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霊柩車
mi
研汁
ハンカチ
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繊維
ぺん
腹筋
放置
盲導馬
自鳴琴
審判
指揮
タイピング練習
簡易風呂
石版
ラベル
タイピスト
名物
缶蹴
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水時計
下駄予報
拭く
去勢
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木工
偏光
電子暦


「流行を追い掛けるなんて馬鹿馬鹿しい」

「流行を作る側になればいい」

mi 03/04/03

 このメールマガジンを発行するにあたって使用しているマッキントッシュ用テキストエディタ「みみかき」に注文を。

 注文と言うかですな、「アプリケーションmiは予期しない理由で突然終了しました。その他のアプリケーションには影響ありません」と表示されて折角書き上げた筈の文書が保存する暇なく消えてしまうことが実に困る。

 状況を説明しよう。まず、新規のテキスト文書を開く。そしてそこに何か書く。一回当たりのおよその目安は一行当たり47文字の30〜40行だ。それを書いているうちに派生した芽を別に一回分に出来ると見当を付けてコピーする。更に新規テキストファイルを開く。最初に開いたものはタイトルが「新規」途中で開いたものは「新規1」となっている。「新規1」に芽をペーストしておく。ここまでは良い。しかしこの後、「新規」の方をざっと眺めて少し手直ししたりする為に、「新規1」が邪魔である。「新規1」を裏の方に隠しておくのは不安であるし、ドックに一時的に収納するのは後で忘れそうになる。そこで「新規1」を一旦保存してから「新規」の手直しをしようと考えたわけですね。

 それで「新規1」を保存しました。精々一行程の暖めておくべき芽だけを保存。名前を「新規1」から「雁」に変えて保存は完了しました。その瞬間「突然終了しました」と表示されて「新規」が、とりあえず書き上げたはずの「新規」が、あとは手直しするだけの「新規」が、消滅致しました。 おーい。

 実はこの症状、何度かありました。何処を捜してもない。保存せずに終了しては当然だが、終了するつもりなど微塵もなかった。何が残ったか。「しばらく暖めておいて膨らませようと考えてわざわざ名前を付けて保存した一行程の芽」だけだ。脱力感と徒労感に見舞われてしばらく放心状態。やがて同じ動作を確認してみるとやはり突然終了する。

 わかりました。よくわかりませんが後から開けた文書を保存したら駄目なんですね。保存するなら開いた順番ですか。あるいは開けっ放しでどうにかする、と。それで結局今日は諦めて脱力感に包まれたままにこうして情けない文章を綴っておるわけです。

 仕方がない。この文章をコピーしてまず、メルマガ過去用の掲示板に張り、次にメールマガジン用テンプレートのファイルを開き、本文位置にペーストし、タイトルと人数を入れて報告を適当に流して各発行スタンドから発行する。さて、今回はやる気がない。「みみかき」の突然終了の理由はわからないが、どの状況でそうなるかはわかったので以後注意しつつ、とりあえずバージョンアップの情報がないかこれから見に行く。

※最新版は20039/15リリースのmiバージョン2.1.2、OSXに対応しています。ヘルプは今のところないようですが、必要ない程洗練されたテキストエディタです。今ではマックを使っていない為にみみかきとは離れてしまいましたが、WINのメモ帳やワードパットに比べると格段に違いますな。開いた順に保存することを徹底すればよいだけであるし。


研汁 03/07/14

 例えばたまには霙鍋でもしようと思って大根を摩りおろし始めるが、大根を一本摩ってしまっても大した量にはならないことを知り、徒労感に包まれながら水炊きを大根おろしで食べることになる。しかし鍋で煮るには少ない量でも薬味としては絶望的に多く、「こんなに喰えるわけないやろ!一本分やぞ!」と怒りのままに鍋にぶち込みたくもなるが、既に鍋の中は満員御礼であって、行き場をなくした大量の大根おろしは、冷凍庫へ行く。

 さて、大根おろしを凍らせると見た目は驚くほどかき氷に似ている。しかし当然細かく砕けてはおらず、ただの塊であり、始末に困る。どうせ解凍したところで水分と繊維が分離して大根おろしの風体を為さないことは明白であり、うんざりして結局便器にごとりと捨てておく。自然解凍により、数十分後トイレには爽やかな香りが拡がっていることだろう。

 何かの理由で食べられなくなったものを流しに捨てることが出来ない場合、生ごみとして放置するのは腹が立つのでトイレに流すことになる。液状のものであっても流しに捨てた後はシンクを洗うのが面倒であり、その点トイレならレバーひとつで処理が済む。

 コンクリ三面張りの川の弊害として増水問題もあるが、これは今の刑法二編第十章第一一九条、溢水罪は最高死刑まであり、政治家と土建屋は縛り首にならないのは不思議でもあるが、それは別の話だ。

 米を砥ぐことは「汚れを落とす」というわけのわからない理由をもって正当化されているが、それほど汚れているものを売るなよ。買うなよ。そもそも汚れどころかビタミンBを洗い流してどうするのだ。白米をさらに砥ぐことがまるで意味のないことは、「玄米が健康食の雄」であることをもって証明できる。船乗りが脚気で苦しんでいた時、白米から玄米にするとあっさり直った話もある。虫がいるか。小さいゴミがあるか。それなら水に浮いたゴミだけ流せばいいではないか。大体沸騰する水の中に米を放り込んでおくのだ。殺菌にならないわけがない。「白米を砥ぐ?」大吟醸酒でも作るつもりか己は。農薬を洗い流す?米というのは白米で実っているわけではないのだ。

 米を砥ぎ、その研汁をそのまま流すことが地球の温暖化に直接、よろしいか、間接ではなく直接繋がっていることを知ってくれ。米を砥ぐことでビタミンBが失われることを知ってくれ。どうしても砥ぎたいならば、止めはしないから、もしガーデニングの名のもとにベランダ農園をしているならば、研汁はそこに捨ててくれ。研汁をかつて乳児にミルク代わりに与えていた悲しい時代があったことを知ってくれ。研汁をそのまま流してしまうのはやめてくれ。

 数年前に出て、最近ようやく根付いた無洗米を選んで買ってくれ。どうせブランド米と言ってもその正否を確認できる舌など持ってはおるまい。ラベルとパッケージで選ぶだけだろう。我々には川の三面コンクリ張りを止める力はなかった。でもそれより大きな問題である温暖化を微力ながら暫減できる力はあるのだ。


ハンカチ 03/07/20

 つまりハンカチーフとは、ほぼ正方形なのであるが、よくよく考えてみるとその機能と目的からして必ずや正方形である必要はなかろうと思う。例えば飾りハンカチなら尖った角を出す為に五芒星形のものを丸め込んで挿せば洒落た雰囲気にもなるだろうし、どうせ手を拭くぐらいにしか使わないものなら正円楕円の形をしたハンカチがあってもよさそうなものだ。

 しかし裁断の際に手間をかけたくないのであろうか、単価の安いものであるから仕方がないだろうが、それでも見たことのない妙な形のハンカチに心惹かれはしないか?

 歪な形のハンカチを、「端切れでしょ?」そう言わせる時代を変えてみようじゃないか。

 何角形であろうがさまざまな形があった方が面白いと思うし、ハンカチ発祥とされるフランスでの「原ハンカチ」は元々形など関係なく、ただの端切れであったらしいから回帰するのに躊躇いは必要ない。洗練された回帰とは、再発明のことなのだよ。

 裁断の無駄は、いつか数学で習っただろう、「まったく同じ形ならばそれがどんな形であれ敷き詰める事が出来る」これを思い出して一枚の布切れからは取り敢えず同じ形をひたすら抜き、布地を替えたら形を変える。今の技術でなら裁断には何の問題もないだろう。端の何縫いと呼ぶのか知らないが、数ミリ折ってじくじく縫うことさえ、いくら歪な形であったとしても出来ないわけではあるまい。

 材料、柄、色、形。その組み合わせの多さは豊富という言葉では追いつかないだろうし、目的別に特化した形のものならば必ずマニアが出現するだろう。やがてハンカチの専門家として持ち上げられ、挙句に「ハンカチのデザイナー」に成り上がり、材質の特性について語り、歴史をまくし立て、イラストのデザインを批評し、使い方、折り方、飾り方を説く。ファッションの縄張りに踏み込んでゆく可能性もある。

 やがてはデザインコンテストなるものもやりたくなるだろうし、洋服のデザインは難しいが「適当に切って端を処理すればそれでよし」となれば、簡単だから暇を持て余している主婦の間で「乱切りハンカチ講座」の如きサークルも発生するだろう。

 余った端切れが棄てられるのを見ての思い付きだが、処分する当てのない布地と借金が大量にあって難儀している向きは、ここに金が埋まっておるかもしれんよ。

 たかがハンカチ、しかし熱しやすく冷めやすい、平たく言うと「ノリやすい」国民気質を手玉に取って「オリジナルカッティングハンカチのブーム」で一踊りするのも楽しそうじゃないか。もし上手くいって、冷める前に素早く見切りをつけて勝ち逃げることが出来たその時は、多大なる謝礼を持って挨拶に来なさい。


車名 03/10/04

 ところで。

 つくづく不思議なのは、日本で製造され、日本で販売されている日本車の名前が皆意味不明の横文字であり、漢字など殆ど使われていないということ。あれらの横文字にも一応目的と意味があるらしいが、じっくり解説を聞いたところで大した感銘も受けまいし、退屈だ。

 それでも確かに自動車は国の基幹産業であり、輸出の尖兵を担う以上、国際競争力と認知的見地から見て短く覚えやすいに越したことはない。それに国内対策としても、素朴な舶来信仰を計算に入れた上で、妙な横文字車名の方が戦略上有利なことは理解出来る。

 だがしかし。意味不明の横文字ばかり、わけのわからぬ文字ばかりの中、どこかの販売元が突如発狂でもしてやけくそで新発売の車に「桜花」などと付けて売り出したらどうなるだろうか。国内では失笑と怒りしか買って貰えない恐れもあるが、海外に於いての「素朴な漢字への憧れ」を微妙に刺激することが出来たならば、名前だけで売れる車となるかもしれない。

 とは言っても既に「ニンジャ」「カタナ」というバイクなどが存在するのであって、また「サムライ」と名乗る車もある。国内ではサムライではなく、「ジムニー」として知られているが、海外ではもう「サムライ」の名での販売は中止されたらしいが、この「侍・ジムニー」ジープであるが、この車で高速道路をかっ飛ばして急ハンドルを切ってごろごろ転がってしまい、「ハンドル切ったらこけたがな!この車欠陥車やんけ!」といかにもアメリカらしいお茶目な言い掛かりにうんざりしてしまい、「ジープで高速道路走るなよ」と反論する気もなく、名前をジムニーに統一してみたという噂もあるが、つまり「ジムニー」「サムライ」のように国内外で名前を使い分けねばならないということは、日本人の日本車に対する横文字命名力の限界を如実に示しているのであって、これは情けないの一言に尽きる。

そもそも日本で販売するなら「冠」なり「街」なり「魔窟」なりにすればよいものを、わざわざ横文字で「INSIGHT インサイト」洞察力とはどういうことかね。「DOMANI ドマーニ」明日が何さ。馬鹿馬鹿しい。


霊柩車 03/10/05

 それでは日本語なり漢字なりの命名が為されている車はないものか。「鳳凰」「翠龍」「祈天」のような名を持つ車はないか?

 あれはどうだ。正調純和風の雰囲気を持つ、煌びやかで神々しく、つい親指を隠してしまうあの車。どうだろう。名前はないか?調べてみた。霊柩車の写真集というものが世の中にあることを知った。

「キャデラック宮型霊柩車」「国産4WD宮型霊柩車」

 味も素っ気もないではないか。しかしあの神輿を背負っている奴は「宮型」と名乗っているのか。神輿のない型は「洋式霊柩車」らしいのだが、どうにもここで何かやり場のない情けなさというものが底を突き抜けて指先が重く感じるのだが、どうにかならないのか。

 しかし霊柩車もよく見ると色々な型があるもので、ある種の伝統工芸品とも言えるし、祭祀に纏わるものであるから所有していれば何かの特典でもあればいいと思わないか。8ナンバーであるというだけではなくて、霊柩車を所有しているだけで貸車業の許可が無条件に下りるとか、出動手当ては完全無税とか。大体あのセンスはヤンキーか成り上がり者にしか発想出来ない印象がある。神輿を搭載した車が登場したのは大正の頃と云うが、あれが早いうちに用途を限定したことで、違法改造主義者の道をひとつ閉ざしたことは、悪くはないが、目出度い形の物が非常なる迫力を持って縁起の悪い印象だけを纏ったことは、少し残念でもある。

 どうせなら、霊柩車に漢字名を付けて輸出しようよ。何、判りゃしないさ。あれは神輿であり、日本にあっては大変目出度い車である。普段街中では目にする機会が少なくて、しかも見かけた時はよく見てみなよ、皆礼服を着ているぜ。さあ見たか。幸運な奴め。そこでおまじないがあるんだ。見た瞬間親指を隠すのさ。拳の中に握りこんで。でもその時にくれぐれも親指の先っちょを人差指と中指の間から覗かせてはいけないよ。それでは効果も何もありゃしない。どうして親指か?色々あるんだよ。おまじないだからさ。効果?親が長生きするとか言うね。何?親に早く死んでほしい?それならば見かけた瞬間親指を突き出して祈ればいいよ。どうだいこの神輿。この彫刻。この金箔。定員はね、個体差があるんだけど、標準的なのは前に二人、後ろに一人。あ、そうそう後ろは一人じゃないや。もう一人分、少し狭いけどベッドスペースがあるんだ。だからキャンピングカーにも使えるよ。これを見たら君達のように車は単なる機械だなどとは言えないだろう?これはね、車であって車でない。べんべん。神輿であって神輿でない。べんべん。それは何かと訊ねたら。芸術品。芸術品なのよね。だから少し高いけど、普通の日本人は乗っていないよ。だって神聖な車だもん。だって高いんだもんこれを買って乗り回してみなよ。ご通行中の皆様の視線を一身に集めることが出来るよ。羨望。驚愕。憐憫。わあい人気者だ。

 そんな台詞に騙されて、海の向こうで「これぞ日本車!」と自慢気に乗り回している間違った親日家がいる気もするが。

 しかし何だね。霊柩車の土台となる車、よくよく見ると「ベンツ」「キャディラック」「リンカーン」てええええええい。折角神輿を載せるなら、国産車使いんさいな。


繊維 03/11/23

 「環境に優しい」という掛け声のもと、玉蜀黍の繊維を使った皿箸フォークなどが束の間脚光を浴びたのは長野五輪の時で、今ではアメリカで「玉蜀黍繊維毛布」が開発、発売されている。

 しかし毛布とはまた微妙なところを狙ってきたもので、捨ててもその内分解されることになっているわけだが、これはつまり何がしたいのか。完全に玉蜀黍のみではなく、まだ羊毛と混合してあるようだが、こんなものを作るならばもっと身近な買物袋やら下着靴下にした方が可能性は拡がる筈だ。

 以前「貸しオムツ」とは何事かと疑問に思ったわけだが、どうもそのようなサービスが成り立っているらしい。もし玉蜀黍で何とかなるのであれば、いっそ自然分解するオムツを作ればよいではないか。街中ではなかなか捨てることは出来ないが、回収サービスをそのまま保持して巨大コンポストを設置すれば、極上の肥料が山のように生産可能だ。最近の赤ん坊は色々栄養のある物を流し込まれているだろうし、完全に消化しきれず排泄される糞は実に養分に富んでいることだろう。

 完全に自然派の素材が安く供給可能な体制をとり主流になってしまうと、石油系素材の燃焼危険服業界のぼろ儲け構造が破綻してしまうので、慌ててインジィオのライセンスを取ったり何か別の素材を開発を目指したり右も左も狼狽えているところだ。

 日本企業なら天然素材として絹の復権でも目指せばよいのに、生糸の税を廃止するのが遅過ぎて今では往年の勢いがない。だからこそ絹製品の安価な供給体制を、技術力で確立すれば新世代のシルクロードが開けるであろうところを、絹の生産が落ち込み、合成素材の開発に現を抜かしているから玉蜀黍毛布で泡を喰うことになるのだ。

 玉蜀黍に限らず一年草で、繁殖力が強く、繊維質つまり腰のある日本に溢れている草を使って新繊維の開発をせい。あれだ。ススキ。あの繊維は呆れるほど強い。何しろ芒野原を歩くだけで切り傷だらけになってしまう、あの強さを研究せずして未来はない。何しろ古くは屋根を葺いていたほどの素材だ。耐水性、耐久性もあるのだ。そして芒が枯れた頃のふわふわを集めれば、あれは詰物に使える。

 放っておいても人より高く成長する草だから、生育には殆ど手が掛からないだろう。農薬など不要だ。芒が高く伸びる足元では日光が届かないし、何よ芒の根が踏ん張っているから雑草は生えず、完全放置でよい。年に一度纏めて刈り込むだけで、多く遊ばせている河原で芒を育ててそれを売ればよい副収入になるし、昆虫やら小動物、鳥などが憩う場所、ビオトープにもなる。しっかり根を拡げているから少々の増水で土手が崩れることはない。いいこと尽くめと思わないか。

 しかしながら河川の管理、つまり雑草刈りなどは税金をばら撒いているのであって、そして税金の分捕り合戦から退却するほど日本のお役所はできていないから、これはつまり夢のまた夢、せいぜい個人レベルで芒を刈って何やらせっせと編み上げて、朝のニュースで「こんなアホなことしてる奴おるで」と全国に紹介されるだけで終わる可能性が高い。


ぺん 03/12/21

 シャチハタの判子、大変優れた代物であるが、認印としてはまだ使えない。しかしその性能は格別の賞賛に値する。朱肉を必要としない浸出式の、直ぐに乾く印鑑の重宝さは言葉に尽くせない。

 そこで思ったのだが、あれ、ペンにしたらどうか。似たような立場にサインペンがあるが、サインペンの先とは硬く、また柔らかい物は単純に使い過ぎて崩れているだけだ。つまり、毛筆の如く、万年筆の如く、止め跳ねを自在に表現出来る柔らかいペン先を持った筆記具だ。

 この場合、詰替用のインクは消耗品として安定した消費が期待出来る。また、ペン先も柔軟であるならばいつまでも使えるわけではないだろうから程よいところで取り替えるとしてこれも安定した売上となるだろう。

 シャチハタの印鑑にの技術をもってすれば開発の名も必要ないくらい簡単に作れるだろう。そして本体を木で作った漆塗りにするにりして選択肢を拡げることで収集家の心をも掴む。

 そもそもボールペン字の味気なさはどうだ。油性のあの書いているうちにインクが塊になって思わず軸を回転させつつ余白に擦り付けてしまう本能に空しさを感じないか。水性ボールへペンのあの乾きが遅くて折角書いた文章がノイズになった時の悲しさを忘れたことはないか。

 万年筆の如くペン先が柔軟で、毛筆のような字を書くことが出来、インクの乾きは抜群の、そういうペンが欲しくはないか。漢字は元々筆による書で最も映える字として発達してきた。縦横止め跳ね払いに点、これらを自在に表現出来る優れたペンが、ないか?

 いや、思い出したぞ。「筆ペン」なる存在を。筆ペンには二種類あるのだ。文字通り筆の如く毛に見える合成繊維質を束ねた正統派を気取っている筆ペンと、そう、穂先がぐにぐにの妙に薄い墨しか出ない上に形が頑固に記憶されているから跳ねようとしても穂先が「ぷりん」と回り込みやがる似非筆ペン、あいつはあいつで許せん。

 違うのだ。穂先を万年筆の形に、そして直ぐに乾く漆黒の墨、乾燥しないキャップ、持ち易い適度な太さの軸、間違ってもインクがだばだば垂れてこないような絶対的な機構、つまりは素人でもまま見ることの出来る字を簡単に書けるペンを、どこか売り出せ。


腹筋 04/02/08

 万歩計なんですけどね。

 あの不恰好なデザインはひとまず措くとして、その機能に注文がある。振動数を計測するのは当然の話だが、時計がついていたりして、それならばと腕時計と合体させる馬鹿もいるようだが、脂肪燃焼量をグラムで表示したりしている機能もあったりするが、歩行ピッチを音で知らせる傍迷惑なものもあるらしいが、そんなものはどうでもよい。数だけをこなしても意味がない。

 勢いと反動と固定した足の力を最大限に利用して三百回腹筋をするよりも、ジャックナイフを百回するよりも、足を左右四十五度に開き、高さ四十五度で浮かせ、右手の畳んだ肘が後頭部に当たるように頭の後ろに回し、そのまま右手で左肩を後ろから軽く掴み、同様に左手で頭の後ろから右肩を掴み、その姿勢で腹の筋肉を意識しつつ十数えながらゆっくり起き上がり、頂点で三数えてから、また十数えながらゆっくり戻る、床には背中を付けずにぎりぎりで止まって三数えてから、再び十数えつつゆっくり起き上がる、この腹筋を三十回繰り返す方が遥かに効果はある。腹筋の瞬発力を鍛えるならば高速で往復すればよいが、腹筋を割りたいならこの過酷な肩掴み低速腹筋をすればよい。

 実際のところ、初めてれを試す時は一回も起き上がることが出来ない筈だ。起き上がることが出来たら、それは既に腹筋が割れている人か不正をしている人だ。まず確認したまえ。足は左右四十五度に開いているか?高さ四十五度に角度が付いているか?念の為に言うが足はどこにも固定されておらず宙に浮いていて腹筋だけを使っているか?足は起き上がってから戻るまでずっとその位置を保っているか?腕は頭の後ろに回してそれぞれ反対の肩を掴んでいるか?力まず軽く掴むだけになっているか?起き上がりと戻りはきっちり十数えながら低速になっているか?「5」の段階で上半身も床から四十五度になっているか?戻った時ぎりぎりで止まって三数えているか?床の反動を使って起き上がっていないか?

 最初の一週間は十回も出来ないだろうが、しばらく続けると腹筋が強張ってくるところが実感出来る。そしてこれは腹筋を意識して行うもので、数えるのは起き上がりの回数ではなくて起き上がるまでの時間だ。

 だから、万歩計の機能で欲しいのは、予め50なり100なりの数字をセットしておいて、その数字になったら音が鳴る機能だ。回数だけに集中して実際の鍛錬が疎かになることは馬鹿馬鹿しい話で、鍛錬に集中して回数に達した時点で教えてくれる機能の付いた万歩計があれば、必ず玄人に売れる。そしてプロ仕様と銘打てば自動的に素人にも売れる。このくらいの機能ならば少し弄るだけで可能であろう。

 形なのだが、「カード型の住所録機能付き電卓目覚ましアラーム付き」があるだろう。あれが理想だが、普通の万歩計でもよいから「セットした数値に達すると音で知らせてくれる」機能を付けなさい。

※腹筋から改題しました


放置 04/02/26

 ICタグで商品管理と万引防止の効果を狙う作戦が近い将来実用化される勢いで進められている。

 このICタグの大量生産低価格化によって郵便・宅配便などの管理から食品は生産地消味期限表示など、図書整理展示品管理、その他あらゆる分野で活用が可能な技術であり、「消防隊員の位置把握」も使用を想定しているらしい。

 これは余りにも利用範囲が大き過ぎて今ひとつ実感に乏しいわけだが、ひとつの案がある。ICタグで個人情報を溜め込むやり方は非常に嫌悪感があるのだが、このタグを自転車に付けてみてはどうか。

 自転車に付けるとは言っても盗難防止などという狭い考えではない。今まで期待されながらも現実味に欠けるとの反対で常に潰されてきた「公共自転車案」がこのICタグで一気に進むのだ。放置自転車をただ撤去するよりも積極的な管理により新規雇用も期待出来る。

 公共自転車は当然決められた場所なら乗り捨て可能で、また置いてあるものなら乗ってゆくことが出来る仕組みであるが、保管場所の確保が難しい。自転車にICタグを付ければ、とんでもない場所に乗り捨てられても、どこで借りられたものかが判明するだろうし、借りる者も登録制にしておけば重ねての狼藉は難しくなる。

 借りることの出来る場所を限定しておかねばならないことは問題だ。その自転車でどこかへ買い物に行き、用事を済ませ荷物を抱えて出てきてみたら「やられた」これは困る。仕方がないから近くにある奴に乗ってゆくと次の人が「やられた」

 鍵を付ければよいのか。鍵を掛けたまま放置された自転車はどうすればよいのか。管理者がマスターキーを持っておればよいのか。マスターキーを作成した者が乗り放題捨て放題でこれも困る。

 どうもこれ日本では無理だな。


盲導馬 04/03/13

 ミニチュアポニーという奴が居るわけですよ。

 これはポニーの名の通り馬の一種であって、かつミニチュアの名の通り小型なのです。大きめのゴールデンレトリーバーを想像したら大体一致しているでしょう。この大型犬のサイズで姿形が完璧に馬であるから微笑みを誘うわけですが、実はこやつ、馬であるからして犬より賢い。

 実は盲導馬として優れた働きをするのですね。頭が良くておとなしい。何しろ吠えない。やるせない哀愁を湛えた円らな瞳と濡れた睫でぽくぽく先導している姿を想像して御覧なさい。盲導犬も無闇に吠えぬよう訓練されておるわけですが、馬は元々吼えずに嘶く性質があるが、犬が鳴くほど嘶くわけではない。それでも不安ならば盲導犬を吼えないよう訓練すると同様嘶かぬよう訓練すればよい。

 現在全盲者は約十万人おり、盲導犬を今すぐ希望する人は約五千人、将来希望する人は約八千人、そして現役の盲導犬は約九百頭、そして盲導犬の実働期間はおよそ十年。盲導馬は十五年以上であるから、これを見逃す振りは出来ない。

 とは言うものの、ミニチュアポニーの絶対数が少ない以上、そしてまた法律として「犬」と限定されてしまっている以上、問題は色々ある。そこで段階的な計画立案の必要がある。「盲導馬のNPO団体をこっそり作る」「各地にミニチュアポニーの舎を確保する」「訓練士を本場アメリカで学習させる」「盲導馬の血統及び頭数調査の機関を作る」「盲導馬についての法律改正を目指す」

 現在盲導犬協会はいくつかあるが、目的が違ったりするので統一方針下の活動が難しい状態にある。この轍を踏んではならず、まずは本部を作り、計画的な組織作りを進めながら盲導馬の普及計画を策定する。そして大前提として、まずミニチュアポニーの数を揃えねばならない。しかしそれには金がかかる。どうするか。

 簡単なことだ。知っているかい?日本国民は熱しやすく冷めやすい事を。知っているかい?日本国民はペットをずっと飼っていられるほど恵まれた環境には住んでいないことを。つまりだ。「ミニチュアポニーのブーム」を仕掛け小金のある流行に踊らされる間抜けを上手くのせて、その間抜けの金でミニチュアポニーの数を一気に揃えてしまう。やがて突然ブームが終わって「捨てポニー」「野良ポニー」「野生化したポニー」が社会問題となりかける直前、「ミニチュアポニー引き取ります」と盲導馬協会が名乗り出る。この段階で飽和状態となっているならば、各地の保健所や動物病院ペットショップに手を回し全て引き取ることにする。ごっそり集めたミニチュアポニーで盲導馬の育成をしながら次世代の訓練士も養成しつつ、寿命実働年数ともに長く犬より賢く大人しくい彼等を一気に広めてしまうのだ。既成事実化したら法律は改正される。

 それぞれのタイミングを合わせることは難しいが、ブームが興った十年後には盲導馬が当たり前の光景になるかもしれない。きっちり仕掛けてレールに載せたら夢物語では終わらない。ひとつ不安なのは、何も準備が整わないうちに小さなブームが来、手に入りにくいからあっさり終結してしまった場合だ。国内でブームを仕掛ける前には絶えず供給出来る様アメリカで殖やしておくように手を回しておかねばならんね。

 馬糞?副産物の有機肥料と呼びなさい。パンツを穿かせるのさ。オムツとも言うかね。


自鳴琴 04/03/14

 オルガニートというものがあって、これはオルガンではなくオルゴールである。オルゴールは自鳴琴と書く。

 自鳴琴とは金属の薄板を弾くことで音を出し、また板の長さを調整することで音階を作れることから古くより自動演奏機として存在したわけだが、何しろ作るのが難しい。音楽の素養に加えて金属の加工技術も必要だ。

 長らく専門家だけのものであった自鳴琴で素人が手軽に曲を作れるようになったのは、オルガニート生産が始まった1860年頃のことで、一時自鳴琴は廃れたものの、何故か近年突如復活し、今ではこちらが主流となる勢いだ。

 オルガニートとは、パンチカードを利用した自鳴琴のことで、パンチカードには五線符が印刷されており、そこに穴を開けて装着すれば回転させると旋律が漂うという寸法だ。当然オルゴールであるから手回しであったり発条であったりと古典的な機構を持つ。電池を入れたりするのは確かに気分が悪い。

 鳥篭の中で小鳥が踊る仕組の自鳴琴を見たことがあるが、自鳴琴が発条ならぱ、何か別の機構と組み合わせることも出来る筈だ。日本伝統のお茶汲み人形というからくりがあるわけだが、あれにオルゴールを組込み、何やら賑やかに踊り動き回る人形なんて面白そうじゃないか?大量生産した阿波踊りの動きをする人形を並べてそれぞれ一体一体が音頭を流しているところなど、想像したら少し薄気味悪いが、一体だけなら楽しいかもしれない。

 チョロQに自鳴琴を組込んで暴走族スタイルにすればどうか。インターホンの呼び出し音を自鳴琴に直結出来ないか?時限装置を組込んで目覚まし自鳴琴ならばどうだ。時限装置を如何にして電池不使用で作るか。長い発条にするか。ピアノ線をリールに巻くような形にすれば長い設定が可能かもしれない。

 部屋の彩りとしてしばし置かれている嘲笑の対象であり始末に困る小型の循環式噴水を、電池ではなく発条で汲み上げればよい。そこまでの力がないならば水車にすればよい。水車は有難いことに円形であるから、ついでに円盤型オルゴールを貼り付ければよい。

 五分程の砂時計に丁度五分程の自鳴琴を合体させればよろしい。連動させる必要はなくただ同じ土台に乗せればよいだけだが、どうせなら発条を巻いて音が出ると同時に砂時計が勝手に引っくり返って砂時計が終わる頃に自鳴琴も合わせて止まる。くれぐれも砂時計が終わっているのに二周目に入らないよう、そして二周目に入った後に中途半端なところで止まらないよう申し付けるものである。


審判 04/03/28

 プロ野球の審判もやはりプロであり、誤審は滅多にあるものではない。

 それでもたまに誤審があると試合の進行が中断し、何人か退場し、スポーツニュースでその瞬間が繰り返し低速再生されて誤審を認めない審判の姿が流れるわけであって、あれを見ると腹が立つ。権威を守る為云々と抜かして判定を滅多に覆さないのだが、誤審に固執する姿がどんな権威に繋がるのか知りたい。

 あの姿を見るほうも見られるほうも辛いのだから何か効果的な方法はないものか。映像再生の判定は何か揉めて潰れてしまったから、別の角度から責めればよい。千葉だか埼玉だかで、市役所の職員が名札を義務付けることで、住民の好感度が上がり、そして職員の責任感なども増量されたという話を聞いたことがある。それしかない。

 現在審判が何人いるのか知らないが、百人はいない。だから審判一人一人に背番号を付ければよいのだ。誤審を認めない姿は審判の制服に隠れて個人の印象が薄くなる。薄くなるということは見る側が「審判なんて皆同じ」と考えてしまうし、審判の側も少しばかりの責任感が漂っているように見える。

 だから審判には今より一層の仕事に対する誇りを持って貰い、明らかな誤審は潔く覆すことが恥ずかしい事ではないという風潮にする為に、審判の制服には固定の背番号を付けるのはどうだ。既に腕番号があるわけだが、あれだけでは審判に対する思い入れは難しい。

 ロン・ルチアーノ級の審判を要求するわけではないが、背番号を付けて誇りと責任感を賭けることで今より審判個人の顔が見えてくるし、試合も引き締まることだろうと考えるのはむしが良すぎる話だろうか。


指揮 04/03/30

 例えばオーケストラがある。

 これには色々な楽器が寄り集まって編成された一種の有機体とも考えられるが、その中心には指揮する者がいる。精々カラヤン小澤朝比奈聖響ぐらいしか名前が浮かばない程の者から見て、ひとつの疑問がある。

 「女性の指揮者っていますか?」

 いるだろうとは思うが、巨匠若しくは伝説と呼ばれる程の女性のオーケストラ指揮者がいるか。いないなら何故いないのか。一種の伝統芸能だから性差別を持ち込むのは間違っている可能性もある。それにしてもここのところ古典楽器発の挑発的な楽隊が登場するのは何かの潮流を感じさせる。

 何と言うか、指揮台で格好良く棒を振る女が居てもよいと思うんですよね。居てほしいと思うんですよね。オーケストラで指揮者の個性が濃密に反映されるならば、そこに女性指揮者が立った時、どのような響きと反応と感動が待っているのか。

 素人なら単純に「女が指揮棒振っとるぞ」と興味が湧くことなり、耳の肥えた人なら「男の指揮者とは違った雰囲気がある」と聞き分ける素振りをし、その結果老いも若きも男も女も心の寂しい人は皆挙って盛り上げに掛かる。そうなると一瞬で沸騰する国民性からしてわけのわからないうちにブームがやってくる。この女性指揮者は日本人に限らなくてもよい。何国人でも女性指揮者というだけで最初は珍種扱いの星となり、やがて本当に実力が備わっていればそのまま地歩を固めることが出来るし、泥鰌も次々湧くからしばらくは踊る足を止める暇はない。これがオーケストラの人気回復最終兵器だ。あとは女性指揮者を立たせる楽団があるかどうか。

 そこまで考えて、女性指揮者がいるかどうかを調べてみたところ、「日本指揮者協会」なる団体があった。国内外で活躍中の指揮者百人が会員登録しているそうで、名簿を見ると女性名が五人か、ちゃんと居てますがな、これで指揮者全員というわけではなくてプロ中のプロということであろうから実際にはもっと存在しているのだろう。それでも女性指揮者個人が注目を集めることは余りないだろうから、ここを上手く狙えば一波起こせる可能性もあると思うのだ。


タイピング練習 04/03/31

 例えばタイピング練習用ゲームがあるね。

 あれでローマ字入力の練習をするのは日本語の音韻を学習する面から見てかなり有効なのだが、仮名入力も負けてはいない。負けてはいないが、一通りキーの位置を覚えてしまうと後は実戦で打ち込む方が楽しくなる。そしてある程度自信がつくと「最初これで練習したなあ」と懐かしく挑戦してみたりして、そこで思いがけないほど悲惨な成績が表示されるのを見て「もうええ。こんなんどうでもええ。一応打ち込めるからいらん」と関わりが切れてしまうわけだ。

 このタイピング練習用ゲーム、もしくはタイピング練習用ソフト、もしや市場の成長が頭打ちになっていないか?ひとつ案がある。その気があるなら聞いてくれ。

 「日本語タイピング練習」ではなく、「英語練習」と銘打つのだ。日本語の変換用ローマ字入力ではなくて、英語の定形文の入力を練習するのだ。

 英語の学習人口がいつまで経っても減らないのは効果的な学習方法が発見されていないか普及していないかのどちらかであって、ここに「タイピング練習ソフトで英語の勉強しましょう」と殴り込む。「konnnitiwa」ではなく「Hello」を練習させるのだ。タイピングの最中は口の中で知らず打つべき言葉を呟いているから自然と英単語が頭に入ってくる。当然単語だけではなくて文章に力点を置く。例文を繰り返し繰り返し繰り返し打ち込むことで英語が頭に叩き込まれる。手紙文章・ビジネス定型文章・ニュースなどの最新英文章・そしてシェイクスピアキャロルなどの言葉遊びを理解する為の大いなる補助力となる筈だ。どうだ?

 と考えてみて、冷静になってみると英語圏には英語文章を練習する為の「英文タイピング練習ソフト、ただし説明などは全て英語」が存在していないわけがないことに思い至る。それでも説明書を日本語で、そして日本語環境で動くソフトとして英語練習タイピングソフトがあれば確実に売れるだろう。しかし簡単に作れるソフトなら売るまでもなく既に無料で公開されているかもしれない。

 そこで付加価値を付けてみる。練習したい英文を自分で登録すると練習ではその文章が少しづつ出てきて、タイピング練習と同じ形で自然に練習が出来る形にする。これで英米の違いを考慮する必要がなくなる上、その練習用の文章を、様々なジャンル別にして別売りすれば、継続した売上が期待出来る。定形文の他古典も練習可能だ。練習する側からしてもこれなら飽きない。飽きずに続けているうち、いつのまにか英語の基本的な仕組みが頭に刷り込まれる。

 これは予め入れておいた文字と同じ文字を打ち、間違えるとミスが表示されたり所要時間が表示されたらよいわけで、となると英語に限らずキーボードから入力可能な全ての言語に対する「他国語練習ソフト」として、凄まじい程の可能性が見える。しかし手前に見えるということは、既に誰かがどこかで実用化している可能性が高いわけであって、確かに欧州の似た系統の言語で同じような文字を使う圏内では、存在して当然とも思う。ただ、もし存在しないなら、ここに金脈があるかもしれないと思っただけだ。


簡易風呂 04/06/23

 釣りをしない人ならまず判らないだろうが、海釣りで使う折り畳み式ビニールバケツのようなものがある。

 円盤と輪をビニールで繋ぎ円筒形になっているもので、輪には半円の把手が付いており、それには更に数メートルのロープが結ばれていて、円筒上部に当たる輪の一方に錘が付いているせいで防波堤の上からそのまま投げ下ろすと、錘の作用で口が下を向く。すると中に海水が入り、ロープを引くとバケツは上が上で下が下の正しい姿となって中に海水を溜め込んで引き揚げられる。

 このバケツは胴回りとでも呼ぶあたりのビニールが斜めに癖付けられていて、捩りながら平べったく折り畳むことが可能で、畳んだ際は絞りのような襞が出来る。中に水が入ってあればその圧力で勝手にへたれることはなく自立する。当然押し下げる力があれば高さが足りなくなった時点で水は流出するのだが、この仕組みを折り畳み風呂として使えないものか。

 簡易プールとして縁に空気を入れるものがあるが、あれは空気を入れる手間と抜く手間、そして耐用性の点で不安がある。

 単に円筒形をしているだけではなくて熱湯でも耐え、折り畳みの癖が付いてあるので手間要らず、底にあたる円盤は呆れるほどに頑丈であることが望ましく更に底も四つ折に出来るならば素晴らしい。

 想像図としては、ドラム缶風呂の大きさで、そのまま跨いで入れるように高さは半分程度、人体分の容積を計算した上で浸かって座ると丁度肩の高さが縁の高さになり、その少し下が水面の高さとなる。折り畳むと小さい座布団くらいの大きさで、ついでに座布団としても使えるように、そのようなアウトドア乃至サバイバルの状況で使える簡易折り畳み風呂があれば楽しいと思うのだ。

 これを風呂と呼ぶか行水と呼ぶかはその人の生活観で左右されるのだが、例えば災害に遭って家も風呂も銭湯もぶっ壊れて、ドラム缶はあるけど人数に対しては足りないという状況に於いては、設置撤去の容易なこいつを大テントの中に林立させることで役に立たないこともないと考えたりする。


石版 04/06/30

 今我々が活用している紙や電子系の記録媒体の寿命が短いことは当然として、維持保管に格別の注意を払わねばならないことは、つまり人の営みが途切れると記録もまた失われることを示している。

 我々が数千年前の文明史に接するのは骨に刻まれたり石に刻まれたりする内容から推す場合であり、当時やそれ以前の自然現象を知るには地層から推測すればよいのだが、如何なる文明が栄えていたかを知るには不足であり、何を食べていたか位の事は判明しても文明文化を知るには無理がある。

 今日我々が数千年前の文化を知る術として壁画や石版を頼りにしている状態から導き出されるのは、すなわち記録媒体としての石版や壁画は数千年を耐え得る優れたものであるということだ。当時の文明が滅び、そこにいた人々も滅び、守り伝える者がいないにも関わらず我々はエジプトで飲まれていたビールを再現すること出来る。

 であるならば、我々は我々の文明が滅んで後、数千年後数万年後に発生するであろう次の文明へ贈る我々の存在証明を、紙や電子媒体ではなくて石版に残すことで伝えることが可能なのではないか。

 石版とは言っても当時はただの粘土板であっただろうと推測するならば、水に浸潤され腐食して中身が数十年で原型を留めないような金属製のタイムカプセルと称するお遊びよりも、数千年後には石となる粘土板に我々の言語食事生物種植生歴史科学その他の事々を刻み込み、先史文明の資料が多く残っている地域ならばこの先数千年も残るであろうと想定して保管する。

 表記する言語は表音文字か表意文字か、とにかく辞書にあるような舌位置の絵をまずそのまま刻む。文字の一覧と文法を示し、その上で記述する。この記録を残し上手く保存されて数千年後に発見され解読成った場合には、それを残した言語の文明が我々の時代を代表とする文明と認識されることになる。

 数千年前の文明を伝える手段として石版が有効であることを我々は知っている。だから我々もまた数千年後の文明へ向けて石版を残そうじゃないか。ねえ、誰かやってみませんか。次の文明へ「我々は確かにここに居たんだよ」という手紙を残す為に石版造りの団体を作ってさ、それを税金対策にするならば、税金対策が主でもいいけどその出資者は今の時代を代表する有力者・大金持ちとして後世から認められることになりますよ。


ラベル 04/07/16

 「缶に貼る専用」のラベルを出せ。

 例えばNHKでは、一応特定商品名を画面に出さないというあくまでの基本方針に則り架空の銘柄を使っているという噂があったわけだが、わざわざ架空の缶を製造するよりも、架空のラベルを製造し、それを貼り付ければよいではないか。もっとも製造業者との間に公には出来ない取引があるならば、「費用を節約する」という思想は浮かばないだろうから無理かもしれない。

 瓶ビールのラベルを眺めている時に、「これを缶に貼れ」と内なる企画屋の声が聞こえたのであって、確かに缶を一周ぺたりとまわして貼り付けるラベルがあれば、例えば自家醸造のビールに対して使えるかもしれない。地ビール業者が無地の缶にビールを詰めて引き渡し、自分でラベルを貼ってオリジナル銘柄が可能ではないか。それを売るのはともかくとして、消費するだけならば問題あるまい。

 ただしシールやラベルを貼る事によって再利用に際しての問題が発生する可能性もある。更に言えば紙のラベルならば鉤裂きが出来やすいだろうし、ビニール系のラベルも回避するならば、ラベルごと再利用可能とするべく「アルミ製のラベル」がよろしい。アルミ缶に印刷してリサイクル出来るのだからアルミホイルに印刷してリサイクル出来るだろうと考えちゃ駄目かい?糊を使うか科学的な原理を利用するかして貼り付ける仕組みか、或いは台所で目張りに利用する金属的なテープを幅拡く取り、表に缶ラベルデザインを印刷すればよいではないか。あのような形でずるずる繋がっている必要を認めない場合は一枚づつ台紙を使えば単価は上がるが貼る際は楽になる。

 仮に君が食品ラベルなどを加工する企業に勤めていたとしよう。その場合このラベルの持つ潜在的な需要を直ちに見抜く筈だ。何しろビールに限る話ではなく、まだ大量生産するほどの見込みが立たないような、町興しや企業家が独自の飲料を販売する場合に、無地の缶なら規格は共通で、ラベルは別に用意して、缶へ注入を担当する企業は新たに貼り付ける機械を導入する必要があるかもしれないが、製造者が自らひとつひとつラベルを貼る作業を行える程度の規模を想定するならば、これは一考に価すると思わないか。

 「アルミのラベルだからラベルごと再利用に廻せる」「新規独立製造業者の参入を促す」「ついでにデザイン大賞なども設ける」展開はいくつも考えられる。

 ま、本音を言えばだね、「麦酒缶に麦茶ラベルを貼れば、アルコール飲料持込禁止区域に持ち込む事が可能になるから是非宜しく」というところだ。


タイピスト 04/08/19

 タイピングの異常に速い人を、例えば講演会などに配置しておく。

 そして講演会場にはスクリーン或いは巨大なモニタを用意しておいて、タイプ画面をそのまま表示させるよう手筈をつけておく。すると如何なる効果が生まれるか。

 まずはタイピストの雇用だ。真に能力あるタイピストならば発話速度で文脈を読み違えることもなく的確な変換を選ぶことが可能であり、そのような能力のある者を単なるテープ起こしに封じておくには勿体ない。日本語に通じた有能なタイピストに活躍の場と報酬を提供し、代償として優れ秀でた文章の表示を得る。

 更にタイプされた文章が発話速度でモニタに出ると、意味を取り難かった文章を眼で確認することになる。これは表意文字の特性を活用するもので、視覚を通じた理解が約束されていると、安心して望むことが出来る。発話者の顔や声調に注意が届かなくなる恐れもあるが、その責任は聴衆に帰せられるべきである。ただでさえ顔を睨み付けて話を聞く者の少ない現状を鑑みれば「顔を上に向かせる効果」を否定できるものではない。

 また発話速度でモニタに文章が打ち出されることは、聴覚障害者にとっての同時通訳に値する。視覚障害者の場合モニタには何の意味も持ち得ないのだが、聴覚障害者ならば如何に読唇術に長けていようがモニタの文章を読むことの方が明らかに楽である。聴覚障害を負う者にとって講演会や公開会議などは敷居が高い。しかしモニタに速記されることが約束されているならば敷居など存在しないも同然だ。

 止めには、タイピストが発話をそのまま入力し、保存することで講演録や議事録を作成する為のテープ起こしの手間を省く事が可能であり、それを冊子や書籍にする場合はタイプされた文章がそのまま下書きとなるのであって、これは講演を企画する側よりも講演する者にとっての益である故に、常にタイピストを帯同している講演家ならば、主催側にモニタの用意を申し付けるだけで済む。リアルタイムの字幕、それだけで聴覚障害者という新たなる鉱脈を掘り当てることが約束される上に、通常の聴衆の理解度も深まるであろうことを考えれば、これを逃す手はないだろう。


名物 04/09/03

 新幹線や特急は、本来緊密に配置された駅に停車せず都市と都市を短時間で結ぶことを前提にしている。

 用事などがあるならば当然速やかに都市を目指すことが目的となるし、ある程度の規模を誇る都市ならば別の線が接続されているから乗り換えてより遠くへ行く為にいちいち各駅停車されては困る事情があったりするから存在を否定することは出来ない。

 しかしつくづく不審に思うのは、通過した筈の駅の名産品や弁当を売り捌くことで、当然それより以前の停車駅で仕入れていることくらいは理解できるが、それならば何故最初から「この列車はここ・そこ・あそこを通ります。各地の名産品を用意しておりますのでどうぞお求めください」と始発から終点まで売り続ければよいではないか。

 姑息にも何台か待機させておいて通過するかしないかの間合を見計らって飛び出してくるのはあまりにもあざとい。今の幹線を走る列車に失われた旅情を求めるのが無駄であることを心得た上で、しかし「この列車はそんなに長い距離を走っているのか」と感慨に更ける気分を醸成出来るではないか。本来その土地でしか手に入れることの出来ない名物を、その縄張りの中でだけ売るのは律儀と言えなくもないが、そもそも社内販売の名物を買うのは土産を買い忘れただけか、酔っ払って口寂しいだけか、極端に愛好しているだけかのいずれかであり、それである程度の売上を確保しており満足しているならば構わないのだが、始発から終点まで絶やすことなく売り続けるならば、度忘者や泥酔者や偏執者の財布は簡単に緩むのだ。

 速過ぎて単なる移動手段としか認識していなかったところから、長い距離を走る列車に乗ることで不思議な旅情を興して少しばかりの感傷を味わうことが出来るならば悪くないだろう。

 東海道から山陽新幹線下り、新横浜を出たあたりで「え、ういろう。ういろうは如何ですか。柿羊羹も紅葉饅頭も萩の月もひよこ饅頭も全部ありますよ」

 失礼した。上の考えは謹んで撤回させて頂く。


缶蹴 04/09/05

 缶蹴だ。

 もう久しくやっていないが、不意に懐かしく思い出したのは垂直に立てた缶を踏み潰した瞬間のことだった。

 誰か一人を鬼と決め、蹴力に自信のある者が缶を遠くに蹴り飛ばした瞬間、鬼以外の者は脱兎駆けで必死に物陰に隠れる。鬼はまず蹴り飛ばされた缶を回収して、拓けた平地の真中に立てて置き、誰かを見つけたら缶を上から缶竹馬の要領で「誰々見っけ!」と叫びつつ踏む。すると発見された者は捕虜となり、缶の周辺に佇んでいなければならない。鬼が「見っけ」と踏む前に立ててある缶を蹴り飛ばせば再び皆は散って隠れる。全員が捕虜になれば鬼は交代する。関東では「見っけ」の後に「ポコペン」と発声するらしいが、「駄目」という意味だから間違っているわけではないようだ。

 あまりに拡い平地の真中に缶を立てた場合、鬼は蹴り飛ばしに来ようとする者を簡単に捕虜に出来るが、遮蔽物が殆どなければ蹴り飛ばしに行こうとする気は失せてしまうのであり、適当な平地をうまく見つけることが楽しむ要諦だ。

 全員が捕虜になった後の鬼の決め方は地方によって違う模様で、奈良の場合は一番最後に捕まった者が鬼となる決めであった。最後の一人になるまで隠れ続けた卑怯な奴は、最後の勝負に負けてしまうと鬼と化す。

 この缶蹴、公園などでは大抵禁止されているのであって、それは蹴っ飛ぶ缶が危険であるからとする思想に基づくものらしい。ただでさえ遮蔽物豊かな遊び場の減っていることを考え合わせれば、廃れるのも止む無きかと思う。

 しかしそこで缶蹴の復権を目指す回路が繋がる。竹刀を使う剣道ではなくて、スポンジだかウレタンだかの模擬剣や薙刀を使うスポーツチャンバラと呼ばれる競技がある。あれを応用して、スチール缶やアルミ缶ではなく、例えば缶のサイズに合わせたウレタン製の円柱を削り出して使えばよいではないか。スポンジでは遠くまで蹴り飛ばすことが難しいが、ウレタンならばそれなりに飛びそうだ。

 それだけならば誰かが考え実践していても不思議ではない。しかしこれを缶蹴専用の玉として、玩具メーカーが本腰入れて作ってみてはどうかと思うのだ。当然ただのウレタン円柱では面白くも何ともないから、ブーブークッションの機構を組み込んで、立てて真上から踏めば「ぽう」と鳴り、腹を横から蹴れば「きゅう」と鳴るように、二つの空気穴がそれぞれ違う音の出る笛になるよう調整し、なにしろウレタン製だから当たったところで怪我はないから「安全な缶蹴」を合言葉に売り出せばよい。

 程よく安く、そして耐久性は抜群でよい。どうせすぐに紛失するのだから、下手に壊れやすいように作ったりすればそっぽを向かれてしまう。耐久性が抜群であれば、ゴミ同然の姿であろうとも、それを見つけた者が支障なく再利用することまで考慮に入れて、誰か、どこか、作ってみよ。基準となる缶の大きさだが、やはりこれは伝統的な「UCCの缶コーヒーサイズ」が望ましいように思われる。


誘引 04/09/23

 床屋の店先には千歳飴が捩れている。

 動脈だとか静脈だとかの由来があるらしいが、あれはあれで効果的な宣伝であるから敬服している。中には硝子張りでありながら目の高さだけ隠しておいて美容室などと謳う一団もあるので油断ならないわけで、切ることがそんなにおおごとかと問いたくなるほど大袈裟な料金をふんだくるところもあるが、それらの気取った店先には伝統的な印がないので「つまり単に髪を切るだけの者は来店に及ばず」との意思を明確にしているわけだから良心的であるとも居える。その日その後にどうしても髪型を整えねばならない火急の必要があるならば話は別だが、一度洗えば全て御破算になってしまう以上「切る」を目的にするのは無駄というものだ。

 思えば子供時分あの印が何故際限もなく上り続けるのかが不思議でならず、母に聞いてみたれば「近寄ってよく見よ」と言われ、間近で観察すると青や赤の筋が結構汚れており、その汚れを目安に単純回転しているだけであることを知り、納得はしないものの湧き出して消えてゆく不思議はひとまず解消された。年齢一桁の子供に錯覚なる概念を知れというのも無理な話であるからとりあえず納得した。一時代も二時代も前の「美容室」の証として円柱ではなくて円盤が回転している型もあり、こちらは蜻蛉を捕獲するのに効果的な酔いを起こさせる。

 これらの印を放り出しておくのは確かに効果的ではある。鏡を見てそろそろ切るべきかと決断したり、誰かに切れと命ぜられたりした絶対的な客に対しては効果的ではある。しかしそこにもうひとつ別の器具を設置することで潜在的な客を掘り起こすことが出来るのだ。

 床屋やそれに類する店の先には、鏡を設置する。これは外から中を覗き込む輩を、空いているかどうかという決心付かない状態にある潜在的な客を、店の中ではなくて鏡に映る己の頭を覗き込ませるのだ。通りすがり、ふと鏡を覗いた瞬間に切ろうかと迷い、時間があることを確かめ、そして切るつもりなどなかった筈の者が鏡によって誘い込まれる。鏡を見てまだ大丈夫だと逃げる潜在的な客とは、つまり切る決心をしていながらどこかで翻意の理由を探していたわけであり、そのような者を無理矢理に刈ったところで当人に不本意な結果が約束されていて、「あの店には二度と行かん」と逃がしてしまうのである。

 諸々が決了してから店を出て、頭の具合を再度確認すべくそこに鏡があるならば、より効果的に見えるよう計算された室内の光量下にある姿ではなくて真実の姿が映し出される。技術が確かならば、店を出た後のもてなしとして鏡を設置することに迷いはあるまい。

 鏡の前でどのような髪型がよいかとあれこれ試している時にふと中を覗いたところを見澄まし笑いかけて「どうぞ」と引き摺り込む手口も考えられる。それが半面鏡であったならば、知らない客が外でどのような髪型にしようかとあれこれと迷い試しているところを中から眺めるのは少々悪趣味であるが面白そうだ。とにかく床屋は印の他に鏡を設置せよ。すれば必ず客が増えるだろうことを請け合おう。


非常標識 04/10/17

 非常口の標識は緑地に白抜きの、暗闇では目立つよう中で光っている。

 普通に採電している場合は停電で困るし、短線から発生する火事になる場合は常灯として役立たないから独立した電源を備えている。非常口を指し示す常灯が出火原因である事例を聞いたことが無いのは目出度いが、常に輝いているから劇場などでは目障りこの上ない。

 そもそも分岐や扉出口の上で光っていることは、通常の歩くなり走るなりの態勢を基準にしてあるわけだが、通常の火事の場合は炎とともに「煙」と呼ばれるものが発生する。そしてよろしいですか、煙とは立ち上る性質があり、上りきって突き当たると停留する。旅館などの低い廊下で煙が上半分を覆ってしまうと非常口を指し示す標識が何処にあるのか煙で隠れて見えないわけだ。無煙で有毒ガスに巻かれてしまう場合は燃えていることに気付かないし気付いたら手遅れだから措くとして、大きい空間で非常口を指す標識が見え易いように高く位置してあるならば、煙で速やかに隠れてしまう。

 先進的な安全対策を施す施設で稀に目にするのは、「足元にも標識」である。ある程度高い処に設置しなければならない標識が煙で隠れてしまうことを前提にして、低い姿勢や這う場合に見通せる位置に標識を設置しているわけだ。壁の床付近にあったり、床に埋め込まれていたりする。煙が充満するほどの火事ならば生死の境であり、しかし足元に出口標識が見えない場合は勘と記憶に頼って脱出せねばならない。無念にも脱出し得ずに命を落とした者は「標識が煙で見えずに出口が判らなかった」とは言えず、沈黙のまま召されるから改善される機が生まれない。形式ばかりの火災訓練ではなく、一度でも発煙筒を使った訓練をしてみれば判る事だ。

 火事に直面して「足元に標識があったから助かった」という事例は、費用から考えて稀であろう。しかし施工業者が結託して義務付ければ需要が生まれるし、確実に失われていた命が幾つか助かる可能性が拡がるならば喜ばしく思えるのだ。


水時計 04/10/25

 水時計を見る機会が少なくて残念なのだ。

 光線と水時計を組み合わせた噴水など今の技術ならば簡単であろう。幾何学的な噴出にはもう飽きた。分針秒針に相当するような動きの水芸を見せてみろ。暗くなれば光線に照らされて色で秒を表すことが容易であるが、水の量や角度の調整で秒を示すことが出来るならば昼間でも現代水時計として通用する。

 精密であることが条件とされる時計は、それぞれの時代の科学力を適切に反映している。しかし古い技術は捨てられたのではなくて忘れられただけである。そして時折思い出す者が新たな装いで一時的に新風を吹き込む。

 水時計は余りに大掛かりであった場合「喧しい」という本質的欠陥を備えているもので、それは噴水も同じであるが、大抵の場合「噴水が喧しい」とは思わないのであり、つまり噴水程度の水時計なら問題はないわけだ。

 形として時計そのままでは余りにも能がないし、何より一面よりしか時計と認識出来ないことが課題となる。真上から見る場合なら時計の形で通用するが、見下ろす噴水など設置する場所が限られる。角度の急な壁から壁掛け時計の形で噴出させればよいが、眼に見えて動くのは秒針のみという単調退屈極まる噴水ならば眺めることもなく、純粋に時計としての機能だけが存在価値の全てとなってしまう。

 高さで秒を表すとか、数で秒を表すとか、量で秒を表すとか、いずれも一瞬で把握することが困難なものは時計と認識されない為に、やはり存在価値が減少する。時計であることが理解可能で、噴水として眺める価値を損ねることのないやり方でなければならない。

 昼間でも水を色付けることの出来る光線を開発すれば話は早いのだが、それよりも噴出口に細工して真上に噴出した水が頂点に達して落下するまでの一瞬に、仕掛花火のように数字の形が静止するような技術はないものか。噴出口を真円ではなく妙な形にあれこれ加工してみれば変な飛び方をする筈で、例えるならば痔が下痢した感じか。

 仮にそれが実現しても、全方位から数字と認識されるような立体数字はまだ知られていないことが問題だ。立体数字も課題となってしまう以上、設計は芸術家が担うとしても本格的な研究が必要となりそうだから、これは専門家に任せるべきであるようだ。


下駄予報 04/10/30

 明日の天気を下駄で占う俗信がある。

 足の指先に鼻緒でぶら下がっている限りの下駄をば肢力矯めて放ち、着陸状態をそれぞれ風雅に網代本手であれば晴れ、敷小股であれば雨、右交喙取ならば曇、左交喙取ならば風、後矢筈ならば雪、砧ならば嵐と、これは地方によって違うだろうが根拠のない因果関係が一通り信じられている。

 常々考えていたのだが、下駄を放つ際に鼻緒が切れた場合の天気はどう解釈すべきなのか。例え鼻緒が切れても着陸には支障のない故に上述の通り解釈するべきなのだろうか。しかし鼻緒が切れるとは非常に悪意ある前兆と考える日本人の精神構造上、そのままでは釈然としない。従って鼻緒が切れた場合の解釈としては「晴れ→旱魃」「雨→豪雨」「曇→濃霧」「風→台風」「雪→吹雪」「嵐→想定不可能」に置換すべきかと思われる。

 今の時代に下駄なるものが如何ほど普及しているかは想像する必要もない。下駄ならば角張った姿であるから着陸姿勢の見解について相違する余地はないが、我々が靴で代用する場合は斜めに傾いで静止する状況に直面することがある。これを強引に「雨のち風」などと解読するのも無謀だが、そもそも靴で天気を予見しようとする性根が無謀だ。

 心底近い天気を知りたければ蛙でも飼えばよいのだが、彼等は冬眠するという致命的欠点を有しており非実用的と言える。古傷が痛くなったり痒くなったりして雨を予言出来る人も稀に居るが、「いつまでも痕が残っている古傷を持つ」もなかなか困難な試練であり、もう少し簡単に近い天気を知る方法があればよいのだ。

 例えば僅かな湿度に左右されるような軽い物質で鼻緒、異常に軽い物質で台と歯、併せて下駄を作り、ふわりと浮かせて着陸する姿勢で湿気があるかどうかを確認可能な玩具はどうか。それならば雨か晴程度は判断出来そうなものだ。ただし大気に晒してなお風の影響を絶対に受けないことが必要条件となるが、それは大気を一旦取り込んでから密閉することで解決されるだろう。密閉せず大気に晒して試す場合は、風が強いかどうかがすぐに判明する極めて優れた天気予報器だ。


拭く 04/11/12

 便所で手を洗った後には拭かねばならない。

 まずそれ以前に「洗う洗わない」選択肢の存在を信仰している者も一部に居るが、その者達は排斥した上で話を進める。長い間ハンカチの代わりにバンダナを利用する習性によりトイレでは必ず手を洗うことを持続した結果、便所で鼻をかんだだけでもつい手を洗ってしまうわけで、手前の場合濡れた手はバンダナで拭けばよいが、時として手を拭く為の小道具が設置してある。

 粗品タオルが吸盤フックで吊り下げられている事例は極小規模の飲食店に多いが、望ましいとは言えない。少し進化すると妙に薄いタオルが筒状になっていて、からから鳴らして引き摺り下ろすと乾いた部分が露出され手を拭くことになるのだが、薄すぎるが故に「手を拭く」ではなく「手の水分を染み込ませる」という後ろめたき心持ちが生ずる。そしてこれは次の人の為にからから回しておくべきか、回しておいて次の人が使う直前に回したら乾かないまま露出されるのではないか、だから拭いたらそのまま放置すべきではないのか、そもそもこの中にある乾かす装置とは如何なる技術によるものか、単に乾燥剤が入っているだけならば間抜けにも程がある、などと考えた挙句、三分の一だけ回してから逃げることになる。

 保守管理が大変な代償として好ましいのはタオルではなく紙が備え付けられている場合である。昨今の再生利用事情から考えて資源の無駄遣いとして糾弾される可能性を秘めてはいるが、潔癖症も不潔癖症も等しく手を洗って拭く気分にさせる小道具として最も賞賛されている。資源問題としては、新聞を再生してダンボールにする道の分岐点として手拭紙への道を追加すべきであろう。新聞紙をそのまま手拭紙に流用すれば事は簡単であるが、「手に墨が移着するので」という理由のほか、「ついつい読んでしまうので」も拒否されるには効果がある。

 そして問題の送風装置、乾くまで手を青白い光に翳したままじっと空気砲を受け続ける者が本当に存在するのだろうか。無意味に響き渡る重低音は聴害であり、全く乾かないのに大きな音を立てることで仕事を果たした気分になっているらしい送風装置が憎々しい。手を翳している間に別の人が便所に入ってきて用を足して手を洗い終えてもまだ乾かないから信用が墜落する。暇だからと乾くまで粘ってみても、最後には風呂上りのふやけた手が再現されるのであり、気分のよいものではない。

 海綿体系統のスポンジを設置して、手を拭けば水分は速やかに吸収されて、その海綿体を乾かす為に掃除機の要領で水分を吸い込み、数秒後には乾いた海綿体を提供可能な形式の手拭装置があればよい。

 拭くものを持っていれば上のような問題に悩まされずに済む。しかし手を洗わない者も同様に悩んでいないことに気付いた時には陰鬱だ。


去勢 04/11/22

 野生化した動物は繁殖すれば自由闊達に振舞うきまりになっている。

 残念なのは、人間にとってその自由が迷惑である場合が多いことであり、迷惑な振舞に応じて何らかの対策を施すためには貴重な税金を際限なく投入しなればならない。

 繁殖した群に対してた戦ったり追い払ったりするのは、群れの規模が大きくなり不幸なことに人間の生活圏と重なるからあって、確かに生活圏が重なる理由は人間による乱開発が最大の要因であるから重々反省せねばならないわけだが、増えてしまったものは仕方がないので人間の生活に支障を来たす以上対策が求められる。

 群れは天敵がいれば適正な数に自然と落ち着くのだが、愚かにも餌付けなどをして増やしてしまった場合は裏切る形で排斥したり間引きをしたりせねばならない。しかしそれは一時的な対症療法に過ぎないのであり、根本的に群れの規模を維持する為の劇的な効果が期待出来る方法を選ばねばならない。

 これは沖縄のミバエを撲滅した故事に倣うのが最も効果的であるように思われる。つまり雄を不妊状態にして野に放つのであり、大騒ぎを繰り拡げる群れに対して種付けの権利を持つ大将を一時的に捕獲した上で不妊手術を施し、のちに放つと次の年からは子供は生まれずに群れの膨張は回避可能だ。 無意味な知恵比べに税金を費やすよりも、大将を一匹捕らえて去勢するだけのことに税金を投入すればよいと思うのだ。

 雌の衆が欲求不満から叛乱を起こしでもすれば新たなる大将が選出される恐れがある。不妊手術をしたとしても種がないだけの空砲状態を維持する必要がある。それは雄として不能にすることは限りない同情と応援を送りたくなるからであり、少なくとも雄雌ともに欲求不満が生まれるような状態作り出すべきではない。

 ところで群れの大将が勃ち発射はするけれど種のないという人間でもありがちな状態を作り出したとして、翌年に子供がばかすか生まれてしまうと色々困ることになる。それは明らかに雌が大将を蔑ろにした上での不貞行為であり、大将は種無しにされたことを知っている人間から見れば産まれる筈のない子供が産まれたことは、すなわち群れ以外、大将の目を盗んで姦通した雌・間雄・そして人間も含めた全員が大将に威厳を認めていないことになる。


映写 04/12/.03

 羊を頭ではなく匹で数える理由を自らに納得させられないままだ。

 羊を数えているうちに自然と眠くなるという俗信は俗信として楽しめばよいが、冗談商品として存在すれば面白いと思うものがある。

 部屋の灯りを落としてから壁や天井に星空や水面、その他季節を反映した電子回り灯篭が一部の数寄者によって作られ消費されているわけだが、基本的に毎晩使うようなものではない。開放的閉鎖的いずれにしろ気分を改めたいと望む際に用いられるのであり、完全なる嗜好品と断定可能だ。

 嗜好品である以上は如何に突飛な商品であろうとも採算を忘れてしまえば世には出る。採算を忘れられずに日の眼を見ない商品など山ほどあるのだから、ひとまず電子回り灯篭が商品として存在しているのは、採算を完全に忘れたか或いは採算が取れるかの理由によるものと考えられ、であるならばそこに新たなる柄を追加することは容易である理屈だ。

 つまり羊が一匹づつ登場しては消えてゆく柄を電子回り灯篭で表現すればよいのであって、いくら頭の中で羊を数えていても完全なる瞑想に入る術を身に付けていない者は、途中で必ず羊以外の事に想いを馳せることになるから、思考が他へ飛ばないよう強制的に羊を勘定する為の道具として電子回り灯篭の仕組みを利用すればよい。

 電池では寿命の不安があるから家庭用電源を用い、朝になってもまだ羊が動いていたら再び眠るか怒りが込み上げるから一定時間後に活動を停止する機能が求められる。光量で自動的に動きを止める機能は、就寝時間の不規則な者に対して不親切であるから時間制を推す。就寝時間の不規則な者ほど羊を必要とするからとの理由だ。

 手前は電子回り灯篭を買ったことも触れたことも眺めたこともないから、適当なことを並べているだけであるが、図柄を簡単に変更可能であるかどうかが重要な鍵となるかもしれない。新しい図柄を求めるためには嵩張る本体も付属してくるならば未来はない。しかし図柄を差し替えることが簡単な場合、図柄の単価次第であるが細々とでも利益が見込める。その場合は自ら作成した図柄を利用可能ともなるわけだが、それを逆手にとって個人作成の図柄を募集して人気投票などで上位のものを発売したりと展開は拡がる。また光を通す必要はないのであって、画像や動画を映写可能なものであれば天井がそのままスクリーンとなるから、寝転がったま映画を見ることが出来るという、気付けば何か違う話になっている。

 そのようなものは視聴覚室に存在しており、だからそれを個人で楽しめる装置として手頃な価格で売ってあればよい。ならば羊の件など短い漫画か動画の繰り返し映像で事足りる。


木工 05/01/31

 割箸やら爪楊枝やらで五重塔なり天守閣なり作る人が居たはりますね。

 役所やら公民館やらで仕方なく展示しとったりね。わざわざ硝子箱を用意せにゃならんのも嘗めた話でございますが、余りにもニュースのない場合に地方版の隅っこに「完成まで何年かかった云々」とか載ったりして本人はそれなりに満足しておるようで。

 仮にそれが何某の飲食店から出る大量の割箸を捨てるに忍びなくて「何処の誰とも知らぬ奴が舐った割箸を洗って使った」とか言うなら多少は感心するけども、それが「新品の割箸買うてきてちょっと削って木工糊で貼り付けてはい完成」やったらそっぽ向くでな。

 大体ああいう五円玉編んで五重塔作るとか爪楊枝で戦艦大和作るとか、馬鹿を自覚しておるのは許しましょ。でも割箸で建物作る事例はな、勿体無い。割箸が勿体無いんやなくて、手間と時間が勿体無い。大抵は「他に趣味なくて一心不乱にこつこつ作った」とか「定年で暇潰しに始めた」とか言いよるけどな、それやったらいっそ木造建築技術を一から学んでな、その学んだ内容を実地練習として模型に組んだらええやないの。

 定年退職してから死ぬまでの間に残したライフモニュメントが「割箸で作った五重塔」てのは少々涼しく感じるわけでな。確かにその根性は認めるわ。でもな、その根性で伝統技術を独習しながら五重塔の模型組み上げてみいな。完成した暁には「おお。見事な模型だ」程度の賛辞では収まらへんよ。なんでか言うたらな、その模型組み上げることで木造建築の伝統技術を体得した、「おお。宮大工の誕生だ」となるわけよ。多分。

 実寸の木を切ったり削ったり北に生えてた木は北側に使えとかそういう細かい技術は人に任せたらええねん。切り方削り方組み方接ぎ方を指示出来る宮大工が一人でも増えたら何や嬉しなってくるやんか。

 な、「暇潰しに作った割箸の五重塔」よりもな、「宮大工として指揮して作った本物の五重塔」の方が立派に後世に残る思うで。そら五重塔作ってくれなんて話そうそう転がってへんし、あったとしてもまずは本職の宮大工に話行くけどな、五重塔を組み上げるやり方知ってるんやったら日本家屋くらい屁やがな。「誤魔化しのない古風な家建てたいけど本職の宮大工は高い」とか言う奴なら結構居るがな。ああ勿体無い。

 せやから趣味は「後継者難の伝統技術の何かを独習」にすればな、御身の為、御国の為、御金の為とよい事尽くめやないですか。一年に一人程度発生する「割箸で・・・」「爪楊枝で・・・」の人々よ、その努力の方向を、ほんの少しだけ変えてみいへんかい?


偏光 05/03/12

 巷には冗談を形にした製品を専門に扱う店がある。

 売る為に商品を集めるのはさほど難しくはないかもしれないが、それを実際に作るのは大変であろう。ミクロン単位を測ることが可能な物差など役に立たないではないか。

 とても実用的なジョーク製品を思いついたからここで公開しておく。「公式などを微小な文字で印刷した鉛筆」が最初に浮かんだわけだが、鉛筆に目を近付け過ぎると挙動が不審になり、そのままの姿勢で判別可能な大きさの文字であれば監視人の目にも留まってしまうだろうから危険極まりない。

 そこで偏光レンズを利用した無色に見える印刷を考えた。特殊な眼鏡でしか見えないという文字ならば発覚を恐れる必要はない。しかしもう一歩進んで「必要な文字列を自ら書き込むことが出来る透明なインクと偏光レンズ眼鏡のセット」ならばよい。

 流石にカンニング用と公言は出来ないので透視だか予言だかの手品用と銘打てばよい。そもそもカンニング自体が手品すれすれなのだから鋭い人ならばその利用価値に気付く筈だ。眼鏡のデザインを全て同じにすれば「何故この辺りの列は全員同じ眼鏡なのか」と怪しまれるかもしれないので、幾種類かの眼鏡を揃えることが望ましい。

 ただし監視人がその眼鏡を掛けていないという前提が必要になることは言うまでもない。


電子暦 05/03/29

 時計とは針が動く奴と数字の浮かぶ電子式の奴との二種類に分類される。

 中には「数字を書いたプレートが一分毎に一枚づつ捲れる」という分類に窮する奴もあるが、時間さえ判明すれば問題はない。

 しかし身の廻りに時計機能を持つ電子機器が氾濫している時代を考えると、時計の存在は相対的に低くなる。夕方だか朝だが迷うような薄暗い時間帯を除いて心底時計が必要になる状況は稀である。仮に時計がなくても「今何時ですか」と誰かに聞くことはよくあることだから恥ではない。

 問題なのは「ええと、すいません、その・・・今年は何年でしたっけ?」と聞く状況だ。何かの書類を書く場合に西暦が判っていても元号で攻められると焦る。その後何月かは理解していても「ええと・・・今日は何日?」これも困る。

 銀行や郵便局、その他役所などでは書類を書く台に今日は何月何日という表示があったりするが、それは積木のような賽子のような物体で始業前に一番下っ端が手動で設定して廻るのだろうと思う。

 そこで思ったのだが、電子表示の時計が当然のように出廻っているのだから、電子表示の自動カレンダーが出廻ってもよいじゃないか。それならば腕時計の文字盤のように大の月小の月閏月で混乱することもなく放っておいても正しい月日を表示してくれる。西暦も簡単だろう。何より毎日手で更新しているカレンダーよりも電子表示ならば格段に信用出来る気がする。

 一度売ってしまえば故障するまで二度と買って貰えないが、電池メーカーはこの製品に協力的な姿勢を見せるだろうし、毎日日付を手で変更する手間を省くことの出来る側にとっては多少の出費であろうとも年に一度の電池交換で済むならば検討してくれるかもしれない。それに元号が変わったからまた売れるじゃないかという不謹慎な考え方は危険なので思っていても口には出さないほうが賢明だ。

 そういうわけで手間いらずの電子表示カレンダーが大々的に売り出されたならば、どこかで見たことがあるような気もするが、ある程度の需要は見込めると考えてここに記す。




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