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解釈
平仮名
書癖
コラム
思い付き
文末
テーマ
こばなし
難しい
走り書き
記号


「良い文章ってどんな文章?」

「何度読んでも飽きないような、読む度に発見のある文章」

解釈 03/03/09

 剃りたきは心の中の乱れ髪 つむりの髪はとにもかくにも

 鴨長明作と言われているこの歌がやがて

 「頭剃るより心剃れ」となる。随分すっきりしたものだが、これはこれで満身の皮肉を込めた一点錐刺す鋭い言葉になっている。

 物事に形から入る奴が昔から多いことがこれでわかる。今も昔も変わりなく馬鹿は馬鹿であるらしい。大体頭を丸めてそれで許されると思っているのは甘い考えであるが、それで許してしまう奴が多いことはどう説明をつければよいのだろう。

 世の中には足りなくて悲しんでいる人もいるというのに。

 ところで「心を剃れ」これをどう解釈するか。心臓に毛が生えているような奴はもともと反省などしないからこの言葉、無駄である。無駄であるが故の言葉なのか。それとも雑念を振払えということか。

 言いたいことは凄く伝わってくる。「反省するなら本気でしろ。まあどうせしないだろうが」この反語がよく見える。しかし長明の「剃りたきは心の中の乱れ髪 つむりの髪はとにもかくにも」にはそのような雰囲気はない。自分に叱咤している風に見せかけて「ま、どうしようもないわな」という脱力感が感じ取れる。

 さらに「心の中の乱れ髪」とは何か。実のところこれを何と受け取るかは人によって違う。そしてここを抽象的に表現することで、各々の心の弱点を炙り出す仕掛けになっている。曖昧な表現により解釈の余地を残すことで読み手に想像を強要することで、結果読み流すことを防ぎ、不思議にいつまでも頭の片隅に残るのだ。

 誤読の余地のない文章を書くことは不可能であるが、かといって解釈の余地を残し過ぎたら手抜きと評される。この間は結構広くて出来るだけ誤読をさせない文章を目指す人がいて、手抜きと抽象ぎりぎりで踏んばる人がいて、誤読を誘う文章を狙う確信犯的な書き手がいて、それぞれがそれぞれを貶すことになっている。

 よくある作文の基本に、「わかりやすくかくこと」というものがある。これは確かに基本ではあるが、小学生レベルの基本であって、反語比喩隠喩暗喩直喩皮肉などを読み取ることが出来ない人向けに書く場合にのみ有効なものだ。「掛かり言葉がどこに掛かっているかわかりやすく書く」などという恥ずかしいことは、確かに読みやすい文章になるかもしれないが、それは読んだ後で何も残らないすかすかの文章になることが多い。意図的に解釈の余地を残すことが読み手を引き込むことが出来るし後々思い出すこともあるのだ。

 遠い昔のことをふと思い出したとき、それはずっと疑問に思っていたことで、無意識に覚えていたことが何かの切掛けで腑に落ちることがある。読書の世界ではこれが四次元回路となる。これも読書の大いなる楽しみの一つなのだ。


平仮名 03/03/17

 何故「ひらがな」ではなく「平仮名」と漢字で書きたくなるのか。

 まず平仮名そのものがあまり好きではないことが挙げられる。何故好きではないかと言えば、書くのが難しいからだ。微妙すぎる曲線を自在に生み出す能力は持ち合わせていない。

 そしてもうひとつ、こちらが重要なのだが、平仮名が多いと読み難くて目眩がするのだ。ここが不思議なところで大抵の人は「漢字が多いと目眩がする」と言う。当然漢文なら手前も目眩がしないように目を逸らす。しかし適度に漢字と平仮名が混じっている方が読みやすいだろうと言い張ると、「でもやっぱり漢字多いのは嫌」

 そう言って漫画を読んでいる奴がいる。しかしだな、漫画の台詞は漢字が使われているだろうに。すると「絵があるから字が少ない」字のある漫画を読んでいるわけだろ?「ゴン」しか読まないわけじゃないだろ?あれは台詞がなくても腹抱えて転げ回る程面白いから好きだが、普通に読んでいる漫画の台詞には漢字が適度に使われているだろうが。「小学○年生」を読んでみて平仮名だらけの台詞や文章が如何に情けないものか確かめてみろ。よろしいか。大人が読む小説で不自然な平仮名を多用するジャンルと言えば「官能小説」ぐらいしかないのだ。あれは意図的に読み難くしてじっくり時間をかけて読ませる為に平仮名が多いのだ。適度に漢字が混ざってあると快調に読めてしまい、気が付くと読み終えている。内容は大抵同じなので数冊読んだら飽きる。違うのは状況と主人公の設定だけである。あっさり読み終えて「くだらない」と思う読者を平仮名にして足止めをしているのだ。

 そして平仮名多用の弊害は「すもももももももものうち」ですべて露呈している。

「李も桃も桃の内」まず接続詞の頭と同じ字が単語の最後に来る単語をその接続詞に接続する際は必ず漢字にしなければならないこと。同様に接続詞の尻と同じ字が次に来る単語の頭と同じものであった場合も漢字にする。漢字に出来ない理由があるならば、仕方がないので渋々読点で誤摩化す。これくらいは出来た方がいい。

 「そして繰り返しを避ける」という技術も必要だ。「李も桃も桃の内」これは「桃」が繰り返しなので、普通の言い方をするなら「李も桃だ」でいい。上のパラグラフは接続と接続詞を繰り返し書いてみたが、読み難いだろう。「繰り返しを避ける」これに添ってすぐ上の段落を整理するとこうなる。

「同じ平仮名を続けて書くな」


書癖 03/03/19

 例えば「〜する時」と「〜するとき」の使い分けなどを気にするようになったのは大学生の頃からであって、それまでは単純に漢字が多いと「とき」少ないと「時」を使っていた。

 読んでいるだけなら別に気にはしないが、実際に自分で文章を書いてみると、どうしても「時」で迷うようになってくる。迷っている頃は何を読んでも「時」をどう処理しているかが気になってしまい、まともに集中出来なくなっていた。

 試行錯誤の末、「〜のとき」「〜するとき」「〜したとき」は仮定や抽象的な意味合いで使用する、「〜の時」「〜する時」「〜した時」は厳密にその瞬間あるいは時間が特定出来る場合にのみ使うようにした。

 正しい使い方かどうかは問題ではない。こういう書癖なのだ。「こういう書癖」を「こーゆー書癖」と書かないのも書癖だ。あれには反吐が出る。

 おそらく既に気付いている人もいるだろうが、手前は片仮名が嫌いである。「カタカナ」と表記することにも抵抗がある。これが何故なのかずっと自分でもわからなかった。つい最近筒井康隆の本を読んでいて、ついでにいつか読んだエッセイで「片仮名が嫌い」とあったことを思い出して、自分の原点を改めて確認した。そのまま「音引きも嫌い」な理由が同じであることもわかった。音引きとは「エッセイ」を「エッセー」と表記するときの「ー」のことで、「ウィスキー」ではなく「ウィスキィ」と表記するのがまた書癖だ。

 このような書癖がいくつかあるが、それが段々増えてくる。例えばある小説を読んで章末の「このことを後に彼は後悔することになる」という文章があった場合、折角そこまでのめり込んでいたのに一気に冷めてしまい、「この修辞絶対使わん」と決める。そしてそれが新たな書癖となるのだ。読みたくない文章を書きたくないわけだからそれで理論上は自らの理想に近付く。当然あくまでも理論上だ。つい忘れていて自分で使うことがあるし、そのときは後で読み直してみて酷く落ち込む。それを避ける為に箇条書きにして縛りをつけてみた。しかし「あれ禁止」「これ禁止」「それも禁止」となって次第に身動きが取れなくなってくる。あれほど毛嫌いしていた言葉狩りを自ら行っていたのだ。

 そこで「厳密に守るもの」ではなく「そういう方針の書癖」に緩めてみたら気が楽になったのか、不思議なことにそれまでより厳密に書癖に従うようになってしまった。「これはいけない」と意識していると集中出来ないが、「書癖」と考えると、如何にして自分の納得のゆく表現にするかとことん粘るようになった。

「どうすれば文章上手くなりますか」「コツを教えて下さい」自分で考えろ。手前は教える程偉くはない。そもそも「上手くなる方法」があるなら皆それに従って書くだろうが、そうなればその方法がありふれた陳腐な方法となって、やがて氾濫する同じような文章にうんざりする。そしてまた聞くだろう。「どうすれば上手くなりますか」ああもう煩い。極意をひとつ明かしておこう。誰でも知っていることだが体得実感するのは難しい。誰でも知っているだろうがあえて言う。「リズム」これが全てだ。


コラム 03/04/24

 メールマガジンを発行する上で自らに課した縛りがいくつかある。

 ひとつ、小説を書かない。小説は電脳空間上で発行するには抵抗がある活字で育った人間であるからだ。 小説は縦の字で書きたいし読みたい。

 従ってメールマガジンの内容はコラムとなる。コラムの名手と言えば山本夏彦とボブ・グリーンだ。ボブ・グリーンは例の淫行騒ぎでシカゴ・トリビューンを降りてしまって以降噂を聞かないのだが、コラムとくればこの人を抜きには出来ない。人殺しが宰相を務めた国の民が人格云々など言える立場でないのだ貴方も手前も。そして山本夏彦。本格的に読み始めて未読のものを探している真っ最中に倒れてしまった。暗部をたった二枚でずぶりと抉る切れ味は大層恐れられていて「よくぞ言ってくれた」と表立って応援はせずにこっそり愛読する人が多かった。作家が死ぬと古本屋に出回っていたものは一時的に姿をぱったり消す。増刷されると一気に出回り始めるのだが、山本夏彦の場合、出回らず、姿を消したままである。もっと早くに知っておけばよかった。「言いたいことは一行か二行で住む。しかしそれでは読者が納得しないから二枚ほどまで膨らませる。それ以上はただの無駄である」何度読み返したことか。何度痺れたことか。何度放心したことか。

 手前の文章の雰囲気は椎名誠と景山民夫が入り混じっている。これはごく初期に読んだ作家だから未だに影響を受けているらしい。同時期に清水義範も読んでいたが、あるとき筒井康隆を読んで完全に繋がってしまった。椎名誠も景山民夫も清水義範同世代、ともに若い頃筒井康隆と交錯したことがあり、完全な中毒者で影響を受けていることが、筒井康隆を読めば読むほどわかってきた。そもそも椎名誠の短編集「蚊」の表題作は筒井康隆の可の目玉のスープを作るエッセイへのオマージュであるし、景山民夫の「食わせろ」は「狂気の沙汰も金次第」が見え隠れするし、清水義範は「ヌル」に投稿して落選したという経歴の持ち主だ。源流に辿り着き、筒井康隆のさらに源流はと見てみるとすでに読んでいた江戸川乱歩であるし、しかし独自の地位を確立した作品群はすべて繰り返し呼んでも飽きないから内外最高の作家と推すのは当然でもある。

 コラムの名手に筒井康隆の同世代で自己演出の似ている小林信彦がいて、うおおお本題からどんどんずれてゆくのが自分でも良くわかるぞ。軌道を修正しよう。

 ひとつ。学生時代のクラブのことは書かない。これは書きたくないのではなくてむしろ書きたくて堪らないのだが、どうしてもここで小出しにするには気が引けてしまうのだ。どうせならきっちり書きたいと考えて意識的に遮断している。これを読んでいるであろう仲間はいつ書くのか恐れと楽しみが混じっていたであろうが安心しておくれ。ど派手にぶちかますまで発表することはありません。 似た理由で旅日記は書かないし、ただの日記の垂れ流しもしない。そんなもの自分では読みたくないから書かない。時事ネタも後から読めば当時の雰囲気を伝える資料となるかもしれないが、残念ながらそんな読まれ方などされたくはない。いつ読んでもそれなりに読み応えのあるものを書こうとして意識的に時事ネタを外す。すると残るのはどたばたコラムと日本語関連、そして下らない話。

 眠気が完全に覚めてしまった。書き始めると体が自然にしゃんとするようになっている。これなら思ったより早くに再開できそうだ。


思い付き 03/05/01

 ネタを思いつくのはどんな時か。何をしている時か。

 これが自分で判れば苦労はしない。「こうすれば必ずネタ思い付く」状態などありはしない。しかしどんな時にメモしていたかを後から考えるとある法則が浮かび上がる。これは万人に共通するものではないし、ただ手前がその状態になったら何となくネタを生産しやすいようだ、という確認の意味を込めて記録しておく。

 まず独りでいる時。これはおそらく一人っ子という生まれと育ちが関係しているのだろう。独りでいる時に最も落ち着くからだろう。

 少し酒が入っている時。突飛も無い発想を跳ね回らせる為にはある程度頭を壊しておいた方がよい。しかし酒が過ぎると後で見直してみて面白くないどころか意味不明を通り越して「自分で書いた筈の字が読めない」ことも多い。こういうものに限って素晴らしい種である事が多いのだが、何しろ思いついた瞬間は酔っていながら「凄いネタでけた!」と書き殴るから元々折釘流の華麗なる踊字が何語かさえ不明になるのだ。余りにも下らないネタは供養すらせずそのまま抹消するのだが、意味が判らず抹消の執行を猶予しているものもある。「ケーキうどん」何がどうなっていたのだろうか。何を思いついてメモしたのだろうか。

 眠る直前、起きた直後。とくに眠る直前は調子次第でいくらでも浮かぶ。だから枕元にあるメモ帳は「混沌の意味を知りたければこのメモを見よ」と言いたくなるくらいの汚さであり、しかしそれを丹念に選り分けて整理メモに移植するのが楽しくもある。

 風呂やトイレ。特に風呂は困る。せいぜい鏡かタイルに要点を書いておくが、直ぐ流されて消え、どうにもならない時はすっぱり諦めてしまう。

 思いついたことをその場で記録するかどうかというのは大変重要な事であり、「あとで書いとこ」というのはまず二度と思い出すことは無い。もし思い出せるならそれはよほどの自信作であろうからメモなど取るに及ばない。後から「あの時何か思いついた筈なのに」と、これがとても悔しく感じる。

 乗り物の中も多い気がする。

 辺りに自分とは全く関係の無い雑音があれば、ぽんぽん浮かび、すいすい書けることもある。

 そして、上に加えて最も手前が気を付けていることは、「常に空腹にしておく」ことだ。実際頭の回転は満腹の時、明らかに鈍るのであって、空腹を保つ為に液体の摂取が多い。当然血管拡張作用混入液が最も相応しいことは言うまでもない。

 この空腹状態を維持する事で多少の思い付きが見込まれるので多少の不便には目を瞑っている。今はまだ体力で覆せるぎりぎりの年だと信じているのだ。遠からずアイディアは枯渇するだろう。それまでの間に出来るだけ設定や環境、大まかな枠を作り上げておきたいのだ。

 と言いつつ昨日は遂に眠ってしまった。一週間ほど一日睡眠時間を二時間にしてやっと体が慣れてきたと思ったらいきなり六時間も眠ってしまった。品川から横浜に行こうとして目が覚めたら熱海にいたんだぞ。熱海て。しかも目の覚め方が発車の合図で飛び起きるというもの。「うをを。どっか着いてる。とりあえず降りとこ」乗り過ごしておいて終点からの折り返し列車の発車間際に慌てて降りた馬鹿はそのあと小田原に行き、駅前通りの中にある温泉で蕩けておりました。もう少し慣らし運転の必要があるな。


文末 03/05/21

 文末の処理には意外と手間取る。

 ですます調なら「す」ばかりの退屈なものになってしまうし、だである調なら「ある」「ある」「だ」のリズムから逃れることが難しい。日本語の特徴として文末に動詞が来るわけであり、動詞の終止形はう段であることも単調さに拍車をかけている。

 無理やり体言止めを使おうにも締まりの悪い歌詞か出来損ないの少女小説にさえならないし、奇を衒って「〜となって。」とする文末も読んでいていらいらする。「〜となって。」の文末を繰り返した本を読んだことがあって、途中でぶん投げようかと思ったが、生憎内容が酒についてのものであり、資料として保存しておくためにも最後まで我慢して読んだ。その時にこの「〜となって。」を絶対使わないと決めた。

 文末に形容詞を持ってくることもある。しかし残念ながらその場合語尾は「い」で統一されてしまう。

 あまりにも多い文章読本の殆どが文末語尾について悲鳴をあげているので、「実際どうにもならんやろ」と挫けそうになるが、それでも何とかあれこれ試すうちにあまり気にしなくなる時期が来る。

 まず書くだけで満足していた時期は語尾など気にしない。やがて文章の呼吸が身に付くと語尾が気になりだす。なんとかリズムで克服した気になる。何かを読むときに語尾をどう処理しているか気になると自信がなくなる。文章読本を読み漁る。日本語に絶望する。絶望したのが自分だけではないと持ち直す。徹底的に語尾を研究する。全体のバランスが崩れる。その頃になってようやく語尾を気にせず処理できるようになる。諦めただけとも言う。

 文末の語尾が「か」で終わる場合、「か」「のか」「なのか」「だろうか」「であろうか」「なのだろうか」と一文字づつ増やしてゆく技術はリズムで克服した気になった時に身に付く。これをまったく意識せず、自然にかつ的確に無意識に選び出せるようになれば、そこで日本語の文末語尾の単調さに絶望するだろう。

 谷崎潤一郎が評価されているのは会話文に関西弁を使い、会話の語尾を鮮やかに彩ったからでもある。

 ただし平の文で関西弁を使うと、どうしてもしつこくなるし真面目な雰囲気を作ることが出来ない。真顔で与太を飛ばすことを目的としているこのメールマガジンに於いては、最初から「お笑いか」と身構えられることはいかにもつらい。

 文字の数には限りがある。言葉の数にも限りがある。スーパーコンピュータを限りなく繋げてすべての文字の組み合わせを網羅したデータを備えたスーパー図書館というネタがある。日本語に限れば「ああああああああああああ」と「あ」が160000文字続くNo1から「んんんんんんんんんんんん」のNoXXXまで、いくつあるのか知らないが、この中にあらゆる小説がある筈というものだ。160000とは便宜上、四百文字の原稿用紙が四百枚と仮定したまでであって、それでも何通りか計算する気も起こらないが、途方もない数であることは間違いない。そして当然全く意味をなさない文字の羅列が殆どであるが、中には未だかつてない「傑作の組み合わせ」が眠っているかもしれない。

 しかしこれは完全なるたわごとであって、それをどうやって選び出すのかがまず出来ない。そして機械的に選ぶよりも有機的に判断する事の出来る人間が、その「傑作の組み合わせ」を求めて日々呻吟しては挫折する。その繰り返しの中に煌く一条の光を追いかけては躓き、見失っては泣き、そして気が付けば次代が湧出していて自らの能力を悟るのである。

 「言葉を有機的に組み合わせること」これが要諦であり、あとはリズムよく並べればそれでよい。問題は有機的に組み合わせる事が難しいだけなのだ。文末など瑣末な問題だ。


テーマ 04/01/11

 小説にはテーマがあるべきとされている。どんな小説もテーマを設定してから書かれているかと言えば無論そんなことはない。しかし「テーマがないこと」をテーマとししている事例もある。テーマなき凡作であればテーマのないことを自慢するよりほかないのであるが、一方に誤読の自由というやつがあるから読み手が勝手に何かを見出せばよいとも言える。平たく言えば書き手を除いた共通認識が「駄作だ」である場合、このような失敗をしてはならないとするテーマにこじつけることが可能なのだ。

 テーマとは主題と当てられる事が多く、しかし「小説のテーマ」と表現する時、それは「主旋律の感情」「根底に流れる思想」「伝えたいこと」「考えて欲しいこと」の意であることを含めて捉えなければならない。

 そしてこのテーマとは、神話の時代から変わらぬ人間の根幹に関わるものと現在性を帯びるもの、一般的なものと専門的なものに四つの方向がある。それぞれ対応するから縦軸と横軸に構成する。

↑ 超時代性
↓ 同時代性
← 一般的
→ 専門的   として表を作成すれば、こうなる。

      超時代性
       ↑


一般的 ←   +   → 専門的


       ↓
      同時代性

 完全に当て嵌めてしまえるわけではないが、凡そのところはこれに収まる。例えば神話のテーマなら超時代性と一般的つまり左上に位置する。我々の記憶に新しい事例を題材に採って書かれたものは同時代性の方向に向かい、そのテーマが一般的或いは専門的かに分類される。超時代性で専門的なものには哲学などが位置する。初めは同時代性を帯びていた作品が経年後に超時代性の方向へ進むことがあるし、専門的なテーマが次第に一般的となる場合もある。風化によって一般的から専門的に進むこともある。専門的は一般的を内包し、超時代性は同時代性を内包する。ロングセラーとベストセラーは明らかに時代性の違いだ。

 この図は何も小説に限ることなく、各ジャンルの芸術を示すことが可能であるしその芸術内でも使うことが出来る。また芸術に限らず広く応用可能であるから覚えておくことだ。


こばなし 04/01/28

 「ジョーク」とは冗句と当てられたり小噺と訳されたりしているが、その意味するところは駄洒落ではなく論理的に構成されて翻訳可能な笑えるショート・ストーリーと考えて間違いない。

 もともとジョークなどというものは口承されてゆくうちに贅肉を削がれ、筋肉を付けられ、磨き抜かれ、化粧を施されて膾炙してゆくものであって、そこに著作権の存在はないかのように扱われている。

 小噺というものは著作権から解放されて自由に解剖されて再構成されながら次第にその力を増してゆくものであって、ジョーク・小噺には著作権を設定しない方がよい。小噺というものは元々交換する為に作られているからそれを縛ることは小噺の発達進化を阻害するということだ。

 例えばこんな小噺。

 男が二人山登りをしていた。一人が催して小便している時、毒蛇が局部の先端に噛み付いた。もう一人の男は慌てて電話で医者に連絡した。「友人が蛇に噛まれました!何蛇か判りませんが噛まれた痕は青黒くなって凄く痛がっています!どうすればいいんですか?」「ではすぐに応急処置を。噛まれた所に口を付けて毒を全部吸い出して下さい。命に関わるかも知れないので出来るだけ早く!」彼は呆然として電話を切り、友人の耳元で囁いた。「・・・すまん。助かる方法はないそうだ・・・」

 これは下のヴァージニア・ラニア 「追跡犬ブラッドハウンド」上巻にあるジョークで爆笑したのだが、実際この通りに書かれてあるわけではない。しかもこれは翻訳であるから原作からは遠く離れていることだろう。しかしその巧みな構成は何語に翻訳しても通ずるところであろうし、また小物を少し変更することはより意を伝えやすくする為には必要なことだ。

 小噺に著作者人格権はある。しかし人格権の中の同一性保持権や公表権を強硬に主張するのは無理がある。財産権の口述権、翻案権などはジョーク・小噺の生命線を断ち切る為としか思えない。だからジョーク・小噺で著作権を主張することは馬鹿げている以前にその行為が度を越えたジューク以下の振る舞いだ。

 つまり、「私が作った」とは主張出来るが、「だから勝手に話すな書くな作り変えるな」とは言えない。いや、厳密に著作権法上言えるのだが、仮にその主張が通ってしまうと誰もそのジョークを口にしないし、自ら披露してもジョークに著作権を主張した貴方にだけは返礼のジョークを教えては貰えなくなる。交換によってあるいは何かで読んで入手した小噺に著作権を設定することは、以降その者は他人の小噺を勝手に使えず、自ら完全なオリジナルばかりだけを創作し続けるしか方法はない。氏名表示だけをなどと放坐くならば自らも全ての出典を明らかにせねばならなくなる。馬鹿馬鹿しい。小噺とは文化的な公共財産であって、何人たりとも制限などさせてはならないのだ。


難しい 04/12/16

 車の免許を取ったのは大学二年の夏で、某地方への合宿であったから、ろくすっぽ信号も複雑な交差点もなく、高速教習は一車線の有料道路だったから抜きつ抜かれつの経験もせず、のんびりした雰囲気で仮免許を取得した。免許を取得する大きな目的は身分証明証として以上の理由はなく、また酒にのめり込んだ時期でもあったから、「酒か車か」で少しだけ悩んだ末に断固として酒を選び、以降実は四輪自動車の運転をしたことがない。つまり最後に自動車を運転したのは卒業検定ということだ。そもそも異常に車酔いし易い体質であるから合宿教習でも数回気分が悪くなっている。自ら車の運転など考えるだけでも恐ろしい。汽車はおろか電車で酔うこともあるからタクシーよりも歩くことを選ぶ。

 必要に迫られて原付を運転していた時期が少しだけあるものの、四輪自動車など考えただけでも恐ろしい。AT車のアクセルとブレーキは最初それぞれに両足を載せると「右足だけで踏め」と怒られたことは鮮明に覚えているが、どちらが加速してどちらが減速するのか最早覚えていない。オートマ限定ではなくマニュアル車の免許ながら完全なるペーパードライバーなのであって、「飲んだら飲むな、乗るなら飲むな」を忠実に実践するべく酒を愛した結果、また車酔体質も考慮して、生涯車の運転をすまじと決意したわけだ。

 従ってここ数年の移動手段は電車ばかりである。たまに自動車ネタを書くこともあるが、それは教習所での乏しい経験と原付の運転経験だけを頼りに必死で縒り上げたつもりの文章である。ある程度の虚構を交えた文章を著せないならば、書くべきことがすぐに尽きるのであって、だから内容に齟齬を来さない限りに於いて一定の満足は得られる。それでも廃車についての話は後で調べて完全な出鱈目であることが露呈している恥ずかしい文章となっている。

 様々な視点から物事を眺める結果、適当な出鱈目をいかにもそれらしく書く為の方法を模索しつつ、どうしても粗が見えてしまう場合が多くて困る。電話についての懐古調は、高校生まで実家で使っていた電話がじいころころと廻す奴だったことの影響が大きい。それでも数回電話を題材に書いてしまうと後に続けたくなるのであって、携帯電話を使う機会のない人間として精一杯電話の話を引き伸ばす為には古い電話の話で強引に懐古に走らねばならないのも苦しい。無理矢理電報の話などしてみたものの、あれより先はどこに着地すればよいのだろうか。裏付けを取った話であれば問題なくても、そこには剽窃の問題が発生するわけで、全く難しいものだ。


走り書き 04/12/28

 メモ用紙は適当なものを使う。

 手帳を使い始めた頃はわざわざ手帳用の紙を準備していたが、急に何かを書き留めようとする際はどうしても走り書きとなり、汚い文字を新しい紙でわざわざ綴じておくのは馬鹿馬鹿しいから、穴穿器を用意して、自ら穴を開けて綴じ込んでいた。そして当然のように面倒臭くなり、メモ用紙は穴を開けず手帳に挟むだけとなる。

 走り書きしたものはいずれ整理する必要があるから、とにかく思い付きを書くことの出来る紙ならば何でもよいわけで、すぐに必要な紙として徴用された奴等は様々な前科を持っている。紙質がよくて大きさも程好くて最も便利なのはレシートだが、跡で必要となることが考えられるから使いたくはない。クリーリングの引き換え用レシートの裏に下らないことをごちゃごちゃ書き込んだ直後に気付いた時は愕然としたが、最早手遅れであり塗潰せばかえって怪しまれるだろうと考えて無念ながら「暑い時に熱い茶なら寒い時に冷えた茶飲んでみろ馬鹿」などの文字をそのままにして引き換えた。そのような経験を重ねるに従ってレシート以外の紙を探すことになる。全ては白紙の紙を多数用意してあれば済む話であるが、たまたま白紙が切れた場合に困るのだ。

 困った結果、メモ用紙の体裁に見せかけようとの無駄な努力が侘しい強引に拡げられた箸袋、信号待ちで紙がどうしても見つからなくて思わず電柱から剥ぎ取った風俗の宣伝紙切れ、メモ用紙に相応しい大きさに裂いたつもりでも言語道断の分厚さを誇る本のカバー、展開して拡げた煙草の箱などは真に緊急事態であったことを告げている。なのに書かれていた内容が没ネタにしかならない場合は落胆するが、それでも「あの時あの場所で何かを思い付いたのだが何だったろう書き留めておけばよかった」と悔やむよりは幾層倍もましなのだ。

 そのような雑多な紙に走り書きをする事が多くなるとメモ用紙を買う必要性を感じなくなる。走り書きを整理する為の用紙は別に確保してあるから、走り書きをする為の用紙としては裏が白紙の広告などを適当に引き裂いて使えばよいわけで、そうなると走り書きが益々汚い字となり、汚い字であればあるほどまともな紙を使う気が失せる。今現在がその状態であり、この先どうなるやらとの不安は多少ある。


記号 05/01/21

 記号を手で書くならば問題ない。パソコンなどで呼び出す場合も覚悟さえすれば記号一覧を丹念に探すことで所用は果たせる。

 ただし会話の中で記号について表現する必要がある場合、互いに名前を知っていれば想像はめでたく一致して恙無く進行するが、話し手と聞き手のどちらか一方が知らない場合会話が滞ることはないが、会話から知性が脱落する。「あのにょろっとした波みたいな奴」著しく品性を欠く。

 どうせ今まで本気で知ろうとはしなかった領域だ。主なところを並べてみよう。筆写すればすぐに覚えるだろうがキータイプで妥協しよう。本気で覚えようとは思っていないが読むだけよりもましだ。

、 読点
。 句点
・ 中黒・中点
. ピリオド
, カンマ、コンマ
: コロン
; セミコロン
? 疑問符、耳垂れ
?? 二重疑問符、二重耳垂れ
! 感嘆符、雨垂れ
!! 二重感嘆符、二重雨垂れ
!? ダブル垂れ

ゝ 平仮名返し、一の字点
々 漢字返し、同の字
〃 同じくチョンチョン、一の字点

() パーレン、括弧
(()) 二重パーレン
〔〕 亀甲、亀の子括弧
[] 角括弧、角ブラケット
【】 亀の子括弧、隅付パーレン、隅付、隅付ブラケット
「」 かぎ
『』 二重かぎ
“” ダブルアポ、ダブルクォーテーションマーク
‘’ アポ、クォーテーションマーク
=@チョンチョン、ちょんちょん括弧
《》 ギュメ、二重山形
〈〉 山パーレン、山形

- ハイフン
− ダッシュ、中線
〜 波形、波ダッシュ

‥ 二点リーダー
… 三点リーダー

 「亀甲」は雅味溢れる言葉だが、それ以外はどうにも即物的というか単純というか妙に判り易くて困る。そもそも「ギュメ」とは何語なのかね。

 「ダブル垂れ」「チョンチョン」などの低俗な響きは、それを用いる文章が低俗であることも作用しているのではと思ったりする。丸括弧だと信じていた()が「パーレン」とあってその方が難しい。繰り返し記号の「平仮名返し」「漢字返し」は初耳だったが、これを知ることで「くが反対に折れた奴」「片仮名のタみたいな奴」という間抜けな表現から解放されると思ったら大間違いだ。相手が「平仮名返し」「漢字返し」の言葉を知らなければ相変わらず「ほら繰り返して省略するときの云々」と言わねばならない。

 毛筆の縦書き時代は二文字纏めて平仮名を返す際に「く」を上下に引き伸ばしたような省略記号があった。あれも平仮名返しと呼んでよいのだろうか。電網上で表現され得ないものは存在しないことになってしまうことが悔しい。




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