に停止する直前必ず「がごん」と制動するから人々はその毎に煽られる。最初は下手糞めと念じていて、次第に学習せいやと怒りが生成され、最後には笑いが誕生した。

 それは扉付近に集合待機し、これから降りんとしている人々が全身これ油断の塊となっているところへ急制動が掛かると、全く同じ瞬間、全く同じ方向、全く同じ角度によろけるのである。それを見ながらこう考えてしまったから必死に笑いの発作を堪えて悶絶せねばならなかった。

「集団コントで、誰かのボケに対して一斉にこけた感じ」

 駅に到着するたび念入りに急制動を掛けるから、「はいここで誰かボケた、はい皆一斉にこける」「がたん」整然と同じ間合で同じ角度に体勢を崩すものだから、余りに見事なこけ方に感動して笑いが沸騰する。ある種のコントの舞台装置の参考になるかもしれない等と思考先を逸らせてみても、やがて「がたん」「ナイスこけ方集団」と再び腹筋が震動するのであって、こけた人々や座っている人々は顔が不服に染められているから笑うに笑えず益々呼吸が乱れてくる。笑ってはならないと過剰に意識すればするほど苦しくなるから次の制動では怒りを燃やしてみようと誓いを立てても、「がたん」「しつこいねん!ふはははは」抵抗は無駄であった。

 かくして電車の急制動に対して一切の怒りは完全に消失した。しかしながら副作用として急制動の毎に爆笑しないよう唇を噛み締めねばならないのは少々遺憾である。

※後にこの電車の急制動を「だっふんだ」と命名した。


自販機 04/11/24

 とある港町の商店街には釣具屋があり、その横には自動販売機らしきものがある。

 最初に見た時はやけに古びていて、選択釦も歩きながら横目で見たら四つだけであったから突撃一番かと思ったのだが、何か違和感があったので少し戻って確認してみると果たして直感は当たっていた。それは釣り餌の自動販売機であった。

 仮に販売しているのが疑似餌や練り餌ならばそのまま通り過ぎるべきであるが、選択釦には「砂イソメ」「故障中」「青イソメ」「青イソメ(太)」とある。「故障中」は忘れるとして、生きている餌が自動販売機の中に待機しているのか!

 改めて観察すると、販売機製造元の連絡先を発見出来ず元より活餌販売用だったものか別物販売機を活餌に流用したものかは判別不能であり、仕方がないから外観の印象を残すに留める。まず思ったのは「いつの時代の自販機やねん」であった。ステンレス製の本体は一応磨かれているようで不潔感を催すことはない。釦は餌名を手で書いた紙を貼り付けてあり、それを捲れば何らかの情報が確実に入手出来る筈でありながら、限界を超えた忍耐心を以って丁寧に捲ったとしても、一度剥がすと接着力は消えてしまい再度の貼り付けは不可能であることが簡単に予測されたから茫然と眺めるのみだった。

 三種全て三百円である。五百円玉が使えないと張り紙してあることから少なくとも昭和五十六年以前に製造された自動販売機であろう。「販売中」と赤い文字が表示されているから今三百円を投入して釦を押せば浜辺ミミズがごとりと出てくるのだなと考え、しかし「販売中」の直下に「釣銭切れ」が赤く輝いている。五百円玉は使えず、はてお札の投入口はあっただろうか、もっと詳細に観察しておればよかった、しかし釣銭切れの表示があるならば千円札の投入は可能な理屈になる、いやいやこの販売機が纏う古ぼけた佇まいは相当古い可能性が高いから、つまり百円玉に対して十円玉のお釣りが出る機構なのかもしれない、つまり紙幣投入口はあってもなくてもそれぞれ矛盾しない。

 取出口には通常自販機にあるような透明の雨避けはない。外れたものか元より存在しないのかを確認するべきであったが、取出口の中が錆びて赤茶色になっており、感触は確かめるまでもなく天然鑢であろうことを見て取り、雨避けに対する追求心は霧消してしまった。

 しばらくして疑問が次々と湧いてくる。そもそも需要はあるのか?売れ残りは死んでしまうのではないか?冷蔵する機構が備わっていないならば夏には蒸し上がってしまうのではないか?活餌の自動販売機は釣り人にとって当然の光景なのか?自動販売機で甲虫を売ることに対して激しい非難が集中したのはかなり古い話であるが、イソメは問題なしと判断されたのか?

 今書き起こしながら取出口の形状と大きさから考えて飲物四種だけの自動販売機を流用したものではないかとの推測に辿り着いたが、見本窓があったかどうかを思い出せない。仮に飲物販売機ならば冷蔵機構があるだろうから流用する確率が高い。缶と同程度の円柱に活餌入れておくなら問題はない。また釣具屋が店を閉めている時間帯だけ活餌を入れておけばよく、すなわち閉店前に補充・開店後に回収するならば活餌は簡単に死んだりしないだろう。

 この件が何かの飛躍した結論に届くわけでもないが、それでもどうにか搾り出すならば、煙草の自動販売機を流用すれば煙草サイズの別商品を自動で売ることが出来るわけだから、買取の自販機を流用して例えば安くで仕入れてきた玩具や突撃一番などを無作為に詰め込んでおいて、何が出るかは買ってからのお楽しみ、そうかつまり大人を対象にしたガチャガチャというわけだ。値段を三百円のままに設定しておいて商品は百円均一店で仕入れてくればよい。どうでしょう、そういう自動販売機があったら買ってみたくなりますか?


某催事場 04/12/01

 二代目の五百円テントウムシ懐中時計が文字通り空中分解したので慌てて羽根螺子頭本体と部品を拾い集めてみたが、バネが足りない。そのまま組み立ててみると羽根がゆるゆるになって開きもせず閉まりもせずだらしなくかちかち鳴る。もう駄目かと思ったりバネになるものを仕込めばよいと思ったりしながら迷い込んだ何々祭と銘打った催事場の店、懐中時計の一角にテントウムシが集団で居た。すわ三代目かと考えたが一匹千円なのであり、段々値段が上がってゆくのが情けなくて、三代目は諦め長方形の革に腕時計の本体のみを植え付けたようなキーホルダー型の懐中時計にした。いかにも適当に作られた安物感溢れる印象が気に入り、またベルトの壊れた腕時計を流用交換出来るので本体ごと紛失しない限り飽きない筈だ。

 変り種の蝋燭を色々と売っていて、格別蝋燭が好きというわけではないが造形の妙に感心したくなるから変り種蝋燭が並んでいれば眺めるのだが、白眉はビールキャンドルであった。柔らかいラインのタンブラーで下三分の二は黄金色に透き通っていて正しくビールであり、上三分の一は白色泡が表現されていてその中央から芯が飛び出している。よく見ると黄金色の底まで芯が伸びている。透明の蝋でビールが表現されているのは斬新に思えた。点火すれば泡から消えてゆき時間が経てば経つほど温く不味いビールそのままの姿で燃えてゆくであろうと想像したら可笑しくてならない。

 余りにも写実的な動物の縫包があった。例え毛皮がその動物のものではないにしろ顔まで写実的に作っては剥製にしか見えない。剥製と縫包の境界はどこで線を引くべきなのだろうか。関節が自由に動いて思い通りの姿態を取らせることが出来る縫包であったならばこちらの思い違いであるが、売物に手を触れるのが憚られ、また写実的な顔も不気味だったから努めて気にしない素振りをしていた。

 喫煙室は建物の外に在ったが、基本的に休憩所だ。禁煙領域と喫煙領域は一応隔てられてはいるものの基本的に同じ空間であり、空間とは建物に添って横に長く天井と外側がガラス張りになっており、吹き付ける風は冷たい癖に陽は燦々と差しているからすなわち温室なのであって、暑いどころの騒ぎではなく、蒸す。堪らないから外に出たら凍えて一瞬動けないのであって、Calgary空港が再現される。


信号 04/12/08

 横断歩道の信号は場所によって順番が変則的である。

 だから初めて挑戦する横断歩道の信号を待つ場合、一番前で待つことは厳に避けるべきであり、その理由としては眼前の通行が止まった瞬間に歩き出そうとしたら左折もしくは右折してきた車に轢かれそうになり、つまり「車道縦」「車道横」「歩道」の順に切り替わる信号であることを知らずして危険だからでもあるが、何より一人で勝手に反応して歩き出そうとしたら周囲の人々はじっと動かずに待機しており目の前を車が通り過ぎて「そうかまだなのか」と悟る姿が非常に恥ずかしいからでもある。

 進入路が五本あって次にどの方向が変わるのか固唾を飲んで緊張している姿も情けないものがある。しかしこの場合次にどの信号が変わるのか判らず緊張しているのは歩行者に限らず、不幸にもその信号の最前列に捉まってしまった不慣れな車も同様であり、警笛を鳴らされ慌てて発進してみたもののどこへ曲がればよいのか判らず不安そうな雰囲気を醸し出した速度でのろのろと適当な方向へ去ることになっている。

 時折先が詰まっているのに無理矢理進もうとして交差点の中で立往生したまま信号が変わってしまい、焦る余り強引な角度で進行方向の車列に潜り込もうとする車が居て歩行者には邪魔である。更に邪魔なのは、一応交差点の先が詰まっていることを理解しているから無理矢理には進まず、交差点のぎりぎり手前の横断歩道に待機している奴で、その先が進まず詰まったまま信号が変わってしまうと横断歩道を塞き止める形になる。そうなれば仕方がないからじっと動かずに歩行者の侮蔑的な視線を甘受する義務がある。歩行者としては横断歩道上で立ち往生した車は静止しているとの認識があるからその車を取り囲むように擦り抜けるのだが、それを心得ない馬鹿は左右から歩行者が迫ることに乱心して「歩行者の邪魔にならないように」と前か後に車を動かそうとするわけであり、その結果幾人もの歩行者が華麗なる足捌きで踊ることになる。

 一度見たことのある信号は、青黄赤の信号機の真下に矢印が装着されているもので、単なる矢印ならばよくあるがその信号は「左折OK」「直進OK」「右折OK」の三方向全て進入可能な表示がされていた。「青」と全く同じ機能ではないかと思うのだが、あれには何の意味があるのだろうか。


眺める 05/02/21

 手で掴み取れそうな雲がある。千切れて流れてくっついて消えてゆく雲を立ち尽くして眺めている。夕べに映える琥珀の空を漂う雲が輝いて見えた時、それを美しいと思う心を何処かに忘れていたことに気付く。日々繰り返される営みが存在して当然と無意識に考えるのか、やがてまた忘れてしまうのだろう。

 列車の窓を伝う水滴を競争に見立てて物思いに耽る。水滴は少しづつ膨らみながら力を矯めて、ついに自らを支えられなくなると伝い落ちるが、それは途中の水滴を吸収したり、先に伝った道を辿ったりでなかなか真っ直ぐには進まない。かと思えば力を矯めていた大きな水滴と合体して一気に滑り落ちる。中には吸収されて消えてしまう水滴もある。ここにも世界があった。

 深夜の空を和らげる灯の下で煙草を喫っている時、少し仰いで大きく煙を吐き出せば思いがけないほどの大きな煙の塊が離れて漂う。漆黒の空を背景に灯を受けつつ消え行く煙は不思議な魂のようだった。風に流れて完全に消えてしまうまで見ていたら煙草の本体が半分灰になっていて、動かした瞬間に落としてしまった。熾のように鈍く光る火に魅入られて煙が目に沁みる。誰かが傍を通ったが、これは涙ではない。


防具 05/03/13

 剣道の防具を入れる袋は巨大な巾着の筈である。

 防具は着用する順序が決まっており、その順序に合わせた積み重ね方があり、それは袋に入れる時も出す時も一塊として扱うことが出来る。むしろその為に巾着状なのだろうと思う。

 竹刀を肩で天秤にして持ち歩くので、巾着であることに別段の不自由はない。しかも防具を一式誂えると自動的に巾着が付いてくるので疑問に思うほうがおかしい。

 なのに見てしまったのだ。ごろごろごろと空港帰りと思しき荷物の人が電車に乗ってきた。そのままでは何の感想もないが、夜の車窓に映して眺めてみると何か棒状の物を入れた袋を持っている。釣りかスキーか。さりげなく体を廻して見るとそれは明らかに竹刀が二本入っている袋だ。となればごろごろの二個付いた旅行鞄に入っているのは防具となるのが理屈だ。

 おっさんと言うには品があり、しかし紳士と呼ぶには砕け過ぎているようなごく普通のおじさんであったが、その薄い鞄に面胴小手垂胴着に袴が全部収納されているのだろうか。余りに信じ難いので本当に竹刀なのかと目を凝らすと、確かに鍔入れが膨らんでいるから竹刀に違いない。

 最近の防具入れは巾着から進化して旅行鞄になっているのだろうか。しかしそれにしては竹刀袋がよれよれのくたくたで元が何色だったか想像出来ないような薄緑色になっている。防具入れが進化したなら竹刀袋もそれに合わせて格好よくなるのが筋というものだ。

 であるならば結論はひとつしかない。電車で道場へ通うことは何でもないが、防具入れを持ち運ぶのが腰に応えるか恥ずかしいかの理由によってごろごろの付いた旅行鞄で代用している。竹刀袋は釣竿入れやらゴルフクラブ入れで簡単に代用出来るだろうが、それをすると「剣道やってることが恥ずかしいのか」と責められた時に申し開きが出来なくなるので、防具入れだけを重いからとの理由でもって旅行鞄に変えたのだろう。巾着と違って密閉に近いから防具特有の香りは周囲に拡がらず、その点でも理由となり得るのだろう。

 そういえば既に面の付け方を忘れている。後頭部やら腰の後ろやらで蝶結びをする機会などすっかり失われているのが少し寂しい。




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