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校歌
アイドル
動く耳
床屋
マジックハンド
無花果浣腸
銭湯プロフェッショナル

ぐ・り・こ
うわごと
あるだろ?
サクラ
毛虫
テープ
パン


「懐かしさとは何だろう?」

「寂しさの別名なのさ」

校歌 03/03/03

 校歌をまともに歌うことが出来ない。

 大体校歌などどこでもたいして変わりがないので適当に組み合わせるとそれなりに繋がってしまう。メロディーも確かに違うのかもしれないが何故か無理矢理歌えてしまう。歌えてしまうが、それは確実に間違った歌詞で間違ったメロディーであることがわかっているから、校歌なんてどこでも一緒と思い出そうとせず、調べようともしないまま継ぎ接ぎの校歌擬きを口ずさんでいるうちに馬鹿馬鹿しくなってついに諦めた。

 通常であれば小学校、中学校、高校、もしかすると大学まで校歌があり、一人当たり三、四曲は触れているはずだ。手前の場合は小学校と中学校で1度ずつ転校しているので計六曲。行事毎に歌わされる小中高の校歌は覚えていて当然の気もするが、いっそすべて忘れてしまった方が気持ちいい。しかし、切れ切れに覚えているからここにオリジナルの校歌らしきものがでっち上げられてしまう。

 何故、切れ切れに覚えているあちこちの校歌を、適当に組み合わせてもそれなりの形になるかと言えば、これは日本の伝統のリズム「七五調」が猛威を揮っているからである。実際のところ七五調ならどんな言葉を組み合わせても何とかまとまってしまうもので、便利な反面すぐにそっぽを向かれてしまう。

 だからといって七五調を外した校歌はと言えば、これが更に覚えられないという悪しき循環。もともと校歌など喜んで歌うようなものではなく、むしろ「早く終われ」「早く終われ」「早く終われ」「眠い」としか考えられない状況にだけ於いて普段肩身の狭そうな音楽の先生がここぞとばかりに張り切ってピアノを弾いている姿を見ながら仕方なく口だけを動かしている。

 校歌というものは通常我々の世界ではあり得ない言葉すなわち「努力」「友情」「向上」「磨く」「輝く」「健やか」などに、その地域の特徴「なになに山」「なになに川」「なになに野」、そして無理矢理季節をぶち込む「青葉」「朝日」、そしてほぼ共通なのが「我ら」「嗚呼」「母校」、そして最後に校名を繰り返す。

 全部同じやないけ。いちいち覚えてられるかぼけ。

 大学の校歌などは入学式と卒業式以外に聞く機会がなかったからほとんど覚えていないのだが、何故か千日前のカラオケボックスでリストに載っていた。どんなに少ないグループでもそういうものを見つける奴が必ずいるもので、試しに入れてみたところ確かに聞いたような曲ではあるが、当然歌えない。「覚えられない」のか「覚えたくない」のか定かではないが、校歌の歌い出しとして

♪君に会えてよかった・・・

 というのが、あまりにもこっ恥ずかしくて笑えるのでその先をどうしても思い出せない。とても有名な作曲家の手によるものらしいが、どうせ莫大な金を積んだだけなのだろうというところに落ち着く。ちなみにこの「君に会えてよかった」の部分のメロディーさえ思い出せない。この歌い出しの言葉、衝撃が強すぎる。さらに悲しいことにサビの校名のメロディーだけが鮮やかに焼き付いているのだ。

 実を言うと校歌を完全に歌える人が少し羨ましいのだ。全く役には立たない校歌などというものを歌いながら目を輝かせて子供に戻れる人が羨ましいのだ。まだ昔を懐かしむような年ではないが、たちまち少年時代に戻ることが出来る歌を共有している人が羨ましいのだ。

 校歌とは、たとえ思い出すのが寒く退屈な体育館だったとしても、その時の心に戻ることの出来る魔法に思える。

 忘れてしまったのは校歌だけではないだろう。

 そしてそれは二度と思い出すことの出来ないものだろう。

 それは何か。だから忘れた。思い出せない。


アイドル 03/03/29

 1970年代後半に生まれた世代の色気づく頃は1985〜1995年位なのだが、この時期、「アイドル冬の時代」と呼ばれていた。実際のところこの世代に「アイドルとは誰」と聞いてもはっきりした答えが出せないはずだ。

 おニャン子クラブが解散したのが昭和62年。1987年ですね。阪神ファンの性として「昭和60年=優勝=1985年」と刷り込まれております故、昭和後期と西暦の換算は得意なのです。それはそれとして、素人集団のおニャン子がアイドルのイメージとなり、やがて一種の熱狂が去り、解散して「アイドル冬の時代」にようやく色気づき始めた男子は中森明菜か工藤静香かいや森高千里のどうのと、アイドルではなく歌手に縋っている始末。何となく馬鹿馬鹿しいので古いところの洋楽などを聴いていたからこの頃の流れにはあまり詳しくはないが、どうも歌手の話題が多かった気がする。本当にアイドルがいなかったのだ。中山美穂はアイドルというより既に女優扱いしていたようだし、周りでも特別贔屓のアイドルが誰などという話はほとんどなかった。

 「アイドルって誰?」これに答えられない世代がいることを知って欲しい。悲しいのではない。情けないわけでもない。本格的に色気づく前の段階でジュリアナ東京が最高潮に達し、それも含めてあれやこれやのブームが全てぴたりと終わり、同時にバブルが弾けた頃に、いよいよ「もうすぐ大人になる」という悲惨な世代がいることを知って欲しい。

 さて、アイドルであるが、「アイドル、冬・不毛の時代」のまっただ中、『二十世紀最後のアイドル』と銘打って売り出された高橋由美子が辛うじて同時代であったと言えようか。ただし冬の時代だけあって全くブームにも何もならず静かに消えてゆく。特に熱狂もされず、たまたま、高橋由美子しかいなかったから偶然覚えているだけだ。何となく思い出したのは少し昔の「お肌荒れてますねえ」というチョコラBBのCMで、「頑張ろうな俺達の世代な」と、まるで戦友に再会したような、戦友とは言ってみても交流もなくたまたま同じ時期に違う場所で戦っていただけの関東軍とシンガポール方面軍のエール交換並の身勝手さ。しかしこれは「二十世紀最後のアイドルが肌荒れのCMに出ている」という衝撃には程遠いかもしれない。その後ドラマのイカれた占師役を見てさすがに言葉も出なかった。

 アイドルなどというものに興味など抱く機会もないまま大学へ進学する。最早アイドルなど有り得ないという風潮に支配されていた二十世紀ぎりぎり、彗星の如く広末涼子が登場する。あのですね、遅いんですよ。年下のアイドルという時点で手後れ。冷ややかに眺めていると出るわ出るわアイドルの大安売り。冬の時代、思えば正統派アイドルはいなかったが「グラビアアイドル」が沢山いたんですね。そのグラビアアイドルがやっと主流派になった頃、モーニング娘。登場。冷ややかを通り越して「馬鹿」の思いが届いたのかついでに「子ギャル」発生。「孫ギャル」はさすがに語呂が悪いのかいつしか使われなくなったが、麻雀牌をかき混ぜながら聞いていたFMで「チョベリバ」なる言葉を耳にして「そこまで略すなよ」と爆笑しながら「もうついていけない」と思った。

「アイドルって誰?」

 御免なさい。それを元に世代を計るとか話題をほじくりだそうとすることはこちらも勘付いてはいますが、答えられないのです。わかって下さい。どうか。


動く耳 03/04/14

 耳が動かせることに気付いたのは幼稚園のことだったと思う。

 口角を精一杯伸ばすと何か妙な感じがしたので「どう?」と訊くと「うわー耳動いてるー!」これで耳が動かせること、普通の人は耳が動かせないことを学んだ。

 どういうわけで耳が動くのか自分でも判らないから「何故動かすことが出来るか」と問われても困るだけである。中には調べて来て「不随意筋は動かすことは出来ないがごく稀に例外もいる」と講釈を受けることもある。

 しかし耳が動かせる人間というのは不思議に同族の匂いを嗅ぎ付けるもので、二十人いたら必ず一人は動かせると見てよい。耳が動かせる人間はそのことを積極的に知らせはしないが別の人が動いているのを見るとさり気なく視界に入って「俺も動くよん」と動かしてみせて選ばれし者の連帯に浸るのである。

 学生時分は必ず自分以外にクラスに一人は同族がいて「をを。お前もか」と親近感が湧くのであるが、耳が動くということが既に圧倒的な少数派であることを敏感に察知して以降は優越感もなく劣等感もなくただ「耳動くんやけどなあ」ぐらいの意識しかなくて同族が耳を動かしてもひくひく動かし返して「何の役にも立たんけど動かすことが出来るのは俺らだけ」という実に微妙な空気にお互い照れるだけの屈折した感情を共有するだけであった。

 たまに「柳葉敏郎も動いてるよな」ぐらいの会話をすれ違い様に交わすぐらいで、これは一種の秘密結社と言ってもよい。

 実際のところ耳が動いて得した事など一度もない。にらめっこでこちらが無表情のまま耳を動かすと勝つこともあるにはあるが大抵の場合、こちらの顔など見ずに仕掛けてくるから必殺技には程遠い。

 耳が動くと言っても手前の場合、それぞれ片耳だけ動かせるわけではない。動かすときは必ず両耳同時である。しかもそれは耳だけではない。頭皮も同時に動く。眉毛を片方上げることので出来る人がいる。手前も左眉なら上がる。しかしこれとは全然違う感覚なのだ。鏡を見るとき、つい耳を動かしてしまうのだが、自分でも何故こんなところが動くのか、こんなところに筋肉があるのか、それにしても普通の人は何故動かすことが出来ないのかつくづく不思議に思う。

 時々どうやって動かすのか問われるのだが、そのときの説明は「欠伸するやろ、そのとき耳が動くやろ、それを欠伸なしで動かしたらええねん」と言うが「無理」「耳動かん」「お前おかしい」で終了する。そして増々耳が動くことを隠すようになる。

 耳を動かすとき頭皮も同時に動くのだが、耳を動かすときは後ろに動く。前には動かない。上下にも動かない。ただ力を込めると後ろにひくひく動く。それにつられて頭皮も全体的に後ろにずれる。柳葉敏郎を見る機会があったら注目するがいい、耳が動き頭皮が全体的に後ろにずれ額が広がる。これがすべて同時に起こる。それぞれ単独では動かすことは出来ないのだ。

 頭皮がずれ、額が広がり、力を抜くと元に戻るわけだが、その瞬間眉毛を上げると額の面積の変動が明らかに不自然である。鬘を着用していてもこれほどの動きは出来ないと思う程だ。頭皮が全体的に動くのはじっくり見ると気持ち悪いらしい。自分でもそう思う。

 一体どこの筋肉が動いているのか確かめたくなることもある。頭を手で覆い耳を動かしてみると「うおおお。これ筋肉か。こんなところに筋肉か」と感動する。どこにあるのかといえば、「耳の真上」である。耳の真上を押さえていると頭皮のすぐ下に動く帯があることがわかる。この帯が頭皮全体を動かしているのだ。

 頭皮が固いと禿げると言う。柔らかいと禿げにくいと言う。しかし頭皮が動く人はどうなのかは誰も言及しない。どうか禿げませんように。どうか禿げませんように。


床屋 03/04/18

 今でも印象に残っている床屋がある。

  和歌山に住んでいた頃だから、小学生の低学年時代だ。五十歳程のおばさんが一人で切り盛りしていたらしく、その人以外に散髪されたことはなかった。そこに行くようになったきっかけは同級生が皆通っていて、皆が皆褒めちぎっていたからだ。しかし何故その床屋がよいのかは教えてくれなかった。

 頭の悪い小学生でも守るべき秘密は頑固に守るもので、いくら尋ねてみても同じく頭の悪い小学生に聞き出せる筈などなかった。「今日行く」「いいなあ」一体何がいいのか知りたくて知りたくてたまらないのにどうしても教えてくれない。行けば判るし行ったら秘密を知ることが出来、秘密の仲間に入れるだろうと思ってはいたので、機会を窺っていた。

 通学路の途中にあるかなり庶民的な雰囲気で外から覗くことは出来たが、友達が中にいても特別楽しそうではなく、何がそんなにいいのか判らないことが、最後の決断を鈍らせていた。

 あるとき放課後学校で遊んでいたらその床屋帰りの友達がやってきてすっきりした頭で妙に嬉しそうにしている。例によってその床屋に行っていない者がどうしてそこがいいのか問いつめてみるが、どうしても教えてくれない。

 その頃何故か唐突に親が「剣道を習え」と手続きを済ませて来たので、小学生なりにタイミングはここだと思ったのか「じゃあ散髪行きたい」と言うと次の日に行くことになった。それまでは親が鋏で刈っていたから、物心ついて初めて床屋にゆくことになった。

 常々小学生で溢れているその床屋は親と一緒に来ている奴などいなかったので、母親がついてくるのは抵抗感があり、一人で行きたいと言い張ってみても「いくらか判らないから」と繰り返すだけの親を丸め込むことなど出来ないまま、一緒にその床屋に行くことになった。

 子供同士でさえ秘密をかたくなに守っているところへ母親と共に行くのは子供の秘密を親にばらすことになって良くないことが起きるのではないかと恐れていた為、行く日は朝から落ち着かず、学校でも「その床屋に行く」とは言えなかった。

 さて学校から帰り、道草を喰っている友達も一通り帰ってしまい、通学路が落ち着きを取り戻したときを見計らってその床屋に行く。いつもは子供で溢れているのにその日は誰もおらず、直ぐに椅子に座って首にタオルを巻かれシートを巻かれたてるてる坊主にされてそのまま普通に散髪が始まった。

 余りにも普通だったので「もしかして親と一緒に来たら駄目だったのではないか」と不安になり、やがて母と理容師のおばさんが何か話している声が遠くから聞こえるシャンプー中に「やはり駄目だったかなあ」と諦めて、秘密が判らないまま頭を拭かれ、「今日ここに来たことは友達には内緒にしておこう」と決意し、やがてシートを剥がされるとき、それは起こった。

 シートを外すとき、おばさんの手がシートの中に入って来て肩から腕、やがて手に到達し、てのひらを開かされて何かを押し付けられ手を閉じられた。おばさんを見ると一回「うん」と頷いたのでまだ何かよくわからないがこれが例の秘密であることは間違いがなく、親に言ってはいけないことであると頭の悪い小学生なりに理解したので何かを握らされた手を固く閉じたままシートを剥がされ、外したタオルで肩をはたかれて散髪は終了した。

 手の平の中のものを見たいと思いながら親がいるから見るに見れず、握りしめたまま椅子から降りると母が「おいくらですか?」「1100円です」支払っている時に後ろを向いて素早く手を開けて、見ると百円玉がある。

 頭の悪い小学生でも既に引き算は習っている。本来1000円のところを1100円として浮いた100円を子供に小使いとして渡す。

 引き算は出来るがそれ以上の複雑な社会の仕組みが判らない頭の悪い小学生はそれが賄賂とは判らず、ただ小使い欲しさにその床屋に通うことになるのだ。当然以降親は来ない。

 中学生からは 1500円と書かれていたからあれは小学生だけの秘密であったのだろう。次の日学校で行ったことを打ち明け、100円貰ったと言うと「秘密秘密。絶対言うな」と口止めされ、そのままその床屋グループに加わるようになった。

 今思えば大したことではないが、当時はとても後ろめたく、そしてそれが興奮を呼び覚まし、道草もザリガニ釣りから駄菓子屋へと変わり、一歩大人になった気がしていた。

 およそ二十年前のことだ。キャッシュバック・キックバック・賄賂と、社会の仕組みを知る前の懐かしい思い出である。


マジックハンド 03/04/22

 マジックハンドというものがあって、騙される。

 まず割り箸を両手にしっかり握ってへし折る仕種をすると連結していた腕が一気に伸び、遠く物を掴めるという他愛もない下らない、しかし一度は手にしたことがある筈の玩具だ。

 腕の部分は「折り畳みスライド式の車庫の門」を極端なまでに省略した原理で、遠くのものとは言え精々50センチ先に届くかどうかの、まずは三日で飽きる代物だ。

 先が手の形になっているものがある。ただしあれは腕を完全に伸ばし切った時にのみ掴むことが出来るが、手元に引き寄せようとすると腕は折り畳むことになり、同時に掴んでいた先が開くので、そこで少年は万有引力を発見する。

 先が吸盤になっているものもある。しかし吸盤で吸着出来る程平らで空気の漏れない物体など玩具の中にそうそうあるものではないし、あったにしても相当勢い良く「ぴたっ」と命中させなければならない。当然命中させるには腕の伸び具合を計算し、方向を定め、上下の角度も確認したうえで一気に伸ばす。しかし勢いがついているから当初の構えの位置にある自分の手を動かさないようにするのは至難の業で、必ず前後どちらかに空振りする。

 更にまずいことに、この手の玩具は粗悪なプラスティック製であり、連結している部分の止め具も緩いことが多い。つまり伸ばし切ったとき、先っちょが垂れ下がるのである。標的の照準を修正し、何度かゆっくりやってみて、距離と角度を完全に把握すると、それまで溜め込んだ期待と緊張を込めて一気に伸ばす。

 しかし吸盤が空しくも弾かれてしまうのは、左右の吸盤が同時に当たらなかったからで、片方だけ勢い良く当たっても吸着しない。同時に反対側からも押さえ付けなければならないのだ。抑えなくてもくっつくような物体は重すぎてマジックハンドで弄ぶ対象とはならない。実は既にこの段階で、「少年がマジックハンドに弄ばれている」のだが、単純な原理でありながら複雑な計算を要求する玩具だとは気が付いていないので、めげずに再度修正をする。

 「標的をもっと掴みやすい位置と角度で置こう」

 最早マジックでもなんでもない。ゴミ箱に投げたゴミが入らなくて拾ってきては元の位置から投げ続ける馬鹿と変わらない。そんなことをずっと繰り返していると偶然吸盤にびったり掴むことが出来る。

 そしてその瞬間飽きるのである。実はもっと早くに飽きていてもなんとなくやめるきっかけがないまま意地と惰性でやっていただけである。

 これを「玩具で遊ぶ」と言えるかね?「玩具に遊ばれている」としか言えなくはないかね?そんなことを考えていたのは、高枝切鋏の原理の玩具が「マジックハンド」として売られいるのを見て時代の流れを感じたからだ。

 あの頃にこれが欲しかった。


無花果浣腸 03/05/02

 例えばイチジク浣腸というものがある。

 あの浣腸の容器が無花果に似ている。だからイチジクと名付けられたのか?違う。違う筈だ。住んだ事がある家のうち、最も庭が広い家にはいろいろ果物の木があって、無花果もあった。夏の終わりに薄く紫がかってそこからが辛抱である。すぐに熟れてしまうが耐える。無花果は尖っている方が木との接合部分であり、丸底フラスコの底の部分に当たるところが割れてくると食べ頃だ。その割れ方というか皹というか皺というかとても菊門に似ているから「イチジク浣腸」になった、訳でもない。

 無花果が食べ頃になると、一気に獲ってしまわなければ雀にやられる。一日にひとつづつ熟すから「一熟」経由の語源説もあるが、これはあとからのこじつけであろう。ある程度熟したところでまとめて収穫するのだが、無花果の木は一本だけなので、売るわけでもなく、おすそ分けするほど多くもなく、しかしながら一気に全部食べきれる程少ないわけでもない。

 しかし小学生にそこまでの分別はありません。うれしくて一気に全部食べました。そしてその夜眠れませんでした。便が止まりませんでした。

 「無花果は排便作用があり、薬としても使われる」

 次の日、母が笑いながら「無花果を食べ過ぎると腹を壊す」ことを教えてくれた。「腹壊したら身につくやろ」今考えてもこういう教育方針が正しいのかどうか判断出来ないのだが、無花果を甘く見てはいけないことをしっかり学んだので、体で覚えたせいか、無花果が沢山あると心なしか下腹が震える。

 少し前、朝日文庫から出ている「毒草・薬草」にも無花果は「つうじ」とあることを確認し、あの日のことは科学的に正しい反応であったことが改めて確認された。

 つまり。「浣腸」は便を開通させる為の行為であり、無花果も同じ作用を持っており、形と大きさがぴったりで、熟れてきたら無花果の底の部分がけつの穴のように開くのであって、これは最早偶然ではない。商品名「イチジク浣腸」これしかない。これでいくぞ。となったのではないかと思いたくなるが、実際はどうか。

 「通便効果」の一点で無花果に決まったと考えたい。大きさと形は後から似せた確信犯であろう。けつの穴の類似については単なる偶然以上のことはない筈だ。

 なお、無花果をそのままけつの穴に刺して浣腸したら効くかどうか。それは知りません。

 その調べてみると、由来は諸説あるようで真相は闇の彼方のようです。大きさと形は浣腸の容器をいろいろ試しているうちにたどり着いた完成形らしい。元々「いちじくなんとか」という浣腸会社だったとか。


銭湯プロフェッショナル 03/05/12

 かつて風呂のない文化住宅に住んでいた時、銭湯に通っていた。

 最初は洗面器にごちゃごちゃ入れていたが、次第に面倒になってくる。洗面器に入っていたのはケースに入れた石鹸、シャンプー、リンス、力を九十度変えて伝える円筒形の歯車のような櫛。そこからまず櫛を捨て、リンスは禿げるのを恐れて使わなくなり、やがて髪より頭皮を重要視し始めた頃シャンプーも使わなくなる。そうなると洗面器などいらず、銭湯へはタオルと液体石鹸のみの軽量化が完了。これ以上減らせるものはないと信じていたが、あるとき、凄い人を見た。

 その銭湯が閉まるのが夜十二時で、大抵十一時半から通っていた。そこに来たのが五十代の小柄なおじさんで、作業着姿。何かの工事を抜けてふらりとやってきたふうに見える。前後して入浴料を払う時に手ぶらだったので不思議に思った。石鹸もシャンプーも買わず、脱衣所に向かう。後から続いて手前も向かう。ほぼ同時に全て脱ぎ終えて彼が持っているのは何故か軍手。

 軍手しかも片方だけを持って滑るように湯殿に入ってゆく。やや遅れて入るが彼はいない。「軍手の人消えた」と思いながら洗い場で鏡に液体石鹸をすり込む。タオルを湯に浸してさて、鏡が写るようになったら頭から洗おうとのんびり待っていると、やがて曇りが取れて綺麗に写るようになる。すると鏡の向こうに彼が居た。鏡で左の方に写っているから左後方だ。あの手にもっている石鹸は五十円で買う石鹸だ。使い切ることが不可能な石鹸がいつも必ずどこかに転がっている事を見越して石鹸を買わなかったらしい。そして湯殿に入ってすぐ、姿がなかったのは石鹸を探していたせいだろう。

 鏡の向こうで軍手に石鹸を揉み込んでいる。いつもなら頭を下げて髪を洗うが、この時は頭を上げたまま、鏡を見据えて頭皮を引っ掻き回していた。見ていると泡だらけになった軍手をはめた。右手か左手か。鏡の向こうで彼は後ろを向いているから、どちらの手だ。わからないが軍手でまず顔を擦り始めた。開いた手のひらを顔中に這わせ、耳を絞り、やがてもう片方に持っていた拾った石鹸を頭に押し付けてしごく。石鹸を置いて軍手の手と軍手でない方の手で頭をがしゃがしゃと洗い始める。こちらが顔を洗っている間に早くも軍手の手は肩を擦っている。握り拳になっている。握り拳で腕を洗い、腹を洗い、脇腹を洗い、腰の後ろを洗い、足を洗い、ここで軍手を外して再び石鹸を揉み込む。反対の手にはめた。どちらの手かがとても気になっていたので振り返ってみると、今はめたのが左手だ。という事はさっきまでは右手だったようだ。左手にはめた軍手を拳にして右腕を擦る。背中はどうするのかと見ていたら上から後ろに回し、右手で左手の肘を押し下げて背中を洗っている。下に回すと下から肘を押し上げて洗っている。軍手の握り拳というのは不思議なのだが、ほかに数人いる人は気付いていないようだ。あまりにも自然過ぎて軍手だとは気付かないのだろうか。それとも手前が知らないだけで実は常連なのだろうか。こちらは時間の決まった常連のつもりなのに一度も見たことがない人なのだ。

 手前の方が先に洗い終わり湯船に向かう。勝った気がする。洗い終えたらしく軍手を絞っている。軍手を裏返して更に絞る。裏返して絞るのは意味があるのかどうか考えたが、よくわからなかった。

 もしタオルか手拭があれば使っている筈だ。使っていないからもしかすると湯上りに体を拭くとき、軍手で拭くのかもしれない。その時は軍手を握って拭くのだろうか。軍手を手にはめて拭くのだろうか。気になるではないか。タイミングを合わせてあがるとしよう。

 あがる必要はなかった。

 銭湯の作法をよくよく知っているらしい。湯殿から出る扉の前で体を拭き始めた。残念ながら軍手を握り締め、何度も絞りながら拭いている。髪の水分を拭き取るのに苦労しているようだ。おそらく脱衣所に出てから洗面台で軍手を洗って固く絞り、服を着て軍手を乾かす為に手にはめて去ってゆくのだろう。上には上がいると思った。

 あれほど無駄がなく、流麗で優雅な入り方をその後見た事がない。


鶏 03/12/02

 公園でも駅のベンチでも普通に座っていると鳩がばさばさ降り寄って来ますな。あれはやはり餌を与える者がよくそこに座ることを学習しているわけでしょうな。

 小汚い鳩の群れの中に痛々しい雰囲気の真っ白い鳩が居ったらつい情をかけたくなりますな。中には頭だけ白いまるで禿鷹の冗談みたいな奴も居りますな。首だけ異様に太い奴が何故か必ず一羽は居りますな。じっと見てたらきちんと瞬きしてますな。鳥の瞬きは何か気持ち悪いですな。大体あの鳥の足。あれが動くことは不思議やね。からからに干乾びた木乃伊を思い浮かべてしまいますからな。卵よ卵。卵産むんですよ鳥類は。卵の殻はいつ・どこら辺で殻になるのか子供の頃つくづく神秘でしたな。いうても卵て例えば鶏を考えて、雌の鶏の腹の中にいきなり普段食べてる大きさの卵がぼんと出来る筈はなくて、始めは小さく段々大きくなってゆくであろうことは想像つくわけです。その後数ミリの卵から序々に大きくなってゆく黄身が数珠繋ぎになっている遠近法的な写真を見たことが想像を裏付けてくれたわけですが、殻はどうした。

 殻ですわ。卵の殻はいつの段階で被われるのか。大体卵の殻には繋ぎ目がありません。怪しくないですか。生む直前の卵は殻があって、せっせと細胞分裂している黄身には当然殻はない。では、その殻のあるなしの境目はどこなのか。いつなのか。どうも便秘気味かあるいは少し分裂し過ぎて大きくなってしまった卵を産み落とす為に、雌鶏が「ふんっ・・・・・・ぬりゃああああああ」ときばった際に、殻の付いた卵がすぽーんと飛び出し遠くに落ちて割れた後、穴は緩くなっているからまだ殻の付いていない小さい卵の黄身がうりゅうりゅうりゅうりゅと出てきて雌鶏が「どうしよう!止まらないわ!脱腸の気分よ!」と狼狽えることはないのでしょうか。それを見ていた一部の変態がトサカをびんびんにして走り回る光景などはやはり有り得ないことなのでしょうか。

 どうやって殻に被われるのか。その仕組は判らないままですが、人間の手術をした際に腹の中に器具を置き忘れたまま縫合してしまい、何十年も経った後、取り出してみたらカルシウム質のなにかで被われていて、打ち壊すと中から器具が出て来たという話があるわけですが、あれと同じ原理であろうと考えているのです。

 鶏が卵を産むのは尻の穴からでありまして、だから卵の殻を舐めるのは鶏の尻の穴を舐めているのと同じことです。そう言えば高知のあたりでペット用新種の鶏が話題になったことがありますね。時の声を上げない物静かで少し小型でおとなしい鶏、雌ならばほぼ毎日卵を産むわけで、しかし何しろ鳥でありますから糞の躾が出来ないのでオムツを穿かせた写真を見た記憶があります。あれなら纏めて飼ってみたいですね。でも集団になると朝方細胞の奥深くに眠っていた本能が呼び覚まされて鳴く奴が出現するかもしれません。

 小学校時分、鶏小屋の管理係をしていたことがありました。土曜日は午前中だけで終わり、その後は一年生から六年生まで全員校庭に集合して校長先生の長い長いお話を聞かされて、あと順々に立場の低い先生が連絡事項を伝えて、最後にその一週間の校内落し物や忘れ物を名前がある時は名前を呼ばれて全校生徒の前で恥を晒すことになるわけです。これが長く苦痛でした。しかもそれが終わると地区毎に集団下校しなければならず、それがあまりにも阿呆らしいので、学校のすぐ近くに住んでいた友人と示し合わせて鶏小屋の管理係に志願して、その退屈な最中は鶏と遊んでおりました。鶏の糞というものは何度も踏み付けられたガムのようにべっとり付着しているので掃除はそれなりの重労働でしたが、そもそも家から走って一分の距離にある学校へ集団登下校する為の集合場所は学校から反対の方向にあり、それを避ける為にも鶏は絶好の口実でありました。

 たまに産み落とされている卵は交代で権利が回ってきて、いつもはそのまま食べていましたが、ある時これは暖めたら雛孵るんやろかと考え、遠赤外線の炬燵を「強」にして一週間ほど放っておいたところ、何も変化がなかったので、諦めました。しかし、そこで食べる為に割った場合、もし雛の形になっていたらかなり後味が悪い。雛にならない無精卵であっても一週間遠赤外線でじっくり温めた卵は食べると確実に腹を壊す。しかし生ごみとして捨てるにも忍びない。よって庭に卵のまま埋めました。ごめんね。

 せやからね、鶏は泳げるんかどうなんか知りたいんよ俺は。


ぐ・り・こ 03/12/04

 じゃんけんをしてグーで勝てば「ぐ・り・こ」、チョキで勝てば「ち・よ・こ・れ・い・と」、パーで勝てば「ぱ・い・な・つ・ぷ・る」と進む遊びがある。通称「グリコ」と呼ばれている。

 平地では「ぱ!い!な!つ!ぷ!る!」精一杯大股でぶんぶん進み、階段では一段づつ、他愛なくて微笑ましい光景であるが、グーで勝った時に三歩しか進めないのは昔から理不尽な気がしていた。

 そこでまたいつものように酔いつつ「このゲームでは何を出せば最も勝つ確率が高いのか」と考え始めて途中でわけが判らなくなって神戸在住を読み、ほろほろに酔ってぼんやりしていた瞬間理屈が判った。しかしながら文系人間故に計算式を立てることが出来ないので正しいかどうかは不明である。

 つまり、じゃんけんに於いて選択肢は「グー」「チョキ」「パー」のみっつしかない。短期決戦ならば偏りもあるだろうが長く続ければ続ける程勝ち負け引き分けそれぞれ三分の一に近付くことになる。こちらが何かひとつに絞って出し続ける時、相手がその事を知らない場合、これまた長く続ければ三分の一の確率に落ち着く筈だ。しかしこの「グリコ」では、グーで勝った時だけ三歩しか進めないのであって、チョキとパーでは六歩づつ進めるわけだから、確率上は不利である。もっと有利な手がある筈だ。

 だからグーを出し続ける時に、相手がチョキでも三歩しか進めず、相手がグーなら共に進まず、相手がパーなら六歩後れを取ることになる。相手がじゃんけんでいつも決まった手を出す癖があるなら話は別だが、この場合確率を三分の一であると考えると、グーを出し続けるならば、じりじりと差が拡がる計算になる。一回毎の勝負で三分の一だから、三回やればこっちは三歩進んで相手は六歩進んでいるという勘違いをする程酔ってはいないことに少し勇気付く。

 グーを出してはいけないわけだから、残るはチョキかパーになる。パーを出し続けた場合、勝ったら六歩進める。しかし負けたら六歩進まれる。意味がない。グーを出し続けると損をする以上、得をする手はチョキである。何故ならば、チョキを出し続けた場合、引き分けならそのままで、こちらが勝つと六歩進めるが、相手が勝つと三歩しか進めない。「グリコ」の必勝法はチョキを出し続けることだ。あれ?だからチョキに勝てば三歩のグーがあるのか?大富豪の「3」みたいな存在なんかグーは。これは偶然なのか?それでもチョキが一番有利なことには変わりない筈だ。

 当然長い勝負ならば途中で怪しまれるから適度にパーを挟むとよい。相手がこのことを知らなければ、相手がチョキを出し続けることはないからこちらがグーを出す必要はない

 グーで勝った時に「ぐ・り・こ・お・げ・ん」と六歩進めることにすればこの不均等は崩れて公平になってしまうが、これもまあ、可愛い詐欺というかそんな感じなんかね。じゃんけんで人数が多い時に使う「多い者勝ちじゃんけん」と同じように、必勝法は知ってる人だけ知っておればよいということなんやろか。

 不幸にして相手もチョキを出し続けていればよいことを知っていた場合、知力を振り絞って裏の裏の裏の裏を探り合う大人の勝負となるわけだが、公平な場合は何を選んでも確率は同じだが、三歩と六歩の差がある不均等ゲーム、そう考えると少し見方が変わりよるね。

 以上の事を心得たればグリコで勝負、飯でも賭けてやってみるかい?


うわごと 03/12/09

  その国で育った者が海外から来た人間を全て「子供みたいな奴」と考える理由とは、どの社会に於いてもまだ社会のルールや習慣とマナーや価値観を習体得していない子供の姿が、その社会の約束事を心得ていない外訪者に重なる為であって、だから外国人は子供っぽいと考えてしまうのだ。ストロースだ。だから日本人の評判が「まるで子供」というのは当然の結果でもあるし、その日本人は日本国内で外国人を「子供のように我侭」と言うのだから根は深い。

 如何に理不尽であろうとも社会が存在する以上規範も存在する。規範が存在する以上遵守する人と突破する人が存在する。しかしその突破する人はその社会では理の人とならない。それは理不尽が社会の規範であるならば、理不尽こそが正しいのだから、正しい人は正しいとされない。

 そもそも一対一の結婚なる制度は「文化の衝突」と形容されている程であるから食に限っても味噌汁紛争鋤焼戦争朝食大戦が勃発する。一対一の相互理解も困難である人間が異なる言語の文化を理解など出来よう筈がないのだ。そのことを前提に置けば、「話せば判る」という立場で序々に絶望感を拡げるよりも、「話しても判らない」という立場から少しづつ希望の灯が燈るほうが幸せである。形を変えた先駆的了解と言えなくもない。しかし「絶望感」に対して「希望感」なる言葉は余り使わないね。これは「絶望感」という用法に何か秘密があるのかもしれんね。

 文化の衝突が引き起こすのは混乱だ。そして混乱の中に進歩の芽がある。混乱のない進歩は一見進歩に見えて実はただの醗酵である。陽気に爛れた元禄文化は鎖国の中で進んだ極上の蒸留酒の上澄に今からなら見える。しかし元禄文化を彩る数々の文化的作品は当時でも先鋭的な退廃文化であったに過ぎない。例えるならば、数百年後に発見された紀元二千年前後の文化資料がエロ漫画エロ雑誌エロ本エロビデオ裏ビデオエロDVD無修正DVDのみであるならば「この時代の人間いかれとる・・・」と考えられてしまう。一部の先鋭をその時代の看板化することは避け難い以上、「なめ猫」を時代の象徴とせねばならない恥も受け入れねばならないわけだ。

 というわけでバブルと世紀末の間でひっそり育った我らが世代は「失われた十年」などと言う心無い言葉に表された時代を何となく歩いて気が付けば物憶う年頃、第二次ベビーブーム世代の煽りをもろに受け続けていくわけですよ御同輩。我々の文化は我々が誇れる物を我々の手で作ろうよ。


あるだろ? 04/02/11

 子供が大人の真似をしたくなるのは仕方がない。しかしそれがかつて自分もまた通った道であることを思い出すと耳の後ろが痒くなる。

「痰を吐く」痰を道端に吐き捨てる所作に大人を感じて真似したくなる。しかし呆れる程に健康な子供は痰など絡まず、そもそも「痰」なる物質の存在を知らず、概念も知覚せず、とりあえず口の中に唾を目一杯溜めてみる。歩きながら左肩越しに吐き捨てるところを見て真似したくなったから、左肩越しに吐いてみるが、唾と痰の質の違いが考慮の対象となっていないため、思い切り無様な音を立てて、それでも吐き出したのに、着地する音が聞こえない。着地する瞬間は顔が正面に向いているところを見て、それを参考にしたから、吐いた直後に顔を正面に戻したのだ。左の唇から頬にかけて唾が糸状に張り付いた感覚があるのでそれを拭い、着地の音が聞こえないから不思議に思って振り向いてみると、唾は左肩にべたりと付着していた。

「新聞を引き裂く」何かの映画で見た姿、怒りに震えて感情が爆発し、読んでいた新聞をばりと引き裂く姿が妙に印象に残った。これは早速真似したくなり、ごく簡単だろうと新聞を手に持ち、まだ読めない新聞を大きく開いて呼吸を整え、新聞を握り締めた手に力を込めて一気に左右に腕を広げた。その当時はまだ左利きの名残があって左手の握力の方が強かったからだろう、左手には握り締めただけの大きさ、つまり手のひらの半分程度の紙片しかなく、残りは全て右手に垂れ下げたまま呆然としていた。色々研究した結果、新聞は広げても張ってはならず軽く角度がついている状態で、160度くらいだろうか、そして真っ直ぐ左右に引っ張るのではなく、上の端から切れ目を走らせることで綺麗に二つに引き裂けることが判った。

「自転車の灯を、走りながら爪先で入れる」夕方頃、自転車で走りながら灯のダイナモを右足で「ばし」と蹴り下ろすようにして速度を全く落とさず灯りを付けた人が擦違い様に格好良かった。当然自転車に乗るようになり、ある日の夕方、灯りの必要を感じた時に突然思い出し、ばしんと蹴り下ろした筈の瞬間、誰も皆経験がある通り右足の先はダイナモの隣を通り抜けて前輪のスポークとスポークの間に挿入された。自転車は走っているのであって、即ち前輪は回転しているのであって、その前輪を支えるスポークとスポークの間に挟まった右足の先は前輪を止めるフロントフォークで引っ掛かって止まり、スポークが止まると前輪も止まり、前輪が止まると自転車も止まる計算になるが、残念ながら「慣性の法則」というまだ習っていない裏技によって、それまで至極順調に走っていた自転車の前輪だけが一瞬でぴたりと止まってしまったから、その自転車は前輪を梃子にして空中に吹っ飛び、自転車をのんびり漕いでいた無垢な少年も軽やかに吹っ飛び、それまで見たこともなかった世界を感じつつ、気が付くと仰向けに倒れていた。今考えると前に半回転から一回転ほどしたのだと思う。幸いにして足の指は折れもせず、しかし前輪は少し歪んだらしく、回転している所を真上から見るとブレていた。

 誰しも経験がある筈だ。あるだろ?


サクラ 04/06/25

 「サクラ」のことだ。

 露店詐欺技術のひとつである「サクラ」とは、胡散臭い商品を売りつける為に、集団心理を利用するべく客に成りきった売り手側の仲間のことであり、彼等が盛り上がって買うと本当の客であるカモも騙され釣られて買ってしまうもので、やがて客が冷静を取り戻した頃サクラは既に遁走しており、また次のカモを絡め取る機会を伺いつつ、買った筈の商品を補充と称して売り場に追加する。しかしこれはよほど儲けが出る商品でなければサクラに対する報酬が賄えない。

 この「サクラ」の語源をよく知らないままに「一瞬咲いてぱっと散る」とはなかなかの言い回しだ思っていた。それがどうだ。「桜を只で見る」から「芝居の無料見物人」やがて「客の振りした詐欺従犯」となったらしい。当然「目的を達してぱっと散る」の意味も兼ねてあることだろうが、こちらが主ではなかったことに驚いた。

 害のないサクラとしてサーカスを思い出す。バイクの檻があったから、もしかすると木下だったかもしれない。バイクで球形の檻の中を駆け巡るという観ている方が目の廻るもの、球乗りお手玉ピエロ、フラフープを逆回転させて目の前の箱に転がし込むという明らかに修行中のもの、空中ブランコ、一輪車の綱渡りは暗い中でもタイヤを外してホイールだけというのは当時の頭では歩くより簡単に見え、そのまま目隠しと盛り上げつつもそれは客から演者の目が透けて見えているから実は隠されていないことを知った。象がいたことも覚えている。

 幾つかの演し物の中で、トランポリンを使ったものがあった。三人が肩の上肩の上と縦に直立するなどの後、進行役がトランポリンに乗ってみたい人を募集するわけだ。当然子供が選ばれるわけで、子供であった手前は後ろの方に座っていたから必死に手を挙げても選ばれることはなかった。二人目が終わる頃には次の演し物の準備も整っていて、「じゃあ、最後にあと一人だけ」の声に飛び上がりながら絶叫していると、進行役がこちらを向くではないか。「はーい、じゃあ、そこの、おとうさん!」小屋を満たしていた子供達の絶叫が一瞬で静寂に変わり、手前の左斜め後ろにいた誰とも知らぬ禿げた小太りのおっさんが舞台へ駆け上った。

 トランポリンで何度か跳ねて、滅茶苦茶な動きであまりの下手さに場内は爆笑し、「ぽーん、ぽーん、ずぼ」最後はスプリングの間に足を突っ込んでしまって引っ張りあげられ、とどめの笑いを与えた。それが終わるとおっさんは戻って来なかった。そして次の演し物が始まり、やがて全ての演し物が終わった。サーカスを目の前で見るのはその時が初めてであったから、もう一回見たいと粘り、続いてもう一度最初から見た。トランポリンに乗ってみたかったことも理由の一つだと思う。

 やがて同じ演し物が進み、トランポリンまで来て、それでもやっぱり選ばれず、三人目には「はーい、じゃあ、そこの、おとうさん!」向こうの客席から駆け下りてくるのは先刻のおっさんではないか。先刻と全く同じ動きで場内を盛り上げ、ここで降りようとして足が刺さる・・・と思ったところできちんと足が刺さり、全ては計算された動きであることを子供心に理解し、場内の歓声をよそに「みんなは騙されてる」と考えていた。

 あれがサクラの概念を知った最初であった。それを六歳で知るべき事かどうかは判断出来ないが、少なくとも「知らなければよかった」とは思わず「知ってよかった」と思っている。トランポリンへ乗る中に選ばれなかったことは計算通りのことだから納得しつつ、それでもやっぱりあの時乗ってみたかったよ。


毛虫 04/09/13

 桜の花見と言っても通常桜など誰一人鑑賞せずに、ただひたすら酔分の摂取に勤しんでいる。

 それでも少し強めの風で散る花弁が渦でも巻けば一瞬手を止めることもあるだろうが、まず風流とは程遠い。そもそも桜は一斉に咲いてすぐに散るところから、その儚い煌きを愛でることに対して持つ少しばかりの感傷もさして悪い気分ではない。

 しかしながら散った後に葉桜と称される威風払う佇まいは、ほぼ存在を忘れられている。桜と言えば花であり、葉と言えば桜餅で見たことがあるにも関わらず素通りする有様だ。

 素通りだけならまだよいが、葉桜は嫌われることもある。花が散り、葉が拡がる頃になれば毛虫が発生するわけだ。この毛虫という奴やがては蛾となり更に嫌悪される。毒毛を持つ奴を掴んで痒みに舞った経験を持つならば毛虫に対しての憎悪は生涯消えない。

 かつて住んだ借家の庭に樹齢約三十年の妙に高い桜があった。低いところの枝は全て払われたからだろう、満開為った暁には遠く茸の如き地標となっていたが、庭からでは首を直角に仰がねばならず、しかし散った花弁はあっさり庭を越えて道に積もり、雨が降ったら流してくれるから掃除は楽なのだがと思う程度の扱いで、せっかく庭に大きな桜があっても風流とは無縁であった。散った花弁が目立たなくなると葉桜となり、庭には毛虫がぽとぽと落ちてくる。葉は上の方で茂っているので毛虫を叩き落すなり焼くなりの処置は不可能で、狭すぎるわけではない庭に道を隔てた田畑から蛇がやってくるので某かの鳥は巣を作ることもなく、次から次へと這い回る毛虫から導き出される感想は、「桜なんて見るだけで結構」といったものであった。

 そのせいか青々と茂る葉桜を見る度にどれだけの薬を散布されたのかを想像して気分が悪くなる。毛虫が如何に唾棄すべき存在であってもそれは命の秤だ。炭鉱の金糸雀が危険を知らせる物差として理解されているのだから、それに類した意識を持って、毛虫一匹寄り付かない葉桜は余りにも悲しいではないか。


テープ 05/01/01

 CDも既に時代遅れとなるのか。

 レコードに関する記憶と言えば、小学校の放送室で昼休みに流す音楽の選択権が廻ってきた際のものだけだ。だから回転速度を正しく設定して円盤を載せて針を慎重に落とすことは知っていても、今この瞬間に出来るかと問われたならば曖昧に頷くしかない。だからレコード世代ではない。

 レコード世代ではないが、CD世代でもない。CDを携行して再生などあり得ないことだった。だからレコードとCDの過渡期にあって両方から記録することの出来た「カセットテープ世代」だ。どの曲をどういう順番に入れようかと悩むことが苦行でもあり楽しみでもあった。

 「曲順とは製作者が考え抜いた挙句の結果なのだからそれを無視することは許せない」と主張する奴のテープは、だから原盤の順番通りに録音されていたが曲の途中で必ず途切れ、裏が再生されると今途切れた曲が再び最初から流れる。途切れたところから始まるよりはましだが、個人的に曲の途中でテープが終わることは許せなかった。

 時間ぴったりに収めたい性格だったから、各曲の時間を計算し、これはA面こっちはB面と振り分けつつ、片面45分の場合なら「A面44分52秒」「B面44分48秒」のように収めることが至上の喜びでもあった。通常そのような作業は大変に煩雑であり、計算して収めるべき曲を決定しても、そのあと実際に録音する必要がある。録音している最中にはケースの紙に順番がごちゃごちゃになった曲目を書き並べる作業もある。当時でさえも面倒な事だったからテープを作る機会は滅多になく、しかしそれでも定期的に作成していた。

 その理由は、当然ながら中間テスト及び期末テストが定期的に行われるからである。


パン 05/01/04

 倒産してしまったが、和歌山市に「丸正」マルショウという百貨店があった。

 考えてみれば和歌山にはおよそ六年住んでいたから、手前のささやかな流転人生のうち最も長く滞留していたことになる。引越す機会が多ければその都度記憶に楔が打ち込まれてゆき、古い話が比較的思い出し易い。和歌山に居たのは三歳から九歳までのことであり、男子にとって黄金時代と言える時期だ。

 あれは小学二年生の頃だったからおそらく六歳のことだろう。当時住んでいたのは和歌山市内ぎりぎりの、駅と厩舎に挟まれた騒々しい地域だった。当時はまだ紀三井寺競馬場も潰れておらず、だから厩舎があって家のベランダを開ければすぐそこに馬が居た。その家から和歌山市内の繁華街へ行く為に自転車では遠過ぎたのでバスに乗らねばならず、「自転車で行けるところ」が行動範囲であり世界の全てであった小学生として、バスに乗って百貨店の丸正に行くことは非日常的な心躍る体験だった。

 そう、覚えている。「落ち着く時は眠る時だけ」の子供が百貨店の買物に付いて廻るなど周囲に迷惑この上ない。なのに何故母は常に手前を連れて行ったのか。丸正で母が何かの買い物をしている間、じっと動かず静かにしているお気に入りの場所が唯一あったのだ。

 それはパン屋だった。硝子越しにパン捏ねの実演を見ることが出来、とても柔らかそうな粘土様のものを棒で押し拡げ、重ねて畳み、小麦粉を振り、また捏ねて、引き伸ばし、千切り、丸め、包み、成形してゆくところを、飽くこともなくじっと見つめていた。中には大抵二人居て、硝子一枚のすぐ向こうで粉が舞い鮮やかな手つきで生地が延べられてゆくのを魔法を見るようにいつまでも立ち尽くし眺めていた。子供の肩の高さぎりぎりが作業台の高さであり、だから見ることに全く苦痛は感じなかった。捩ってゆくクロワッサンを作る過程を見るのが最も好きだったが、何よりもそこが好きだった理由があった。

 額を硝子に押し付けて一心に見ていると、丸めていた生地を突然こちらの顔に向かって投げるのだ。驚いて身を起こすと中で大笑いしていて、硝子にびたと張り付いてゆっくり落ちる生地を再び丸めてパンを作り続ける。十五分に一度くらい生地を投げてくれて、それは丁度生地が飛んでくるかもしれないことを忘れて夢中になっているところを狙い済まし、びたと目の前に張り付く。毎回必ず驚いて、それがとても楽しみだった。

 単調な作業の中、硝子の向こうで首だけ見えている子供が動かずにじっと眺めていれば、遊んでやろうと思いたくもなるだろう。今なら買物の最中に放置された子供を楽しませようとしてくれたことがよく判る。でもあの時は、生地が飛んでこなくても決して退屈ではなかった。白い粉がパンの形に変わってゆくところを驚きの目で眺めていて、それだけでも満足だったのだ。

 丸正は倒産してしまってもう見ることが出来ない。毎日作り続けているからこその淀みない手捌きを、縁日の飴細工の前でじっと細工過程を眺めている子供を見て不意に思い出し、大きく息を吐いたら鼻の奥がつんとした。




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