このサイトはスタイルシート対応サイトです
閑雲野鶴 案内板 更新情報 メルマガ 雲と連絡 鶴の骨格 鶴の足跡 資料室 亡国遊戯 がらくた リンク集
近道:検索 地図 メルマガ最新 読書録 掲示版 Google
現在地〓 閑雲野鶴メルマガバックナンバ保管庫 >淑女

見本
メルマガ最新
バックナンバ
報告集
発行履歴
登録・解除

保管庫
題名索引
2003
2004
2005

会話録
無間相談
甲斐性
あげまん
小股の切れ上がった女
複数術
写真
不自由な人
恋の胸
よくある話
悟る
伝説


大人


出会いはいつだってある

気が付かないか 気に入らないだけだ

会話録 03/03/20

女と女の会話

「料理が上手で掃除洗濯家事全てやってくれて優しくて格好良くてHが上手で浮気絶対しない若い彼氏」
「すぉぉぉぉんな男いるわけないじゃん!」
「だっているもん」
「てーかね!それ絶っっっっっ対騙されてるから!」
「違うもーん。欠点ないもーん」
「欠点ねーわけねー。絶っっっっ対あるべ」
「なーい」
「じゃ仕事何よ」
「あ。そういえば仕事してない」
「・・・それただのヒモじゃん」

女と男の会話

「どうして男ってそんなに馬鹿なの?」
「それがわからない女も相当馬鹿だね」

男と女の会話

「いつも男は女を捜しててさ、女は男を捜してるだろ。なのにいつだって見つかったためしがないのはどうしてだと思う?」
「それはね、ひとつ、捜す場所が間違ってる。ふたつ、捜す相手が間違ってる。みっつ、捜すことが間違ってる。よっつ、あるいはその全部。いつつ、本当は本気で捜すつもりがない。以上」
「以上って。・・・その台詞練習してるだろ。じゃあ俺も練習した台詞言わせてもらう」
「どうぞ」
「乾杯しよう」
「それを練習したの?」
「違う。乾杯しながらの台詞がある」
「カサブランカは論外。どうぞ」
「・・・誕生日おめでとう」
「誕生日は先月だったの。来年どうぞ」
「じゃあ君が来年まで若くいられることに乾杯」
「・・・それ何かで読んだことある。んー誰だっけ」
「えーとごめん忘れた誰だっけ」 (注:トニー・ケンリック)
「翻訳物でしょ。えーと。無理。別のない?」
「思い出をくれないか」
「チャンドラー?」
「忘れた。じゃあ、俺の夢の中で踊ってくれ」 (注:タイトル忘れたまま強行突破)
「『いい夢見せてあげるわよ』だった?」 (注:同じくタイトルを忘れたまま防衛成功)
「だったね」 (注:タイトル忘れたとは口が裂けても言えない)

 このあと何故かネタ合戦に突入。忘れるか知らなければ飲む取り気め。強敵に盃を重ねる男。酔いがまわる男。立て直そうと焦る男。笑いの発作が治まった瞬間、じっと眼を見る。

「素敵な朝が来るように祈って乾杯」グラスを鳴らす。

 実は既に酔って壊れていた女、爆笑。男、敗退。


無間相談 03/03/28

「彼氏が浮気したから別れたい」
「別れんさい」
「でも好きなの」
「んじゃ別れんなよ」
「だって浮気したんだよ」
「許せない?」
「うん。許せない」
「じゃ別れたら」
「浮気最低。でも優しいとこあるし・・・」
「好きなんやろ?水に流して続けたらええやん」
「流せないよぅ」
「流せんなら別れるしかないやん」
「でもぉ、流せないし別れたいけど好きなのね」
「そこまで惚れてんなら別れたい言うな」
「どうして浮気するの?」
「俺に聞くなあ。たまたまやろ。許したりや」
「許せないのぉ」
「許せないならもう」
「別れたくない」
「最初別れたいゆう相談やったよな?」
「そなんですけど」
「何を迷う。別れてしまえ」
「無理。だって土下座して謝ってきたし」
「で。許すん?許さへんの?」
「許さない」
「別れるん?別れへんの?」
「それを相談してる・・・」
「好きなの?嫌いなん?」
「好き」
「じゃあ別れない。決定」
「浮気したのがねえ」
「どうしたいねん」
「どうしたいのかな・・・」
「どうして欲しいねん」
「んんんんんん」
「なんかプレゼントで誤摩化されてしまえ。そしたらお互い楽になる」
「そんなの嫌」
「許す条件は何」
「条件とかそんなのじゃなくてもっとこう何といいますか」
「何でしょう」
「わかんない」
「しばらく放っとき」
「放っといたら向こうに走るかも」
「はっきり言うてみ。何が言いたいの」
「どうしていいかわからない・・・」
「別れろと言うて欲しいん?」
「違う・・・」
「別れるなと言うて欲しいん?」
「違う・・・」
「俺はただの暇潰し?」
「違う・・・」
「俺は何て言えばええの?」
「アドバイスとか」
「どんな」
「こっちに聞くの反則」
「はい。じゃアドバイス。本人と直接話し合うべし」
「むこうは謝るだけで話にならない」
「こっちも話になってない気がする」
「何かごめん」
「ええねんけど。そんだけ迷うならも少し続けてみたら」
「んんんん」
「迷うならいっそ別れてしまえ」
「んんんん」

 ああああああ。キリがない。これだけは避けようと思っていたが仕方がない。最終兵器「ビンゴ!」を投入してみよう。

「君は悩んでる自分に酔ってるだけちゃうの?」

 終了。


甲斐性 03/04/17

 「浮気は男の甲斐性」という言訳がある。

 残念なことにこの用法は間違っている。大辞林定義に、甲斐性とは「しっかりしていて頼りになる気質」「満足のいく生活を営んでいく力。又そうしようとする気力。生活能力。経済能力を言うことが多い」とある。

 浮気の定義もしなければならない。しかし「浮気は男の甲斐性」と言訳する事態に陥ったときの浮気とは大抵「頼りにならない癖に生意気にも浮気するか普通」という侮蔑が向けられた儚い浮気であることが多い。

 商家の集中していた上方では商人の栄枯盛衰は常なる環境であったから、ある程度成功した旦那は妻の他に妾を囲う。そして妾には本業とは別の商売をさせておいて、いざ本業が潰れた場合にそのまま没落しないように妾の商売で再起の機会を窺うのである。妻の方もそれがわかっているから程々にしておくならば煩く言わないし、本業と一家を疎かにするならば自然と烈婦人になって亭主が穀潰しになってゆき、やがて浮気も出来なくなる。妻も妾も旦那もそれぞれ打算的に考えて最も為になる道、言わば運命共同体を形作っていたのだ。そしてその妻と妾を喧嘩させないように交通整理し、各々で上手くいくよう立ち回って、双方ともある程度満足している場合「うちの旦那は甲斐性がある」と評されるのである。

 これを今の時代に当て嵌めてみると、税金対策兼息抜き兼没落に備える為に「愛人に料亭もしくはバー・スナックなどを経営させる」という仕組みがよくわかる。

 ただしここで妻が「若い女に入れあげてあの薄ら禿」と言っているようならば、旦那の妻に対する立ち回りが失敗していることを示しており、それはすなわち家内運営能力の欠如であるから「甲斐性なし」と罵られても仕方がない。妻と妾の双方から不満が出ないようにする能力のある人間はやはりそれなりの魅力を備えているわけであり、何を手掛けても上手くいく種類の人と言える。そしてそういう人だからこそ不測の事態に備えて妾に商売をさせておくのであり、妾を囲っていながら妻にも気を使うから不満が出ず、ここに好循環上昇が発生する。

 さて、妾を囲う程余裕がなく、商売をさせようとの気も回らず、家内は常々軋んでおり、鬱憤ばらしに適当な浮気を繰り返す男がいて、それが妻に知られた場合、

「この甲斐性なし!」
「浮気は男の甲斐性だ!」

 喧嘩をしている時点で甲斐性がないのだから言訳にはなっていない。単なる売り言葉に買い言葉、反射的に出てくるだけなのだ。しかしそのことは男も判っている。妻も当然判っている。お互いに判っていることも判っている。でも喧嘩は止まらない。

 気晴らし憂さ晴らしに一回だけした浮気で「甲斐性なし」と罵られるようでは先が見えている。甲斐性がないから罵られるわけだがこの場合、お互い選んだ相手が悪かっただけかもしれない。

 また、純粋に男の立場から見ると、「もしかしてこの女は単に『甲斐性なし』という言葉を使ってみたいだけではないのか?」と思うときもたまにある。

 甲斐性と言う言葉、肯定的にも否定的にも使ってよいが、言訳の際に使用することだけは避けねばならない。そしてそれより以前に言訳をする事態に追い込まれないようにしなければならない。それが出来るなら「甲斐性がある」と判断されるのだ。


あげまん 03/05/26

 伊丹十三の「あげまん」以前は福マンとも呼ばれていたようだが、今ではあまり聞かない。関西ではおまんこかおめこである故、「あげまん」と言われてもどこか茫洋とした曖昧な印象を受けるのだが、それは仕方がない。ところで正月の「あけましておめでとう」を省略した挨拶、「あけおめ」は多少気恥ずかしくもある。関西では正月にごく限定された空間で盛んに言い交わされていたことと思う。

 あげまんもあげちんも本質に於いてほぼ同じであるので、以下、あげまんはあげちんに、男は女に読み替えてよい。

 一般にあげまんとは直接まんこを指すのではなく、それを所持する女性を指す。また、男の運気をあげるまんこと認知されているようだが、少し違う。

 あげまんとは、あげまんを持つ女性とは、あげまんと呼ばれる女性とは、「やがて一流になるであろう男を人より早く見抜くことが出来る」能力があるのだ。だから「かつてお付き合いした人は皆出世した」というのは、何も持物が開運であるわけではなくて、ただ、「優れた人を見抜いた」だけなのだ。強烈な上昇志向があったり、人には無い才能があったり、人には出来ない努力をしていたりする者を的確に見つけて育てるから、結果的にあげまんとされる女性と関係があった男は出世するのだ。上昇志向がなく能力もなく努力もしない者は「たいしたことない奴」と一蹴され、相手にされないので、自然、あげまんとの名声は保たれる。それでもしつこくまとわりついて、特に変質者として訴えられずに「熱意に負けた」と言わせたならば、何か魅力を感じたことになるし、何も長所がなくともその魅力と熱意で人生を切り開くことが出来るだろう。

 あげまんと出会い、結婚して離さない場合、何処までも運気は上昇するだろうが、やがて必ず増長する時が来る。そこで手綱を締めて更に鞭を入れて初心に引き戻せば、また上昇気流に乗るだろうが、増長した勢いで古女房を捨てて若い女にでも走ると、愛想をつかしたあげまん女房は逃げ、止まらない増長にはやがて破綻がやってくる。周囲は「やはり彼女はあげまんだ。彼女が逃げた途端奴はぼろぼろになった」となる。だがそれなら忠よく尽くすただの出来た女房かとも思うが、しかし、でしゃばることなく亭主をよく操り、一流にさせる手腕を持つ女ならば、やはり彼女はあげまんと言えるだろう。

 そして出世の階段を駆け上がる男を見送り、次のまだ開花していない才能を見つけて甲斐甲斐しく尽くす女は、「別れた男は私を捨てて出世した。私はさげまんだったのか」と思い悩む女か、「そう。どんどん才能を伸ばして。まだまだそんなところで止まっちゃ駄目。貴方はまだまだいける人」と陰から見守り、心の底から応援するあげまんを自覚する女の二通りに分かれる。前者は無意識のあげまんであるが、遠からず出世した男から告げられるであろう。「あの頃君に会えて本当に良かった」と。そしてそれが続けば悟るだろう。あげまんであると。

 さげまん・さげちんは当然どうにもならない人を見抜く能力がある。能力がありながら吸い寄せられてしまうのはそういう性格なのであろうし、だからこそさげまんさげちんになったのだとも考えられる。「自分でなければこの人は駄目になる」すでに駄目な人と一緒に堕ちてゆくのは自業自得であろう。甘美であるかもしれないが周囲を巻き込むのはやめて欲しい。「ああ。男運が悪い」意思が弱いだけだろう。

 あげまんとさげちん、さげまんとあげちんが真っ向からぶつかり合う時、どちらがより深く惚れているかで勝負が決まる。当然惚れた方が負けである。惚れた相手の言いなりになって相手の属性に変わってしまうだろう。あげに変わればよいのだが、さげに変わり、そのまま二人で生きてゆくならいいが、別れてさらにさげまんさげちんを感染させ増加させるのは迷惑この上ない。

 あげまんとあげちんが出会ったらどうなるのか。個人的にはどうにもならないと思う。何故ならば、あげまんあげちん共に「やがて一流になるだろう」と見抜けるわけだが、あげまんあげちん共に傍から見るとただの「尽くしんぼ」にしか思えず、お互いを一流とは認識しない。従って出会っても通り過ぎるだけだ。

 いずれにしても「あげまんと付き合っている」「あげまんと一発かました」からと言って、凡庸な奴の運気がいきなり上がるわけではない。他人の持たない才能を普段から磨き、努力を続けている者にこそあげまん・あげちんは惹かれるのだ。

 なお、プラシーボ効果により運気が上がる可能性は、相手次第だ。


小股の切れ上がった女 03/05/27・29

 「小股の切れ上がった女」という表現がある。

 これがまた如何ともし難い迷路となっている。この言葉の意味としては「勝気でさっぱりしたいい女」といったところであって、その形容は誰もが受け入れているわけだが、語源がはっきりしないのだ。諸説どころか一人一説とさえ言える状況で、しかもこの言葉が盛んに言い交わされていたであろう時代と比べて今は着物を殆ど着ないから、どういういきさつで誕生した言葉なのかがわからない。だからこそ様々な説が出て、完全に否定する理由もなく「こういう考え方もあるのでは」とますます混乱が深まる。ただ、これについて何かを言う者は半分以上諦めているわけであって、まあ大抵の場合、座興として楽しんでいる。そして手前もまた、座興として何か解釈をひねり出そうと思う。そして一応出来た気がする。

 これは何故「切れ上がった」と過去形しかないのだろうか。「切れ上がっている」「切れ上がりつつ」「切れ上がりそう」などの表現は耳に違和感を残す。切れ上がった、と過去形である以上、そしてまたこの表現が男の視点からであることにほぼ間違いのない以上、どう転んでも着物を着た女性のある状態を見て生み出された表現であろう。そしてそれは素直であるか茶々であるかはわからないが、確かに賛辞であったろう。現在でも意味の良くわからないまま、「小股の切れ上がった女」と評する場合もあるが、出来ることなら一応の解釈をもってから使いたい。

 今まで出た説の中で最も説得力のあるのは杉浦日向子女史の「着物を伊達に着こなして闊歩するとスリットのように正面から裾が切れ上がり内太腿がちらちら見えてそれが小股の切れ上がった、ではないか」とするものである。少なくとも手前はこれに一票投じたい。しかしまた、別の説をぶっ立てたいという気持ちもある。やってみよう。

 まず、着物を着ている女性を見た時に、「着物を着ない今の時代にはわからんよな」と思ったのだ。そして、この人は果たして小股が切れ上がったと表現するに相応しいかどうかとしばらく観察していた。確かに凛とした立ち方で、だらしなく浴衣を着崩している若者には感じられない色気があるにはあったが、小股が切れ上がっていると断ずる自信はなかった。さっぱりしているかどうかなど立っているだけではわからない。

 別の機会に見た着物の女性は喪服で電車に乗っていた。親しくても親しくなくても関係者の法事であろうから派手な言動もなく、ひっそりしていてやはり何もわからなかった。少し揺れた際に反射的に出した左足の足袋がちらりと見えて「うむ」と思っただけである。しかし喪服の女性は年齢の見当がまるでつかない。

 着物を普段着ないからたまの機会は自然にしとやかな気分になるのだろうか。普段着慣れている女性ならばある程度くだけた言動になるのではないだろうか。そこでやっと小股の切れ上がった女とはこういう人だと判断することが出来るのではないだろうか。そういう女性を数限りなく見るなど正月か卒業式の季節以外ありえないことだが、それでも折に触れ探しては見つけると観察してしまう。

 少し大きい街の繁華街でバーか何かのママらしき着物の女性が客の見送りらしき雰囲気で路上にいた。酔ってはいないだろうが結構賑やかな女性だ。立ち止まって観察などしていたら客引きに捕獲されてしまう。こういう場所で客引きに声を掛けさせない為には「悪いけど俺もそっちサイドの人間やねん。相手間違えとるで」という雰囲気を漂わせつつ辺りを一切見回さずに目的地があるかに見える断固とした足取りで歩めばよい。そうしてその女性の横を通り過ぎたわけだが、高島礼子に似たいい女、性格は太地喜和子か未知やすえ、これは「小股が切れ上がったと言いたい」と思いつつ彼女達が爆笑したところを一度だけ振り返って見てタクシーのヘッドライトに逆光で浮かぶ艶やかな輪郭に見とれた。影だから色はわからない筈だが、帯を通して光が差していて深く下ろされた襟とあげた髪が黒より濃い鮮やかな紫色に見えたのだ。当然次の瞬間歩道に置かれているスナックなんとかの看板に脛が痺れるわけだが、やや斜行しながら体勢を立て直して、「あのひとを小股の切れ上がった女としよう」と考えながら裏通りに折れて煙草の自動販売機の前で一息ついた。

 その後は幾度着物姿の女性を見ても何とも思わなくなったのはやはり無意識にあの女性と比べていたからだろう。それであるとき、正面にスリットの入ったタイトスカートを履いている女性の内太腿を限界を超えた横目で見て「あれが杉浦日向子説」と呟いたあと、太腿の上の方に寄った横の皺に目が吸い寄せられた。ロイコならかっと目を見開いて凝視するかもしれないが、こちらは日本語について深く考えているところだ。不自然にならない程度に体の向きを変え、少し楽になった横目であのまま全部ずり上がってしまわないものだろうかとも考え、やがて歩き出したそのスリット、ではなくその女性を、ではなく正確にはスカートの皺を眺めていると、タイトであるから太腿にぴっちり張り付いているので、下着のラインが出て当然なのに出ていないのは極端にえぐれた角度のものを着用に及んでいるか何も履いていないのだと思いつつ、何かが頭の中が反応していた。何だ。何かが引っかかったぞ。焦るな。逃がすな。既にその女性は見えなくなっていたが、その場で頭に反応した何かを慎重に探していた。

 わかった。張りだ。張っていたのだ。局部が盛り上がっていないのでベルトの下と両太腿の付根に囲まれた逆三角の一帯が張っていたのだ。そしてそこは歩いても変化がなかった。おお、なんということだ。皺ごときに見とれて見逃すところであった。そうだ。小股の切れ上がった女の語源見つけた気がする。

 こうだ。着物もある種のタイトスカートであるともいえる。そしてその帯の下と両太腿に囲まれた三角地帯は動きがない筈だ。そしてスタイルが良く、大股で闊歩する女性は、長い足の付根、太腿の付根がかなり上の方になるだろう。着物の思想として出来るだけ寸胴に見せるということがあるが、「小股の切れ上がった女」という表現が生まれる以上、何か女性の側に着物の着用に対する意識の変革があった筈だ。そしてそれは確かに大股で歩いて前から割れた裾の奥に内太腿が見えたからかもしれないが、それより二等辺三角形の等辺二つが、いわゆるビキニラインが、大股で歩くと谷折にへこむだろう。右足を出すと右太腿が押し出され、右のビキニラインが負に浮かぶ。足が長ければ長いほどこれが高くなり、歩を進めるに従って右の線左の線と浮かぶ、これが「切れ上がった小股」ではないだろうか。

 足が短く、しとやかに歩く女性はそれほどここが目立たないだろうし、何より、ちゃきちゃきした女が大股で歩くときのみ太腿付根線が浮かぶ。これは杉浦日向子説にもそのまま当て嵌まってしまうのがつらいところだが、まあ、座興だ。多少本気でもあるがどうせ結論など永遠に出ないのだ。

前後編を合わせました


複数術 03/08/06

 祝い事のある日に、複数の男からまったく同じ贈物を貰って一つを残してすべて売り払い、「男なんて甘いもんよ」と嘯く女と、それを聞いて「カッコいい」「頭いい」と追従する女は何も判っていない。少なくとも経験値とお脳の血が大分足りない。残念だが、女が複数の男から同じ贈物を貰う裏には、複数の女に全く同じ贈物をする男が存在するのだ。

 当然このことをよく知っているのは「今の流行はこれ。限定品ですよ」と同じ品を大量に揃えておいて売る側と、「今の流行はこれなのか」と同じ品を大量に持ち込まれて買い取る側である。売る側と買い取る側が裏で繋がっている場合もある。その他「複数術」が露見した場合も詳しくなる。

 なお「限定品」とは、枕詞が省略されているのであって、正確には「売れなくなるまでの限定品」であることを知っておくがいい。売れなくなったら姿を消すから実際に限定品となるわけで、限りなく嘘に近いが真実と言えないこともない。

 さて、同じ品を複数の女に贈る男が男の中で少数派であるのと同様、一つ残して売り払う女も女の中で少数派であることを祈るが、稀に「複数贈った女のうち一人が、複数貰って売り払った」という複雑な事態も発生する。お互い露見しなければよいが、こういうことは何故か必ず露見することになっているのが不思議である。とは言っても双方ともばれたところで引き分けとはならないのは、その男対女の戦いが有史以来、いや有史以前より続けられており、未だ決着がついていないのであって、だから引き分けもないのだが、おそらくこの先も決着がつくことはなく、ただ「どちらが得か」「どちらに生まれたいか」「もうどうでもいい」が繰り返されるだけの不毛な遣り取りが堆積してゆく。

 同じ品を贈られた女はひとつ残してそれを身に付けていればそれぞれ複数の男達から「俺の贈物」「俺の贈」「俺の」「俺」と言われるところに適当に話を合わせればよく、まずは平和である。同じ品を贈った男は目の前の女が同じ品を付けているからとはいえ名前を間違えてはならないし、緊張感がある。違う女にそれぞれ違う品を贈ったところでよけいややこしくなるだけで、緊張感が増すばかりであるから同じ品を贈った方がまだましとも言える。ところで、香水を贈るに際しては、贈る数に加えて「自分が常に持ち歩く用」のもうひとつを合わせて買うと、怪しまれた時、「この香水好きでいつも持っててほら」とかわすことが出来る。しかしお返しに同じ香水を貰ってしまうとキリがなくなるので、まあ右から左へ左から右へと廻せばそれでよいのだが、遊びが退屈になるとそれは遊びではなくなるから、香水組は程よいところで一斉に強制終了した方がよい。

 さて香水に限らず光物であってもそれが「複数だった」と露見した場合、「それは俺が」「いや俺が」と女を争う際の構図は

男VS男 審判兼観客:女

 であり、「私にだけって」「嘘、私にだけって」と男に詰め寄る場合の構図は

男VS女女同盟

 となる。金を出していながらこれは明らかに男が不公平というか、不幸だ。

 そうなっては仕方がないからどちらかを選ぶわけだが、これを選ぶ時、天秤にかけて比重の軽いほうを選ぶとよい。重いほうを選ぶと逃げられなくなるのであって、逃げたくないか、逃げるのに疲れたならば別に構わないが、この難局を、難局ではなく絶好の機会と捉えて活用するには「逃げ易い方」「怖くない方」を残すと、あとが楽だ。一対一で簡単に切り捨てることができ、簡単に引き下がってくれる方を選ぶのが定石と言える。

 本気の方を捨てろとな?違うね。本気なら浮気はしない筈だ。「本気でも浮気ぐらいする」確かにその通りだが、どうせならばれないようにしなよ。ばれた時に鍋より危ない掃除機の筒でもってど突き回されたら、あれは軽くて丈夫でかなり痛いぜ。筒を振り回す涙と鼻水に塗れた顔を見たら、どうやら心ってやつも痛むようだぜ。


写真 03/09/15

 写真の写り映えについての遣り取りの間抜けさ加減の次第はかなりのものだ。

 写真と実際の違いに愕然とする程の格差がある場合、実際の方が素晴らしいならば素直に「写真とは違って綺麗ですね」とも言えるが、「写真の方が綺麗ですね」と言い張る勇気はなかなかない。写真が極端に綺麗で実際が極端に汚いならば、それはおそらく汚いことを自覚した上で精一杯「それなりに」写るような角度と光線を日々絶え間なく研究しているだろうことが予想されるわけであって、その際はもう、「いい写真ですね」と逃げるしかない。しかしそういう場合に限って自ら「写真写りが悪くて」などと非常なる努力を要したであろう極上の写真を誉めてもらおうと、写りに納得していない素振りを繰り返すから、行きがかり上誉め続けることになるが、誉め過ぎると実際の汚さが次第に浮き上がってくるので、程々にせねばならない。

 プリクラの登場でこの傾向に歯止めが掛かるかと思いきや、さにあらず。簡単に撮ることが出来、すぐに手にすることが可能なものだから、「つい油断して汚いまま写る」という是正措置がまるでなされず、仕上がりの姿が眼の前の画面に出るから最も写りのよい角度を鏡よりも客観的に把握出来るようになった上、粒子もかなり粗いのであって、つまり「それなりに」より遥か以上の仕上がりを実現したまことに罪作りな機械として、一気に拡まった。実際をそのまま写すような精密さがあれば、あれほどの勢いで普及する筈がない。

 写真と実際と、それほどの差がない場合、何と言えばよいか。写真写りなど全く気にしない相手なら何を言っても問題はなかろうが、気にする人の場合或いは気にする人かどうかが判らない場合は、言うまでもなく写真と実際とを見比べて真剣に答えを出そうとしてはならない。遣り取りを引き伸ばしつつ実際の顔色を窺いながら、「写真と実際、どちらを誉めてもらいたがっているのか」を正しく察知しなければならない。

 あからさまな格差があるなら撮影者を誉めるとか貶すとか簡単ではあるが、ほぼそのままが写っている場合、「綺麗に写ってますね」と言えば「実際にはさほどでもない」との意味が含まれていると解釈されるおそれがあり、「実物の方が綺麗ですね」と言えば「写真見て大したことがないと思っていた」との意味が含まれていると解釈されるおそれがある。

 純粋に世辞以上話を繋ぐ以上の目的しかない場合、問題をややこしくしない為に正しい言い回しというものがある。

「写真の通り綺麗ですね」

 見よ。この隙のない、当り障りのない、全く意味のない言葉を。これを自然に使えるようになれば不要な摩擦を回避することが可能である。ただし、写真がとても綺麗で実際にもそのまま綺麗であるならよいが、写真が汚くて実際にもその通り汚い場合、「写真の通りですね」と言うと何故か摩擦が発生するのであって、確かに無意識の内に「綺麗」を落とした気もするわけだが、そうなると後はもう何を言っても無駄であるから、次の機会はどう言えばよいかを非常なる努力をもって研究することになる。


不自由な人 03/10/27

 「髪の不自由な人」を嫌う女は、自身が「顔の不自由な人」でもなく「年の不自由な人」でもなく「体重の自由な人」でもないと断言出来るのか。

 「金の不自由な人」「学歴の不自由な人」「身長の不自由な人」を結婚の対象から外せる程貴女はいい女なのか。いい女なら何故結婚出来ないのか。もしかして鏡に不自由していないか?

 「生殖能力の不自由な人」は原因が大抵は精神的な事であるから、そうか、これは「精神の不自由な人」にもなるのか。

 「日本国籍の不自由な人」我々は彼らから見ると「英語の不自由な人」になる。

 「都会の不自由な人」と「標準語の不自由な人」は等号で結ぶべきではない。「田舎の不自由な人」もまた、「見識の不自由な人」であり、「複眼力の不自由な人」であり、「世界観の不自由な人」でもあるから「都会の不自由な人」と同義であり、その元の言葉を浴びる資格を十分に有しているからだ。「標準語の不自由な人」など、日本放送協会の弁師以外全員当て嵌まるではないか。東京で話されている言葉は貴方、標準語ではなく単なる関東弁でございますよ。確かに今の標準日本語は山手言葉を元にしてはいるが、規定通りの日本語を話すことの出来る一般人など国内を探してもいないのだ。規定通りの文法書で日本語を学んだ「日本国籍に不自由な人」は生きた日本語と接する機会がなければ、また古くに渡って日本語が止まっている在外の日本人ならば、また彼らに学んだ者ならば、おそらく我々より遥かに立派な日本語を話すことが出来るだろうね。我々「日本語に不自由な人」はこれを恥じねばならないね。

 昔、「家の自由な人・車の自由な人・ババアが自由にならない人」なるうわごともあったわけだが、これは高望みに過ぎるのであって、当然代償として「料理の自由な人」「掃除の自由な人」「洗濯の自由な人」「子育ての自由な人」「買物以外の外出に不自由な人」「共働きの不自由な人」「金遣いの不自由な人」「浮気の不自由な人」「それでいて顔と体型がいつまでも不自由でない人」が求められる。「知足」なる言葉があって、では「知己」はというと別の意味が付与されているから、それぞれに「死貴様」の言葉を贈らせてくれ。

 それでも所詮うわごとはうわごとであって、それぞれ適当なところで妥協するのだからめでたいことだ。


恋の胸 03/12/28

 色恋沙汰の最中に「胸がときめく」なる表現を使って「嗚呼これが恋」などと平和な世界であるが、これはつまり胸が苦しくなってきゅうううと締め付けられるわけだ。「胸」とは言ってもそこは舞い上がっているから考察する余裕は全くない。しかしここに真実を告げよう。

 あれ実のところ「胸」ではなくて「胃」なんですね。はいそこ逃げない。最後まで読みなさい。例えばですね、ジェットコースターに乗りますね。胸が締め付けられますね。あれは胃ですね。例えばですね。試験か何かで緊張しますね。胸が締め付けられますね。あれは胃ですね。例えばですね。一目惚れして逆上せあがりますね。あれは胃ですね。胃じゃないか。何故恋だけ特別扱いするのですか。胃じゃないですか。

 「胸が締め付けられる」胃炎ですね。「恋煩いで食物が喉を通らない」胃酸過多ですね。「あの人の事を考えると胸が震える」胃痙攣ですね。「胸が苦しい」胃潰瘍ですね。「胸が痺れる」胃癌ですね。

 どきどきするのは確かに心臓ですが、その場合不整脈の疑いがあります。そもそもですね、本気で恋を煩って「胸が張り裂けんばかり」とは単に胃壁に穴が開きかけているわけですよ。「嗚呼胸が痛い」急性胃炎なのですね。

 伝統的な突込に「飲み過ぎ」「食べ過ぎ」がありますが、今後は胸がどのような状態であるかを聞き出すと、適切な表現を使うことが可能です。実際「飲み過ぎ」「食べ過ぎ」と言われる場合は日頃の行状故の結果であり、客観的事実から導かれる至極合理的で説得力のある推論なので事実が如何であろうとも信じては貰えないわけですね。

 「憧れている人のことを考えただけで胸が苦しくなる」「殺したいほど嫌いな奴のことを考えただけで胃が痛む」胃を差別しないでください。どちらも結局緊張した結果が齎す身体的作用に変わりはないのですから。緊張したら胃に作用する。「いざ鎌倉!」と緊張しているのは胃が蠢いているだけです。胃だけではないようですが。

 従いまして、恋に纏わる胸のあれこれが全て胃の動きを示している以上、「失恋してやけ喰い」とはつまり、緊張から解き放たれて胃の調子があがって食欲が戻ってきただけという、つまり科学的根拠があるわけですね。


よくある話 04/01/23

  「浮気したら即座に別れる」

 あかんよ。そんなこと言うたらあかん。そんな嘘言うたらあかんよ。絶対に?即座に?二度と連絡しない?電話にも出ない?それはね、別れたくなったら浮気すればよいだけだから男から見ると楽だよね。「現場を見てしまったから別れた」それは八割方「別れるために見られてしまったように仕掛けた」場合が多いね。だから「浮気は絶対許せない」とは言わないほうがよいね。そんな初心なこと言ってたらね、天性のヒモに喰いつかれるよ。はじめは喋喋喃喃褒めて煽てて擽って、「お金貸して」最初は安いよ。すぐ返せる額だね。どうしても今必要で明日返す。一万円ぐらい。ほんとにすぐ返すね。これを何度も何度も繰り返すうちに額面が上昇してゆきます。頃合を見計らって大きく貸してと言うね。現金で必要だから持ち歩くの危ないからと一緒に現金引き出しにゆくね。並以下のヒモならこの百万単位の金握って行方を晦ませるけど、もう少し骨のあるヒモはここでもまだ我慢するね。その額に利子付けて返すのよ。彼女は今までの利子を合わせると都合五十万円くらいは儲かってる。これは先行投資。実は大きく現金引き出した時が鍵なのね。あの時に暗証番号を覚えておくのが一味違うね。

 暗証番号を抜いたら退却にかかります。彼女の部屋の金目のものは一通り確認しておきますね。少し前なら電話の権利も小金にはなったわけですが、最近はどうもね。パソコンテレビビデオコンポ。冷蔵庫はね、リサイクル法以降手に余るね。クーラーは外してまで持ってゆく価値がまあ微妙なところでね。部屋の金になりそうなもの、箪笥預金、へそくり、色々確認してもまだそのまま。機会を待ちますね。

 ここで行方を晦ませる先を確保しておかねばなりません。くれぐれも追跡されないように工夫を凝らして退路を作ったらいよいよ仕上げです。ここのタイミングは難しいようですね。「貯金を引き出す」「金目のものを処分する」「別れる」「警察に行かせない」この一連の流れに持ってゆく為の小細工として、「浮気」を効果的に使うことが出来るならば素晴らしい。この道の最高峰は最後まで騙されたと思わせずにいつ会っても復縁を望まれる状態に保つという「竿師」というプロ中のプロがおります。プロなら浮気などという小細工は必要ありませんが、そこらへんの低級なヒモは「いつか自分より上手のヒモに喰いつかれるのではないか」という不安が常にありますから、逃足は早いものです。

 如何にすればヒモのような詐欺師のような奴を見抜くことが出来るか。これは出来ません。誰でも持ち逃げする可能性はあります。例えば「仕事一筋のおっさんが、ある日家に帰ってみれば妻と子は荷物を纏めて実家に帰っていた」これも立派な持ち逃げですね。結婚していたら問題ない?実家がわかっているなら問題ない?そういうことではなくて本質の問題です。「人の財産を勝手に!」この問題です。

 それで「金を借りてから浮気をして別れると言わせて、お金を返してと言われてから消える」のはよくある話で、しかしよくある話ということはつまり有効だからよくある話なのであって、これを「浮気してから別れると言わせて、消えてから抜いておいた暗証番号で引き落として勝ち」、「ごめん。返せない。だから結婚しよう。一生かかって返すから。と言って消えると褄取りで勝ち」、「金を借りて男を仕掛けて浮気させて、浮気したら別れると言ったな?おまえ浮気したな?もう終わりだ!と言ってそのまま消えて送り吊り出しで勝ち」色々あるわけですが、早い話、浮気ぐらいでがたがた騒ぐな。騒がないで下さい。すいませんでした。

悟る 04/03/17

 思うのだが、四十代女が道端でうるさく喋っていたら「全くおばはんは・・・」となり、十代女が道端でうるさく喋っていたら「全く女は・・・」となるのであって、この意識の差は何かを示唆している気がするのだ。当然「女」は「男」に読み替えてよいし、「おばはん」は「おっさん」に読み替えてよい。

 電車で席取りをする十代女は微笑ましくて四十代女は邪魔と考えたくなるのは何故か。幾ら年を重ねても女という属性は変わらないのだから同じ行動をすることに倫理上の例外は別として特に問題はない。ところがそれを眺める男の頭には歴然とした違いが入力される。

車の運転が下手な若い女の場合、「全くもう。仕方がないな」
車の運転が下手な年増女の場合、「邪魔」

 この差は何か。下心が多分に加算されているのは確かなようだが、その分を差し引いたとしても完全に同一の感想が出るようには思えないのだ。これを思えるようになることが性差別解消と言い募る奴が居るかも知れんが、ホモでなければそれは無理というものだ。ホモがおばはんを毛嫌いしないだろうという推測は、ホモの生態がおばはんそっくりに見える気がするところから来ているのだが、もしかすると近親憎悪でホモの方が上の傾向は強い可能性もあるが、そちらの方面はよく知らない。

 何が違うのか。人込みで少しぶつかって一瞬後には離れて歩き去るだけの相手には下心の発生する暇がないのであって、ぶつかった瞬間に「あ。すいません」と言いながらもう少し派手にぶつかりたかったと考えるか、「あ。すいません」と言いながら注意して避ければ良かったしかし真っ直ぐ歩けよぼけがと考えるか、ねえ何が何故違うのですか?

 電車の差席で眠り凭れ掛かってくる相手に対する感想が相手によって違うのは、相手の違いを明らかにすることで突破口が拓ける可能性もある。

 誰もが言いたくて、でも言えないその違いを公言するのは躊躇われる。

 まさか「見た目が違う」とはさすがに言えないのであって、しかし言えない以上何かの理由を捻り出さねばならず、ここでようやく「下心」で濁して逃げる形式が確立されている理由を悟る。


伝説 04/04/14

 キャッチセールスに捕まった後、根性で粘り勝ちした女の伝説を聞いたことがある。

 女が女に街角で声を掛けられてまず喫茶店に行き、その後品物を見るだけ見ますかとの言葉に誘い込まれると、手前よりも二階級ほど柄の悪そうな男に囲まれて契約を強要されたという。美容に関する品物で明らかに騙されたことが判った時は既に逃げ道はなく、声を掛けてきたのが同性の女であるというだけで信用した己を悔いたが、とりあえずここを契約せずに切り抜けねばならないと決意した。

 机の向こうに座っているのは既に触手の女ではなくて眼鏡を掛けたちんちくりんである。そこに捕まっているのは自分一人だけで何をされるかわからないという恐怖を無理矢理忘れてまずは説明を聞く素振りで退却方法を検討する。一通り終わったとこで「サインしてください」と言われた瞬間、契約書を見せてくださいと頼み、「じゃあここにサインを」と言われると「じゃ今から契約書読みます、お茶のお代わり下さい」

 こうして契約書をじっくり読み始めたらしい。怪しい契約書の慣例として細か過ぎる字がびっしり四枚に渡って書いてあり、ここで粘ろうと決めた彼女はゆっくり黙読する。「普通の事しか書いていませんよ」「さっき説明したじゃないですか」「サインしたらそれで終わりだから」これらの言葉に対して「じっくり読まれると都合が悪いんですか?」と切り返し、監視付きのトイレに行き、お茶を要求し、一時間半掛かって全て読んだという。気付けば捕獲された女がもう一人いて囲まれていたのでそっと帰ろうとしたら当然止められて「読んだでしょ。じゃサインして」

 ここからが凄い。「読んだけど意味がよく判らないので契約しません」ときっぱり言い切ると、当然どこが判らないのか尋ねてくる。このままではやはり帰してくれそうもないと悟った彼女は「じゃ最初から教えてください」と条の細目一行づつ読み上げていったらしい。

 しかしそれだけでは全て終わると納得したことにされてしまうから、途中で次の作戦に出たという。

・少し難しめの漢字は全て読みを聞くbr> ・その言葉の定義を質問する
・その定義に対して討論する
・約定の矛盾をねちねち責める

 契約書の文章に対して一字一句検討をしていたら日が暮れるのだが、正にそれが狙いであったらしい。携帯電話はハンドバックごと「お預かり」と称する質に取られているから頭の悪さを装って契約書を元に徹底抗戦を始めたわけだ。ちんちくりんは途中で諦めて上役らしき禿と交代し、更に定義に対する討論は深まりを見せる。その定義が矛盾していたり不明確であればどこまでも穿り返したという。

 数時間後、何度も論破されて修正だらけながらもまだ二枚目の契約書を見ながら、禿が何気なく「契約する気ある?」と呟き、つられて「ないっす」と口走ってしまうと、「だよね」と疲労の色を見せた禿が溜息を吐き、「あのね、これは営業妨害ですよ」と力なく言うところへ「じゃ帰りますよ」と答えると、「ちょっと待って。うちで働かない?」

 契約書の誤字脱字の指摘、抜け道の検討など、大層役に立ったらしく、論争技術に敬服したことも含めてのスカウトを丁重に断り、捕まって八時間後に解放された彼女は、無職と言っ言葉に嘘はないが、さる企業の秘書を辞めて結婚して離婚し、現在三度目の行政書士試験に挑戦中だという。


策 04/08/01

 何を見ても「かわいい」の一言で済ませる女は勿体ないことをしている。

 他に格別の感想がないから無難でかつ無意味な言葉として選択される傾向にあることは理解しているが、それは自らの語彙の貧困を白状しているだけである。

 「かわいい」の発音は片仮名がより相応しいのだが、そんな言葉は封印してしまえ。そして普段ならば無意味にかわいいと言う局面を一瞬堪えて何か別の言葉を搾り出す努力をするのだ。さすれば言葉を出す前の一瞬、僅かに寄った眉間と真剣な眼差しから受ける憂愁を湛えた目元の印象と、内側で軽く噛まれた下唇が色気を結晶させ、男はその横顔に見蕩れてしまう。そのような機会を阿呆面「かわいい」の一言でみすみす逃しているのだよ。

 語彙の貧困は学習によって解消することが出来るが、専門用語や特殊な語、また余りに難解であったりすれば逆の効果が発生することもある。適度に知性を感じさせる言葉を選んで万男向けの演出を選ぶか、限られた者にだけ判る言葉を選んで同好の士或いは仲間を見抜く手段に用いるかは都合にもよるだろうが、その為の機会も自ら放擲している。

 間抜けを装っていれば間抜けと詐欺師しか寄ってこない現実に対応するには賢慮が必要であるが、賢慮の結果が阿呆面の「かわいい」であるならば、その目的は我等が如き凡人に計り知れない深謀が隠されているのであろうと予感して素早く退出することになる。


錘 04/08/09

 浴衣の袂には錘を入れること。

 少しの風で袖が舞うのは見苦しい。着物より格落ちする浴衣に折目正しさを求めるのは筋が違うようだが、浴衣の氾濫する季節には百花繚乱と呼べるほど無茶苦茶な着付けが行き交うわけであって、正式な着法に拘る必要はなくとも、避けた方がよい決まりがある。

 パンツを穿くべきでないのは、薄い生地に段差が表れるからであって、個人的には穿くなと言いたくても大勢には逆らえないので丁字腰巻を許可しよう。裾を割って歩く事がはしたないとされているが、それは大いに推奨しよう。胸元の開放角度については議論の余地があるにしても、全く余裕がなくて鉄壁の守備を誇るよりは多少の隙を演出する方が好ましい。折角浴衣を着るならば項を露出するべきであって、浴衣にパーマは落胆する。

 膝と膝に紙を挟んで歩く訓練をする女形を見習ってしゃなりしゃなりと歩けばつい振り返りもするのだが、草履をサンダル扱いして蟹股でずしずし歩いていては、いくら裾が割れていても評価は低い。肩甲骨が絶対に浮き出ないほど肩を開いて顎を引き、歩幅を小さく体全体の上下動を最小に抑えてするすると歩く姿を見れば、手前は何もない平坦な地面で躓くことを保証する。

 袖が風に舞う状態は活発さよりもだらしなさを発散している。袖や裾の一番下には錘を縫い込むことで落ち着いた色気を醸すことが出来るのだ。裾に錘を縫い付ければ少々の風では裾が割れない。同様に袂にも錘を縫い付けてしずやかな雰囲気を纏えば奥床しさを際立たせる効果があり、それを見た男に様々な波及効果が表れること請け合いだ。

 しかも袂の錘には実用的な側面がある。振り廻せば武器になるのだ。腕をそのまま振るのではなくて右腕なら右袂を掴み鎖鎌みたいにぶんぶん反時計廻しで正面にいる敵の側頭部を狙う。もし過たず命中したならばショルダバッグの金具並に痛いのであって、あらゆる意欲が削がれてしまう。

 裾の下に錘を縫い付けることは冬のコートにも応用出来る。これは大変有効な武器となるのであって、コートを脱いで落とすと見せ掛けて振り回す。「たかがコートを」と侮る馬鹿は鈍い衝撃音を残して膝をつくからあとは畳み掛けるなり止めを刺すなり逃げるなり好きにしてよい。

 錘の選択として、板錘を流用すると楽なのだが加工が多少面倒でもあるから、鎖を布で巻き絞めたものを裾に沿って縫い付ければよい。重過ぎると生地が痛む上に蹴りながら歩く羽目になるから最も違和感のないあたりを試行錯誤して見つけることだ。


大人 05/02/01

 つまり大人になるとは生物学的に言うならば生殖可能を指す。

 「石女」「種無し男」はそれぞれに心苦を重ねているが、一応のところ女は子供を生んで育てることが大人の証とされている。それは社会学的には議論もあるが、生物学的にそう理解されている。だから女が子供を産み育てることが大人であると前提するならば、「男が大人になる」の意味とは「種を仕込むこと」に尽きる。

 であるからして、種を仕込もう種を仕込もうと走り廻る男は生物学的に言うところの「立派な大人の男」である。従って「大人の落ち着いた男」という表現は矛盾している。ところが社会通念では生物学的に言うところの「大人の男」を、あろうことか「若いから制御が効かず云々」として大人であるとは認めない。

 よいか。「大人」という表現に求めているものが「落ち着き」や「縄張本能」であるならば、それは「社会学的に表現した大人」だから、仕込みに奔走する男は慮外となる。すなわち「最早仕込む能力はなくておっとり笑っているが、独占欲は強い老人」を求めていることになる。

 違うのか。なるほど。では「若くて仕込む能力はありながら一途でかつ何をしても笑って許してくれて時々怒ってくれていざという時は守ってくれる人。金持ちであることも重要」が「大人」を表現していると仮定しよう。

 もしそのような男が居たとして、まず間違いなく君達には見向きもしないだろうが、居ると仮定しよう。仕込む能力があり包容力があるから生物学的にも社会学的にも大人であると認めよう。ところで美醜については考えなくてよいな?判った。「自分より背が高くてスポーツマンで爽やかで格好良い」も条件に追加しよう。「白いシャツとジーパンの似合う人」も追加しよう。

 では、それに相応しい「立派な大人の女」の条件を挙げさせて貰おう。

 「がたがた言わない女」 文句あるならかかって来いや。




Copyright 2002-2005 鶴弥兼成TURUYA KENSEY. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. 著作権について リンクについて 管理人にメール お気に入りに追加

[★高収入が可能!WEBデザインのプロになってみない?! Click Here! 自宅で仕事がしたい人必見! Click Here!]
[ CGIレンタルサービス | 100MBの無料HPスペース | 検索エンジン登録代行サービス ]
[ 初心者でも安心なレンタルサーバー。50MBで250円から。CGI・SSI・PHPが使えます。 ]


FC2 キャッシング 出会い 無料アクセス解析