このサイトはスタイルシート対応サイトです
閑雲野鶴 案内板 更新情報 メルマガ 雲と連絡 鶴の骨格 鶴の足跡 資料室 亡国遊戯 がらくた リンク集
近道:検索 地図 メルマガ最新 読書録 掲示版 Google
現在地〓 閑雲野鶴メルマガバックナンバ保管庫 >言葉

見本
メルマガ最新
バックナンバ
報告集
発行履歴
登録・解除

保管庫
題名索引
2003
2004
2005

はかる
馬鹿正直
両手に花
膝枕
ああ
たて

じゅうぶん

全然
科学
ぢ・づ
根性

あほ


刷込
滴る

払う
手垢


梅雨
かち
もじ



じっ
馬鹿
不鳴不飛


「言葉の意味は次第に変化するものだ」

「変化すると変化させるは違うのだ」

はかる 03/03/11・12

「はかる」という言葉、あてる字が沢山あってしばしば迷う。

 「間違い漢字間違い言葉診断辞典」と「大辞林」と「字統」をもとに整理してみる。今回岩波国語は出番なし。

計る 物の数を数える、計画する
測る 重さや嵩以外の長さ、広がり、程度を明らかにする
量る 重さ、嵩を明らかにする

図る 物事を行おうとしてあれこれ工夫する
諮る 相談する
謀る 悪事を凝らす

 前みっつは具体的に何かの数値を求めたり、推定したりする時に使うものであるらしい。「相手の気持ちを推し量る」のように具体的でない場合もある。後みっつは何かの所作が伴う。行動を示す言葉のようだ。

 そして「字統」を見てぶっ飛んだ。「はかる」の項目

・・・・・・・・・・・・51個もあるがな。

 いくつかは旧字なので新字に収斂するとしても40個は軽くある。やるか?やってみるか?長すぎるから今回も前後編に分割します。

仞る 両手を伸ばして一尋をはかる。両手を伸ばして約一尋。
忖る 「寸」が指四本分の長さで、この長さを指ではかる。
究る 図謀の意がある。用義例はなく、よくわからないらしい。
癸る 揆度をはかる時の意。羅針盤かその台座を廻すときのことか。
咨る 神に嘆き申して訴える「諮謀」の意。
思る 思い巡らす。
訂る 叩いて平らにすることから訂正校訂などに使われるようになった。
度る すみません。字統の解説意味が分かりません。角度か土地かな。
某る 神意を介してなされること。少し違和感があるが。
校る 校猟が囲い木に追い込む罠猟だからそのあたりの意味ではないかと。
茹る 巫女が神託を受けて狂舞すること。神託を受けること。
称る もと重さをはかる意。のちに糸数を数える際にも用いる。
料る 穀をはかる時に使うことから。料理の旧意は調理ではない。
規る ぶんまわし、つまりコンパスを用いる際のはかる。
商る 祝祷に神意を問う。この字は圧縮「示壽」(トウ)
訪る 聖職者や長老にはかること。

 とりあえず前編はここまで。これらの字は一般には用いないことが多いが、「そういう意味がある」と知っておくのは損なことではない。

 実際ここで「茹でる」を「ゆでる」とは読むのは間違いながらも既に手後れと知った。もとは「煮る」が「にる・ゆでる」であったことも。いつからなのか気になるところだが、大辞林には初出が載っていないために不明。小学館の日本国語大辞典なら載っているだろうが、あんなもの置く場所ないし金もない。

揆る 日景を揆って方位を正す
裁る 布を裁つ意から裁判にも転用
揣る 骨占して憶測する意
程る 農殻について神に祈りはかる意
等る 差等をはかる意
評る 公平な議論を持する意
虞る 神を楽しませて願いを達するところの意
準る 水平をはかる意
詢る 謀るに近い
権る 重りが「権」でもと重さをはかる、から臨機応変に取り替える
諏る もと神に問う、のちに人に問う意
論る 討論する
擬る 進退に迷う状態で思いはかる意
講る 結合和解、事案思考、学術究明、事理通天の意
謨る 政治の規模、模様を定める意
議る ものを調べて実体を明らかにする意
籌る もと計算、から策謀の意>

解説の方が難しいです。
「神に祈る」が結構多くてややこしいです。
重複あるいは変換不可能な文字が一六個。省きました。これは字統より。「諸橋大漢和」で「はかる」がいくつあるかを想像すると気が遠くなます。「議る」は「議は語なり」「語は論なり」「論は議なり」で循環しておりました。

 よくよく見るとこれらの字を組み合わせた熟語が多いことに気付きます。そしてそのほとんどの意味は「それが何なのか、求めている答えを乞う」ものに集中している。すべての「はかる」の意の字、送り仮名が「〜る」で統一されていることに疑問を感じるかもしれない。しかし「漢字」とは「漢」の「字」であって、もともとあちらの国では仮名などない。無理矢理日本に輸入して意味をあてて読もうとするからこうなる。それに前号の最初で挙げた「図る」「量る」「測る」「諮る」「謀る」「計る」以外の文字は大抵別の読み方のほうが一般的であり、これを頑張って「『はかる』とも読むのですが」といったところで、信用されないどころか馬鹿にされて終わりだ。この屈辱がわかるか?学校で習ったことだけが正しいと思い込んでいる馬鹿に、お前にだけは言われたくないと思う奴に馬鹿にされるのだぞ。嗚呼、情けない。

 で、これが何かの役に立つだろうか。中国の古典、漢文を読む時に、分からなくてもぼんやり意味がわかるか、もしくはわかったような気分になる。

 あれかな、毎日二時間運動してバランスの取れた食事をして規則正しい生活をすれば「痩せた気分にはなる」というのと同じかな。違うかな。

※前後編を合わせました


馬鹿正直 03/03/31

 「馬鹿正直」という言葉、正直よりも馬鹿に力点が置かれている。

 この台詞を発する場面は色々あるだろうが、通常何か良からぬ事の後に慰めるとき、「君は馬鹿正直だから」当人がいない場合に「彼は馬鹿正直だから」となることが多い。そしてこれを加工してみるとよくわかる。うしろに「あんなことになったんだよ」を付けて、馬鹿と正直に分解する。

 「彼は正直だからあんなことになったんだよ」

 「彼は馬鹿だからあんなことになったんだよ」

 どう考えても「馬鹿だから」の方が意味が通っている。用いる際の感覚としてもこちらであろう。たいして「正直だから」というのは褒め言葉にはなっていないし一見慰めているようにとれなくもないが、むしろこの場合「馬鹿だから」よりも毒が含まれている。馬鹿より更に手がつけられない奴扱いなわけだ。馬鹿だからと言われた方がまだ救いがある。馬鹿ならまだ向上する余地があるかもしれないが、正直だからとなるとどうしようもない。向上する余地がないのだ。

 「正直だけど馬鹿」「馬鹿だけど正直」後者の方がましであろう。しかし「馬鹿正直」の言葉の意味は「正直だけど馬鹿」ということに、最近解釈されている。

 しかし、勿論これは元来の言葉の意味は「馬鹿に正直な奴」「馬鹿なくらい正直」であって、「正直すぎて馬鹿」と一義に解釈するようになったのは最近のことであろう。

 「馬鹿正直だなあ」面と向かってこう言うとき、相手の人徳に感心した態度と語調でありながら、本気で尊敬していない腹の底が自分でもわかるだろう。

 褒め言葉であるはずが。正直が欠点となりつつある時代に合わせて意味の変化した言葉、何気なく使うべき言葉ではなくなってしまった。

 日本語に限りない愛着を抱き、言葉に、漢字に、そしてその意味や歴史に踏み込むと、迂闊に言葉が使えなくなる。知れば知る程下らない言葉は使いたくなくなるし、そういう相手とは話をしたくなくなる。一体何処へ行こうとしているのか。辿り着いてみなければわからないようだ。


両手に花 03/04/06

 「両手に花」なる言葉がある。元々は良い物を二つ同時に手に入れる意であったが、花の意味は次第に女に収斂してきた。花を女に見立てて両隣りにいる女を独占している状態を指すのは井原西鶴以降のことらしい。

 この「両手に花」男女差別だから云々と言われてしまうと二の句が告げなくなる。なので対義語を調べてみるとこれが余りない。「一人娘に婿八人」はそれらしいようだがこれは意味が全然違う。望まれている物は一つなのに希望する人が沢山いることの譬えである。「娘一人に婿八人」「娘一人に婿二人」いずれも「両手に花」とは程遠い。

「紅一点」はどうか。「両手に花」より少しばかり過激な状態であるが、対義語とは呼べない気がする。それにこれは「黒一点」が俗に対義語とされている。

 そんなこんなで「両手に花」の対義語が思い付かず、調べてみたが、実際にあったとしてもわからなかったので、「両手に花の対義語」作ってしまえ。

 「両手に花」男が一人に女が二人、他に人がいても女二人は男にくっついている状態、もしくは男が二人の女を放さない状態。これを逆にして女一人に男二人、男二人を従えている、もしくは男二人が離れない、放してもらえない状態。

 対義語を目的としているからその言葉を見た瞬間「両手に花」を連想するものが望ましい。「両手に○○」と出来れば素晴しい。「はな」の二文字に対応するべく平仮名二文字なら更に完成度は高い。「両手に○○」「花」に対応させて同じく漢字一文字ならもう完璧だ。

 実はここまでの考えは二年前からあった。ただ、女を花に譬えた対極に男を何に譬えるかを思い付くことが出来なかった。「両手に花両手に花・・・両手に何だ?」ほとんど忘れていたことを思い出したのはホームセンターの園芸用品売り場で立ち働いている男一人に女二人の姿であった。まさに両手に花だな、と思い、しばらく眺めていると女性の内一人が両手に何の花かはわからないが鉢をもって移動させ始めた。両手に花の二乗だ、と思い二人の上司であるらしい男を見ると、もう一人の女性に何か言って彼女はどこかへ消えた。それでこちらも帰ろうとしたら、その女性が朝顔の蔓を巻かせる緑色の棒を両手にして歩いてくる姿が見えた。電流が走りましたね。その持ち方がまたスキーのストックを持つようであれは何ともなかったかもしれないが、上端ではなく下端を持って大太鼓を叩くような素振りで歩くリズムで振り回していた姿を見た瞬間

「両手に剣」

 これだ。女を花に、男を剣に。両手に花、両手に剣。花二人を従える男、剣二人を従える女。男を剣に譬えるのは卑猥な気がしないでもないが、牢屋で鉄格子を掴んでいる姿から鉄格子を外してみると握り拳はそれぞれずいすいずっころばし状態、猥褻過ぎる図ではあるが、「両手に剣」を示す姿勢だ。それによく考えてみると女の花も卑猥と言えば卑猥じゃないか。まさしく対義語に相応しいと思うのだが、どうだろうか。


膝枕 03/06/29

「膝枕」という行為がある。

 実際文字通りに膝を枕になど出来はしないので太腿を枕にするわけだが、この「膝枕」という言葉、実は大変ややこしい。

「膝枕する」

 主語は何だ。誰だ。そもそもこの言葉を発したのは太腿を提供する方か。頭を預ける方なのか。曖昧過ぎるこの台詞は細かい表現を必要としない間柄に於いて発せられる言葉であるので、当人同士が理解すればそれでよく、第三者が突っ込む余地はない。ただし例外として文章に起こす時、これほど処理に困るものはない。

 構図がはっきりしていて、どちらかが横になっているか正座しているかによって、発する人が「太腿を提供したい」のか「頭を預けたい」のかが変わってくる。絵も映像もなく文章のみで「膝枕する」とあった場合、そのままでは正しく読み取ることはほぼ不可能だ。とりあえず保留しておき、後の数行を読んでやっと頭か腿かどちらの台詞か判明する。それにしてもこの書き手泣かせの「膝枕」どうにかならないものか。

「膝枕する」「膝枕する?」「膝枕して」「膝枕したい」「膝枕したい?」「膝枕しよう」「膝枕しない?」「膝枕させて」「膝枕してほしい」「膝枕してあげる」「膝枕してみたい」「膝枕されてみたい」「膝枕させてほしい」

 どれが腿でどれが頭か即座に振り分けることが出来ただろうか。言うなれば「膝枕」とは状態を表す名詞であって「膝枕する」とは共同作業を指すわけだから、もしかすると二人して主語なのか。取り敢えず「わたし」「膝」「あなた」を「膝枕」の前に接続してみればある程度判明する筈だ。

わたしがあなたの膝で「膝枕する」
あなたがわたしの膝で「膝枕する?」
あなたの膝でわたしに「膝枕して」
わたしはあなたの膝で「膝枕したい」
あなたはわたしの膝で「膝枕したい?」
あなたの膝でわたしが「膝枕しよう」
わたしの膝であなたが「膝枕しない?」
あなたにわたしの膝で「膝枕させて」
あなたの膝でわたしに「膝枕してほしい」
わたしの膝であなたに「膝枕してあげる」
あなたの膝でわたしは「膝枕してみたい」
わたしの膝であなたに「膝枕されてみたい」
わたしはあなたの膝で「膝枕させてほしい」

 駄目だ。益々わけがわからなくなった。通常実戦では「 膝 」で済ませてしまうことが多くても、いざ「膝枕」の身上を調べてみるとこれが手強い。「する」はサ変動詞「す」の終止形と連体形が同型化したほうの「する」なのか、助動詞使役のほうの「する」なのか、活用はサ変でいいのか上二か四段か。調べれば調べるほど泥沼であった。

 長くの疑問であったが、解釈にたっぷり疑問を残したままさりげなく忘れることにする。いや、しばらく忘れたことにしていつか回路が出来るまで、冬眠させよう。


ああ 03/08/24

 例えば感嘆「ああ」という言葉を漢字にする場合、「嗚呼」を好んで使っているが、他にも「噫」があるが、この字に相応しい文章がまだ書けないでいるから、使っていない。ところで、「ああ」の漢字を調べてみたら、二十以上もの字があることに腰を抜かして、覚える為にも以下、並べておく。よく見ると同じ字から派生している事例が多いことが判る。要にある幾つかの字を抑えれば良いだけであるようだ。新明解漢和辞典を参考にした。中国古典からが中心だが、全て「ああ」と読む。

于  驚き、または疑う意
吁  驚き、または疑う意
吁嗟 驚き、または嘆く意
於  (=于)善悪ともに用いる
於乎 嘆ずる、感嘆の意
於戲 嘆美、感嘆の意
呼  嘆息または驚きの意
埃  恨みのこもる言葉
猗  賛美する、恨む言葉 善悪ともに用いる
猗嗟 恨み、嘆く意
猗与 恨み、嘆く意
烏乎 哀傷の意
嗚乎 嘆息、哀傷の意
嗚呼 感嘆または悲痛の意
悪  怒気を帯びて驚嘆する意
嘻  嘆美、哀痛、驚く、恐れる、諂う、戒める、各意
譆  恐れる、嘆く、恨む、褒める、各意
嗟  感嘆、悲嘆、溜息或いは痛恨の声
嗟夫 嘆く 主張を述べる時、最初に置く
嗟乎 嘆く声
嗟咨 嘆くこと
嗟哉 嘆く声
嗟嗟 嘆く声
咨  感嘆、悲嘆の意
噫  嘆息、哀痛、応答、各意
噫嘻 褒め称える、驚き怪しむ

 さて、見ていると非常に多く感じるが、要となる「于」「乎」「烏」「嗟」「猗」「噫」を知っておけば、およそ二文字で独立していながら意味も読み方も判らない時、「ああ」かもしれないと見当を付けることが出来る。「啞・驚いて出す声」など他にも色々あるだろうが、今のところはこれで十分だ。「嗚」の字、「嗚嗚」なら「オオ」となり、「悲しげな意声の形容」となるらしい。「嗚咽」なら読めるから、これも見当がつく。

 調べている中で[嗟来食]「人を卑しむ態度で『さあ食べろそら食べろ』と言って与える食物」なる言葉を知った。日本語では「サライのショク」と読むらしい。他にも「咄咄怪事」「味識」「卑礼」「鳴剣扺掌」「意旨」「口蜜腹剣」「口講指画」「叨叨」「吐哺捉髪」などを拾った。「とうとうと語る」を「叨叨と語る」とは、渋いじゃないか。


たて 03/08/27

 「人の口に戸はたてられない」という言葉があって、これは凡そ「誰でも口は軽い」「秘密は必ず漏れるもの」と解釈されていて、それはそれでいいのだが、語源がよくわからなかった。

 口に戸というのは概念的な捉え方であろうの見当はついていたが、それにしても戸ぐらいでは何も効果はないだろうし、戸の向こうから聞こえることもあるわけだから、「戸をたてても無駄」の方がしっくりくる。しかしこれは勘違いで、実は「戸」の解釈が間違っているのではなくて、「たて」の解釈が違うのだ。

 「たて」は「立て」「建て」「絶て」「断て」いずれも違う。口に扉を嵌め込んで遮断するという意味ではなくて、「閉める」という意味であるから、「人の口に戸はたてられない」は「人の口の戸は閉めることが出来ない」という意味になる。実際、「短足」が変換されなくても「たてる」を変換してみると「閉てる」は出てくる。

 では「戸閉て」が正しくて、「戸立て」は間違っているのか。間違いとは言い切れないのだが、語源の解釈をややこしくしているのも事実だ。「閉てる」は門やら戸、襖・障子などを閉ざす動作を表し、また「とだて」とも濁り、「とだてする」の変種もある。

 古いところでは万葉集に「門立てて 戸も閉ぢてあるを 何処ゆか 妹が入り来て 夢に見えつる」とあり、ここで「かどたてて」と「立」が使われているから「戸立て」の方が実は正しいのかもしれない。「戸をたてる」という表現が古くからあり、それに則った諺として「人の口に戸はたてられない」とは雅味溢れているが、ただこの言葉を漫然と眺めているだけでは、煎餅を前歯と唇の間に挟んで口を封印したかのような情景が浮かぶだけであって、戸を閉める行為を「たてる」と言う習慣がなければ、なんとなく意味は判るが自信を持って使えない言葉になる。

 枕草子「にくきもの」の段、捨台詞に「あけて出で入る所立てぬ人、いとにくし」とあり、馬鹿は昔から変わらず馬鹿であることもわかる。

 いろいろ調べていると、「戸閉」という名詞には意味が転じて「二進も三進も行かなくなること」になっていたり、東北の方言として、「戸閉て無い」を、閉めないわけだがら「キリがない」の意味で使われている事例もあるらしい。集まりなどで下準備することを「戸開け」、終えて後片付けすることを「戸閉て」と言う。それが茶会か食事会か決起集会か何でもよいが、後片付けする時に「たてますよー」とは、どこかで聞いたことのある表現ではないか。また宴席などでいつまでもぐずぐず残っている者を「とたて者」と呼ぶ地方もあるそうだ。

 では、「たて」は完全に「閉める」の事と了解していいのか。実は「立て蔀(たてじとみ)」という物があって、この「蔀」とは、屋内が見えないように庭に置く衝立のようなものであり、視界を遮断する意であるような、物理的に「立てる」の意でもあるような、そういうややこしい物をややこしい意味のややこしい名前で使うなと毒吐きながら、まあ、このような探索は下手な推理小説を読むより余程楽しいので、いつものように辞書の迷路を駆け回っている。

 「たて」の意味、思うに大和歳月の中で、両方の意味がそのまま並存したまま、近代に入り、我々のふたつ上の世代まで辛うじて日常であった言葉ながら現代では急速にその勢いを失ってしまったように思う。それでも古い仕来り言葉が残っている世界では生きている言葉であるから例えば襖や障子は「戸立具」とも呼ぶわけで、しかし現代に入って漢字を大整理した結果、「戸建具」とも書くことになり、一層混迷を深めている。「たて」の字でこんなに遊べるとは思ってもいなかったが、よくよく考えてみると、そうだ、「開閉」は「あけたて」と読むじゃないか。


つ 03/09/17

 色々な本を並行して読んでいると、突然回路が完成する瞬間がある。

 「鶯」について調べていたこと、「月の異名」について調べていたこと、「百人一首」、「記・紀」、そして「助詞」について、これらが全て「つ」で繋がった。

 発端は「暦の月の異名」で「梅つ月」「梅つ五月」などの「つ」が不審であって、これは何かと辿る内に助詞であることが判った。そういえば今まさに読んでいる最中の「古事記・日本書紀」についての本で頻出する「秋津州」の「津」でそう解説していた。偶然だが、日本語の勉強として外国人に対する日本語教育者向けの部厚くややこしい辞典から色々抜き出していた時に、「助詞・つ」があり、色々重なる内に「あ、そういえば百人一首で沖つ白波があった」「天つ風もあった」と段々回路が太くなって行き、とうとう「まつげ」の「つ」も元々助詞の「つ」であって「目つ毛」が語源であることを知る。そうこうしているうちにメモの中に「つ離れ」があり、もしやこの「つ」も繋がっているのではないかと、もう止まらない。

 この助詞としての「つ」は相当古い用法であり、平安時代には既に廃れていて、成句などの中に形を留めるに過ぎなくなっていたわけだが、それが今でも突然飛び出すことがあって少々驚くと同時に興味が湧く。

 どうもはっきりしないのだが、乱暴に言って「つ」は現代日本語文法の「の」を代入すればおよそ意味が通じることになる。「沖つ白波」は「沖の白波」、「天つ風」は「天の風」、「梅つ月」は「梅の月」、「花つ月」は「花の月」、「草つ月」は「草の月」、「睫・睫毛」は元々「目つ毛」で「目の毛」、それならば大和言葉の数え方「ひとつ、ふたつ、みっつ・・・」で「とお」は「つ」が付かないから十からを「つ離れ」とするものだが、この一から九までの尻に付いている「つ」は元々助詞の「つ」ではないのか。「ひとつ」は「ひとの」、「ふたつ」は「ふたの」で古い形は「ひと、ふた、みつ、よつ、いつ、むつ、なな、や、ここ、とお」ではなかったのか。もしかすると「みつ、よつ、いつ、むつ」は「み、よ、い、む」だったかもしれない。今でも「つ」を外し「一」を「ひと」と読む形で「一雫」「二葉」「三菱」少し自信がなくなってきたが、どうせ趣旨は真顔で与太だ、強引に行こう、と調べてみると「単なる接尾語」扱いとする説もあり更に自信が萎む。

 この助詞の「つ」が上代の言葉、一音一字の時代から下って、漢字と仮名が融合して以降、元々助詞であった「つ」が残った言葉に当てる漢字として、既に「湊・港」の意が込められていた「津」が再び採用される。その結果「梅津月」「草津月」となるわけだ。だから「草津」は「草の湊」ではなく「草の〜」という意味から来た地名ということに・・・、と地名に踏み込むと、今度は「湊」の意の「津」が異常に多くて発狂寸前、では「神津島」の「津」は果たして「神湊島」の意か「神の島」の意か、後者であってくれれば一区切りとして酒飲んで寝るわ、と最後の気力を振り絞って調べてみた。さあ、どちらだ。

 神の集う島 →  「神集島」 → 「神津島」

 さよですか。お疲れ様でした。退場。


じゅうぶん 03/09/30

 「じゅうぶん」と発して表記される文字には「十分」と「充分」がある。

 漢字字書なら同音異字についての記述が必ずあるが、その中でも「じゅうぶん」は皆勤賞ものの強者である。

 戦後の漢字制限と一連の「学ぶべき漢字の制定」により、同音異字が廃される方向に進んだ日本語は、それでも強く浸透している「表意からくる使い分け」を否定できず、例えば「はかる」の漢字を「図る」「計る」「測る」「量る」「諮る」「謀る」の六字までにしか減らすことが出来なかった。これはつまり例え同音異字であれ、意が違うならば使用状況に鑑みて制限されない事例があることを示している。

 しかし「充分」は「十分」とほぼ同じ意味として、圧殺される方向にある。今現在、「充分」は原則として公用文書では使われず、新聞でもコラムなどの署名記事は別として、無署名の記事に於いては「十分」しか使われていない筈だ。

 「意味が殆ど同じで違う字は統一すべし」が漢字制限のひとつの柱として、同音異字はより簡単な字に言い換えられるようになったが、やはり字面から受ける印象に多少の差がある場合、完全に葬られることなく、未だに使われている事例、字例のひとつとして、「充分」「十分」があるのだ。しかし現行の日本語では「充分」を捨てて「十分」だけで押し通そうとすることが推奨されている。出来る事ならば漢字は知らないより知っている方がよいのであって、特に「充分」の文字は両方とも常用漢字に入っているから使わない方が不自然でもあり、ここに「充分」と「十分」の解釈を、述べておく。これは手前の個人的な解釈であり、手前の個人的な使い分けの指針であるからこれに従う必要はないことをも併せて述べておく。

 手前の方針として、「十分より充分の方が質的に上である」としている。使用例を挙げれば判り易いだろう。

十分 「ほぼ十分」「もう十分」

充分 「既に充分」「もはや充分」

 上の用例は、「十分」の場合、これだけなら時間の「じっぷん」とも読めるが、大抵前後の文脈から判断出来る場合が多いのでそれは問題ではない。意を追うならば、「十分」とは、「七〜八割くらい、まだ先もあるが、このあたりでいいだろう」とする、詰めが甘いような、肩の力を軽く抜いたような雰囲気で用いることが多い。「充分」は、「九〜十割、ほぼ完璧、あるいはやりすぎ」とする、全力を尽くした、期待以上だった意で用いるように使い分けている。

 尚、「十分」の「十」を「十割の十」と解釈する向きもあるが、これはおそらく「腹八分」あたりから来る連想と思われる。

 つまり。「充分」と「十分」、殆ど違いはないが、拘って使い分ける場合、その使い分けている人は各々一定の方針を持って使い分けている。従って方針を自ら制して使い分ければよい。手前は「充分」を「充ち足りた」と捉えて質的に上だと解釈している。

 日本語とは未だ発展途上の言語であり、何が正しいとは言い切れないものばかり、だから楽しくもあり苦しくもあり、「じゅうぶん」については、「十分」に統一する動きに反対する立場の表現者が数多く存在することで、「充分」の命脈が保たれている。喜ばしい限りだ。


止 03/10/22 部首の読み方・呼び方はこちらへ

 小学校以来漢字を覚え続けねばならない日本で育つ者は、自発的に漢字と向き合う時になって初めて「もう少し効率的に覚えたら良かった」と考えたりする。ルビが振ってあればいつしか読めるようにもなるのだが、ルビのない場合、字面から何となく意味が類推出来ても読み方が判らないままだと後味が悪い。

 もしその読めない字が簡単でありながら自分だけが読めない場合、誰かに訊けばよいのだが、問題は通常使用せず殆どの人が読めない字の場合で、これは字書をあたるしかない。字書・字典とは、「字」が示す通り漢字が収められている。しかしながらこれを効果的に利用する為には部首を知っておかねばならないし、部首の画数も知っておかねばならない。勿論部首などなぞれば画数は大抵判るのだが、中には延繞「廴」のように一瞬二画か三画か迷うものもある。もし間違えて見当外れの所を探す無駄は、寄道の楽しさを差し引いても腹立たしい。部首も知らんのか俺はと自らを罵る。しかも寄道とは、ある程度繋がりがないと覚えられなくて意味がないのだ。

 部首の名前・画数を完全に暗記する必要はないが、ややこしい物だけを抑えておけば後日必ず役に立つ。小学生の学年別配当漢字は、早々に難しめの漢字が出てくるが、あれは部首になり得るものを最初に刷り込もうとする戦略であり、それは確かに間違っていないが、それはやはり後から考えて簡単な部首ばかりであり、判断に迷うような部首はややこしいが故に早くは教えず、遅くなれば「今更部首など」と学習する機会がない。結局は日本語の弱点やら特質などを体験から学んでより効果的に学習させる方法を身に付けた日本語教師によって、新たに日本語を習得しようとして体系的に学ぶ外国人の方が、日本語の文法や部首などに詳しいという捩れが発現する。

 部首には全て名前が付いているが、漢字の成り立ちに意味ごと寄与しているものと、単に分類上検索上便宜的に項目立てられたものがある。問題は細かいところで字書毎に部首の読み方が違ったり部首の画数が違ったりすることだ。前者の場合どの字書でも大抵共通しているからまだよいが、後者の場合は、より調べ易くする為に字書毎に様々な工夫を凝らすものだからややこしくなる。しかし「これが正しい」という絶対的な分類方法を決定することは不可能であるから、使い易いもの、理に叶っているものが残り、あとは次第に淘汰されると考えられる。そのように昔から考えられ、今もそう考えられ、おそらく将来もそう考えられ、漢字の基準が変わる度に部首も対応せざるを得ないから、これはつまり永遠に過渡期なのである。

 「灬」コードになっていないか?大丈夫か?あうお。やはり無理だったか。全く部首なんてそう多くないねんから一通り入れとけや。「点」の下の「てんてんてんてん」なのだが、これは燃え盛る火を表していて、下にこれを持つ字はおおよそ日に関係がある。意味の変質した字であっても、昔は火に関係していた筈だ。「熊」は気にしないでくれ。この部首を鶴少年は「れっか」と覚えたわけだが、字書によっては「れんが」としか書いていない場合もある。部首の読みはさして重要ではなくて、例えば書くことの出来ない字を説明する時に部首名を言っても相手がそれを知らなければ意味がなく、結局同じ部首を持つ字を引き合いに出すことになる。燃え盛る火を表す「灬」を構成要素に持つ「点」は、だから「ともす・つける」の意味があり、そう読むわけで、そして何故か勢いからして相応しくなくても「煙草に火」は「点ける」と書く。

 何となくやる気がなくて漢語林などを読んでは眺め、眺めては読んでいたところ、「止」という部首に行き着いた。これを部首に持つ漢字は割合少なく、今の日本語で使われている中では「正」「此」「武」「歩」「歪」「歳」「歴」と、あとは旧字・本字・原字・中国漢字などにいくつかあるぐらいの少数族なのだが、この部首「止」は、「此」ほかの今では使われることの少ない偏と、それ以外の単なる部首とに分けられ、それぞれ呼び方が違う。

 「正」「武」「歩」「歪」「歳」「歴」などの部首は「とめる」であり、「此」の部首は「とめへん」である。


全然 03/11/10

 「慣用句は便利だが勝手に改造してはならない」と主張する本、こういうものなら燃やしたところで毛ほども罪悪感がない。

 当然のことながら慣用句とは、初めから存在していたわけではなくて、いつか誰かが遊びか誤用で使われた言葉が次第に拡大し定着したものであって、豊穣な慣用句を便利として認めた上で日本語の魅力に数えておきながら新しい慣用句の誕生機会を阻害するとは何事ぞ。

 「言葉は自由に使ってよいが、好き嫌いとは別の話」この姿勢ならば大いに共感する。しかしそこまで言い切ってしまった本は読んだことがない。おそらく尖鋭的かつ破壊的な言葉を集めた下らなくて読むに耐えない本であればそう書いてあるのだろうが、生憎そういう本は嫌いときている。そういう本を読んだならば確かに「勝手に改造すな」と言いたくなることは自分でも判っている。しかし言葉とは誰のものでもないし、誰かに強制される筋のものでもないから、「かくあるべし」と主張すること自体は問題なくともそれを強制したくはないのであって、しかしその破壊度が過ぎていると「お前のような奴が日本語を」と言いたくなるから読みたくないのだ。それでも時々平然と「○○辞典」と銘打ってある滅茶苦茶な内容の本に接近してしまうこともあり、「穢れる」という差別的思想が沸き起こってしまう。

 「言葉が乱れている?」冗談じゃない。一体に大和歳月の中で言葉の乱れていない時代などかつてあったと思うのか。漢字でさえも、最早日本語としての進化の最中だが、導入時は乱れたことだろうに。発展とは混乱の中にあり、混乱とは発展が元で生ずるものだ。故に言葉が乱れているならば、それが如何に情けない乱れ方であろうと、必ずその中に発展の芽がある筈だ。

 少し前は「とても」の後に必ず否定形が接続していた。今の我々は生まれた時から既に肯定形の接続に疑問を抱かぬまま育ったから、「とても」の後には必ず否定が来ると聞けば、違和感を感ずることだろう。しかし現在「とても」は「否定の副詞」ではなく「強調の副詞」に意味が変化しているからこれはもう問題がないと言える。

 ところがこれと同じ構図の、現在意味変化の進行している言葉がある。「全然」だ。「全然」の後には否定が必ず来ると信じている者にとって、全然の後に肯定を接続することは強い戸惑いを感じる。「全然美味しい」「全然楽しい」「全然面白い」実はこれに耐えられない。

 日本語は述語が最後に来る。よくある例として、電車の車内放送に「この列車は○○駅、○○駅○○駅○○駅に・・・止まりま」ここまで来て最後が「す」なのか「せん」なのか判らず恐いということが挙げられる。これは確かに極端な例だが、ありふれた例でもあるから業務的な連絡の場合は述語は最初に持ってきた方が意を伝えやすい。

 しかしくだけた口語でも力を尽くした文語でも、意図的に最後までどちらか判らないようにする場合を除いて、最初や途中にある副詞で結論が推定出来るようになっている。日本語は述語が最後にくるからこそ、ある副詞の最後には大抵否定か肯定かの文型が決まっているのだ。プロ野球のニュースなどを結果を知らずに見ていると、注意深く選んだ筈のナレイションでもおおよそどちらが勝ったか、次の場面でヒットを打つか凡退するかが何となく判ることがあろだろう。あの陳述の副詞に接続する否定か肯定かの約束を破るとたちまち「言葉遣いがなっとらん」と抗議する奴もいる。手前は抗議まではしないが、以降その人格を疑う。

 変化を認めるのか、認めないのか。どちらか一方にだけ偏ってしまうなど馬鹿馬鹿しい。これは認めるこれは認めないと少しづつ整理してゆくことが、言葉を深く感じるし、日本語を豊かにもする。


科学 03/11/12

「世の中全ては科学で説明がつく」

 それは何故か。その理由を『科学』とやらで説明してみよ。

 他にも例えばいつもエレベータが行ったばかりなのは何故か科学で説明してくれ。例えばいつもエレベータが別の階にいるのは何故か科学で説明してくれ。例えばいつもトイレに紙がないのは何故か科学で説明してくれ。例えばいつも自動ドアに感知されないのは何故か科学で説明してくれ。例えば何もない所で突然躓くのは何故か科学で説明してくれ。例えばいつも電車の扉が目前で閉まるのは何故か科学で説明してくれ。例えばいつも一円玉がぎりぎり足りないのは何故か科学で説明してくれ。

 「それらは全て迷信である」

 ほう。科学は迷信を認めるのかね。

 「ぇ?」

 言葉を武器とする文系諸君の勝ち目はここにある。つい手を緩めて反撃の隙を与えるとたちまち「悪い印象は記憶に残り易いのだ」、更に持ち直すと「迷信というものは信じるには及ばないものであって、また信じてはいけないからこそ迷信と呼ぶ」、とうとう立ち直って「それは分野が違うね。衒学あいや、言語学の範疇だね、あと心理学かな」

 確かにその説には全面的に賛成なのだが、ここを踏ん張って転がすと面白くなるのだ。混乱させるわけだが、中途半端な攻め方では逆襲を喰ってこちらも混乱してしまう可能性もある。最大の防御を次々繰り出すことだ。「そもそも科学とは何なのか、科学で説明してくれ」ここで絶句しない相手は手強い。「科学を信じない人がいるのは何故か科学で説明してくれ」

 つまり、風が吹けば桶屋が儲かるのは何故か科学で説明してくれ。女が三人寄れば姦しいのは何故か科学で説明してくれ。苦虫を噛み潰した顔とは如何なる面相か科学で説明してくれ。何故絶壁禿がいないのか科学で説明してくれ。金持ちを信用しないのに金を信用するのは何故か科学で説明してくれ。中華料理の円卓ぶん回して四方八方に皿をふっ飛ばして混乱を演出するくそ餓鬼とその親の教育理論について科学で説明してくれ。

 「全ては科学で」などと大見得切ったら後が怖いぜ。覚えておきな。


ぢ・づ 03/11/30

 ややこしいのは「じ・ぢ」「ず・づ」の取り扱いなのだが、これは一応方針として決まっているのが「じとずに統一するが一部の例外は認める」とするものだ。

 同じ仮名が続く時、後に濁点を付けるならば「ぢ」「づ」を認めるという同音連呼の規定があり、それに従う「ちぢむ」「つづく」「つづみ」「つづめる」「つづる」は基本的に変換が可能だ。しかし「知事」の場合は「ち」と「じ」の合成なので「ちじ」でよいが、「心が千々に乱れる」の場合は「ちぢ」、変換不可能である場合が多いから学習させねばならない。また「無花果」「著しい」は同音連呼であるが、「いちじく」「いちじるしい」となる。

 元清音のまま濁音になることを認めないから「地」は「ち」なのに「地面」は「ぢめん」ではなく「じめん」となる。これが何としても納得ゆかない。漢字で表記して、またそれを読むだけならば特に問題はなかった。この「ぢ」「づ」規定を考えた当時は日本語の入力変換にまで頭が回らなかったのだろうが、今となっては最早手遅れだ。

 「ち」「つ」が語頭に来て、何かと接続した単語になり、結果濁化する場合にはいくつかの例外が認められている。あくまで「例外」としているあたりが実に厭らしい。「ちかぢか」「ちりぢり」「はなぢ」「そこぢから」「いれぢえ」「みょうとぢゃわん」「つねづね」「つくづく」「つれづれ」「ひづめ」「こづつみ」「みちづれ」などなど、当然の話だ。「三日月」を誰が「みかずき」などと書くものか。「つとめる」一派も「お役所ずとめ」ではおかしい。

 しかしこの種の例外は限られていて、「血」「乳」「力」「縮緬」「知恵」「月」「筒」「綱」「妻」「爪」「詰め」などが接続して濁音化する場合などであり、他は「尽かす」「伝て」「掴む」「作る」「疲れる」、また「つ」含みながら後に接続した複合動詞は「片付く」「小突く」「毒づく」「基づく」「裏付ける」「行き詰まる」「粘り強い」全て「ぢ」と「づ」でなければならない。「じ」「ず」では変換不可能だ。

 これらは例外と認める旨の規定に、変換機能は忠実に従っているからまだよいが、「痔」を出す為には「じ」と入力せねばならない。声符の「寺」から考えると「じ」でよい気もするのだが、「ぢ」の持つ衝撃的な迫力には遠く及ばないのであって、これはやはり「ぢ」と書き表したいし、それで変換するべきだ。「父」は「ちち」であるが、「親父」は「おやぢ」ではなく「おやじ」これも揺れる線上にある。

 現在の日本語を統制しているのは、最早国語審議会でもなく、国語研究所でもなく、政府の奥深い一部機関でもなく、新聞雑誌でもなく、ましてや言葉を使う一般の民草でもない。当然テレビでもない。変換機能を司るJISだ。JISの首根を押さえている者がいるならそいつだ。

 変換機能は、確かにややこしいところを改めて認識することになる。手書きなら勢いでもって「基づく」を「基ずく」「かたづける」を「かたずける」と書いてしまう時もあるからだ。その功績は認めた上で、まだ罪多きと考えるのは、入力変換不可能な漢字・言葉が、急速に衰退すること確実であるからだ。

 いっそ乳を張って「世界で最もややこしい表記の言語です」と開き直ればよいではないか。漢字の本家中国が簡体字を使うなら、漢字の元の姿を日本で保存しようではないか。中国が数多の古典を全て簡体字に書き換えるなら、古典をそのまま読む事が出来るのが、将来一部の者に限られることになる以上、中国の文化的衰退は明らかだ。中国が漢字を捨てるなら、日本は漢字を保存して漢字の本家となればよい。日本の崩した字の古典は読めなくとも、中国古典漢字の意味が判るならば、それは中国の古典をそのまま日本と日本語の血肉とすることが可能なのだ。

 とまあ、それは夢物語であって、たちまちのうちに簡体字の古典が氾濫するからあまり意味はなく、せいぜい「どうか簡体字を日本に輸入するでないよ」と祈るのみ。


根性 03/12/11

 「さんご荘」というアパート名を見てそういや「ほうれん荘」があったし「倒れ荘」「崩れ荘」のネタもあった。風呂もトイレも炊事場も押入もなく三畳一間線路沿雨漏及び新聞宗教勧誘付きという「河合荘」ならありそうな気もする。それならぱ何か間抜けな「〜荘」シリーズが出来るかもしれないと逆引き広辞苑で「〜しょう」を調べていたら「根性」の山にぶつかった。

 役人根性、商人根性、ひがみ根性、野次馬根性、継母根性、島国根性、盗人根性、下種根性、継子根性、折助根性、雲助根性、乞食根性、助兵衛根性、泥棒根性、とよく聞いたり稀に聞いたりする根性が一列に並んでいる。ど根性、掛り根性、片根性もあった。しかしよく判らないものもある。

鳩根性
梅根性
柿根性

 何だろう。「鳩根性」の意味は朧気ながらも見当は付くのだが、「梅根性」「柿根性」が謎だ。こういうものは大抵歌舞伎あたりから語源が来ているのだろうと考えながら幾つかの古語辞典をあたってみたが、見つからないので素直に広辞苑を見ると

鳩根性 はとこんじょう (鳩の含み声の感じから)不満がちな根性
梅根性 うめこんじょう 執拗で一旦思い込んだら変え難い性質 ⇔柿根性
柿根性 かきこんじょう 柔軟で変わりやすい性質 ⇔梅根性

 鳩根性は「不満がち」とあって想像していた「呉れる物はどんどん貰おう怖かったらすぐ逃げよう」の意味とは大分違ったわけだが、まるで判らなかった「梅根性」と「柿根性」が対になっている事が判った。取り合えず東京堂の「反対語大辞典」を見ても対義語として載っている。語源や初出がまだ判らないので結局切札の日本国語大辞典を見た。

【梅根性】〔名詞〕(梅はなかなか酸味を失わないところから)しつこくてなかなか変えがたい性質 ⇔柿根性 *仮名草子 祇園物語(1644頃)上「いやしき諺にも梅根性柿根性と申事あり。梅は黒やきにしてもすけをあらためず。柿は一夜のあくにてそのまま甘くなり候」 *仮名草子 悔草(1647)三「我からつたなき梅根性、煮ても焼いてもすけをさらず」以下略

 とある。これで初出は判明した。仮名草子の段階で既に諺として流通していたわけだ。仮名草子でさえも「いやしき諺」とあるくらいだからそれ以前の記述は見つけにくいと思われる。それよりも次に「すけをあらためず」「すけをさらず」の「すけ」とは何か。古語辞典に戻る前に柿根性を確認しておくと「渋い柿がすぐ甘くなるような、変わりやすい性質」とあるほか例は同じである。渋柿は一夜で甘く出来るのか。それも知らなかった。干吊してある程度時間がかかるとばかり考えていた。「渋柿にマヨネーズを付けて食べると渋くない」はまだ試したことがないのだが、一夜の灰汁とは方法を知りたいと思わないか。そう思いながら小学館の古語大辞典で「すけ」をあたるがそれらしいものがない。日本国語大辞典にゆく前に創拓社の「故事ことわざ辞典」が見えた。「いやしき諺」とされる以上そこに入っているかもしれない。

梅根性 執拗で性質を変え難いもの。梅は折りにくいことから、また、梅の古枝の形や樹皮のありさまから言うか。梅の実の酸味が消えにくいところからも。この反対が「柿根性」
用例 花に似ぬ木や脛くろし梅根性 芭蕉
   我からつたなく梅根性、煮ても焼いてもすけ(酸気)をさらず 仮名草子

 「酸気」だったか。解釈が独特だが骨は抑えてあるし「すけ」を漢字にしてあるのは有難い。やはり漢字は便利であるね。そういうわけで凡そのところを理解して次に「根性」の定義を調べてみたら、それぞれ意味付けに苦労している様子でございました。仏教語だとは初耳でございました。


蛙 03/12/24

 「蛙の子は蛙」これはどちらかと言えば否定的色彩を帯びている。肯定的に使う場合は親が楽しい人生つまり刺激に富んだ人生判り易く言うと傍迷惑な人生を生き、子がその同じ道を選択した場合だけであって、会社員の子が会社員になって「蛙の子は蛙」と言えば褒言葉になっていないし、褒めたつもりでも「井戸の中から出ないのか結局」との勘繰りも可能であるからだ。

 「鳶が鷹を産む」もまた親を否定しているが、これは子を褒めているから相対的には親に対する低評価を含んでいるが、そこには親馬鹿とその友人の気さくな雰囲気が漂うのであって、これはまずまず平和的な印象だ。

 ある分野で名を成した親がいて、その子が同じ世界に飛び込んだらひとまず「蛙の子は蛙」と言われる。血は争えないというわけだ。しかし子が本物の能力、親と同等またはそれ以上の能力がある場合に「蛙」ではなくて「鳶が鷹」になる。

 また、優れた親の下に凡庸な子の生まれるところはあまりにも当然過ぎて、一応「総領の甚六」という言葉もあるが、親子の能力関係を示す動物諺は見当たらないようだ。才能ある親を持つ子は、同じ世界に飛び込んだ場合、事ある毎に親と比較される運命にあるから、よほど強靭な精神力でもない限り迂闊な真似はしない方がよいのであって、しかし溢れる親心が子の骨を抜き、そして親に縋る子は忍辱を生きることになる。

 凡庸な親の下に生まれた子の才能が開花する為には親の理解が必要で、また理解なき場合でも親の引力から脱する気力が必要となる。それらの場合に限り子は鷹となるのだが、こういう家系は実に楽しい。鳶が鷹を産み、鷹が甚六を産む。中には蛙も混じっている。鷹鳶鷹鳶鷹鳶鷹と世代がひとつおきで繰り返される循環はまた、拡大したら世代論になるわけだ。なあ、身に覚えがあるだろう?

 親が鳶であるか鷹であるかを判断して、己が蛙であるか鷹であるか甚六であるかを見極めなければならないが、その判断力があるなんら少なくとも甚六ではないだろう。意識して甚六を演ずる場合は子の鷹であることを祈るこれも偉大な親心であろう。

 そのようなややこしい騒ぎに参加したくない向きは、親と違う道を選べばよく、比べる事の不可能な世界で活躍するならば確実に鷹と言われることになるから、賢明な者は親と離れるが、状況がそれを許さない場合は覚悟を決めることだ。しかし同じ道で親を超えると気負うと確実に転ぶから抑え気味にゆくべきなのだ。頑張れ。


あほ 04/01/12

 「箱入娘です」・・・吃驚箱だった時の脱力感を想像して頂こう。それは秩序の崩壊である。共有している筈の言語から喚起される印象の格差で表出される見解の相違でもある。

 言葉に付随する印象は後天的な学習効果に影響される。通常「灯油ポンプ」として知覚している手動液体汲上装置の本名が「醤油チュルチュル」であると知った際に訪れる精神崩壊はやがて怒りに転化するが、更に発明者がDr.中松であることを通達されると最早抵抗は無駄である。以降はその装置を見る度に凄まじいまでの破壊力を持つ本名が想起されてつくづく悲哀に包まれる。

 言葉から受ける印象の落差はよくあることだから常日頃から覚悟しておかねばならないが、仮にそれが油断している瞬間を狙われると弛緩発作を起こすことになる。中には緊張した対立状態に落ち込む場合もある。

 「カツ丼」から受ける印象は大多数が卵で閉じて三つ葉なりが載せられている姿なのだが、一部例えば北陸などの「カツ丼」とは丼にカツレツがはみ出さんばかりに乗っているだけである。よく見るとカツレツ飯の間にキャベツの千切りが敷かれているが、卵の気配は微塵もない。味はソースを用いるわけだが、通常親子丼・他人丼・牛丼その他日本情緒溢れる丼ものには醤油が使われのであって、異物としてのソースを使用することにより完全に別の物体と化している。醤油もソースも使わない鰻丼なる一派もあるが、あのタレは粘着力がソースでも原料と味は完全に醤油組であるからよろしい。なお、閉じ卵圏の住人はソースを使用するカツ丼のことをソースカツ丼と呼んでいる。

 つまり「カツ丼」なる言葉が示す対象は閉じ卵のカツ丼とソースカツ丼のふたつがあって、完全に別の物とは言えないがよく似ていて、しかし一方には別の呼称がある故に混乱など起こる筈がないにも関わらず、ソースカツ丼圏の住人はそれを単に「カツ丼」と呼ぶから混乱が生じる。

 さらに加古川周辺ではカツライスなる手抜き料理が発生したという情報もある。第一変換が「桂椅子」だったが疲れてはいけない。これはソースカツ丼を丼ではなく皿に盛っただけの、これまたソースによる調味がなされて、しかし皿である以上は箸でなくスプーンを使うわけであり、いわば「カツカレーの、カレーの代わりにキャベツ」という侘しい風景で、家庭料理と呼ぶには相応しいが、名物と呼ぶには情けない。結構美味いのだから益々もって情けない。

青 04/01/13

 誰でも抱く疑問のひとつに「信号は青やなくて緑やんけ?」がある。

 これは実に複雑な背景がって迂闊に踏み込むと火傷してしまうのだが、少しだけ遊んでみようか。

 元々「アオ」は緑色を指す言葉であったらしい。だからその痕跡が結構残っている。「青葉」「青菜」「青海苔」「青林檎」「青桐」「青虫」「青竹」「青豆」「青蛙」「青柿」「青紫蘇」「青芝」「青汁」「青大将」「青蜻蛉」「青南蛮」いずれも緑色のものであるが、近代の言葉も含まれいてるようだ。つまりそれは接頭辞「アオ」として使われていることを示している。青蛙はアマガエル、青大将はそれほど青くない蛇、青蜻蛉はギンヤンマより小ぶりの蜻蛉、青南蛮とはピーマンのことだ。

 「未熟な」という意味で考えるなら「青二才」も含めるべきだが、そもそも「青二才」とは二年目でまだ幼魚である魚を指しているそうだから、そして魚もまた大抵青いと形容されることが多いから理には叶っている。「けつの青い」とはやはり未熟である意だから、「アオ」とは青色でもなく緑色でもなく、「若いこと」を指す接頭辞なのだ。

 ついでに「あおかん」の語源を見つける。「あお」は「青天井」の略で、「かん」は「邯鄲」の略であったらしい。青天井はつまり屋外で、邯鄲とはつまり「邯鄲の夢」から来て「寝る・眠ること」であろうから屋外で寝ること、やがて屋外での強姦・性交そして屋外での売春を意味するようにもなった。いつのまにか「かん」は「姦」が当てられている。やがて一般的とまでゆかなくともある程度の認知をされて以降再び屋外での性交を指すようになる。辞書を開けばとにかくそういう言葉を捜しておるのか己はという突込は不要だ。餓鬼でもあるまいし今更そんな幼稚な真似などしない。項目をひとつづつ読むから自然飛び込んでくるだけの話だ。今回は「青〜」とつく言葉を拾っていたら偶然挟まっていただけであるよ。ついでに言うと「青姦」の前には「青羹」があり、青い色の水羊羹なわけだが、これは災難な話やね。

 実のところ、「現在の緑色をアオと言った」「未熟な意をアオで使った」「実際に青いものもアオと言った」「海は青いな?」「發はアオと呼ぶぞ」色々な使われ方がとき解せないほど絡まりあっていて源流が判らないわけです。情けない話だがしょうがない。


や 04/02/05

 以前新釈熟語辞書を作ろうとしていたことがある。熟語に限定したのは形容詞や動詞などを加えるときりがないからであって、岩波国語の五版を元に「え」の中間まで進んだところで筒井康隆のビアス新訳が出て、しかも尚日本語の辞書を作るとあったからすっぱり諦めた事がある。

 そう、その頃はまだまだ阪神タイガーズが話にならないほど弱くて、優勝しなくてよいから最下位だけはやめてと開幕前から祈る時代のことで、熟語の「あん〜」と続くあたりの解説解釈を試みていた時、ふとこれはもしかして全て「阪神」で済むのではないかと考え、実行してみた。

 「安易・暗雨・暗鬱・暗雲・暗影・安穏・安閑・安居・暗君・暗穴・安固・安康・暗香・暗溝・暗黒・暗室・安心・庵主・安静・安全・安息・安泰・暗澹・安置・安着・暗中・安直・安定・暗転・安堵」ここのところ全て連続で「阪神タイガースの順位」と説明して事足りたわけだ。

 しかし221本部でプロジェクトが始まったことから潔く諦め、そして何を間違ったのか阪神に突然優勝した素振りなどをされてしまって、もう完全に廃棄物となってしまったこの見事なまでに意味の一致する並びを、とりあえずここで成仏させておく。ありがとう。いい夢見たよ。

 ところで関西弁は語尾が「〜じゃ」のところを「〜や」と変化している趨勢はやはりこの、口の構造から自然そうなるのでしょうかね。仏語猶語で「j」は「y」と発音するのもこれと同じ構造なのかと考えたりするわけですが、そうは言っても語尾の「じゃ」だけであって、しかも広島では強固に「じゃ」が残っていることから一般性には遠いかもしれない。浜っ子の語尾「〜じゃん」が「〜やん」に変化しないだろうし、もし変化したら物凄く違和感が生ずるのであって、しかしそう言えば広島の「じゃけえ」は「やけえ」になっているところを聴いたことがある気もするが、あれは単に関西に空気を吸い過ぎただけだったのかもしれない。


刷込 04/02/21

 「すりこみ」という言葉がある。

 産まれたばかりの雛が目の前の動く物を親と認識して同じ行動をとることを指すのだが、この「すりこみ」という言葉、かなり新しいようだ。漢字にあっては「刷り込み」が使われている。言葉はなくてもその仕組みは知られていたから「刻印付け」「インプリンティング」の言葉があった。

 名詞を送り過ぎることが嫌いなので「刷込」とするが、実は日本国語大辞典の初版にはこの語が載っていなかった。「すりこみ」には「擦り込み」だけがあり、伝統工芸風の言葉と説明があっただけで、不審に思ったからあたりの辞書を片端から調べると、大抵載っている。しかしそれらは殆どが昭和五一年に完結した日国のあとに改訂された版なので載っていて当然と考える反面、この言葉が辞書に収録されたのはこの二十年間の内であるということが導かれる。

 少し前に完結した日国の二版にはしっかり「刷り込み」が項目立てられていたから認知された言葉であると判った。耳で聞く「すりこみ」では字が「刷り込み」「摺り込み」「擦り込み」「摩り込み」「擂り込み」か判断がつかないのだ。「胡麻を擂る」の擂り込みは違うことはわかるが、「imprinting」から受ける印象は、「刷り込み」なのか「擦り込み」なのかで迷うところであって、また「込み」を平仮名にすると上の全てに加えて「掏りこみ」まで入ってくる。

 インプリンティングとしての刷込は匂いも認識に関連しているらしいから、肥溜に落とした人形を刷り込めば、いつか肥溜を見つけた際に不思議な衝動に駆られて飛び込むことになるのだろうか。それとも匂いの構成が微妙に違うだけで見向きもしないのだろうか。洗えば洗うほど代理親としての匂いが薄れてゆくわけであって、自立を促す為には有効であるかもしれない。


滴る 04/03/10

 「水虫祟るいい女」

 このような言葉を作って遊ぶのもそれなりに楽しいのだが、それなりに奥行きのある語呂合せであったとしても、その話が一通り見えるとそこで終わってしまう。しかしこの言葉には不思議なリアリティが篭っているように思えるのは気のせいだろうか。それでも水虫だけで済むならよいではないか。

 「祟る」という言葉からは不吉な印象を受けるのだが、それがどことなく愛嬌があるかに感じられる「水虫」と結合し、そして「いい女」と続けば思わず失笑に繋がるのは、この言葉の裏に垣間見える物語の展開が鮮やかに描き出されるからであって、当然「水も滴るいい男」という言葉とその意味するところを知っていなくては話にならないのだが、ではこの元の言葉の語源は何か。

 調べてみると近代以前は「しただる」と発音したらしいが、何と「水も滴るいい男」「水も滴るいい女」の語源が不明だ。僅かに判明したのが「『滴つ』に対する自動詞」ということ、そして「したたる」その言葉には「水がぽたぽた落ちる」という意味のほか、「瑞々しさが溢れんばかり」という意味もあった。このあたりから慣用されたらしき「水の滴るよう」が後者の意味でもって使われるようになり、やがて男やら女やらをくっつけて姿態を描く言葉となったらしい。

 また瑞々しさで水が滴るというのは、産まれたての赤ん坊を指している可能性もあるのではないかと考えてあれこれ辞書を漁ってみたが、よく判らないまま疲れてしまい、ふと目についた拷問についての本などを読み出す始末であった。


& 04/04/08

 「&」が書けないのだ。

 正直に言うが、手書きでは未だに「&」の正しい書き方に迷うのだ。まずペン先をどこに落とすのかつまり左下から書き始めるのか右下か左上か右上か。その後どの方向へ向かえばよいか。どの段階で小円を作ればよいのか。毎度迷って毎度適当に書くものだから毎度違う形に仕上がる。

 俺は「&」を書きたいだけなのだ。なのに何故「ト音記号」になるのか。俺は「&」を書きたいだけなのだ。なのに何故「筆記体Fの小文字」になるのか。俺は「&」を書きたいだけなのだ。なのに何故アラビア数字「8を串刺しにした形」になるのか。判らないながらもつとめて「&」の雰囲気を精一杯表現しようと苦悶した結果が梵字になるというわけだ。

 ト音記号を意識した場合、これは不思議に必ず正しく書けてしまう事も屈辱感を増大させている。筆記体Fの小文字など目を瞑っても書ける上「&」には見えないのだが、「&」を書こうとした結果Fになることも腹が立つ。「アラビア数字8の串刺し」に至っては意識して書こうにも一筆書きでは不可能なのであり、如何なる行程を経たのか見当も付かない事は悲しみを通り越して虚無が残るのみだ。

 今一度書いてみたが、これは最大限好意的に解釈しても「筆記体Sの大文字」と呼ばれるものだ。近い気もするが裏返しのようでもある。改めて「&」をつくづく眺めてみたが、始点と終点共に右下とは如何なる了見か。右下スタートと覚えてもその後左に進むのか左上に進むのか。この瞬間に覚えてしまおうとする気力が萎えるではないか。

 平仮名を学ぶ外国人は皆「ほ」や「ぬ」で似た苦労をしているのだろうか。だとすれば一方的に戦友と呼ばせて貰いたい。その上順列組み合わせと、その例外だらけの漢字群を相手にせねばならないのだから頭が下がる。我々は一体何故にこれほどややこしい言語を平然と利用しておるのかね。この言語で育つ者の識字率が99%であることは奇跡と呼ぶに相応しい。同時に完璧な正しい日本語を使うことの出来ない者が手前も含めて99%であることは併記すべきだが、そのうち「&」に迷うのは如何ばかりであるのか。


払う 04/05/22

 酔っ払いの「払い」が疑問になった。

 単純なのに何故か判らない。何時頃から使われるようになったものか。大辞林で「払う」を調べてみたら様々な意味がある。「酔っ払い」は名詞であって、その元となったのはおそらく「酔っ払う」で、これは更に「酔い払う」と推定出来る。では、酔い「を」払うのか、酔い「で」払うのか、酔い「に」払うのか。

1、邪魔なもの、無益なもの、不用なもの、害をなすものなどを除く。
→酔漢は確かに邪魔で無益で不用で時として害を為すが、「除く」が違うようだ。

2、人や動物をその場からいなくさせる。去らせる。また、先払いをする。
→所謂「殿。おそれながらお人払いを」というやつで、関係ないだろう。

3、圧倒する。威圧する。
→酔い「で」ならば納得出来なくもないようだ。 

4、不用なものを売って処分する。
→売るわけではないからこれも違う。

5、金銭を渡す。
→この意味は限定されたものだから確実に違う。

6、目的を達するために、あるものを費やす。消費する。
→「犠牲を払う」などの用法だから関係ない。

7、それまで居た場所をあける。引き払う。
→引き払うならば酔いとは繋がらない。

8、気持ちをあるものに向ける。心を傾ける。
→「注意を払う」だから、酔いとは正反対の方向だ。

9、すっかり失われる。全くなくなる。
→「威信地をはらう」意味としては通じている。
「酔ってしまって威信地を・・・」あまりにも治まりがよい。

10、刀・棒などを左右に振る。なぎ倒す。
→酔漢は薙倒される事の方が多い。

11、従わないものを討ち退ける。平定する。
→我侭放題の酔漢が目に浮かぶようだ。

12、軽く叩くように触れる。
→それは突込と呼ばれるものであり、
 酔いは格別関連してはいない。

13、ごみやちりなどを取り払う。はき清める。掃除する。
→「掃く」「はわく」系統の意味だから違う。
 「吐く」に掛けられているわけではないと思う。

14、追放する。追い払う。
→「向こう三年江戸所払い」などの追放刑のことだから、 この用法も関わりはない。

 幾つかの意味は通っているような気もし、全く関係気もする。複合的に勘案された結果なのか、単なる当て字なのか、結局不明なままであった。それならば全部繋げてやろう。

「酒に酔った者は邪魔で無益で不用で時として害を為し、同席した者は立ち去ってしまう。辺りを睥睨威圧し、財布の中にある割引券などを無理矢理売りつけ、酒席の勘定をここは俺がと見栄を張る。義理でついてきただけの女を目的に全身全霊を打ち込み、次の店に行く。相手に集中してみると様子が胡乱なことに気付く。それまでの醜態に威信は損なわれている。断りの言葉に武器を持って暴れる。取り押さえようとする善意の第三者を討ち退け、平定する。突然嘔吐感を催し喉の奥に指で触れる。我に返り、反省して掃除を手伝う。その店には出入り禁止となる」

 これが酔っ払いというものだ。


手垢 04/05/23

 「手垢のついた表現」なる表現は、それ自体が既に手垢塗れなのだが、何故かその矛盾が指摘されることは少ない。

 理由はこの表現が必要とされているからであって、類似の「使い古された言葉」もまた自省せよとの非難を浴びない。この非難を内包した表現が氾濫しているのは、非難の対象である事例の多発を受けてのことだから必要とされるわけだが、では、必要とされる言葉ならば手垢に塗れていてもよいのだろうか。

 影響力のある作家が使った言葉を皆が挙って真似した結果、その作家までもが「陳腐でありがちな言葉を使っている」と言われてしまうことがある。この場合、誰の尻を蹴飛ばせばよいのか。

 必要とされる言葉だから如何に陳腐であろうが構わないと仮定するならば、各種諺を必要とする状況に於いてその諺に対し陳腐である旨の攻撃が加えられるよりむしろその陳腐な状況に陥った事を恥じ入るべきである筈なのに、実際は違う。

 「馬鹿は風邪を引かない」というのは、阿呆に見立てられている者の周囲がぱたぱたと風邪に侵されてしまいながらもただ一人跳ね回っている奴を指している。多分にやっかみも混じってはいるが、これは表現が陳腐なのではなくてその状況が陳腐なのだ。ありがちな状況だからありがちな表現になってしまう。ところで馬鹿だけが罹る風邪はないのか?

 つまり「よくある表現にうんざりしているのではなく、よくある状況にうんざりしているだけ」という考え方はどうだ。


刺 04/05/28

 刺身は切り捌いた身なのに何故「刺」の字が使われているのか知りたい。「切」は忌み言葉であるからか。身があって刺身にしてもらいたい時「刺してくれ」とは言わない。もっとも「切身」から浮かぶ姿は「鮭の切身」の一片のことであるから納得しないでもない。

 実際のところは「盛り付ける際に何の魚か判るよう鰭を刺したから刺身」となるらしい。更に「刺」の字も忌避して慶事で利用される料理屋から「造り」の呼び方が拡まった。祝いの場ではで鮭の塩焼きは余り出てこないから、「祝いの席で切身・・・」という戸惑いは感じなくてもよい。

 一方法事などで仕出し弁当の中に切り身があるとどうなるか。よほどの悪意がない限りそこまで深く考えないし、そもそも卵焼きだって蒲鉾だって切り身と言えば切り身なのだから気にすることはない。

 ならば祝いの場で供される料理には一切包丁は入っていないのか?卵焼きは一片づつ焼かれたものか?紅白の蒲鉾は一片づつ練り蒸したものか?そんな事はない。となると祝いの場では切身であるかどうかなど気にする必要はないから尾頭付いてなくともよいことになる筈だが、やはり身だけというのは具合が悪いようだ。

 何もそこまで無理をすることはないではないかと思うのだが、そもそも祝い事など皆で合わせて無理をしているのだからそれで相応しい気がしないでもない。


漢 04/06/02

 「漢」とは古代中国の国名であるが、滅んで後にその繁栄ぶりから漢の者は男の中の男だとの意味で「漢」を「成人した立派な男」の意味で使うようになり、やがて数多の語が派生した。「好漢」あたりならばそのまま理解出来る。三文字では「正義漢」「熱血漢」「硬骨漢」「無頼漢」が有名どころだ。ところでこの「〜漢」の派生語、現代日本ではあまり使わないものもある。「快漢」「壮漢」など、字面から雰囲気が掴めても慣れていないせいか違和感が生ずるようだ。

 また、派生する過程で肯定的なものより否定的な語も数多く生まれた。こちらの方が多いのは「漢」に対する恨みなのか、「漢」の字の意味・価値が落ちたせいかは不明だが、否定的派生語の方が身近であったりする。「冷血漢」「門外漢」「酔漢」「大食漢」「巨漢」「変節漢」「痴漢」「暴漢」「怪漢」「兇漢」「醜漢」これぞ満場の悪漢諸君といったところか。

 ほか調べてみると、当然漢王朝関連、仏教の羅漢系統、空や星・天の川などを指す派生語、そして「頓珍漢」などの分類に苦慮する語もあるが、ここでは「漢」の意味を「おとこ」に取っている言葉だけを挙げる。上で出たもの以外の語は使われる機会の少ないもので、以下意味を加える。単に手前が知らなかっただけであることを秘密にするつもりは別にない。

俗漢    俗人と同じ
鈍漢    のろまな者
老漢    年老いた男
木強漢   一本気な男
多血漢   血の気が多く感じやすい性質の男
無腸漢   腹の座っていない男
担板漢   物の一面しか見えない者
田舎漢   いなかもの
木石漢   人情・風流を解しない男
没字漢   文字を知らない人
没風流漢  風流を解さない男
没分暁漢  物分りの悪い男

 「鈍漢」は「鈍感」より古い語で、感はもともと当て字だったのではないかと思う。「担板漢」は、板を肩に担ぐと表裏のどちらか片方しか見えないことから出た語らしい。「老漢」は老いた者の自分を卑下した一人称として使う場合もあるようだ。

 「無腸漢」以下の意味する人はどこにでもいるから遠慮なく使いたいものだが、例えば「田舎漢」を正しく「でんしゃかん」と読める者などいないだろうから二の足を踏む。ほぼ全て音読みで間違いはないが、「鈍漢」で「のろま」と読む事例もあるので、他にも訓読される語があるかもしれない。「没分暁漢ぼつぶんぎょうかん」音の響きが仏壇の名前のようで笑えるが、ルビを振るなら「ニブいやつ」、訓読みするならば「わからずや」といったところか。

 とりあえず「担板漢たんばんかん」はこの先使うことにする。「無腸漢むちょうかん」も微妙に捨て難い。


梅雨 04/06/26

 梅雨とは。

 「五月雨さみだれ」とも呼ばれるが、字は梅の実が熟す頃に降る雨のことで、また、この時期には黴が発生し易いので「黴雨」と当てることもある。

 現在の暦の六月から七月中旬頃に朝鮮南部・長江下流域・北海道を除く日本で見られる雨季を指すのだが、「雨季」という言葉は如何にもアジア的な響きを有している。最も日本のそれは「雨季」ではなくて「雨期」とする説もあり、こちらは余韻に乏しい。しかし「雨季」から想起される印象は陽性の雰囲気であり、日本の雨期である梅雨は相当しないように思える。「ここで一年分纏めて落としておくでな」というすっきりしたものではなくて「油断してるから降らしたろ。警戒しとるから雲だけにしとこ」という陰湿な雰囲気が漂う梅雨は嫌われ、唯一紫陽花に救いを求めることになる。

 梅雨を尻に持つ一群があり、以下それを並べてみる。

走り梅雨 本格的な梅雨になる前のぐずついた天気のこと 
空梅雨  梅雨の時期に雨があまり降らないこと →照り梅雨
照り梅雨 梅雨の時期に雨があまり降らないこと →空梅雨
返り梅雨 出梅後再び梅雨と似た状態になること →戻り梅雨
戻り梅雨 出梅後再び梅雨と似た状態になること →返り梅雨
残り梅雨 梅雨が明けた後のぐずついた天気のこと
送り梅雨 梅雨明けのときの雨のこと 時に雷、時に豪雨となる

 上は梅雨前後の言葉であり、直接梅雨に関わるあたりの言葉だ。しかし梅雨という言葉には不思議な魅力があるらしく、初夏以外の雨にも冠される事例がある。

菜種梅雨 菜の花の盛りのころに降る長雨
山茶花梅雨 山茶花が咲く頃のぐずついた雨
秋霖 しゅうりん 夏の終わりに秋を告げる雨
筍梅雨 筍の生える頃に続く長雨

 季節の変わり目は天気が崩れ易く雨が増える。それぞれの雨に梅雨を冠して春の始めに「菜種梅雨」、晩春から入梅前の初夏に「筍梅雨」、夏の終わりから秋口に「秋霖」、秋から冬に「山茶花梅雨」となる。冬から春のいわゆる「春の嵐」というやつは「梅雨」の概念を超えた騒ぎであり、しかも後味がさっぱりしているから梅雨の名を謹呈されることはなかったらしい。


かち 04/08/05

 甲子園名物に「かちわり」がある。

 ところで関西弁には「ド頭かち割るぞぼけ」という屈折した愛情表現もある。また更に思いがけない場所などで偶然に知人と行き逢った時には、それが嬉しい人であれ複雑な人であれ「かち合う」と表現することもある。専門用語で「カチ込み」もある。この「かち」とは何か。接頭辞に見えるのだが、語源を知らないから他に流用したくとも使い方が判らない。調べると「搗(か)ち合う」を見つけた。意味はそのまま「偶然鉢合わせすること」であり、「搗(か)ち」と送られている以上これは動詞のようだ。

「搗(か)つ」 臼でつく

 成程了解した。臼で餅をつく時の動詞として「かつ」を用いるわけか。いや待て。「餅をつく」の「つく」は動詞ではないか。これは一体どういうことか。「餅を搗(か)つ」と言うだろうか。もう少し奥に何かがありそうだ。そもそも餅つきの「つき」は漢字でどう書くのか朧であったから、ついでに見ると「餅搗(つ)き」とある。そういえば見覚えのある字だ。確かにそれで「もちつき」と普通に読んでいたことを思い出し、そこから「かちわり」までの道を探すことにする。

 まずは漢字そのものに当たろう。「搗」の字、音がトウであることは推測出来るのだが訓が「つ-く」なのか「か-つ」なのか、或いは両方なのか。「つ-く」であった。ここで「か-つ」とは、杵を臼につく際の音から来たことを知る。つくならば「搗(つ)く」を調べればよい。

「搗(つ)く」 「突く」と同源 杵など棒状の物で穀物・木の実などを強く打ち、砕いたり、押し潰したり、殻を除いたりする。
     「米を―・く」「餅(もち)を―・く」「あたね―・き染木が汁に/古事記(上)」

 これが「か-つ」になるのはいつの時代だろうか、ぶつかる際の音として「搗(か)ち合う」に組み合わせた相撲の用語にいくつかある。「搗(か)ち上げる」は立ち合いで相手の上半身を突き上げることで、これは名詞化して「搗(か)ち上げ」に残る。「搗(か)ち落とす」は叩き落す意である。そして秋成の雨月物語に「搗(か)つ」があるようだ。

 しかし験担ぎの「勝ち栗」はもと「搗ち栗」であるから「搗(か)つ」は少なくとも戦国時代には存在した表現だろう。餅や木の実を潰す作業の「搗(か)つ」方から丹念に当たればある程度絞られるだろうが、それは専門家に任せよう。ついでに知ったのは「搗」一字を季語では「もちつき」と読むこと。

 突き砕く意味からすれば「かちわり氷」には何の不審もなく、「かち割る」もまた何か棒状のもので割ると考えれば問題はない。

 「搗き交ぜる」の表現を拾ったが、これは「つきまぜる」であるから少し外れる。「かち」が突く・砕く・潰す・打つなどの意味を持つならば、例えば「どつきまわす」を「かちまわす」のように展開させることが可能だ。ただしこれは動詞の頭に連結させた場合に限るようなので少しばかり難しい。複合可能な動詞を総当りで組み合わせてみたが、完全に時間の無駄であった。長い歳月の中で発生した「かち」を頭に持つ言葉の少なさは、融通性がなく、既に限界であることを示していたようだ。

 僅かな収穫は、「飛ぶ」に連結させて「かち飛ぶ」とした際に、「かっ飛ばす」の「かっ」が単なる接頭語ではなくて、棒状の物で球をしばく意味から、「搗っ飛ばす」が語源であるようだとの確信を得たことだ。

※真剣に「刈る」説を諭すメールは必要ありません。そもそもこのサイトの文章を信用する方が間違っている。「そういう考え方もあるのか。で、本当のところはどうなんだ?」と自ら調べる行動に出ることが求められているのです。


もじ 04/10/18

 電子辞書や電網辞書で有用と思えるのは、後方一致の機能だ。

 かつて逆引の辞書が人気を博したのは語呂合わせやパズルに対して便利であった陰に、それまで見過ごされていた特質を炙り出す効果があったからだ。逆引の場合大抵は語句の説明は省略されて単語だけが整然と並んでおり、思わぬ繋がりや意外な組み合わせが数々発見されてその道の愛好者を喜ばせていた。

 文字詞とは女房詞のことであり、漢字が男のものであった時代に大和言葉を仮名に託して残った女の言葉であった。その名残の一種が語尾に「〜もじ」と付く一連の言葉であり、だから文字言葉とも当てられる。物の名を直接呼ぶことを避けるのは言霊信仰の残滓でもあるが、隠語として集団語として作用したのは想像に難くない。

 純粋に文字の種類や特徴を指さないもので、物の一文字に「もじ」を接合したもので、今に残るのは「杓文字しゃもじ」が有名だ。「そもじ」はそなたの「そ」であるからそもじとはそなたの意味を持つ。順に適用して「いもじ」は烏賊であり、「はもじ」は恥ずかしいであり、とにかく尻に文字を付けてしまい「い」で始まる言葉は全て「いもじ」となるから不便にも思えるが、口語の遊び要素が含まれていたとすれば不便は楽しみに変わる。

 現在に残ったり文献に散見される有名な文字詞は限られているが、当然それだけに限らず使用されていたから文字詞の一覧は余り役に立たず、むしろ印象を固定してしまう危険性がある。

 文字詞との関連性を探りつつも「もじもじ」の確たる語源に辿り着けないことに、落ち着かずわけもなく照れている状態を指すには相応しい言葉だと考えながら、照れた際畳に繰り返し「の」を画く誇張された行為が関係しているのではないかと憶測を掲げて消え入るように退場する。


鼠 04/10/19

 「秋茄子は嫁に喰わすな」という諺の解釈は気遣い説といびり説が組み合い使うに使えない状況となっている。

 新春に現れる初鼠のことを「嫁が君」と言い換えたところから鼠の事を嫁と呼び、「漬物にする為の茄子を鼠に齧られるなという意味である」という説が個人的に筋が通っているように思う。また新春の鼠が何故秋なのかという疑問は単純に鼠と直接呼ぶことを憚る風潮か、方言として嫁と呼ぶことが一般的であった地域の影響か、はたまた初夢三位が関係しているのか、そのあたりの説明が難しいのだが、「嫁」を字義通り解釈することを避ければこの説が成立する可能性を増す。実際の「嫁」は隠語として「山の神」と呼ばれたりしたわけで、その言葉には恐妻の印象が強いから気遣いもいびりも連想し辛い。

 秋茄子ではなく「秋鯖」としても言い習わされている。この場合の解釈は少し難しい。茄子と鯖のどちらかが先に完成してから変形したと考えると完全に同じ意味を成すとは限らないが、かと言って単純に腐り易いからという理由では筋が通し難い。腐り易いからこそ齧らせるなと解釈して出来ないこともないが、発生した当時の意図にしては単純過ぎるようだ。

 言葉の意味が変遷するに従い本来の義を失うことは言語の成長を示しているが、言語の成長とは失うものを意味だけに留め本来の義を忘れてしまわないことが条件となる。語源や発生当時の状況を置き去りにして使うことは仕方がないにしても、元来はどのような意味であったかを知っていることが最善で、知りたい時簡単に知ることが出来るよう状態を整えておくことが次善となる。知りたいと思った時にはその言葉の由来が完全に失われ手遅れであることが多いのは、簡単な言換を安易に用いて本来の意味の保存を怠っているからであり、意味の変遷がそのまま時代の変遷を象徴しているのだから、過去の時代を抹消することは文化の圧殺であり、それは一見成長進歩に見えたとしても、土台である過去を葬る所業は自信の喪失に繋がる。


ち 04/11/09

 手前がぴちぴちの二十代である主旨の発言をしたところ、「ぴちぴちとは十代に使うものである」との反論が提起された。

 その瞬間に「子供ならよちよち」「三十代ならむちむち」と二文字目が「ち」の擬態畳語が浮かんだ。直後から統一感のある年代別擬態畳語が作成出来るのではないかと考え、眼前の相手を放置して練り始め、最終的にこうなった。

十代以下  よちよち
十代     ぴちぴち
二十代   もちもち
三十代   むちむち
四十代以上 こちこち

 そして死んだら「かちかち」燃やして「ぱちぱち」遺灰が「あちあち」お墓に「ぼちぼち」

 後半はケーシー高峰あたりの生霊が憑依したように思えるが、何故だか四十代以上には「○ち○ち」形式の適切な擬態畳語が存在しないことを知ったのだから、一応無駄ではなかった筈であるとの自己暗示を施した。念の為に総当りで確認してみたのだが「びちびち」「ぷちぷち」など使うに使えないものばかりが拾い出されて諦めた。

 またよく見るとそれぞれ対象とする現象や事象が微妙に違うから、統一したかに見えても単に「ち」を揃えただけの幼稚な尻合わせに過ぎず、更に落ち着いてから眺めると「ぴちぴち」「むちむち」の性別は有無なく決定しているのであり、戯れに言うのでないならば明らかに不完全であることが認識された。

 それにしても、くだらないばかりか失速して放心を誘う結果になってしまった事に我ながら片腹が痛む。


霞 05/02/07

 霧と靄の違いがよく判らないので調べてみた。

 気象庁では予報用語として以下のように規定されている。

霧 「微小な浮遊水滴により視程が1km未満の状態」
濃霧 「視程が陸上でおよそ100m、海上で500m以下の霧」
靄 「微小な浮遊水滴や湿った微粒子により視程が1km以上、10km未満となっている状態」

 稀に「濃霧注意報」の言葉を耳にすることはあるが霧と濃霧が使い分けられているとは知らなかった。備考の「濃霧注意報の基準は地方によって多少異なる。」とは濃霧の程度で注意報の出る地域と出ない地域があるということか。

 これを見る限り視程の長い順では「靄→霧→濃霧」となるようだ。しかし続きがある。

霞 「備考 気象観測において定義がされていないので用いない。 」
煙霧 「乾いた微粒子により視程が10km未満となっている状態。」

 つまり「煙霧→靄→霧→濃霧」となるわけだ。それで霞はどの辺りに入るのかと疑問に思ったが、話は単純で霧と霞は同一の気象現象を指す。微小な浮遊水滴が地表近くに立ちこめている、つまり地表に雲のある状態を「霧=霞」と呼ぶが、その使い分けは文学的な曖昧さに起因する。すなわち春の霧を霞と呼び、秋の霧は霧と呼ぶ。万葉集の時代は一律霧であったが、平安頃から春に限って霞と呼ばれるようになったらしい。

 同一の現象を無理矢理区別するほど野暮じゃない気象庁には拍手を贈ろう。「霞」という言葉が使われないことは悔しいが、「霞む」と動詞になって生きているから心配する必要はない。


じっ 05/03/11

 標準語を喋ると舌を噛むのではなく、標準語を喋ろうと考えただけで舌を噛む。

 標準語と関東弁を混同している人は多いのだが、今では一応正当と呼べる標準語はアナウンサーが何かを読む際のもので、それ以外はまず関東弁と考えてよい。

 十は「じゅう」と読むが、これを用いた熟語で「十戒」「十手」「十指」などは「じっ」と読む必要がある。促音になる場合は「ゅ」を落とす。「じゅって」などの読み方は関東訛であり、標準語では「じゅっ」ではなく「じっ」が正しいとされている。辞書を引いてみれば判るが「十把一絡げ」は「じっぱひとからげ」なら載っているが、「じゅっぱひとからげ」は載っていない。あっても「じっぱ」に誘導される。だから十中八九は「じっちゅうはっく」でなければならないし、十返舎一九は「じっぺんしゃいっく」と読む。アナウンサーの発音を注意深く聞いてみるとよい。「十階」は必ず「じっかい」と発音している。していなければ後で叱られる。

 これは元来「十」の読みが「じゅう」ではなくて「じう」であったことを示唆するものだ。遡れば「じふ」であったことは歴史的仮名遣いとして学んだとおり、促音以外の十字架などはかつて「じうじか」であったろうが今では「じゅうじか」が本流となっている。

 呉音が「ジュウ」漢音が「シュウ」唐音は「シ」だから一巡廻って元に戻ったと言えなくもないのだが、告示などで規定してあり各種辞書辞典もそれに従っている以上「明らかに間違えている読み」を押し通し、十個を「じっこ」と読む事に違和感を感じるのであれば、貴方は標準語を諦めた方がよい。

 読みや発音は時代によって変化する。それを強引に規定して意図的に膠着させることで不具合は不具合のまま混乱が拡がる。本来であれば不具合は自然に解消されてゆくのだが、言葉を集めて解説する筈だった辞書がいつの間にかその権限を越えて言葉を規定するようになってしまった。

 個人的には「じゅっこ」などの「じゅっ」は大変に気味悪くて嫌いだからそれらを収録した辞書は相手にしたくない。しかし言葉は変化してゆくものと考えているから葛藤が生じ、好き嫌いとは切り離して検討するべきなのだと自らに言い聞かせることに毎回失敗している。


馬鹿 05/03/17

 「天才と紙一重」は馬鹿でない限り馬鹿を指していることを理解する。

 なのに「馬鹿と紙一重」の場合「馬鹿すれすれ」を意味するのは何故か。事実上の馬鹿を指すのは何故か。対称的な構造なのだから意味も対称でありたいのにそうはならない。侮蔑語から派生する言葉が褒め言葉へと昇華し難い理由は減点評価の社会である故なのだろうか。

 「一歩間違えば馬鹿」の場合も褒めているよりは呆れている感情が強い。少なくとも間違ってはおらず褒めているつもりであるが、間違えなくてよかったなという思いといっそのこと間違えたほうがよかったんじゃないかの思いが絡まった挙句に零れた表現であるからだ。

 馬鹿の由来は通常知られている「鹿のことを馬と云々」ではない。馬鹿は当て字で本来は梵語の「moha愚か」に莫迦の漢字が当てられ、それが日本に来てから更に伝説の故事の馬鹿を当てられて今に到るという。馬鹿の文字を勝手に自主規制しておいて「莫迦」の文字なら構わないとする出版社を表現するには「馬鹿」が適切だろうか。

 馬鹿を使った褒め言葉を探してみたが、「馬鹿当たり」「馬鹿売れ」程度しかないようだ。それでも感心よりは呆れている雰囲気が感じられるので素直に褒めているわけでもないらしい。これらもそう古い言葉ではないから「馬鹿」を使って素直に褒めるのは非常に難しいことが判る。


不鳴不飛 05/03/22

 「鳴かず飛ばず」という言葉がある。

 出典は史記だから由緒ある言葉なのだが、「何をしても上手くいかない」という意味ではない。雌伏の意味で使う言葉であるから「鳴きたくても鳴けない、飛びたくても飛べない」ではなく、「鳴けるが鳴かない、飛べるが飛ばない」の文脈で用いる。しかし現状では「鳴かず飛ばずで終わった」のような使い方が多く、「雌伏しただけで終わった」という意味としては間違えてはいないが、それが雌伏かどうか実に疑わしい。

 多いのはスポーツ殊に球技分野の野球やゴルフを報道するスポーツ新聞に多い。スランプを鳴かず飛ばずと呼ぶのは違うのだ。どうしても使いたい場合はスウィング改造中なので結果は出ていないが、いざとなれば元のスウィングで幾らでも爆発してやる、という状況に限られる。改造に失敗したり元の姿勢を取り戻せなかったりして本格的なスランプに陥った場合は鳴かず飛ばずとは呼べなくなる。

 何をしても上手くいかない場合は「鳴けず飛べず」と表現するべきであるが、そのような虚勢を張るよりも正直に「踏んだり蹴ったり」と自己申告する方が潔い。結果として鳴かなかったのではなくて意思として鳴かない場合に限定して使うべき言葉を、その出典背景を知る人が自嘲気味の冗談として使うようになり、次第に出典背景を知らない人が誤解したまま濫用することで意味が大きく変わりつつある。

 従って冗談のつもりで「鳴けず飛べず」と呟く人は、その意味は自嘲であるから冗談ではなく正しい使い方をしていることになる。




Copyright 2002-2005 鶴弥兼成TURUYA KENSEY. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. 著作権について リンクについて 管理人にメール お気に入りに追加

[★高収入が可能!WEBデザインのプロになってみない?! Click Here! 自宅で仕事がしたい人必見! Click Here!]
[ CGIレンタルサービス | 100MBの無料HPスペース | 検索エンジン登録代行サービス ]
[ 初心者でも安心なレンタルサーバー。50MBで250円から。CGI・SSI・PHPが使えます。 ]


FC2 キャッシング 出会い 無料アクセス解析