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干支の「巳」
東西左右
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ダイスポーカー・ダイスバカラ
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どちら
お守り
大小月
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着火


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英雄
糞爆
あるがまま
心労


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迷惑
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多数決

血液型
目覚まし勝負
ゆばり
林檎


心得ておけ

いつかどこかで役に立つ

干支の「巳」 2002/12/28

 干支というものがある。

 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥。ベトナムではうさぎの代わりに猫が干支に入っているらしい。何となく不思議な気がする。

 この干支なるもの、若い世代がまともに言えないことを糾弾するつもりない。問題は手前が「巳」であるということだ。へびどしである。これが良くない。例えば実物の蛇を見て「ぎゃー」なり「気持ち悪」なり、テレビでニシキヘビを首に巻いているのを見て「うえええ」などと言われてしまうと「巳年」としては何となく切ない気分に襲われるのだ。

 実際の蛇とへびどし生まれの人間には何の相関関係もなく、例え「蛇」が嫌いでも「巳年の人間」が嫌いなわけではないということを心得てはいる。心得てはいても釈然としない。

 試しに周りの人に干支とその気分を聞いてみたところ、「ネズミ年なんですけどちょっと嫌ですね」「サルってよく住宅地に出没して捕まってるニュースあるじゃないすか。ひどいことするなよって思いますよ」へびだけではなかったらしい。それにしても十二支の中で唯一の爬虫類である蛇、爬虫類ですよ爬虫類、それだけなら逆に売りにもなろうが残念な事にすぐ前年には「辰」が居る。龍が居る。空想上の存在で蛇と形態が似ている上に角がある。手がある。珠らしきものを持っている。空を飛ぶ。勝てんよ。

 単純な話、無邪気に「蛇大嫌い」と言う人には、少し距離を置きたくなることがあったりする。手前も蛇大好きなわけではないが、見ただけで大袈裟に逃げ回るような人に出会うと少々悲しくなる。

 別に何も蛇を好きになってくれとは言うわけではないが、世の中には「へびどし」の人もいることを知ってほしいと思うのだ。そしてさり気なく少しづつ傷付いていることを知ってほしいと思うのだ。


流れに乗る 2003/05/05

 迷子になる事を楽しむ一方で、迷子からの脱出方法の腕にも磨きをかける。

 初めて訪れた町で盛り場に吸い寄せられるのはもちろん偶然ではないし、駅に行きたいと思えばきちんと駅に着くことが出来る。ただこの技術は意識的に使うべきもので、しかもある程度経験を積まなければならない。原理は簡単だ。行きたいと思う方面、盛り場・官公庁・オフィス街・住宅地・寂れた田舎などの目的地に行くと思う人の後について行くだけでよい。

 これを沢木耕太郎で学んだ。学んだが、なかなか上手く出来なかった。ある時、なんとなく流れに乗ってふらふら歩いていると聞いた事もない大学に吸い込まれてしまった。そこで開眼したのだ。一人について行くのではなくて集団について行くということを。

 盛り場に行きたければ何となく盛り場に行きそうな雰囲気の若者について行けばいいし、固めスーツ姿の流れに乗れば自然と官公庁地区に出るし、柔らかめスーツ姿の流れに乗ればオフィス街に出る。夕刻カップルの流れに乗ると労せずホテルに辿り着ける。

 それでも失敗することがある。その失敗も何故かきわどい失敗が多い。

 暇だからどこかの大学で盗講でもしようと考えていると、とある駅で若者がたくさん降りた。「これは大学だ」と思って手前も降りる。角を曲がったり信号の度に知り合いらしき人同士の挨拶が交わされる。少し変だと思ったのは年配の人がいつの間にか増えている事だ。それでも大学に着けば紛れ易いだろうと思って尚も歩き続ける。ところが。やがて皆が吸い込まれてゆくのはなんと、「某宗教団体の建物」

 何かの集会がある日だったんでしょうね。危なかったですよ。建物の天辺に十字でもあればすぐに分かろうものですが、普通の建物でありまして、辛うじて門横の表札に目を走らせると宗教であることが分かり、「やばばばばばば」と思いつつ、とても不自然に通り過ぎて角を曲がって走って逃げました。この時は方角や太陽の位置、ランドマークなどすべて忘れて結構真剣に逃げたので、結局本気の迷子になりました。さんざんうろついて降りた駅とは違う駅に辿り着き、そのまま逃亡しました。

 なんとなく盛り場に行こうと考えて騒いでいる学生風の集団について行きました。手ぶらであるから安心していたら周りの雰囲気がどんどん寂れてゆきます。一体どこに行くのだろうか不審に思うものの今引き返すと明らかに不自然なので仕方なくついて行きます。何度横道に入ってリタイアしようかと思った事か。それでも半ば意地になってついてゆくとパチンコ屋。貴様等な、十何人でパチンコ行くなよ。行きがかり上、五千円ほど喪失しました。

 タイでのことですが、空港は冷房が効いておりまして長居しても不自然ではないので、空港に行きたくて、バスを適当に乗り継ぎ、迷ったので大きな荷物を持っている集団について行くことにしました。ところが段々降りてゆくではありませんか。空港に行くのではなくて空港から来た集団についてしまったのです。このときは直ぐに降りて同じ番号反対方向のバスに乗ったところ無事に着く事が出来ました。

 この件で学んだことはこうですね。

「空港に行きたければ大きい荷物を持つ人について行けば良い。大きい荷物を持つ人が増えてくれば空港は近い。減ってくればその人の実家が近い」

 この技術を究めたならば、どんな町でも言葉が通じなくても恐れることなく振舞える。そういえばタイではスネークセンターに行こうとしてどこかの大学の食堂に突入した事もありました。まだまだですわ。

東西左右 03/04/05

 左右はどんなに酔っていても咄嗟にわかる。しかし東西は一瞬考えなければ出てこないことがある。平生東西南北を意識することのない京都住民以外は物心ついてから後天的に東西を学習する。

 何としてでも必要な知識ではないはずだが、東西が一瞬で出てこないのはやはり屈辱である。故に左右を判断するのと同じぐらいの感覚で東西を判断したいと願いつつ様々な覚え方が編み出される。

・「みぎ」「ひだり」と「にし」「ひがし」も同様に二文字三文字の組み合わせであることに注目して「みぎ=ひがし」「ひだり=にし」とそれぞれ合わせて五文字にすればよい。

・「ひだり」と「ひがし」は「ひ」と「ひ」が磁石の同じ磁極のように反発して組み合わせない。

・日本地図をじっと眺めて「関東」「関西」に含まれる文字「東」と「西」を右左で叩き込む。しかし関東関西以外では、例えば広島人は「関西」が「西=左」であることに違和感があると言う。

・ロンドン中心の世界地図を見て「極東」という言葉から「東端=右端」と覚えた人。

・日出日入から東西右左と覚えた人。

・「東京」だから東、つまり右。京は西で左。と覚える人。京都にもあるが実は奈良にも「西ノ京」という地名があることは余り知られていない。薬師寺や唐招提寺があるのだが地味過ぎる。一応同名の駅が存在する。

・地名地区名に「東西」が入っていると覚えやすいと言えばさにあらず。隣に「西なになに町」があったとしても、普段は「隣にある」ぐらいしか意識せず、東西南北上下左右の枠の中に当て嵌めて考えるのは、やはり「『東西』が瞬時に出てこないと恥ずかしい」という物心ついて後の話だ。

・「東西」を左右に当て嵌めるのではなく、逆に「左右」から「東西」を連想させる技も一つある。「東京はお上べったり体制派の右翼=東」「大阪は個人主義反体制派の左翼=西」それでも東京大阪を基準にしなければ「東西左右」を覚えることが出来ないのが苦しい。

・「西日本」「東日本」国鉄がJRになってから少し楽になったという奴もいる。

・いずれにしても全て「左右」を完璧に把握していることが前提の考え方であり、新たに日本語を学びに来た留学生なら問答無用で暗記するしか方法はない。と考えると日本語で育った者として咄嗟に「東西」が出て来ないのは情けないことであり、またそれまで生きてきた中で「東西」を問答無用で暗記しなかったことは怠慢でもあり、「天才バカボンの歌が混乱させるから悪い」と責任を転嫁するのは判断力のある人間としてするべきことであるまいと思う。


話題 2003/05/16

 何も話をしなくても気詰まりに感じず、落ち着いた雰囲気を保てるようならまず良好な関係と言える。

 しかしさほど親しくなく、沈黙が不自然である場合、何か話したほうがいい場合、何かを話さなければならない場合、適切な話題を俎上に乗せねばならない。特に相手の機嫌を損ねてはいけない場合、政治・宗教・スポーツの話題を避けねばならない。

 天気の話であれば無難であるが、いかにも「話題がありません」という雰囲気がありありと感じられて通常話は弾まない。

 では無難であり、打ち解けることが出来、喧嘩にならず、熱中出来、かなり時間の持つ、どうでよい話題はないだろうか。

 ある。「卵の食べ方」だ。これはどこまでも話が続く。一時間他に話題が飛ばずにひたすら卵について話し続けたことがある。手前は必要のないことはなるべく喋らない性格であるから、これは珍しいことだ。

 まず生卵を食べることが出来るかどうか。卵掛け御飯は好きか。醤油の量は。芥子は。納豆を混ぜ込むか。刻み葱はどうか。鰹節はどうか。梅干肉はどうか。梅干汁はどうか。キムチはどうか。揉み海苔はどうか。何か変わったものを入れるか。固めが好きか。たぽたぽが好きか。

 生卵を飲むかどうか。飲むならそのままか。溶くのか。醤油を入れるか。ソースを入れるか。タバスコを入れるか。

 卵焼きはどうだ。塩か。砂糖か。両方か。はしっこのざりざりした歯応えが好きなのだが。茶色い焦げはどうだ。真黄色でないとだめか。刻んだほうれん草を混ぜて焼くのはどうか。刻んだハムならいいか。何かとんでもないものを入れるか。卵焼きの形は蒲鉾形か。ピザ形か。

 炒り卵はどうだ。胡椒でなければならないか。半熟炒り卵が分裂しきれていない白身も黄身も程良く残っているものが好きだが。

 出汁巻きはどうだ。貴方の実家では何か不思議なものを入れるか。それは醤油で食べるか。出汁で食べるか。

 ゆで卵はどうだ。黄身は完全に固まっているのが好きか。黄身の中心だけがとろりのぎりぎり半熟が好きか。黄身が全部とろりの半熟が好きか。殻の綺麗な効果的な剥き方を教えてくれ。卵を全身皹だらけにすると簡単に綺麗に剥けるぞ。何をつけて食べるか。塩か。マヨネーズか。何か他のものか。

 目玉焼きはどうだ。片面焼きか。両面焼きか。黄身の固まり具合の好みはどうだ。白身から食べるか。黄身から食べるのか。黄身を潰して白身になすりつけて食べるのか。白身を黄身の上に折り畳んで一口で食べるのか。塩か。醤油か。ソースか。マヨネーズか。ケチャップか。酢か。何もつけないか。

 味噌汁に落とした卵はどうだ。鶉卵はどうだ。燻製卵はどうだ。ラーメン半割ゆで卵はどうだ。おでんの卵はどうだ。カレーに生卵はどうだ。

 一時間ぐらいすぐに経つ。

 なお、相手が卵アレルギーで卵を一切食べることが出来ない場合、卵アレルギーについて勉強するいい機会だ。とことん質問攻めにすればよい。そのうちアレルギー全般の話になるだろう。健闘を祈る。

スプラウト 2003/06/02

 スプラウトというゲームがある。

 紙とペンと相手の用意が出来ればいつでもどこでも出来る。相手がルールを知らなくとも三分で覚える。単純すぎるルールによくある複雑極まる変化が魅力なのだ。朝日文庫「遊びの博物誌」に出ているので、相当前に日本には入っている筈だが、知っている人はまずいない。

 実際に絵に書きながら説明すれば簡単なのだが、文章だけでは少々心もとない。蝶結びを文章で説明するのもかなり難しいが、それに比べたら簡単だと信じてやってみよう。

 まず、紙にいくつか黒点を打つ。赤いペンなら赤点だが響きが不吉なのでなるべく避けたい。これは二人でも出来るし、それ以上でも出来るが、ルールに変化は無いので二人ですると仮定して話を進める。黒点は打ち過ぎると勝負が長引くので最初は四つ前後でいいだろう。人数が増えたら開始時の黒点を増やす事は言うまでもない。

 基本のルールは点と点を一本の線で結ぶだけ。そして1つの点から出る線は三本まで。結ぶべき点がなくなれば負けというそれだけの遊びだ。

 ただ、最初に打った点が三つならすぐに終わるだろう、先手後手が重要なのではないかの直感は確かにその通りだが、当然それでは面白くも何ともない。このゲームの奥行きの原因として、「点が増える」のだ。増やせる点は、「点と点を繋いだ線状のどこでもいいから一箇所」で、一度自分の番が来た時に1つだけ。線を引いてその線上に打つわけだから点なら埋没してしまう。実際は点というより鼻糞みたいな黒丸なのだが、強引に点と呼ぶ。その点から既にあった点に結べばよい。線はどんなに厭らしく曲がりくねっていてもよいが、別の線と交差してはならないし、自らを跨いでもいけない。辿れば必ず点から点に迷わず行けることが条件だ。だから短い直線で結んでもいいし、すぐ隣にある点へ全てをぐるりと囲んで遠回りしてから繋げてもよい。

 さて、説明が難しい。点を三つ打ってみようか。正三角形の頂点にあたるところに点を三つ、上から時計回りに点A点B点Cとする。先行が点Aと点Bを結ぶ。点Aと点Bはそれぞれ一本づつ線が接続したからあと二本まで。点Cはまだ三本接続できる。理論上はこのままだとA・B・Cに接続出来るのは七つで、一本は二つの点を結ぶから、あと三本しか引けないわけだが、点が増やせるので、増やせる以上こちらも理論上いつまでも終わらない事になる。ところが必ず決着はつくのであって、その理由としては「点が全て三本づつ線が接続されてしまっており、新しい点をどこかに打っても繋げられない」「三本接続していない点があり、理論上は新たに点を打ち、線を結べるが、実際は狭すぎて無理」のふたつがある。

 まずは一人でやってみるといい。セオリーがありそうで、すぐに勝つ為の方法論が導き出せそうでどうにもならないじりじりした感覚が微妙に楽しい。

 これをフリーソフトで誰か開発しないものかと思うのだが、あるいは海外で既に存在しているかもしれないが、この自由な曲線とその曲線上のどこかに打つ点、ややこしいのかもしれない。お絵かきソフトとまでいかなくとも漢字をマウスで書くパッドがあれば事足りてしまうので開発などしないのだろうか。コンピュータ相手にすると単純なルールだけに絶対勝てないプログラムが完成する恐れもあるわけだが、それでもこんなに面白いゲームを打ち捨てておくのは勿体無い。

 なお、このスプラウト、図解のサイトもあるが、「遊びの博物誌」の著作権を無視しているらしいので、リンクは張らない。見たい人は勝手に探すがいい。

面接心得 03/06/06

「面接に自信がないんですよねえ」
「面接言うてもあれやで、がちがちに緊張してたらあかんで」
「どうしてですか?」
「だって考えてみいな。採用する側になったとしてやで、たかが面接ぐらいで舞い上がってまともに受け答え出来ひんような奴がやな、役に立ちそうや思て採用するか?君なら。せんやろ。何十年も働いてもらうことを前提として採用するならな、何も知らん初心な奴を時間かけて育てることもあるやろうけどな、総合職やろ?ずぶとい奴とか打たれ強い奴とか神経何本も抜けてそうやけど使える奴のほうがやっぱええと思うで。そうじゃなくてもそう思わせたほうが」
「でも礼儀正しくしないとすぐ落とされますよね」
「だからな、採用する身になってみ?たとえばやな、君が会社興した。まず一人雇うことにした。募集かけた。応募してきた。さあ面接。でな、たとえば十人おってな、うち五人がマニュアル通りの全く同じ礼儀正しさで完璧なよそ行きの顔で緊張しまくってると。残りは一人が遅れてきたと。一人はノックせずに入ってきたと。一人はあちこち落ちまくってどこでもええからと焦りまくってると。一人は金貯めてアフリカ行きたいと。一人は喧嘩腰で議論吹っ掛けてきたと。どれ採用するよ」
「もう一度募集します」
「そやね。俺も再募集するな。ちゃうねん!たとえの話でな、具体的にどうとかやなくてな、この中やったらどのタイプ採用するかいう話。特徴のない奴採用するか?」
「学歴は?」
「書類選考で刎ねて大体同じぐらいとしよか」
「趣味は?」
「趣味で採用するんか?」
「私クラシックが」
「待ち。君個人やなくて、君が社長として使いたい奴、使えそうな奴を選べいう話やんか。趣味が合ってもな、使いもんにならんかったら意味ないやろ。面接受けるときにな、予め面接官の趣味調べといて配属先もその人の下とわかってたら趣味合わせるのも有効かも知れんけどな、そこまで情報収集できるんやったらどこでも簡単に受かるやろ。ほんでな、どこまでいったか忘れてんけど、何の話しとったっけ」
「クラシックが」
「あーそや。だからな、君の個人的なことは抜きにしてな、経営者の立場でどんなタイプ採用したくなるか考えてみいや。だからさっきの中やったらどれ選ぶ?」
「どんなタイプでしたっけ?」
「忘れたわもう。ほんでな、マニュアル通りの全く記憶に残らんような奴をやな、君なら採用するか?」
「でもやっぱり目立つとだめでしょ」
「目立たんかったら誰が採用してくれるねん」
「じゃあどんな就職活動したんですか?」
「俺?俺は四回ん時留年目前でな、四回生の間に48単位取らんとあかんかったんよ。でぎりぎり48単位取って卒業条件プラスマイナスゼロのぴったり128単位でな、つまり就職活動する暇なかったんよ。留年せずに卒業はしたけどな。だから就職活動はちょと待て。ちょっと待って。待ってって。ちょ、走、待っ、あっ、早、ちょ、あああ、ああああああああああああ」

映画? 2003/06/11

 映画が面白いか面白くないかを判断するには簡単な方法が一つある。劇場の外で待っていて出てくる人の顔を眺めればよい。「時間と金返さんかいぼけ」という表情をしていたら躊躇わずに別のことをしたほうが無難だ。涙の跡があったり、興奮してしゃべり続けながら出てきたらかなりの期待が持てる。ただし時として出てきた人の表情の判定に困る場合があるのだ。何故か。それは見てから出てきた人もその映画をどう判定していいか困っているからであって、この場合、人によってはとことん面白かったり面白くなかったりするのでかなりの勝負となる。尤も予め情報を集めてその映画を見ようとしていたわけだから、まずは見てみるとよい。暇潰しに「取り合えずこれはどうだろう」と眺めている場合ならば、避けたほうがよかろう。

 面白そうな映画はいつも時期が重なるのは何故か。疑問に思ったことはないだろうか。少し考えてみれば当然のことなのだが、まず、夏休みを狙う、正月を狙う、アカデミー賞に効果的な時期を選ぶ、などの結果であるから面白そうな映画が集中的に公開され、その谷間には大作と抱き合わせで押し付けられたものを適当にいつでも外せるように公開しているのだ。そして、あえて時期をずらして一人勝ちを狙おうと皆が同じ時期に考えるから結局期待作は公開が集中する。大作の製作中に人事トラブルがあったり金銭トラブルがあったりすると完成が遅れるわけだが、それでも気が付けば周回遅れで正月に持ってきたりする。

 子供、中学生や高校生を主人公にした映画が何故あんなに日本で氾濫しているのか。アメリカの娯楽、田舎では正にその映画の中で描かれている通り「映画を見に行く」ことが安く手軽で一般的な方法であるから、当然観客が感情移入させやすいような主人公の設定になる。結果、類型的な人物配置にありきたりのストーリー、お決まりのハッピーエンドが揺るぎなく構成されて、それが大作・期待作と抱き合わせで買わされるものだから、苦し紛れに「爽やかで笑える青春」などと銘打って、当然のように見向きもされず、結果深夜に延々と流れることになる。

ダイスポーカー・ダイスバカラ 2003/06/24

 ダイスポーカーなる遊びがあって、これは賽子を五回振り、出た目でワンペア・ツーペア・スリーカード・ストレイト・フォアカード・フルハウス・ファイブカードのいずれかの役を競うものだ。カードではないのだが、ポーカーとしてプレイする以上スリーカードと呼ぶ。スートがないのでフラッシュとストレイトフラッシュは不可能であるが、トランプと違って賽子は目が一から六までしかないので比較的スリーカードは出易い。スート代わりに色違いの賽子を使用しても構わないが、色違いの賽子を五つ用意するよりトランプを用意するほうが早い。あくまでもトランプがなくて賽子がある時に案出されたゲームであるから無理をする必要など全くない。

 賭ける方法はいくつかあるが、最も代表的なのは、まず参加代を払って一回振り、その後はコールかレイズの度に振ってゆくやり方だ。相手の目が全て見えているからスリーカードが完成した時点であっさり降りてしまうことが多い。それでは駆引きの妙味が薄いのではないかと考えてはならない。やってみればわかるのだが、三回振って一方的な展開と見えたら素早く降りるのは定石であって、ダイスポーカーの心臓はそこにはない。お互いに四回振ってツーペア同士・ワンペア同士の時、これが熱い。役に対して懸賞を付けていると更に熱い。役に懸賞を付けていない場合、四回振って双方とも何もそろっていない時、これが最も熱い。何故ならば四回振って双方とも役がないならば、完全にばらばらということであるし、しかし忘れてはならない、賽子は一から六しかないので多くの場合、ストレイトのリーチになっている事が多い。ストレイトにならなくとも次の一振りでワンペアは堅い。ただ、どの数がペアになるのかわからないからお互いに熱くなるのだ。悲しいのは「一」「二」「三」「五」「六」のような目が出た時で、六から一には続けないのでこれはストレイトとは認められないのだが、実はこれワンペアより出難い。しかし「役がない」の一点で貶められていて、これで負けた時はついているようないないような複雑な運に賽子を叩き潰したくなる。

 一回に賭ける金額が決まっている場合、役に懸賞を付けることが多い。例えばレートが百円でワンペアはそのまま、ツーペアは三倍、スリーカードは五倍、ストレイトは十倍、フルハウスは三十倍、フォアカードは五十倍、ファイブカードは百倍といった感じだ。レートが百円でも五回連続で同じ目を出せば一万円になってしまうのでこちらも熱い。ただし酒を飲みながら交互に振っていると必ず途中で一方が忘れないように「五・二・二、五・二・二」などと唱え始め、もう一方は「ええと。俺何出したっけ」と混乱することになる。

 似た経緯をもって発生したのがダイスバカラ。賽子を二回もしくは三回振って合計数が九に近い方が勝ちという単純なゲームだ。九を超えると負けであり、つづめて言えば「賽子でカブ」なのだが、カブと少し違うのは、一や二が続いた時、根性のある限り振ってよいところだ。五回振っても九を超えない時倍付けになる。役が付けば相手より数が少なくても勝ちとなる。ダイスバカラとは言っても日本でのルールではやはりカブの影響があって、順子の「吹雪」刻子の「嵐」を取り入れている場合が多い。一が三回続けば嵐であるが、四回続けばそれが更に倍、嵐は三倍付けであるから都合六倍、五回続けば「嵐」の三倍、嵐プラスワンで二倍、プラスツーで二倍、五回振りの二倍付け、全部掛けて二十四倍となる。そのあと六回目を振って合計九以下ならば更に倍で四十八倍、それが一ならば更に倍だから九十六倍となる。九を超えてしまうと全てなかったことになってしまい、また嵐プラスの挑戦で違う数が出てしまうとやはり嵐は消滅する。「吹雪」「嵐」とも最初から連続して続かなければならないのだ。途中からの連続は認められない。馬鹿げた倍数はなかなか出るものではないが、相手が早々に九を超えてしまっている場合、突っ込んでみるのも面白い。なお、「五と六で吹雪のリーチ」「六と六で嵐のリーチ」とはならず、九を超えたから問答無用でアウトとなる。従ってこのダイスバカラ、ひたすら小さい数を求めて振り続けることになる。こちらは合計数だけ覚えておればよいのでダイスポーカーよりは酔っ払いに向いている。

 それから八面体、十二面体などの多面体賽子を使用する場合、ルールは弾力的に変更する。面白いのだが、計算がややこしくなるので酔ってやるのは避けたほうがよい。

表示 03/09/23

 下手糞な鶯の鳴き方は既に同じ構成で筒井康隆がネタにしているのだが、実体験をそのまま書いたわけだから後ろめたい気分になる必要はない。にも関わらず落ち着かないのは奥に「誰かが書いていて当然」のネタであることへの悔しさなのであって、普通に読者として受け取るだけなら大いに共感できるところを、いざ書く立場になってみれば「やられてる」と感じる。

 浅田次郎のエッセイの中に、ヨーロッパの空港で女子トイレに入ってしまい、一悶着あった秀逸などたばたがあるが、手前もほぼ同じ構図の体験がある。手前に限らずかなりの割合で起こる騒動であろうかと思う。

 日本でのトイレの表示は大抵「丸に逆三角の男」、「丸に三角の女」の絵であることが多く、男女の別が一目で判ることになっている。しかし実は一目で判るのはそれが「男は黒」「女は赤」と色分けされているからであって、男女のトイレ表示を形ではなく色で判断していることなど普段はまるで意識しないものだから、切羽詰っている際に、トイレ表示の男女が色分けされていない場合にあっては、悲しい事態に陥る。

 これは特に大和男児に気を付けて貰いたいのだが、海外に於いて女性トイレに突入してしまう前に、必ず一呼吸置いて「形」を見ることだ。出来れば性別の判断のつく者が入るところをも判断基準にしたい。でなくては、折角の海外旅行で普通には決して味わうことの出来ない筈の珍しい御当地臭い飯を食べる栄誉に浴してしまう恐れがある。

 トイレの男女表示、具体的に何処の国が同色で、何処の国が異色か、いちいち調べる気力もないが、海外経験豊富な方が集えば、ある程度の情報が揃うからその絵の一覧などを見れば、国民性、民族性などが滲み出ているかもしれない。それでも、いくら絵に個性があって構わないが、男女で色使いは別にすることを是非世界標準として貰いたいのだ。

 落ち着いてトイレにいく時ならば普通問題はない。問題なのは、「トイレに行きたい時というのは、常に、落ち着いていられない状態にある」ということだ。親切にも入口付近のタイルが色分けされていれば迷うことはないし、男女共用である場合はそのまま飛び込んでも問題はない。男女の表示が同色異形である際に、更に入口が左右対称ではない際に、切羽詰っていると、女性トイレに突入して「日本人は変態」の評判を裏書することになってしまうのだ。


どちら 04/02/17

1212121212121212121
1231231231231231231
3412341234123412341
3451234512345123451
1234561234561234561
4567123456712345671

 この数字の意味するところが判るだろうか。

 これは重要な技術を表したものである。よく見て頂きたい。それぞれの列は十九個ある。そして最後が全て「1」で統一されていることに気付いただろうか。そして一行毎に繰り返す数字がひとつづつ増えていることも理解しただろうか。

 これは別に問題というわけではない。少しだけ困った時に使える技術だ。つまり、「どちらにし ようかなか みさまのい うとおり」十九文字はこれを表している。数字でなくともよいが、この方が判りやすい。

 さて、目の前に選択を迫られる物がある状況で、「どちらでもよい」と口では言いながら心の中で「こっちを選びたい」と考えている場合、そしてあからさまにそれを選ぶことがやや難しい状況の場合、「♪どちらにしようかな・・・」と指しつつ「自分で選んだわけではなくて偶然こっちが選ばれてしまったのだから仕方がない」という雰囲気を醸し出す為に、その選択肢が二つある場合は、選びたいものから数え始める。「どちらにしようかなかみさまのいうとおり」が十九文字であるから、選択肢が二つなら最初に選んだ方に最後の「り」が来る。

 選択肢がみっつある場合、十九を三で割ると余るのは一で、これも「選びたいものから数え始める」と目的の一品で無事止まる。

 選択肢がよっつある場合、「選びたい物のひとつ前」から数え始めるとよい。目的を二番目に数える。例えば横にABCDとある場合、Dを選びたいなら「CDABCD・・・」と指すのだ。数える方向にみっつ目だから、上の数字は「3」から始まっている。ABCDでBを選びたければAから数え、ABCDでAを選びたければDから始める。くれぐれも「どちらにしようかな神様の言う通り」の十九文字であることが肝要だ。

 選択肢が五つの場合、「選びたいものの二つ前」から始める。目的を三番目に数えるとよい。選択肢が六つの場合は選びたいものから始めるとよい。七つの場合、「目的の三つ前」つまり四番目に数えると上手くゆく。

 ここで失敗し易いのは、「どちらにしようかな」を思わず「どれにしようかな」と言ってしまうことである。これは「どちら」が「どれ」になるのだから十八文字となり、全然違う物つまり正しく偶然選んでしまうことになる。十八文字の公式も一応あるが、覚えにくいので、選択肢が二つ以上あっても「どちらに」で押し通す勇気と冷静な判断力そして絶妙の演技力を必要とする。


お守り 04/02/20

 誰しも財布には緊急用に一枚のお札を人により桁は違っても入れていることと思う。

 しかしそれは何故か必ずどうでもよい時に使ってしまって本当に必要な瞬間には「ない!ない!ここにいつも入れているのに」と慌てることになる。緊急時であれば既に舞い上がっているわけだから恐慌は進む。何かよい方法はないか。

 あったのだ。歴としたお札でありながら、使わない。いや使えない。違う。使えるが使う気にならない。

 ある支払いの状況でお札を出そうとして少しばかり草臥れていたから、長辺と平行に折って真っ直ぐに見せようとし、しかし向こうは少し手間取りこちらはその札を持ったまま待たされることになった。短辺と平行の折り目を折って弄んでいて、さてそろそろと考えたところで多少の格好をつけて両手でそれぞれの端を持ってぴんと張った。

「び」

 しばしその場で凍りついた手前は、見なかった振りをして一度俯き顔を上げる相手を視界に捉えながらさてどうしようかと考えていた。相手はこう言う。

「あ、破れたお札は銀行で換えてくれますよ」

 それくらい知っとるわい。その言葉は「まさかその破れた札で払おうとか云わんよな?ん?」との牽制を含んだ雰囲気を押し出してきたことは凄く判る。同時にOL進化論のネタで「そうですか。じゃお願いしますぅ」と「銀行で」の言葉を言ったばかりに破れたお札を置き去りにされた店員の姿が浮かんだ。

 結局別の札を出して払ったが、この真っ二つに引き裂かれたお札は、当然自動販売機では使えない。裏をセロファンテープで止めて素知らぬ顔で放流すれば何も問題はないが、しかしこのお札は、紛れもない現金でありながら使えないことがすなわち切札としてのお守りになり得るわけだ。

 破れていたら人生が急転する別種のお守りもあるが、そのお守りを使わずに乗り切り、問題がなければ運がよい。お守りなどというものは使わずにいてこそ幸せが約束されるものだ。

※「古い人々が印刷されている旧札もお守りとして利用出来るではないか」との知恵が掲示板にあった。


大小月 04/04/06

 「西向く侍」という言葉があるね。

 これは各月末三十日までか三十一日まであるのかを覚える為、或いは素早く判断する為の方法で、「2、4、6、9、士」を表していて、これらの月は小の月つまり三十一日が存在しない月を指す。

 しかしこの方法は、「西」や「侍=士」の概念を理解する年になってから覚えて理解可能な方法だ。それでも成長して何度も繰り返しているうちに「この月は何日まで」と瞬時に割り出せるようになっているから大した問題はない。ただ、手前の覚え方は違った。拳で覚えたのだ。この方法はかなり有名な筈だが、あまり知られていないらしいのでここに残しておく。

 拳、右でも左でも構わない、利き手と反対の手を握り拳にして、甲を見る。指の付根の部分が甲と直角に折れ曲がっている辺り、各指毎に骨がぽこりぽこりと突き出ているだろう。空手やボクシング経験者なら潰れているという噂の骨だ。

 まず人差指の突き出た骨を一と数える。そして人差指の骨と中指と骨の間の谷を二と数える。さらに中指の突き出た骨を三と数えてゆく。山谷山谷・・・。握り拳の角にある突き出た骨は、親指を完全に無視して数えてゆく。親指を無視するから残りの指は四本、突き出た骨も四つ。そして四つの間にある谷は計三つ。合わせると七つ。つまり一巡で七まで数えることになる。人差指の骨から初めて小指の骨の七まで数えたら、再び人差指の骨に戻って八から始める。二順目は薬指の骨が十二で終わる。この各突き出た骨を高いから「31」、低いから「30」と覚えた。

 御存知のように、一月は三十一日まであり、しかしながら十二月もまた三十一日まである。交互に来るなら奇数月と偶数月が一致せねばならないのに、1と12で違うからどこかでずれている。さて、そのずれている月は「夏休みが長い」と覚えた方なら思い出すまでもない、七月八月だ。ここが三十一日まである大の月が続くところで、「西向く侍」の場合は「6・9」と上手く飛ばしてある。拳の場合は小指の骨が「七」戻って続けて人差指の骨が「八」いずれも突き出た骨だから「31」と算出される。

 知っている方は以降読んでもつまらない。知らない方は試してみるとよい。

 握り拳の甲、指の付根。突き出た骨が三十一日まである大の月。谷が三十までの小の月。スタート。人差指の骨が一月。谷二月。中指三月。谷四月。薬指五月。谷六月。小指七月。戻って人差指八月。谷九月。中指十月。谷十一月。そして薬指が十二月。

角度 04/04/27

 円錐があるとする。

 底からしか見ない者はただの円としか思えないし、真横からしか見ない人は三角と思うだろう。この場合斜めから見てようやく円錐であることが理解出来る。物事を一面的にしか見ない者は全体像を捉えることが出来ない。

 ショートケーキを想像して貰おう。あの切り分けられた形は上か底から見れば三角形であり、真横から見ると長方形であり、尻から見ると正方形か或いは正方形に近い長方形だ。斜めから見てようやく三角柱であることが理解出来るようになっている。

 また、斜めから見たくとも見れない状況にあるとする。その場合は、そこから伸びている影を元に全体像を推測するべきである。その影を伸ばしている光源の位置も無関係ではない。

 斜めから見る事が出来ず、影も伸びておらず、ただ一面だけが見えている場合は、過去の経験と知識を元に類推するしかないわけだが、経験と知識がなければ結局その一面しか見えない馬鹿に成り果てる。

 人は「見たい事だけを見たいように見る」という共通した抜き難い欠点を備えているもので、しかしそのままに甘んじていては馬鹿のままであるから、様々な角度から見る必要があるのだ。

 影も見ず斜めからも見ずに「これは漆喰だろう」と考える馬鹿は苺のショートケーキを喰い損ねるわけで、またそれをただの漆喰と考えたい者は、影が見えても斜めから見えても「巧妙なトリックアートだ」と言い張るわけであり、相手にするのは時間の無駄である。

 どこから見ますか。どこから見ましたか。影は見えましたか。影の光源はどこですか。その光源は誰が支えていますか。おおよその全体像が見えましたか。それを蓄積すれば次に活かせることでしょう。


鍔 04/05/08

 高校野球でいつも気になるのは帽子だ。

 野球帽というものは既に完成された形であり、あとは色とデザインで勝負するしかないわけだが、智辨などの白いものを除いて大抵は黒か紺、それに校名イニシャルがあるだけで殆ど違わないからいっそマークの縫付サービス込みで高野連が独占販売すればよいと思う程の統一性を誇っており、そこに個性を見出すことは至難であるように見える。

 しかし子供の頃に野球帽を被っていたり、今でも草野球で被っていたり、野球をしなくともただ好きで被っていたりする人ならば、高校野球を見たら判るはずだ。個性の主張は鍔でする。

 高校野球の放送で最も長く映るのは当然投手であり、これは各打者を総合した時間と一人で張り合えるわけで、しかも打者ならヘルメットを被っているから益々見分けがつきにくいのだが、投手の帽子の鍔の形は各人各様の折り曲げ方で精一杯の個性を主張しているように見えるのだ。望ましいという言葉で短髪を強制された彼らが見出す唯一の突破口だ。

 本人の顔に合わせてごく自然な形に曲を描いた線の鍔を作ることは非常に難しいのだが、それでも前日必死に曲がり具合を調整したりするのだろう。単純でいて洗練された曲線を作れなかった場合、あるいは作る気がない場合、曲線ではなくて中央で屈折しているもの、鍔の端だけ極端に曲げているもの、トタン板の如く不自然なまでに左右対称で波打っているもの、そこまで曲げると走者が見えんのではないかと心配になる角度のもの、これらの個性の主張はどうだ。投手が必死な顔であればあるほど鍔の角度が気になってくる。

 中には晴舞台の甲子園の為に用意された新品の帽子そのままを使っている場合もある。新品だから鍔が真横に一直線なのであり、これはこれでまた不自然に見えてこめかみがちくちく痒くなる気がする。ある程度使い込まれた帽子の鍔が本人の頭にぴったり合っているならばよいのだが、新品の帽子の鍔を曲げているからどこか違和感があるのだ。

 そういうわけで高校野球のニュースなどを見ると、投手の名前や高校名を覚えられなくとも、その鍔の角度で見分けがつく。また鍔の形を採点したりするのも楽しいが、あまりに印象の強過ぎる形の鍔にしている選手の高校は何故か早々に敗退してしまうので、変な形の鍔を見たければ地方予選がお勧めということだ。


着火 04/05/10

 屋外で焚き火の為に火を熾す時、張り切る奴が居る。

 そういう奴はマッチかライタを用意して、まず捻った新聞紙に火を付け、小枝に移し、ようやく薪に火を移す。薪に火が付くと今度は組み方に拘る。何処で習ったのか知らないがそれは資源の無駄というものだ。

 手前のじいさんの田舎の風呂は薪を燃やして沸かす方式で、そこに従兄弟が集うと火を起こすのは子供の仕事と称する遊びであったが、確かに短時間で着火させるには最も合理的であるように見える。ただしそれは小枝や新聞紙などを無制限に使える場合に限る。

 本当のサバイバル技術としては、小枝を拾い集めるのは薪のついでとして可能でも、毎回紙という貴重な資源を使うことはしない。枯葉があるなら、また枯れた苔があるならそれを利用すればよいが、実は燃えにくい生木へ直接着火させる技があるのだ。これは殆ど燃やすものが無い場所で生木だけがある場合、また小枝を集めるのが面倒な場合、時間のない場合、少し格好付けてみたい場合、この技が有効だ。

 まず、屋外で火を熾す以上はキャンプだかアウトドアだかサバイバルの真っ最中と想定し、当然の如く刃物を携行していることを前提に、その刃物で生木の表面を薄く削るのだ。鰹節ほど削らなくともよいが、例えば鉋をかける時、力を入れ過ぎて刃が深い角度で進入してしまい、薄く削り取ることに失敗してくるくる丸まった屑が本体から生えている状態になることがあるだろう。「杮こけら」と呼ばれるものだ。何度も失敗すると幾つもくるくるが溜まってゆく。これを携行している刃物で意図的に再現する。

 あとはそのくるくるに火を付け、消えないようゆっくり角度を調整しながらくるくるから本体に燃え移すだけでよい。そこには小枝も捻った新聞紙も必要ない。大きい生木を一本だけ燃やすならばこの方法で充分だ。

 この一本を燃やしたなら他に薪を集める必要がないが重くて動かせないという木に着火する又は立ち木をそのまま燃やす際の技術に有効な手段なのだが、その技術は通常の焚き火でも通用するのであって、つまり捻った新聞紙とはお子さまの技術に過ぎない。いい大人が刃物を扱えず軍手を嵌めたまま火を熾そうして、マッチの次に軍手を燃やすことはお子さまを通り越して軽蔑に値するわけだ。


輪 04/06/15

 煙草の煙で輪を作る。

 漫画では当然のように「ふ」と言いつつ輪がぷかりと浮くのであるが、映画では見る機会が少ない。それでも煙草の煙で輪を作ることが出来るのは知られており、しかし具体的な方法を知る機会はあまりない。

 大学生の頃に運転免許を合宿教習で取得した。その同期生十人の内九人までが煙草を吸う面子であり、中の一人が煙の輪の作り方を知っており、実際にそれを目の前で見て、どうせ昨日までは見ず知らずの他人であったし免許を取ったらもう会うこともなかろうという了解の上で発生した三週間以上の修学旅行的騒ぎの体験のひとつに、「全員煙草の輪を作れるようになる」という目標があった。

 煙草の輪の作り方は彼によると五通りあるそうで、CD程の大きさの煙を「ぱっかん」と音を立てて作るのが最も派手で立派なものであり、しかしそのやり方は練習中であるとして誰も習得出来なかったが、小さい輪を連続で「ぽぽぽぽぽ」と出す方法は僅か数時間でほぼ全員覚えてしまった。

 小さい輪の作り方は三通りあって、簡単な順に「頬をとんとんと叩く」「顎をかっくんと閉じる」「舌で押し出す」「腹筋で押し出す」がある。煙草の煙の輪の原理は空気の流れを利用したものであると心得ておればよい。点火した煙草の先を上に向けてゆっくり上下に動かすと極小の輪が見える。これを口で作ればよいわけだ。

 煙草の煙の輪を作る時には、煙がある程度濃くなければならない。つまり一旦肺に入れてしまうと微粒子が肺組織に吸着して吐かれる煙は薄くなっている。つまり、肺に入れずふかすだけの喫い方で排出される煙が気持ち良く輪を作る為に必要で、しかしこれを繰り返していると常人でも確実にえづく。それでも一度こつを掴むと自転車の乗り方と同じで二度と忘れることはないから覚えておくのも悪くない。覚えておくと煙草を喫わない者でも冬の呼気で輪が作れる。

 さて、輪を作るには煙を吐かねばならないが、息を吐いてはならないのが難しいところだ。息は吐かずに煙だけを出す。口の中に煙が溜まっていがらっぽいのを我慢して唇を小指一本が辛うじて入る大きさの丸形に窄める。間抜けな顔になるが最初はこんなものだ。ここで一切の呼吸を止めて頬をとんとんと叩いてみると、口の中の煙が少しづつ押し出されて気流の作用で小さな輪が出る。煙のある限り連射可能で、慣れると十発は続けられる。

 これが出来たら次は口の中に溜めた煙を顎を使って押し出す。ここでは一層の間抜け面になるが、唇の形はそのままで下顎を下ろしてから「かっくん」と元に戻す。この時に口の中の容積が拡くなり、一瞬で縮むからその結果として煙が押し出され、唇の形がうまく窄まっていれば先程よりやや大きめでより濃い輪が出る。この方法では三発から四発程度発射可能だ。

 そして次は間抜け面からの卒業だ。唇の形と輪を作るためにその最中は息を吐いてはならないこと、煙が充満している口腔を急激に閉じることを心得ると、顔の外形は動かさずに舌で排出を調整して輪を作る。この先は舌も使わずに腹式呼吸の要領で「っ、っ、っ、っ」とすれば勢いはないがゆったりとした輪が続けざまに出る。

 しかしながら輪を作る場合、煙草がとにかく不味いのであって、いつも必ず輪を作っているのは格好付け過ぎの馬鹿である。なんとなくその場を持て余していることの表現としてここ一番で輪を発射出来るように練習しておけば、行き詰まった会話の糸口として活用出来る。ただし最近は禁煙が流行しているから相手を選ばねばならない。


雷 04/07/01

 雷は電気であり、その威力は洒落にならないものであることは周知されている。

 音速とは約340m毎秒だから、雷光から一秒でどかんと聞こえたら約340m先に落ちたと考えられる。つまり光と音の差が十五秒あれば5km先、十秒で3.4km先となる。とは言うものの音が聞こえている段階で既に近いのであって、数えて三秒以内ならば極めて近く、もし屋外に居たならば何らかの退避行動を取るべきである。雷への対処法をぼんやり知っているに過ぎないだけか殆ど知らない場合は、一年間の雷による死者約三十人枠の中に候補として残ることが許される。それが嫌なら知っておこうか。

高く尖った物は危険である。
小屋の軒下は危険である。
大樹の幹近くは危険である。
枝や葉からも最低2m以上離れよ。
長靴やゴム合羽のような絶縁体質で身体を覆うことは意味がない。
金属を身に付けていても落雷し易いわけではない。

 車の中は安全だ。車そのものが金属の塊であるが、万が一直撃してもアースから地中に流れるので心配ない。アースを引き摺っていない車については知らない。雷の発生が少ない地域で生産された輸入車が雷に対して免疫があるのかどうかも気になるが、車の下に潜り込むのは危険極まりない。なお日本では走行中の車に落雷した事例は報告されていないという。雷が直撃してガソリンに引火し爆発したらどうするのかという恐怖に耐えることが明日に繋がる。

 そして鉄筋の建物の中は安全であるということだ。雷がその建物に落ちても鉄筋を伝って地中に流れるので、建物の陰にいるより中の方が遥かに安全なのだ。その際、電気は物質の中よりも外側を伝い、これは「表皮効果」と呼ばれるのだが、この瞬間近くに居ると飛び電とは呼ばないが飛び火の感覚で撃たれる可能性がある。雷撃を受けた小屋や建物の軒下で雨宿りをしていたら痺れるから、建物の中に入る。また例えば山小屋で乾燥した床が地面から高いと少しだけ安心したくなる。床がなく土間である場合、ことに床が水で浸されている場合は危険であるからビールケースの上にでも乗っかって天気予報を確認しなかった己の迂闊さを呪っておればよい。

 拓けた場所ならばスルメの如く伏せる。また雷が近いならば雨も近かった筈で、傘を持っていたと仮定するならば、傘を少し離した地点に突刺して立て、即席の避雷針として作用することを祈る手段もある。ゴルフ場ならばクラブをやはり芝に突き立てて、クラブの高さより身体を低く保つことで僅かながら安全度が上昇するかもしれない。その際クラブに対して「君はこれまで勝手に池や砂場を狙ったりして常に私を苦しめてきた。真っ直ぐ飛んだ時に限ってチョロとはどういうわけか。たまには為になることをしたまえ。いいか。今の君は避雷針なのだ」と諄々言い聞かせることで復讐心から発生するささやかな満足を得ることが出来る。

 「臍を隠せ」は、単に腹を冷やすことのないようにとする説や、うつ伏せになって姿勢を低くすることで雷撃を逃れる為とする説がある。しかし臍を取られるという言葉が匂わせるのは、昔の人は出臍が多かったのだろうなという漠然とした想像である。


余裕 04/07/02

 「余裕」なる概念について。

 余裕とはつまり精神的乃至物理的緊張のないゆったりとした態度や状態のことであり、この「余裕」を身に付けることで危機を回避可能である。具体的な例として以下を想定されたい。

 まず便所に行きたいとする信号が下半身から漂っている。どうも練りウニが脱出を企てているらしい。しかし危急とまでは言えないようだ。少し集中すれば忘れたつもりが可能だから今しばらく様子を見てみようか。

 そしてやや焦り気味の信号が恐れながらと上申して来た場合、先程折角集中した何かをこの時点で投げ出すには惜しいと考え、限界まで粘ることを選択する。悪いが今よいところなのだ。あと少し待機していたまえ。

 ついに退引ならない事態である旨の信号が駆け登って来るに及び、渋々腰を上げ処理施設へ向かう。退引ならないが故にもう迷いはない。何しろ限界まで引き伸ばしたわけだから速やかなる処理が約束されている。処理待ちで血管が短線するような無為の時間を過ごすことのない合理的な選択結果であることに誇りを持ちつつ、処理施設の扉を開ける。慎み深い処理施設ならば、或いは少し設備の整った処理施設ならば、練りウニ産出用の個室へ続く扉がもうひとつある。

 そこで把手が鮮やかな真紅に染められていることに気付き、愕然とするわけだ。もう余裕がない!

 焦り気味の信号段階で選択を間違えていなければ、把手は無垢で純粋なまま居てくれたのに。最初の信号を素直に受け止めることが出来たなら、ここまで自分を追い詰めて苦しめることもなかったのに。つまり余裕とはゆとりある心、そして余裕があるならば仮に把手が真紅で彩られていようとも、別の処理施設への距離と時間を計算したり把手にかけられた魔法が解けるまで見守っていたりと寛大なる微笑みをもって対処することが出来るのだ。

 「余裕」なる概念とは、危機に際しての大切な武器であり、余裕があればこそ多数存在する危機を切り抜ける方法を検討展開することが可能なのだ。そして余裕のない場合に待ち受けているのは、追い詰められた末の暴発だ。


あっち向いてほい 04/07/14

 「あっち向いてほい」これにも多少の効果が認められる技術というものがある。

 まずじゃんけんで勝たねばならないのだが、じゃんけんの必勝法はここでは関係なく、じゃんけんに勝ち今まさに指先を上下左右のいずれかに飛ばして相手の顔が同一方向に捻られることを期待している状態と仮定する。

 ここで指先を胸の前や相手の顔から遠く離した場所に位置していれば、合致する確率が限りなく四分の一に近付いてしまう。何としてでも勝ちたい場合、相手の鼻先より更に上の眉間を指す。ただし近過ぎてはいけない。寄り目になっては効果がない。相手の目とこちらの指先を結んだ線の先に、こちらの顔を位置させる。判りやすく言うと、見つめ合った状態の互いの視線上に指先を持ってきて割り込ませるのだ。

 相手には指先を意識させながらも背景にこちらの顔を大きく存在させる。相手の眉間から指先までの実測距離は約二十センチほど、指先からこちら顔までは更に二十センチ、つまり顔と顔は五十センチくらいが適当かと思われる。近過ぎる場合は圧迫感から相手はフライング気味に勝手な方向を向いてしまうので、ほどほどの距離を保つ。

 さて上下左右の選択だが、一応どの方向でもよい。指した方向に相手の顔も向けばこちらの勝ちなのであり、相手に自分勝手な方向を選ばせずこちらの思うところへ誘導させればよい。しかし指先での誘導は「ずるい」と言われてしまう可能性があるし、相手が既に方向を選択してしまっている場合には誘導出来ない。だから指先ではなく、こちらの顔で誘導する。

 通常「あっち向いてほい」の時系列にあっては、「ほい」に合わせてこちらが上下左右を選択し、ほぼ同時に相手があらぬ方を向く。これが一秒以下の間に行われる。これでは正々堂々運と勘の勝負となる。しかし、僅かながらも勝率を上げる為に相手の顔をこちらの思うところへ誘導する場合、時系列はこうなる。上に向けると仮定しよう。

・「ほ」の段階でこちらの目線をさりげなく上へ向ける。
・「い」の段階でこちらの顔全体をさりげなく上へ向けながら、指で上を指す。
・相手はこちらの目線と顔と指先に釣られて上を向いてしまう。

 これをあからさまにやるとやはり「ずるい、汚い」と言われる可能性がある。従ってこちらの目線は相手の目から相手の頭のやや上あたり、顔は顎の位置が一センチずれる程度の小さくしかし毅然とした動き、指先は殆ど意識せずおまけ扱いだ。

 相手と目線を合わせている時に相手がふと目を逸らした場合、ついついそれを追い掛けてしまう習性を利用した反則すれすれの高等技術だ。ただし毎回行うと物言いが付くので一回勝負かそれに準ずる状況に限り、必殺技として活用することが望ましい。  また勝負を繰り返して展開が加速し、次第に熱くなってきた場合ならぱ連続で用いても物言いは発生し難い。これはつまりこちらが意図的に展開を加速させることで、相手に隙を与えないまま追い詰めこの必殺技を繰り返すことが可能であることを示している。  これを破る技は視点を何処にも合わさないことで可能となる。つまり相手の目も相手の顔も相手の指も一切見ずに、3D図を眺めるような茫洋とした視界を維持し、掛声の初期の段階でどこを向くか決めてしまうことだ。しかしそれでもやっと「運と勘の正々堂々勝負」になるだけであるから理不尽な話だ。
英雄 04/07/24

 英雄が存在するために必要な条件とは、その英雄を生む世界が不満で溢れて混沌で満たされ、自らの希望は捨て去って何者かの登場に全てを託すことしか許されない状態にあらねばならず、それはつまり歪な世界を意味する。

 誰も何ひとつ不満を抱かない世界など存在しないが、概ね満足している世界ならば英雄は必要とされない。混沌と絶望の中にあって縋るべき英雄を必要とするのだから、英雄が同時代に存在するならばその世界は悲しい。

 英雄が望まれて登場したか巧妙に創り上げられた幻かは関係なく、英雄を必要として英雄が存在する集団社会は慟哭に包まれた不幸せな状態にあることを自覚せず、英雄に憧れて英雄を崇拝して他力本願、現実から逃避している。

 危機に際して英雄を望むことは自然なことで、古い英雄譚のある世界は危機を乗り越えてきたことを意味する。しかし同時代に英雄を望むことは、すなわち無意識に抑圧された世界に棲んでいることを示しているのだ。そして実際に英雄が登場した時、その世界は混乱の極みに達して変革が起きる。

 海外で活躍する日本人が英雄とされるのは、日本人が海外で活躍することの困難さを示しているではないか。海外での活躍が当然になれば英雄たり得ない。英雄を望むことを恥として、英雄を必要としない世界環境を構築することが理想なのだ。


糞爆 04/07/28

 鳩の糞を浴びる人とは注意力が散漫なだけだ。

 よくよく考えてみたまえ。鳩に限らず鳥は電線に並んでいる。あれだけいたら中には握力が緩いとかつい油断したとかでひっくり返ってもおかしくないと思うが、ああやって一列に並んでいる直下には糞も一列に並んでいる。その糞を避けて歩くことが出来るならば確率は減少する。

 またお行儀の悪いことに飛びながら糞を垂らしてゆく奴もいて、体重を少しでも軽くしたいとの説もあるが、あの量ではさほどの効果があるとも思えず、伝書鳩や発信機を背負わされた者達に対して失礼な話なのだが、彼らが空中で糞をするのは冷たい風に当たり過ぎて腹が冷えただけであろう。

 昔、糞を垂らしてから飛び立った鳩を見たことがある。あれはどう考えても単に飛び立つ為のきっかけとして気張った間合いであった。糞が出るまで待ってから飛び立ったのか、糞が出たから思わず飛び立ったのか定かではないが、今思うとあの時の光景は「発つ鳥後を濁さず」の言葉を真っ向から否定している。

 鳥が羽ばたく際には、ばさばさと翼の音が聞こえるもので、つと見て姿を確認するだけで飛び行く方向が知れるから、糞爆を喰わない為に漫然と道を歩いていてはならず、何処に如何なる危険があるかを常に想定して行動することが幸せに繋がる。

 いつも車に糞を落とされると嘆くのは、車を止めた辺りの地面に糞の華が咲いていることに気付かないからだ。それを見落として一面の糞を覆い隠すように車を止めておいて、それで糞爆を喰らってやっと見上げると、鳩が留まるのに丁度よい電線が車の真上で揺れているわけだ。気付くのが遅過ぎる。

 自転車のサドルど真中に糞爆を受けた経験があり、嫌がらせとしか思えないほど見事に中心を直撃していて、その時見上げた先の電線を見て学んだことだ。


あるがまま 04/07/31

 「あるがままを見る」の言葉に騙されるな。

 そこに酒があったとして、「酒がある」と薄く考えるのはあるがままではない。銘柄やグラスの形という見えるところを見るだけでは駄目なのだ。誰が注いだか、それは友好的な人物か敵対的な人物か、怪しい薬が投入されている可能性はどうかなどの背景を含めて包括的に受け入れるのが「あるがまま」であり、限定した情報だけを見て「あるがまま」などと嘯いているのは間抜けも極まる。

 悪意ある仕掛けや罠など全てを含めて見ることが出来ない者の使う言訳に「深読みをせずあるがままに」がある。この場合の「あるがまま」の意味は「可能性を排除して一面だけの狭い視野で受け取る」という意味であり、美人局や結婚詐欺に引っ掛かっても同情する余地はない。相手の迷彩をそのまま迷彩と受け取ることが「あるがままに」の本意であり、迷彩をそのまま信じると破滅への道が口を開けている。

 ニュースをそのまま受け取る馬鹿はもういないだろう?その報道に至る過程と、報道する目的と、報道の影響を含めた全てを受け止めることが「あるがままに」ということだ。嘘をついている相手の言葉を「あるがままに」受け入れてしまうより、「嘘として発言していること」をあるがままに受け入れることが重要なのだ。あるがままに見て騙絵の壁に激突しても誰一人手助けしてはくれずに憐憫の笑みが送られてくるだけ、騙絵はそのまま騙絵だと理解しなければならない。


心労 04/08/08

 ストレスとは心労と当てられることが多く、それに格別な異議はない。

 ただし、ストレスを解消するべく何か憂さ晴らしをする時、その憂さ晴らしが上手くいかなければ解消どころか押し潰される可能性がある。単純にバッティングセンターに行ったとしても、空振りばかりでは単純である故の苛立たしさが更なる心労を呼び起こす。

 心労を確実に瓦解させる為の手段を持ち合わせているのは己をよく知った者であるが、自らを知らない者は不適切な行為に救いを求め、そして心労が加重されてゆく。米国前大統領流の不適切な行為の場合、悲しい贈物を受け取って泌尿器科へ通いつつ咽び泣く事例もあるので避ける方が賢明であるし、相手によっては精神的な打撃を蒙る可能性もある。積木を勢いよく蹴り飛ばせばすっきりする人が、積木をなかなか積めずにいる状況と似ている。

 最も誠意のない助言として「忘れろ」という台詞がある。しかしこれは「忘れられない事柄だから心労になっている」ことに思いを致さない者の無責任であり、「俺だって昔似たような云々」と喋りだすわけであって、これはつまり昔譚をしたいが故の触媒として利用された心労者の苦痛は計り知れないものがある。

 心労の種類にも因るのだが解消の手段として「思い通りにならないもの」を選ぶべきではない。例えばゴルフ、例えば麻雀、心労が更に蓄積されるだけである。比較的単純でかつ制御可能な行為を選択すべきであり、また後片付けが疲労を呼ぶ行為も避けたい。障子紙をかち破りたくとも張り替える手間を考えると気が重い。火を見たら落ち着くと抜かして放火する奴も中には居るが、あれは何故か灰皿の中では満足しないらしく、傍迷惑な事この上ない。新聞を勢いよく引き裂く行為は大袈裟な身振りに加えて派手な音が嬉しいのだが、横に裂こうとすれば思い通りの破れ方にはならず苛々は募り、縦に裂く場合は余りにも真っ直ぐ裂けてしまうので拍子が抜ける。基本的には雑巾を絞る要領で新聞をひたすら捻り込み続けることで、やがて疲れ、終いには空しさが襲ってきて「馬鹿馬鹿しいから止めよう。何か生産的なことをしよう」と解消される場合が多い。

 それならば最初から生産的なことをすればよいと思いたくなるが、残念なことに心労を抱えていては生産も糞も関係なく、逃場を失った鬱憤が生産的行為にぶつけられるだけである。門をひとつだけ開けておけ。逃場を作っておくと御し易いものだ。


鏡 04/08/10

 己の正しい姿を正確に把握しているならば、歪んで見える己の姿を見ても動揺する事がなく鏡が歪んでいると冷静に判断出来るが、かつて己の姿を直視した経験を持たない者なら歪んだ姿を己の実像として受け入れるか、歪んでいる事に気が付かない。

 鏡が歪んでいるのだと即座に理解出来るなら態勢を崩すことはなく迷うこともない。

 歪んだ姿を己の実像と信じている者が歪んでいない正しい姿を見せつけられたとき、俄かに信ずる事は出来ずに正しい姿を否定してしまうのみならず、正しく映す鏡を受け入れずに攻撃し、破壊さえすることもある。

 歪んだ鏡を歪んでいると認知して対処出来るならそれに越したことはないが、問題は鏡が一見鏡であると気付かない場合だ。映りの良さに鏡とは信じられない場合、または鏡ではないと見えるもの、鏡ではないと偽りの前提を付されたもの、それらに映るものを正しい姿であるのか歪んだ姿であるのか、歪んでいるならばそれは鏡なのか映っているものなのかを正しく見極めることは難しい。

 貴方にとっての鏡とは何なのか。その鏡は自ら手に入れたものなのか。仮に渡された鏡であったなら中に映る自らの姿は歪んでいないか。

 鏡を通してしか見る事が出来ないのなら、せめて正しく映る鏡を選びたいと願うことが間違っていると思うかい?


譲 04/08/13

 席を譲られたなら速やかに座りたまえ。

 バスは嫌いだからあまり乗らないのだが、電車は割に活用する。根拠のない大荷物を抱えた傍若無人な中年を見ても何とも思わないが、妊婦や子供連れには出来得る限り席を譲るようにしている。通常混雑していなければ容赦なく座席の端に座るのだが、大抵は無理して座らず昇降口近辺に凭れ掛かって何かを読んでいるのであって、つまり座っている時はほぼ必ず座席の端に居る。

 昇降口のすぐ横であるから何処かの駅で新しく乗ってきた人が乳母車でも押していたならば、譲ったと思わせないよう立ち上がり何処かへ移動するのであって、しかしある程度込んでいる場合は移動叶わずその辺りに所在無く立ちつつ「まあ座れや」の意味で軽く頷いてみせると、何度か会釈しながらなかなか座ろうとしない。

 座れ。ええからはよ座れや。席を譲られた際には速やかに座ることが譲った者に対する最高の返礼なのだから、照れか遠慮か周囲への困惑か知らないが座ろうとせずに立ったままでいられてはこちらが当惑するのであり、譲り甲斐のなさを身に染みさせられると以降譲ろうとする気持ちが萎むのだ。

 譲られて当然といった風情でどかりと座られても困るのだが、今のところ平均的日本人にそのような馬鹿のいないことは喜ばしい。喜ばしいが過剰な遠慮は譲る側も譲られる側も見ている側もそれぞれ靄々とした感情が鬱積するのだから、他意のない素朴な厚意を気兼ねすることなく受け取りなさい。そして別の機会に別の誰かに素朴な厚意を返せばよいだけの話だ。厚意の鎖を喰い止めるなど人として許されないことだよ。

 腹を一時的に大きくしている女性の場合、そのあたりの呼吸は馴れたもので「譲る者起立して会釈、譲られる者会釈して着席」の洗練された一連の美しい流れが構成される。これを一度でも目にしたことがあるならば、是非思い出して譲った者に対する礼儀として速やかに座りなさい。目の前にきた老人が杖を持っていたならば逃げるように立つが、杖を持たない老人が目の前にいた場合譲らないのであって、その理由は「健康なら長生き出来るだろうから」と長寿を祈る優しさを持っているからだ。


収め 04/08/16

 剣を抜いたならば、斬り倒すか、あるいは如何にして鞘に収めるかの選択を迫られる。

 最初からお互いを理解し合うなど無理であるとする考え方は王朝や政権がめまぐるしく入れ替わり、その度に新たな統治者そして異民族との接触の中で生み出された西洋ほかほぼ世界共通のものだ。この場合は剣を抜いても常に収め方を見据えている。争いの最中に争いの後の事を考えている。その為に剣をすぐ抜き払うような好戦的性質がありながらも、剣を抜くことはあくまでも段階の中盤であり、終盤とは争いの後の位置取りを指している。

 一方最初に理解があり序々に溝が拡がるような家族的性質を持つ共同体の場合、剣を抜くことは最終手段であり、抜かない為の最大の努力をした上でのことだから鞘に収めることを受容し難く、修復は難しくなる。また抜いた以上は躊躇するなと考えたくなるのだが、それは倒すか倒されるかの極限状況にある。剣を如何にして収めるか、収めた後をどうすべきか、それを考えた上で目途がつくなら遠慮なく抜いてもよかろうが、互いが互いを追い詰めて挙句に抜き合うと視野狭窄に陥り、後に残るのは深い後悔と喪失感だ。

 それぞれの長所を活かして、剣を抜かないよう最大限の努力をし、それでも抜かざるを得ない時には、剣の収め方と収めた後の展開を想定することが、どちらの文化にも対応出来る上に壊すものが最小限で済むのだ。

 囚人のジレンマ、カウンター原則、迂闊に剣を抜く前に、その剣を如何にして収めるか、相手が抜いた剣を何処へ振り下ろさせればよいのか、常に一歩先を進むことで展開をある程度把握して操縦することが可能になる。


柔軟 04/08/18

 「柔軟さ」と「その場凌ぎ」を混同してはならない。

 ただし大変よく似ているから注意が必要だ。長期的展望があり、その目的に沿った軌道修正ならばよいのだが、眼前の急場を凌ぐ為にだけ筋を曲げてしまうと後々辻褄を合わせるべく無意味な苦労を強いられる。何が一番大切なのかを心得た上で対処する必要がある。

 柔軟さとは、形にとらわれずに本質を掴んだままでそこにある状況に相応しい行動をとる判断を言う。対してその場凌ぎとは、本質を一旦棚に上げ余計な事に首を突っ込んでみたり、首を突っ込むべきところでそっぽを向いていたり、状況に左右されている状態だ。

 柔軟さは一見状況に左右されているようであるが、実は刻々と変化する状況に対して的確に対応しているのであって、変化する状況に右往左往するだけのその場凌ぎとは思想が根本的に違っている。当初の目的を念頭に置いてあるかどうか、ある状況で仮に目的を変更することが柔軟さであるとすれば、その状況下で目的に固執したまま手遅れになってから目的を変更すべきであると気付くことがその場凌ぎであると解釈される。適切な行動をとるべき時に何もしなかったことは硬直化を指し示しており、硬直とその場凌ぎは相反するように思えるが、客観的に見て間違いであると判断された意思に基づく行動と考えれば矛盾しない。

 「一体何がしたいのか」と自分に問い掛けたくなる状況に於いて、その状況を今支配している変数ではなく最も大きな目的を見失わないよう心掛けることを肝に銘じ、そしてその目的に添う最も適切な行動を選択肢の中から採用する勇気を持つ為には常に冷静であるべきで、冷静さを失った時、柔軟さも同時に失われる。

 実践することは非常に困難であるが、柔軟な対応であるのかその場凌ぎであるのか判然としない場合は、「一体何がしたいのか」ではなくて「今最も大切な目的は何か」と自らに問い掛けるのだ。


循環論法 04/08/30

 循環論法とは次の如きものだ。

「何故彼は太っているのか」
「よく喰うからだ」
「何故よく喰うのだろう」
「太っているからだ」

 つまり原因と結果を強引に入れ替えても成立する場合に循環するわけで、これは切り返しの基本である。

「何故金がないのだろう」
「浪費するからだ」
「何故浪費するのだろう」
「金がないからだ」

 この場合は成立しない。原因と結果が違う方向を向いているから構成が狂うのであって、しかしこれでも少し廻り込めば成立しないこともない。

「何故金がないのだろう」
「浪費するからだ」
「何故浪費するのだろう」
「金があるからだ」
「何故金があるのだろう」
「浪費しないからだ」
「何故浪費しないのだろう」
「金がないからだ」

 少しややこしいが、この型を踏めばこれまで偶然に出たり無意識に出ていた循環を意識して展開することが可能となる。

「何故循環するのだろう」
「不毛だからだ」
「何故不毛なのだろう」
「循環するからだ」

 あとは言葉を飾り付けここ一番で出せばよいが、多用は禁物だ。


修理 04/08/31

 電化製品の修理代は何故高いのか。新品を買った方が安いではないか。 

 修理代が高いのではなくて新品が安過ぎるだけであり、つまりそれは疑問が間違えているのだ。大量生産が可能になり単価が下がり、機械化が進むと人件費は抑えられる。その為の投資額が小さいわけではないが、小さくないが故に全力で稼動させたくなるのは人情であり、そして大量に生産されると単価が下がる。その工場さえも人件費の安い国で設立していれば、新品を製造する為の費用が随分安くなる。

 一方壊れた製品を修理に出す場合、まず部品の調達費用が大量でないから格段に跳ね上がる。そして修理する技術に対する費用つまり修理人の人件費が嵩む。しかしこれは嵩むのではなく、正確にはその修理する国の人件費の相場が反映されているのであって、これを基準に考えなければならない。すると新品の価格はその価値と相場に比して著しく安いことが導かれる。

 修理代が高過ぎるのではなくて新品が安過ぎるだけなのだ。当然安いに越したことはないが、その安さを基準にするから無用な不満が噴き出す。心得ておくべきは基準を何処に置くかであって、欲とは尽きないものだからこそ、崩れない姿勢を保つ為には何が大切であるかを常に考え続けることが己を律する精神を生む。

 修理代が高いと文句を言うならば、その製品が製造された国で修理に出してみたまえ。修理代だけならば新品の価格に相応した納得ゆく値段になるだろう。


枠 04/09/01

 ある新しい何かが分類に窮する場合、それまでの概念の枠に収まらないか枠線上にあるか枠を越えたところにあると考えられる。

 それは全く新しい概念であったり発明であったりするが、正しく評価されることは稀であって大抵は既成の枠内に無理矢理嵌めらた上で見当違いの印象が重ねられて埋没してしまう。後に再発見として俎上に上がるならまだよい方で、先駆者の黙殺は今に始まったことではない。

 枠に収まらない場合は枠を突き破って幾つもの概念を並立させる力を持つものであり、枠の構成を組み替えさせる可能性もある。枠線上にある場合は融合と評されればよい方で、精々一方を核として一方がおまけ扱いとなる。枠線上にあるべく望んだにもかかわらず枠を少し動かして強引に収めてしまう。枠より外にあるらしきものに対しては黙殺するかせせら笑うのが当然の反応だ。枠を越えたところにあることを認めるのはそれまで存在した枠の否定を意味するからだ。

 新しい枠を作る効果を持っていようがいまいが既成の枠に収まらないものは攻撃排除される。それが真に力を持つならば転回が起こるが、それに要する期間の騒ぎは振り返ると馬鹿馬鹿しく思える。しかし情勢の違う時代の出来事を今ある尺度で測ることは戒めるべきだから、良否の判断ではなくてそれが齎した効果や変化を冷静に分析するべきである。それを繰り返してゆけばいつか分類に窮する物事に直面した場合、「これは枠を越えたものだ」と判断可能になるかもしれない。


生卵 04/09/09

 コロンブスが立てたことになっている生卵は元来ブルネレスキの逸話だが、あの場合卵の尻を少し潰して無理矢理に立たせている。

 当然凹凸のない平面状に純粋な生卵を尖った先を真上に向けて、尻を割らずに立てる方法がある。

 バーテンダはシェイカ振りの練習をする時、シェイカの中に角張った氷をひとつ放り込み、かちかちかちかち振り、見事な球体の氷で出てくることを目標にする。全てのバーテンダが出来るわけではないし、必須条件でもないからその気がなければ「そのような練習方法もある」程度の認識だ。しかしシェイカの中に角張った氷を入れて、振るだけで角を落として綺麗な球体にする為には、肘を柔らかく手首の捻りを効かせて程々の力で振らなければならない。強く振ると割れてしまうし弱ければ角が取れても球体にはならない。

 そして上手く球体になるような振り方とは、シェイカの中が絶妙の力で掻き廻されている振り方なのであり、すなわちカクテルを造る際の力加減や手首の返し具合の練習となる。しかしながら個人でシェイカを所持していて練習するにしても、氷塊をかちかちかち鳴らすのは非常に喧しい。騒音など気にする必要のない環境にあるならば心ゆくまで手首を傷めておればよいが、集合住宅などで練習するには具合が悪いのだ。

シェイカを持つ基本的な手の形は右手親指と人差指で蓋を抑えて中指薬指小指は本体に沿わせる形、つまりコップなどを鷲掴みにしたところから右手を上にずらして人差指と親指だけで蓋をする気分のような構図で、左手は掌を上に向けて中指を中心に底にあてがい、左手親指だけは右手親指に接近させる。この形で中身がよみ混ざるような振り方を練習するわけだが、中に氷を入れたシェイカでは喧しいし、何も入れなければ練習にはならない。

 そこで生卵の登場となる。シェイカそのものは一旦脇に置かれて、生卵を包み込むように持つ。無理矢理シェイカのような持ち方を強行しても稲荷寿司を握る形にしかならないわけだが、生卵を振ることで手首の返し方を静謐なまま練習可能だ。

 そして、氷の場合は球体になればよいわけだが、生卵の場合の上手く混ざるような振り方かどうかの判別方法とは「立つかどうか」になる。割る必要などなくて、生卵を上手く振ると、比重の悪戯で白身だけが掻き廻されて、尖った先を上に向けて立てた際に卵の底に黄身が沈む。すると安定して立ってしまうのだ。

 尖った先を下にしても当然立つので面白い。暇があって手首の頑丈な方は挑戦してみるとよい。


宿敵 04/09/18

 仮想敵を設定すれば内部の争いはひとまず棚上げされる。

 この構造を集団から個人の規模にまで縮小してみると面白い。仮想敵とはつまり宿敵のことであるから、宿敵を設定したならば自らの闘志や不安心・恐怖心その他雑念を糾合して最大限の力を発揮し易くなる。

 しかしながら仮想敵を設定した場合の致命的な欠点とは、仮想敵が消えた場合に於ける目標の喪失であり、これを個人規模に適用すれば宿敵の喪失がそのまま目標の喪失に繋がる。自らの力を効果的に発揮させる為の方法として宿敵を設定することは人類の長い経験則で知られているから今も尚有効であるが、自らの存在理由を宿敵に依存させる事が真の力であると言えるだろうか。

 「ライバルは自分だ」というありきたりで陳腐極まる台詞があって、しかしこれは上の構造から考えると核心を突いているように思える。外部に仮想敵を設定せず、内政に意を尽くした末に御忍びの民情視察で「偉いさんなんて必要ない」の言葉を聞き、平和に安堵する政治を考えるならば、自らの中にある様々な課題や難題を統合しようと尽くすことが真の力、新の強さに辿り着く道ではないか。

 仮想敵の消滅後に生ずる集団の迷走に比し、宿敵の消滅後には個人もまた暫し迷走や暴走を始める。新たな目標を設定すればそれで済む事でもあるが、その目標を達成したらまた喪失感に襲われて、また目標を設定して、繰り返される輪行は単なるその場凌ぎであることを否定出来るのか。それで得た力が真の強さと断言してよいのか。

 自らの内に強さを求めるのは茨の道であることが知れていて、それでも尚苦難と連れ立ち歩み続けた末に到達する境地には限りない地平が拡がっているだろう。そこに立てば何人をも寄せ付けることのない圧倒的な存在となり得ることだろう。打ち倒し治めるべきが宿敵ではなく自らであることに思いを致せば、「ライバルは自分」の言葉を新たなる角度から見ることが出来るに違いない。


権限 04/09/21

 政府が拡張する業務を全て抱え込み、小回りが利かず無能で非効率的であることを非難するならば、君もまた仕事を全て一人で抱え込むことを止め、任せて大丈夫な範囲は権限を委譲すべきである。分権化を持論としていながら自らに権限を集中させているならば、望みの薄い分権が達成されたと仮定した際に起こる状況の好ましい変化に応じて成長することが出来るだろうか。

 分権化の目的が権限委譲先の活性化と中央の行動力が鋭くなることにあると見通しているのなら、君もまた権限を委譲すれば部下の活性化と自らの行動力を拡げることに繋がるではないか。今の君の行動力は会社を動かす為にのみ使われている。権限を委譲して後に発生する君の行動力を会社の成長の為に投入すれば、君が中央に求める注文の収穫と同様の効果が生じると思わないか。

 権限委譲によって発生する危険は自らが状況を統制出来なくなる事態に直面する可能性であるが、非常時に於ける指揮系統を確立しておくことで回避出来るし、何よりも能力ある部下がその力を発揮するならば統制する必要もなく乗り越えてゆくだろう。その為には「他人の能力を引き出す能力」が必要とされるが、これこそ上に立つ者に要求される資質ではないか。

 君が動くことで円滑に事が運ぶのは状況が君を超えていないからだ。君の器を超えた状況に直面した際に如何なる手段を以って対応するつもりなのか。この先は状況の回転が益々速まる。その中にあって流されないことは難しく、手段としての流され方が問われることになる。日々変質する社会にはまだ遠いが、少なくとも月単位での変化に対応するべく望まれるのは、柔軟な対応力と抜群の行動力であり、今行使している君の対応力と行動力は変化のない土台の上で起こる状況に向けられているに過ぎず、土台そのものが変化する時代にあっては展望の観測をする余裕がないだろう。

 小さな政府がより強靭な指導力を発揮して全体の発展を促すと述べるならば、その構図を君自身にも投射してみるべきなのだ。


基準 04/09/27

 基準とする軸を決定すると比較が楽になるのは視野が狭くなる代わりに簡便であるから多用される。

 ウィスキィはストレートで飲む主義だから、ストレートで試してみて口に合うかどうかを確認するわけであって、薄めると香りが強くなるからと利くだけ薄めても意味がない。普段から水割りしか飲まない者ならばどの銘柄でも水割りで試すのが当然の話であり、ストレートで飲む者が常にストレートで試すことに何の不審があるというのか。元々薄めることを前提に混合されたカラメルウィスキィは最初から数に入っていない。薄めることを前提にしてあるからストレートで飲む場合えぐ味が率直に表現されるから一度で懲りる。

 小学生の頃は食堂などで品書から何かを選ばねばならない時に、選ぶのが面倒で何処へ行っても必ず親子丼を頼んでいた。しまいには親の方が親子丼のありそうな店を選ぶほどになり、親子丼の味が全ての基準となっていた。

 今では親子丼傾向は完全に消えているが、代わりに手羽先傾向が残っている。カクテルならばブラディメアリ傾向で、骨煎餅は滅多になくて悔しいのだが、その基準だけを目安に全体の評価を下してしまう悪癖を持ち合わせているから始末に困る。

 海外旅行で国の比較をする際に、基準を風景・物価・人情・酒・女のどれに置こうがひとつの筋を通したら比べることが出来る。それはその国に対して余りにも一面的な情報に限定されてしまう反面、様々な国の一面を寄せ集めることになるわけであって、面が集合すれば多面体となり評価対象と基準の逆転に繋がり、そこで視野が入れ替わる。

 分野が違うものを比べても仕方がないことを弁えた上で、無意味な比較を行うならばよいのだが、弁えずか意図的に無視して行われる比較を相手にしてはいられない。そして比較が出来ないならば、それぞれの美点を見出すことに力を注げばよい。それが難しいから基準を決めて比較したくなるのだが、そのあたりは如何ともしようがない。


迷惑 04/10/11

 「ゲイ&ナチスの組織」という構造があり、これはゲイの中のナチス集団・ナチスの中のゲイ集団を指し、「ゲイにとってもナチスにとっても共に迷惑な存在」という意である。

 これは社会通念上元より共に迷惑であると考えられている存在を合同させたもので、傍から見ればお笑いなのだがそれぞれには深刻な風評被害が発生する。これが笑い話で済むうちはよいのだが、今でも政治的に通用している技術であり、一部を突出させるのではなく一括りにして両方纏めて潰してしまうことが多い。「冤罪被害者が集う会合」と「左翼」を等号で括れば前者の印象は格段に悪化する。思いもよらぬところを結べばよいが、簡単なのは忌み嫌われている集団を合同させることだ。

 「酒乱&賭博狂協会」とあれば酒乱にとっても賭博狂にとっても迷惑な存在となる理屈であるが、残念ながら酒乱と賭博狂は多くの場合裂き難く結びついているもので、格別の迷惑感はなく、また迷惑をかける存在があったとしても、このふたつの属性を維持したまま長生きは出来ないから「酒乱&賭博狂協会」はそもそも成立しない。

 「レズ&フェミニスト組織」の場合はなかなか迷惑に見えるようだ。このことから双方が互いの印象を授与されることを嫌う前提が必要であることが判る。共闘の為の接着剤とはなり得ず両方からの激しい攻撃が予想されるわけで、「レズにとってもフェミニストにとっても共に迷惑な存在」が成立する。

 宗教を絡めると実に多彩な遊びが可能となるのだが、安易な揶揄は身辺に危険が及ぶのでこれは封印しよう。


焦点 04/10/13

 例えば真暗な部屋の中、何かの電子機器に表示されている時計が視力及ばず朧けていたとする。

 そこに光っているのは現在時刻でありながら遠くて霞み読み取れない状態から、如何に集中しても目を細めても焦点は決して合わない。目尻を吊れば焦点は合うが、それはあくまでも非常手段であって、ただ凝視しているところから不自然な動作を加えずに焦点を合わせて読み取る術はあるか。

 一度部屋を暗くして時計表示がただの光になる場所に立つとしよう。その場で顔を歪めても睨み付けても光のまま、時計である筈の光を中心に焦点を合わせるべく必死になってみてもどうにもならない。そこでふと力を抜き、力み過ぎて滲みかけた眼を休めるべく少し視点をずらす。それは時計である筈の光から数センチ右或いは左を軽く眺める感じだ。光に合わせた焦点のまま僅かばかり横に眼を逸らせば、不思議なことに光ではなく表示された数字がはっきりと読み取れる。

 見えたと思った直後にその数字に再び焦点を合わせるとまた朧けてしまうのであり、数字を鮮明なまま維持するならば数字を眺めたい誘惑を振り払って周辺だけに焦点を合わせたまま本来の目的である数字は横目気分で見る必要がある。

 対象を鮮明に見る為に対象そのものを凝視するよりも、対象の周辺を凝視することで浮かび上がる中心に焦点が合わさるという現象は、ひとつの見立てが成立することを示している。すなわち「見極めたい物を凝視するのではなくて周辺を眺めて自然に浮かび上がってくる対象を冷静に見る」行為のことで、それは核心を衝かず周辺を積み重ねて対象を炙り出すノンフィクションの手法に通じる。

 これは考えてみれば夜空の星を探す際に知る極意でもあり、見ようとすればするほど見失い、諦めて余所見をすればふと見える瞬間があるわけで、あらゆる物事に適用させることが出来たならば新しい物が見え、より視野が啓けることだろう。


零 04/10/15

 人生の幸不幸は差し引き零になるという言葉は生きている者の言葉であって、理不尽に命を奪われた者からすれば零である筈がない。これは幸なる者から不幸なる者に対する憐憫の慰諭であり、無念のうちに命を落とした者に対する思慮が欠けている。

 もとより幸不幸の目安など人により伸縮自在であるから、全く当てにならないことが明白である反面、伸縮自在であるからこそ差し引きを零にしようとして、出来ないこともないからこの手の言説が蔓延る。生まれてすぐに死んでしまった乳児に対して「生まれたこと自体が幸せである」などとする考え方には反吐が出るし、その親への言及を避ける事はまだ先に幸が待つ可能性を考慮すると言えば聞こえはよいが、単なる都合主義とする判断に応ずる言葉にしては粗末なものだ。

 もしゼロサムであると仮定するならば、幸の最中に迫る不幸に怯えねばならず、それは不幸の最中に幸を待つことで確かに釣り合いは取れているようにも見えるが、必ず来る不幸の待つ幸が真の幸であると言えるのか。また不幸の中に持つ幸への憧れは希望にも思えるが実はただの逃避でしかない。

 無責任な慰撫も時には効果があるだろう。しかしそれが現状を是認する為の惑乱として作用するならば害と呼ぶ。幸を求める心が成長と経験を加重させることは紛れもない事実であるが、不幸と正対して不幸であると認識する視点を持つことで次の階段に足を架けることが出来る。足を掛けようともせずに幸が降って来ることはなく、足を掛けようとしない者に対する差し引き零になるからとの言葉は意欲を削ぐことになる可能性を含めて安易に用いられるべきではない。 


多数決 04/10/29

 「最大多数の意見を採用しない」この決議を多数決に求めればどうなるか。

 無論採択される時点では最大多数の意見が採用されるわけだから、これを適用しない。「そんな馬鹿なことが多数派になる筈がない」とする考えはこの際封印しよう。「有り得ないことである」と向き合わないことは、矛盾という言葉からも逃げていることになる。

 最大多数の意見を採用しない理由は全体主義の拒否とでもしておいて、最大多数の意見を採用しないことが決まったと仮定しよう。すると多数決が効果を持たなくなるので他の手段による意思確認が必要となる。しかし仮に他の手段を確立してもその意見が最大多数ではないことを確認せねばならず、効果を持たない筈の多数決がなくてはならない存在であることに気付く。

 他の手段とは言っても意見を表明して検討する場合、完全なる独裁や暴走を除き必ず多数決の形になっているもので、「他の手段」を見つけるのは容易なことではない。「他人と同じ意見の禁止」の条件を付したならば意見の数は人数分存在し、全てが少数ながら全てが最大数となってしまう。そしてどの意見を採用するかの議論の過程で序々に多数決の形が現れ始める。最大多数の意見を捨てる為には多数決をしなければならない以上、他の手段を求めることは無意味となるので、手段としての多数決は維持される。

 では「多数決の放棄」を議決した場合はどうなるのか。選択肢は独裁か混沌の両極しかない。多数決とは中庸凡々たる妥協主義であることが判る。多数決の結果に不満が渦巻くことは妥協に対する不満と考えられる。一切の不満がない全員一致の議決は無効とする規則で行われていた投票が遥か昔にどこかの国で存在したが、これもまた全体主義の拒否を意味している。不満・対案は常にあるべきだ。

 日々の決議に面した際、常に第二の意見が採用された展開を想定することを繰り返すうちに物事の展開力、想像力が養われる。積み重ねてゆけばやがて状況の適切な判断力が身に付くだろう。


評 04/11/01

 あらゆる芸術に於いて、本質的にそれまでの価値観から脱却することが出来た場合に限り、後世で評価される。

 芸術とは本質的に価値観からの脱却を求めて苦闘してきた歴史を内包しているが故に、一般論をもって芸術を語るなど笑止の極みだ。

 誰でも簡単に理解出来るものならばそれは斬新ではない。誰にも理解出来ないものならばそれは芸術かもしれないが評価はされない。歴史に残りたいと欲するならば一般論では包めないものを創り出す必要がある。

 仮にそれが成功した場合、批評する側もまたそれまでの価値観から脱却した見解を述べる必要がある。でなければ正しい評価を下していることにはならないからだ。新しいものに対しては新しい考え方が要求されるわけで、これを意識しているかどうかが批評家の生命線となる。

 それまでの価値観や過去の遺物を引き合いに出した上で新しい地平を切り開く批評をせず、ただ理解の及ばないものに対する怯えから無闇な攻撃をして害を撒き散らすような馬鹿は相手にしなければよいだけなのだが、厄介な事に「簡単に理解出来る攻撃」であればあるほど支持を得易い。

 難解な文章で韜晦したつもりの場合は相手にされない場合も多く、それは良識の作用ではなく遠巻きに眺めているだけの誤魔化しである。失敗しても反応がないから安全策として多用されがちだ。

 「正しい批評はどうあるべきか」という問に正答はない。批評は物事の後に提出されるものであり、それは不変の立場であってはならない。価値観が変わり、対象が変わり、全てが流動する中で対象の持つ価値観との距離や角度を適切に示した上で展開されることが望ましいのだ。


血液型 04/11/13

 外見が余りにも似ている場合、内面で差別したくなる。

 血液型で性格を診断するあたり、人種的見分けのつかない日本に於いて開花したのも無理はない。これが遠く遺伝子級の差別に繋がるなどと騒ぐつもりはないし、積極的に肯定するわけでもない。

 ただし無視出来ない要因がある。これまでずっと血液型による性格分類を繰り返し刷り込まれてきたから、長い時間をかけて各自の血液型に沿った性格が序々に形成されてゆき、そこから更に性格分類を引き出すから血液型診断の循環が完成する。これは少なくとも血液型分類による性格の偏向が完全に出鱈目と言い切れない程に根付いている信仰のの産物であり、占いと結合しているから始末に終えない。

 それは余りに長い間繰り返された洗脳であり、各々の血液型を確認した上で性格を断定することを日々実行しているならば効果がないとは言い切れない。この循環を断ち切る為の方法として血液型を偽る他に有効な手段が見出せないから難しい。くだらない妄言だから無視しておればよいのにいつしか洗脳されて、時折持ち上がる血液型性向問題に直面するのだ。馬鹿もいい加減しろ。

 手前は自らの血液型を知らないからこそ冷静に眺めることが出来ると信じているが、それでも「お前はB型」と「お前はO型」を繰り返し植え付けられたから、少なくともA型の人間ではないらしいと信じてしまいそうになる。あからさまな差異があれば属性として区別出来るところを、同じモンゴロイドとして訛を聞くまで出身が不明である程の似た顔つきだから、内面の性格へ切り込むことを避けて安易な分類に頼ってしまう。

 「大事故で血液を大幅に入れ替えたら性格が変わった」などと抜かす奴も居るのだが、死ぬほどの経験をしておいて性格に何の変化も見られないような奴が居るならば、それ以前に死ぬほどの経験を既にしているか、底の抜けた馬鹿に違いない。底抜けの馬鹿が死ぬほどの経験をすればどうなるのかという疑問には答えられない。幸い手前の周辺には底抜けの馬鹿が居ないからだ。

 なあおい、それほどまでに自分の判断が信じられないのか。他人の判断を基準にして、また妄言を基準にして、また大本営発表を基準にして生きてゆくのか。確かにそれは楽だろう。しかしそれならば最後まで他人を妄言を大本営発表を信じて信じ抜く覚悟が必要になるぜ。最後の最後に騙されていた等と口走る醜態は、身包み剥がれてようやく結婚詐欺師を罵る姿と何ら変わりないものだ。そしてそれを底抜けと呼ぶのだ。

※手前の血液型は父がO型・母がA型で、可能性はA型かO型、母曰く「あんたはA型の筈」


目覚まし勝負 04/12/02

 思いついた。

 日々着想の芽を捜して生活しているとろくでもないことが突然結晶するわけで、この度は目覚まし時計の活用法だ。

 極端に睡眠が不足した状態での深い眠りならば、ごく稀に目覚まし時計が一時間鳴りっ放しの中でも起きないという荒業を敢行出来るが、通常は小さい音でもひとまずは鳴っていれば止める為に手を伸ばす。例え完全に覚醒していなくても喧しい時計を止める行為は一応遂行される。それは各々の「電話が鳴っているのに時計を止めた」「時計が鳴っているのに電話に出た」という体験と記憶が証明している。

 つまり何かが鳴っていてそれを止める必要があるから行動を起こすわけで、しかしその行動が間違っていれば途端に目が覚める。この習性を利用すればよい。

 世の中の目覚まし時計には、スロットマシーンで柄を揃えてやっと止まる奴もあるが、あれは慣れると鳴った瞬間いきなり電池を抜いてしまうので基本的に意味がない。ただし原理は応用する。また経験者によると黒髭を飛ばせば無事止まる奴は一週間経たずに黒髭がどこかへ飛んでいって行方不明になったそうだ。目覚まし音が設定不能な樽に剣が挿さっただけの時計は今も静かに黒髭の帰還を待っているという。

 だから時計が鳴っていて、簡単に音を止めることが出来ない状態を作ればよいわけだ。漫画でよくある「どの時計が鳴っているんだ?」これしかない。しかし美意識や無意味な尊厳を精一杯に発揮して各種の目覚しい時計を取り揃えるのは間違っている。明日はどれを鳴らそうかと考えて楽しいのは最初だけであり、どのみち翌朝は半分眠りながら残り半分は怒っているわけで、しかも慣れてしまうと各種あっても鳴った一瞬だけ脳が全速回転して的確に目標を発見するだろう。

 ということは、色も形も鳴る音も全く同じ時計を十個以上揃えて、当然電池は一斉に新品に交換して秒針まで合わせ誤差を最少に抑えておいて、鳴らす奴をひとつ選びセットしてから全て一箇所に集めて混ぜておく。さて鳴ってみたら「どれ?これ?これ?これ?」

 確実に起きると思うがどうか。それでも二度寝してしまうなら鳴らす数を序々に増やして難易度を高くしてゆけばよい。

ゆばり 05/01/23

 男が立小便を決意する時、目標が必要である。

 最も有名なのは電柱であるが、実際に電柱に向かってするのは犬なのであり人間は違う。何故ならば、急いていて何処か便所のある施設に飛び込むことの出来る昼間ならば電柱に向かう必要はなく、たとえ即座に便所の見つからない夜であっても電柱は避ける。何故ならば、電柱には電灯が付帯しており、最も無防備な姿を夜道で照らされることは本能的に受け入れ難いからだ。

 従って人目につかない窪んだ場所が選択されるわけで、しかも出来るだけ暗い所に寄るのだが、真っ暗では心細くなるあたりが男の繊細さを告げている。

 立小便するには便所がないという条件が必要で、だから都会や市街地では深夜でもない限り滅多に目撃されない。しかし「便所がなくて当たり前」という過酷な旅では「立小便して当たり前」となる。

 その際に何故か目標が必要なのであって、それは樹木やら岩やらが主となる。無防備な姿になる一瞬だから全方位見通しがよいのは不思議と不安になるもので、しかし正面に遮蔽物があれば精神的な圧迫は軽減される。考えてみれば後方が完全に隙だらけなので安全とは程遠い上、仮に正面から攻撃された場合は放水で迎撃可能だから、無防備を恐れるならば遮蔽物を背にしてするのが理屈では正しいことになる。

 最も単純な理由としては「恥ずかしい」が有力だ。では恥ずかしいのは筒か液体か。どちらも違って「筒から液体が出ている」のが恥ずかしい。人の姿が途絶える瞬間を狙ったのに必ず途中で誰かが通りかかるのは不思議な話で、しかし一旦放水が始まると達観してしまうから胸を張り顎を上げて平然を装っているが、雫を振り切る段は通り過ぎるまで待つあたり、やはり繊細なのである。


林檎 05/01/24

 朝食は林檎一個と決めていた時代があった。

 小学生低学年から鉛筆は自分で削るよう躾けられていたので刃物の扱いは慣れていて、一時期投げナイフの技術を磨くほどに熱中したから林檎の皮など目隠しでも綺麗に剥ける。ラーメンマンはどう考えても不可能だが、一繋がりの皮を切れないように剥き最後に上下を円錐に抉るのは、目隠しで試したことがあるから刃物扱いには自信を持っている。所々実だけを削っていた部分もあったが切らないことを目的にしていたから成功の筈だ。

 しかし自信があると怠けるもので、大抵は軽く拭ってそのまま齧り付いていた。関西育ちだから本当は林檎より梨が好きなのだが、簡単に腐る梨は贅沢品であり、価格の面からも林檎が手頃であった。

 ある時林檎を喰べる直前に眺めてふと考えた。映画やら何やらで林檎を両手で持ってぱかりと割る仕種がある。格別鍛えている人なら出来るだろうが手前に出来るだろうか。まず上の窪みに両親指を当て、残りの指全てを鳥籠の如く均等に拡げて力んでみたが割れない。親指が痛くなるだけである。あっさり諦めて喰ったが、次の日から林檎割りの特訓を始めた。

 最終的には握力が鍵であることは予想出来るが、握力を鍛えるほどの根気はないし「林檎を割りたい」では動機が弱過ぎた。だから何とか割れるような持ち方や方法はないものかと試行錯誤の末、最終的に「面攻法」と「反則法」の二つに落ち着いた。

 面攻法とはその通り面で攻める方法で、「親指の力で割る」という幻想さえ捨てればよい。まず林檎の上の窪みを此方に向けるように持ち、生命線の末端が窪みに当たるようにして両手で包み込む。掌の下半分が林檎の上半分に面で密着していて、人差指中指薬指を林檎の尻にあてがい、親指と小指の先は遊ばせておく。役に立たないからだ。そしてそのまま「割る」ではなくて「へし折る」の気分で力を込めると簡単に真っ二つだ。

 一方の反則法は親指の力で割るのだが、少しばかり卑怯な手を使う。林檎の天辺の窪みに入れた親指の位置を慎重に調整するふりをしながら、親指の爪でこっそり「ここが割れるきっかけ」の傷を付けておき、力を込めればこれまた真っ二つになる。こちらは割れた林檎をじっくり観察すれば爪傷の跡が残っているから注意深い人の前で披露すべきではない。

 そのような仕掛けは幾つもあるが、女の膨大かつ壮大な仕掛けには到底適わないのであって、それでもここ一番で力強さを印象付ける方法として重宝しているが、単なる荷物持ちとして扱われる事は本意ではない。




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