「日本語はどうしてこんなにややこしいのさ?」
「ややこしい社会にはややこしい言語が必要なのさ」
- 都都逸 03/02/13
都々逸というものがある。七七七五の形式にはめた俗謡である。
最も有名なのはこれであろう。
ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開花の音がする
中学校の歴史で習ったはずだ。これだけなら「あー習ったねえ」で終わるところだが、あることに気付いてしまったのだ。少々お付き合い願いたい。
「アルプス一万尺」という歌も小さい頃に歌ったことを覚えているだろうか。「♪アルプス一万尺子槍の上でアルペン踊をさあ踊りましょ♪ランラランラ ララララ・・・」アメリカ民謡だ。
まず「子槍」の意味がずっと解らなかったことを白状する。それでたまたま調べいたら「槍ヶ岳」を指しているらしいことになった。ずっと「子山羊の上で踊る」と思っていたから妙な気分ではあるが、まあ腑に落ちた。
そこで何気なく「アルプス一万尺」をハミングしていたら目の前にメモがある。とりあえず思い付いたことは片端からメモしているから常にメモ用紙が散乱していて、このときは直前まで都々逸を自分で作ってみようなどと考えていたから思い出せる限りの都々逸をメモしていたのだ。先に出た
ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開花の音がする
とほかに高杉晋作の作と言われている
三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい
そして無名氏の
立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花
このメモを見ながら「アルプス一万尺」をハミングしていた。しばらくは何も気付かなかった。ところが頭の奥で何かが反応している。九九を間違えている時と同じ感覚だ。これを追い掛けると逃げてしまうので出来るだけ平然としてそれが飛び出してきた直後に捕まえなければいけない。しばらくそのままハミングを続けていた。次の瞬間稲妻に打たれたような衝撃が走った。
何と、この都々逸を歌詞に「アルプス一万尺」を鼻歌で歌っているではないか。
(アルプス一万尺のメロディーで)
♪ざんぎり頭を 叩いてみーれば 文明開花の 音がする ヘイ! ランラランラ ララララ ランラランラ ラララ ランラランラ ララララ ラララララ
この脱力感が理解出来るだろうか。しかしもう止まらない。
♪三千世界の 烏を殺ーし 主と朝寝が してみたい ヘイ! ランラランラ ララララ ランラランラ ラララ ランラランラ ララララ ラララララ
ヘイ!とは何と低俗なる響きであろうか。艶っぽい男女の逢引を詠込んだ都々逸をアメリカ民謡に乗せると化学反応を起こしてラテンのリズムに思えてくる。
♪立ーてば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花 ヘイ! ランラランラ ララララ ランラランラ ラララ ランラランラ ララララ ラララララ
風情も色気もあったものではない。ソンプレイロをかぶってマスカラしゃかしゃか振りながら濃い顔の髭親父が腰を突き出しつつナンパしている様が瞼の裏から離れない。
♪楽は苦の種 苦は楽の種 二人してする 人の種 ヘイ! ランラランラ ララララ ランラランラ ラララ ランラランラ ララララ ラララララ
もう駄目だ。ついて行けない。 あまりにも馬鹿馬鹿しくて自分で都々逸を作る気力がなくなった。
- だるまさんが転んだ 03/02/25
例えば「だるまさんが転んだ」という遊びがある。
一人が鬼となり、他の者に背を向けて可能な限りの早口で「だるまさんが転んだ!」と叫んでいる間に少しずつ近付き、鬼が振り返ると静止しなければならない。じわじわと寄って来ていながら凍り付いている者を見るのは少し恐いが、中には止まりきれずつんのめったりする奴がいて、そいつは鬼に捕まる。誰かが動いているところを鬼に見られず鬼に触れた時、一斉に逃げ出して鬼はその場でこれまた早口で十数える。「いーにーさんしーごーろーなーはーきゅーじゅ!」最初から鬼にはあまり近付かず、この時とばかり遥か彼方まで逃げる奴。巧妙に物陰に隠れる奴。脚がもつれて倒れている奴。鬼は大股で十歩進む間にタッチできた者が次の鬼になる。複数触れたらじゃんけんで鬼を選ぶ。「だるまさんが転んだ」をはじめはゆっくり言いながら後半早口で素早く振り返ると止まりきれずそのまま捕虜になるやつがいたりする。そして全員が静止している時に笑かすことは反則であった。
ざっとこういう遊びだが、最近テレビの影響であろう、「だるまさんが転んだ」が全国標準になりつつあるようだ。というのも手前がこういう遊びをしていた小学校低学年の頃は和歌山に住んでいて、そこでの掛け声は「だるまさんが転んだ」ではなく
「兵隊さんが進む」
であった。鬼と兵隊。通称「鬼兵」。池波正太郎など知るわけもなく、語呂の良さから来た偶然であろうが、鬼に触れようとして近付いてくる奴は、今でも確かに兵隊としか思えない。奈良に引っ越した頃はまったく同じ遊びでありながら「坊さんが屁をこいた」と叫んでいたのを見て戸惑っていた。従兄弟に神戸の奴がいて彼の場合は「初めの第一歩」、九州でたまたま見かけた時は「ガタロにタマ抜かれた」と叫んでいた。
おそらく掛け声は地方でそれぞれ違うのだろう。最初はそれぐらいにしか考えていなかったが、何故か不思議な共通点がある。
ほとんどが十文字なのだ。
だるまさんがころんだ
へいたいさんがすすむ
ぼんさんがへをこいた
はじめのだいいっぽ
がたろにたまぬかれた※ガタロとは「河太郎」のことで河童を指す。川で泳ぐと河童に尻子玉を抜かれるという言い伝えからの流れと思われる。また泳ぎの得意な子供もガタロと呼ばれる。ガタロウが一般的であるが、この遊びの時は「ガタロ」と寸詰まりになっていた。九州が田舎であった手前が参考までに注釈。
「初めの第一歩」は九文字であるが、区切ると四・五。俳句の響きの座りが一番いいのが「五(三・四)五」であるからこれはこれでリズムが取りやすい。
しかし何故十文字なのか。達磨は転ばないと思うが。坊さんが屁をこいたら逃げるのは解る気もするが。様々な疑問にとり憑かれて少し興味が湧いたのだが、あるときバラエティ番組を見ていてタレントが「だるまさんが転んだ」をやっていた。焼肉を食べる為に網の上に肉を乗せて静止しているうちに割り箸が燃えだすというわかりやすい演出であったが、これを見て笑えなかった。
これで各地の多様な言い回しが消えてゆく。その少し前からアイヌ関連の資料を集め始めていて、滅びる言葉に心を動かされていたのだ。今すぐ「だるまさんが転んだ」に統一されることはあるまい。しかし我々の子の世代になるとかなりの地方色が消えているだろう。孫の世代になるともうこんな遊び自体が消えているかもしれない。それに変わる新しい遊びが出てきて淘汰されるならともかく、ただ消えるだけというのはあまりにもやりきれない。
メディアの影響力はあまりにも大きすぎる。いや、違う。メディアに影響される人が多過ぎるだけなのだ。「だるまさんが転んだ」と叫ぶ鬼が実は我々自身で、混沌が見えないうちに近付いてくる。足音だけが聞こえる。振り返ってみても動きがないから何も気付かず、あるいは気付かない振りをして、もしくは気付きたくないからまた背を向ける。混沌に触れられたとき、振り返れば収拾がつかない無秩序。十など数えていたら何も見えなくなってしまうぞ。立ち尽くしているだけでいいのか。振り返って見たとき、静止しているように見えてもその前とどこが違うか目に焼き付けておけ。混沌がどこに散らばるのか予想出来るあたりを頭に叩き込んでおけ。再び秩序を取り戻すにはなにをすればいいか常に考えておけ。
知るがいい。すぐ後ろに兵隊が迫っていることを。
- 入力変換 03/03/25
キーボードをタイプするとき、ローマ字入力か仮名入力の選択を迫られる。初めて触れたキーボードはFM−TOWNS・で親指のところに「無変換」「変換」があるものだった。シューティングゲームの様な仮名打ちの練習ソフトで「ちとしはき」「くまのりれけむ」から順に覚えたせいか、ローマ字の入力はややぎこちない。「p」が何処にあるのかしばらく捜すこともある。ローマ字で子音になりにくい「Q」「X」「F」はどうしても存在が薄く感じる。
平仮名入力での利点と言えば、「馴れると早い」これに尽きる。そして「、」「。」を変換しなくとも一発でそのまま出ること。「うp」という見苦しい単語が出ないこと。
しかし当然のように罠もある。よくパスワードなどを要求されるが、その際にローマ字を打ち込んだあと、仮名に戻さなければ「tuims@p73333」などと表示されてしまう。「仮名入力変換」に固定してあるからローマ字を打ち込んだらそのまま変換されない。空しく「delete」連射。あと致命的な欠点は「ヴ」が出し難いこと。「きゅうかな」と打ち込んで変換しなければならない。
また間違えて隣を打ってしまったり、打ちきれず漏れていたりする。これが間抜けな変換をし腐りやがるので腹筋震わせながら「うがああああ」とやはり「delete」を連射する。打ち漏らしで変換してみてキーボードに一番絞りを霧吹きしてしまったのは「盗んだバイクで走り出す」を入力変換しようとしたとき。「はしりだす」の「は」を打ち漏らして
「盗んだバイクで尻出す」
これはですね、何と言うか、ツボに嵌りましたね。「十五歳の尾崎豊が夜、盗んだバイクに跨がって尻をペンペンしながらパトカーを挑発しつつも必死で逃げている姿」が瞬間浮かびまして一番絞りを霧吹きましたな。
もちろんローマ字入力をしたことがないわけではありません。大学一年生の必修科目にコンピュータがありました。ローマ字入力を強制されて仕方なくやっておりました。苦手と言う程ではないにしろ、やはり馴れていないので少し遅い。ブラインドタッチはまだ無理でしたが、それでもある程度コツを掴んだと思っていた矢先「東京ラブストーリー」を出そうとして、打ち込むのは「toukyourabusuto-ri-」こうして見るとローマ字が如何に情けないものかよく分かる。しかし、「きょう」がある為かどうか、それともただ単に「T」の隣であるからかはわからないが打ち込んでしまったわけですね。無駄な「Y」を。変換する瞬間ふと眼を上げて「あ、違う」と思いながらも止まらない変換のスペースキーを押す左手親指。そして変換されたのは
「調教ラブストーリー」
何というか、深いですね。奥に物語があるように感じましたね。単純な駄洒落はどうとも思いませんが、こういう物語性のある奴は感動してしまいますね。この件をきっかけに仮名入力で通すことにしましたがね。
- 真逆 03/04/15
「真逆:まぎゃく」という表現に出会って衝撃の余り寝込んでしまいました。
何だまぎゃくて。誰が言い始めた。どうせあれだろ。「真逆様」が読めなかったんだろ?違うか?「真逆」は人名ではないしそれ単独での熟語はない筈だ。と大辞林を調べてみたら「『まさか』の当て字」とある。「まさか〜しないだろう」のところを「真逆〜しないだろう」と表記しているのは見たことがなく、新聞などでは勝手に自主規制しているので当て字は滅多なことでは使わないし、いくら賑やかな雑誌と言えど「まさか」をこう表記しているのは見たことがない。見る機会のほとんどない言葉をたまたま読めずに田子作読みしたのだろうか。
それにしてもおぞましい。頼む。やめてくれ。「私漢字読めません」と胸張って嬉しいか?「正反対」とほぼ同じ意味で使っているらしいから、「まさか」とは確かに少し違うので読みを変えるのは筋が通っているようにも思えるが、そんな言葉作らなくていい。使うなと強制は出来ないが使う人とは例え砂漠であろうと会いたくはない。
読み間違えたにせよ意図的に造語したにせよこの言葉この読み方、近年稀に見る不快感がある。まだ慣れていないせいかもしれないが、一生かかっても慣れたくはない。
「逆」を強調したかった?「正反対」ではいけないのだろうか。
−逆 しんにょうを除いた部分が声符でギャク。それは向こうより人の来る形で人の正面形である大の倒形。それで「さかさま」と「むかえる」の意が生まれる。道の順逆に用いるのは転義。正邪でいえばよこしま、時間の関係でいえばあらかじめ、又不遇を逆境という。旅館を逆旅(げきりょ)というのは古い用法で先秦の文に見える。
と字統にある。道の順逆に用いるのは転義であるが、今はそれが一般的な解釈であるからそれに従う。「物事が反対であること」
ぬ。あれか。反対に「正」がついているから逆にも何かくっつけたくなったのだろうか。しかし正反対の「正」は「正負の正」であるから同列には扱えない。
「真」こちらから見てみよう。音読で「シン」訓読で「まこと」訓では他にも「うまれつき・もと」と読めるようだがこれは知らなくていい。そして音読したときの「シン」を頭に持つ熟語が「真贋・真義・真実・真筆・真理・真相・真摯・真情」など。何か気付いたか?後につく字は全て同じく音読なのだ。すなわち音読の「ギャク」を採用するなら「シンギャク」と読む方が今の日本国語では文法上正しいことになっている。訓読のまことの「ま」を頭に持つ熟語はといえば「真北・真横・真水」この場合後に来る漢字は合わせて訓読になっている。従って当て字である「まさか」は一応筋が通っている。
音訓、訓音の熟語がないわけではない。しかしこの「真逆」酷い違和感を押し切って用いる程必要とは思えない。日本語が乱れる乱れないの問題までいく前にこの言葉、気持ち悪い。
何よりも腹が立ったのは今回この文章を書いているうちに「まぎゃく」が一発で「真逆」に変換されてしまったことだ。こんな言葉学習せずとも良い。御知合方々、使わんといてな。
- 外人 03/07/15
「外人」という言葉に差別的なる属性を持たせ、「外国人」と言い換えるようになってからは次第に「外国人」自体も差別語の雰囲気を帯びてきた。差別とはことばそのものではなく人の心に宿るものであるから幾ら言葉を言い換えて誤魔化しても対症療法にさえなっていないお粗末な騒ぎを冷ややかに眺めることになる。
「外人」が否定的な意味を強めたのは発展途上のプロ野球界にやってきた盛りを過ぎたり力が無かったり素行が悪かったりする助っ人を殊更強調して「外人」と報道していた時代だ。多額の給料で役に立たない我侭放題である一部の助っ人を「これだから外人は」これが否定的色調を強めた大きな原因である。ただしディアーとグリーンウェルには手加減無用だ。やっちまえ。
「外人」を「外国人」と言い換えることで「外人さん」という親しみを込めた響きを捨てるつもりか。
「外人」を「外国人」と言い換えることで「外人部隊」という世界最強の軍隊の日本語訳語は「外国人部隊」という夢も浪漫の欠片も感じない間の抜けた響きになってしまう。
「外人」を「外国人」と言い換えることで「外人村」というレトロな響きは「外国人村」とはならず、これは何故かそのまま消滅する勢いだ。
平家物語には「異国の人」という意味ではなく、ただの第三者としての意味で「外人」が使われていたりもするが、これは異国の人を指していないから、侮蔑的意味合いを持たないからという理由でその響きを肯定されるのだろう。つまり差別語の問題は言葉そのものではなく、発する人の意図に左右されるわけであり、機械的な言葉狩りが如何に無意味なことであるか判っていながらもその傾向が続くのは、世の中を変えたと満足したいが為に機械的に吊るし上げをする暇人を相手に表現をする立場の者は「そこまで暇ではない」からでもある。
看護婦を看護師と言い換えた。「婦」の字はわざとらしく曲解されたまま「差別字」としてじわじわ絞め殺されている。「貴婦人」という美しい言葉をも抹殺するつもりかね?
「外人」と言う時、もともと異国の人と接する機会の薄い日本人が話題に乗せる時には尊敬を含んでいないことが多いから差別語となってしまった。「シナ」とも同じ構造だ。今、支那とは変換さえ出来なくなっている。フランスでは「シナ」と発音しているのに日本で「シナ」と言うと集中砲火を浴びる。なにも「ふぁあぐぉ」と発音する必要もなかろうが、情けないのは「インドチャイナ半島」あのな、旧「仏領インドシナ」という言葉を聞いたことがないかね。
人ある限り差別はある。人は能力も性質も外見もみな違うのだから差別のない社会の方が歪んでいる。
それにしても「外国人部隊」だと?冗談じゃない。張った胸に誇りを賭けて俺は「外人部隊」と言い続けるぞ。
- 発音 03/07/19
例えば「orange」を日本語として「おれんじ」と発音しても日本語を知る者にしか通用しないので虚心にローマ字読みでもって「おらんじぇ」と発音するとあっさり通じることもある。
「cat」「camera」「canada」「camp」「can」これらを見て「ca」とあればとにかく「きゃ」と読めば良いと思い込んだ時期があって、そう友人に話しながら歩いていた時、停まっている車の後部にこうあった。
CELICA
若き高校生で車の名前をろくに知らなくてもこれはセリカと読むべきであると直感したが、「ca」を「きゃ」と読むべきだと断言してしまった以上引っ込みがつかないので仕方なく言った。
「せりきゃ」
予想通り爆笑と「アホか」の言葉を頂戴したわけだが、こうなると最早後には引けないのであって、次に目に入った煙草の自動販売機を見て「キャビン!」「キャスタ!」「ほれ見てみい!」と巻き返したつもりでいた瞬間、さらにその隣の自動販売機を友人が指差して「んなこれは」
CAN-CHU-HI
「・・・きゃんちゅーはい」「だはははは」
既に敗勢は明らかであったが、コンビニエンスストアに入っても友人の攻撃は続く。「これは?」「ぽ・・・きゃりすえっと」「これは?」「・・・きゃるぴす」更にレジ前で「これ読んで?」「きゃっしゅ・・・きゃーど」
英語は大英帝国の時代に大きく伸びて、そのまま今の国際語としての地位を確保した。かつてはラテン語が教養人の共通語であり、フランスが権勢を誇っていた頃はフランス語が国際語の立場にあり、やがてフランス語と英語が共通語として併用された時代があり、そして次第に英語に重心が移っていったのは、英語には「男性名詞・女性名詞」というややこしさがないこと、「語尾の変化が一応規則的」であること、「他言語の単語を貪欲に取り込む」こと等の理由に拠るからであるが、単語はあくまでも単語として取り込むわけだから構造的には問題がない。イギリスが落日を迎えてもアメリカが力を増し、英語は中国語に次いでその話者人口二位を占めるに至った。非公式には中国語をあっさり抜いているわけだが、その調査は実質不可能なのである。
この英語、世界共通語となりつつある中で様々な単語を取り込んだ結果、表記と発音が一致しないことが多いわけだが、そこは都合よく「訛」という言訳が用意されている。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、南アフリカでそれぞれ訛があり、第二公用語として採用している国も輪をかけた訛があり、公用語ではない国に於いては英語と呼ぶには躊躇いのある訛がある。そもそも本家イギリスでもその発音で出身地域と所属階級が判る程発音と調子の違いがあるならば、日本で育ち、日本語を発音することに特化した口を持つ人間が、「正しい英語の発音」をするなど不可能であることは用意に導かれる。何が正しいのか判らなければ当然だ。
発音や語形変化を規則正しくしようとする趣旨の人造言語の中では、エスペラント語がもっとも有力ではあるが、それは人造言語の中で有力にあるに過ぎず、生きている数多の言語に比ぶれば綺羅星と雪達磨ほどの違いがある。
「caを「カ」「キ」「ケ」「コ」「カとコの中間」「カとケの中間」「鼻濁音のキャ」などおよそ有り得る限りの発音が揃っているのは他言語の単語を取り入れすぎたからであるが、日本語は逆に発音をそのまま取り入れる柔軟さはなく、片仮名というフィルタを通して日本語に変換するので、それで育った日本式発音感覚で作った日本英語では「CELICA」「CALPIS」「CAN-CHU-HI」となり、更にまた格別英語を意識してしまう間抜けが「せりきゃ」「きゃるぴす」「きゃんちゅーはい」と妙な意地を張ることになるのである。
- 黒人 03/07/28
例えば「ビバリーヒルズ青春白書」なるアメリカの群像ドラマがあったが、あれに「現代アメリカの問題点を浮き彫りにした」と銘打ってあるのはさすがに鋭い。なにしろ主要メンバーに黒人がいないあたり、問題点と言える。実に鋭い。ゲスト扱いで登場する事例もあるにはあったが、全体としてワスプ至上主義であったことは、まあ、舞台がビバリーヒルズであるから仕方がないとしても、微妙に苦しい。
さて、突然だが、黒人のスターを十人挙げてみてくれ。マイケル・ジャクソンは、まあ保留としようか。歌手や音楽畑、サッカーやスポーツ畑ならたちどころに浮かびそうなものだが、ハリウッドから十人となると、どうにも淀みなく十人は難しい。
手前が試した時は、「エディ・マーフィ」「デンゼル・ワシントン」「モーガン・フリーマン」「シドニー・ポワチエ」「ウーピー・ゴールドバーグ」「グレゴリー・ハインズ」ここで一旦間があった。「ダニー・クローヴァー」ここで相当考えた。スターかどうか、迷いながら「サミュエル・ジャクソン」俳優かどうか迷いながら「ウィル・スミス」書き取りながら数えてみたらここで九人。あと一人。誰かいないか。サミー・ディヴィスJrは。違うか。黒人で。ハリウッドで。スターで。ジャッキー・ブラウンの人はどうだ。名前が。マトリックスの彼はどうだ。名前が。有名か?有名になったか?エディ・マーフィ星の王子の相棒は。結構見るが誰だ。名前は。クール・ランニングの中から思い出せないか。ルネッサンスマンの中から思い出せないか。監督脚本主演で足の毛を剃っていないままピザを食べるとドックフードが爆発して生物兵器になった彼は誰だ。ドラマのスパイ大作戦の彼はどうだ。名前は。だから彼はスターなのか。そうか。出た。あれだ。Aチームの「ミスターT」。かなり苦しい。いずれにしてもハリウッドから黒人をたった十人挙げることが如何に困難であるか、試して貰いたい。確かに黒人主演の映画自体が少なければ名前を覚える機会も少ないことは当然だ。そういえばオスカー貰ったのがいたな。そう「ハル・ベリー」ついでに思い出して「ホイットニー・ヒューストン」あれはハリウッドだろうか。機会平等という不平等を礼賛するつもりはないが、それにしても少なすぎやしないか。手前が知らないだけという可能性のほうが大きいわけだが、それでも「差別はいけない」と頭で判っている者は、その頭の中でどれほどバランスがとれているのだろうか。
ところでこの「黒人」この言葉も何故か駆逐されそうな勢いである。差別語言い換えと黒人差別の本場アメリカでは黒人に対する呼び方を次々と変え、その度に差別語として封印し、今「Afro American」となった。それを真似て日本でも黒人をやめて「アフリカ系アメリカ人」「アフロアメリカン」。「白人」は「白人」のまま、白人の場合は何か特別な属性がある時、例えば警官ならば「ポーランド系」チンピラならば「イタリア系」投資家ならば「ユダヤ系」、これらの「〜系」はもともと差別的な意味を持っていたりジョークで使われていたりしたわけで、考え方によっては、黒人は「アフリカ系」と呼ばれることで、ようやく白人並みの差別扱いをされるまでに地位が向上したとも考えられる。
しかし「アフリカ」というのが大雑把に過ぎるのであって、これは民族を指すのではなく人種を指す言葉であるから、単に「黒人」を言い換えたところで、差別そのものがなくなることはない。差別自体がなくならないものであるからどうしようもないが、この言い換えは混乱を助長するだけとしか思えない。奴隷としてアメリカに連れられた時、一切の記録と記憶を封じてしまい、今の世代から源流を辿ることが不可能であることを考え合わせると、誇りを持って「アフロアメリカン」と称することは素晴らしい事にも思えるが、それはこの先ずっと使える言葉なのだろうか。民族の属性ではなく人種の属性として括る事はかなり違和感を残す。そもそも日本でアメリカ人を「白人」「アフリカ系アメリカ人」この対語はどうなのか。「黒人」と比べて明らかに馴染まないではないか。
「『黒人』を使ってはいけない」という意識の過剰さは、それがひとつの差別になってはいないか。どうせそのうち「アフロ」「アフリカ系」も差別語になることだし、結局不毛なだけ、いくら言葉を言い換えても意味がない。
ところでアメリカの黒人を「アフロアメリカン」とするならば、他の国にいる黒人をどう呼ぶのか知りたいのだがね。「アフロフレンチ」「アフロイングリッシュ」「アフロジャパニーズ」そう呼ぶのかね。日本で使う限りは、手前には「アメリカの黒人」と「その他の黒人」に分けただけの新しい差別語にしか思えないのだがね。
- 錯誤 03/08/12
法律用語で「錯誤」という言葉があって、これは例えば離婚して妻に全財産を渡したあと、無一文になった夫に税金が襲ってきて、「違う!税金はお前が払うか、税金分は返してくれ」と泣き叫ぶ際に錯誤を理由に申し立てて何かごちゃごちゃ揉めるのだが、これを見て錯誤の意味とは、「思い違いをしていた」が適切であろうかと思う。
さて、日々発する言葉に於いて、ありとあらゆる間違いがあるが、最も単純なmalapropismマラプロピズム、これにぴったりする訳語はなくて、せいぜい「言い間違い」などと言う間延びした言葉ぐらいしかなく、ここに錯誤を当てようか、誤覚とでも当てようかと考えているうちに過去の様々な間違いがわらわらと浮かんできた。「間違えて覚えていた」のは誤覚でもよい気がするが、とりあえずは錯誤としておく。
沢木耕太郎の「チェーン・スモーキング」の中で、氏にあっては、らしくない章題である「アフリカ大使館を探せ」の中に色々出ていたことを思い出し、そこから向田邦子に繋がり、鷺沢萠に繋がった。小林信彦も筒井康隆も歌詞をネタ半分に弄んでいたし、椎名誠はこの手の騒ぎを得意としている。誰しも覚えのある失敗としてありがちながらも面白いのだが、つい自分はどんな間違いをしたことがあるかと思いを致せば、いくつかあるので書いておこう。
「くちなしの花」という曲があることは知っていたが、誰が歌っていて、どんな曲であるか何も知らずにいたので、メロディも歌詞も知らないから勝手に
「くちばしの花」
と思い込んでいた。鳥の嘴のような花があって、それを歌ったものだろうと、理路整然と間違っていた。
「ペリカン」を「ペカリン」と覚えていたことは、微笑ましさの余り思わず瀉血したくなるが、クランシーを読んで恥じることはないと知った。
昔から甘いものが得意でなくて、中でもレーズンは正直な話「嫌い」の部類に入っていたので、給食のコッペパンにレーズンが見え隠れしていた時は暗澹たる気分に包まれて持って帰る途中で犬や鳥に千切って与えていたのだが、「レーズン」と「干葡萄」が同じ物であるとは知らなくて、しかも「干葡萄」は葡萄を干した物であると知っていたならレーズンと繋がりもしようが、「ほしぶどう」を間違った漢字で覚えていた。
「星葡萄」
星葡萄は食べたことがないので、「どんな葡萄だろう」「星のような形なのか」「いつか食べてみたい」とずっと考えていた。破綻が来たのはかなり成長してから、高校生の頃だった。「葡萄を干した物であるレーズン・大嫌い」と「星葡萄・いつか食べてみたい改め干葡萄」が同じ物であると知った時の衝撃は、「実の父親がどこかで生きている」と聞いた瞬間と同じぐらいの破壊力を持っていた。
「アド・バルーン」を「あるばどーん」と覚えていたのは幼稚園時代で、「七五三」を「ごしちさん」と覚えていたのは小学生時代。学生時代に友人は「ひだまりのうた」を「ひまわりのうた」と思い込んでいて、それはそれで妙な説得力もあった。
諺の意味を間違えて覚えるような深刻な錯誤ではなく、単純にして馬鹿馬鹿しい錯誤ならば、すぐに訂正されるであろうから害は少ない。誰しもある筈だ。恥じることはない。おたふくかぜみたいなものだ。早いうちに罹っておけばよいが、大人になって罹ると取り返しがつかなくなる。
- 月 03/09/11
辞書の中を飛び跳ねていると時々何か系統的・属団的な言葉を集めたくなる。
ここのところ集中的に攻めているつもりの鶯を放り出して何故か「月」に嵌ってしまった。初めは月の付く言葉を何となく調べているうちに古典で微かに習った覚えのある「睦月」「如月」「弥生」という月の異名にのめり込み、やがて止まらなくなってしまった。
「月の異名」の言葉が指すのはふたつ、「暦の月」と「天の月」である。最初は適当にメモしていたが、段々ややこしくなり、「天の月の異名」は一旦置くことにした。何故ならば、「天の月の異名」には、更に小分類「月の形の名」「時間による名」「情景の名」「月見関連の名」「その他の名」と分かれる。しかもこれらの月の異名に加えて、暦ではあるが「今月・来月」といった実用語句的な月、暦の月ではあるが出産に関する月、地名の月、仏教語の月、諸々がぐっちゃり混ざり合っていて、しかしこの闇鍋状態の「月」が付く言葉を丹念に分類し直すことが、実は楽しかったりする。
「暦の月の異名」とは言っても「月」が付かない言葉「弥生」「師走」などもあり、また孟月の四語も暦の月の異名であるが、ごく単純に「月」が付いていない語は全て切り捨て、また平仮名である「さくも月」「ささはな月」も切り捨て、純粋に「月」が付く言葉だけを一月ごとに五十音順に並べてみようとした。
しかし当然まだまだ罠がある。
まず陰暦の問題。そして漢字を使っているのは当然日本だけではないという問題。そして最大の壁が「音読か訓読かどっちにしよか」本当にこれは馬鹿馬鹿しいくらい根本的ながら重大な問題で、いっそのこと並び順を漢字の画数順にでもしようかと一瞬考えてしまうくらい悩むのである。漢字ならば書いた者だけがどう読むかを心得ているわけであり、当時の環境やら周辺の言葉遣いからある程度類推は出来るものの、そもそも日本語の発音自体が雅な言葉を使っていた昔と比べて僅かながらも変化してきており、正しさなんてどこにあるのさという怒りを「はい返却ですねピー、ピ。次の方どうぞ」という呼出放送の後スピーカーのスイッチ切り忘れている一階の受付まで降りて行き、「上のスピーカー聞こえてますけど。あ。多分これも聞こえて・・・」という恥を晒して落ち着く為に外に出て一服している内に良い天気だから近くのスーパーまで歩いてビールを買ってじいさんばあさんの寄り合いになっている藤陰ベンチでほんわりしてから、「取り敢えず尻に月の付く暦の月を表す漢字は読み方はともかくとして全部抜いてみよう」となった。
一方ひとつの読み方で複数の漢字がある場合という事態も多々発生し、ますます混乱が深まるわけだが、もうビールがきりきり効いているのでどうでもいい。図書館の辞書を、「月」の出ていそうなものを徹底的に当たった。当然最初は使い慣れている大辞林からであるが、やがて効率を求めて「つき」の項目を、漢字辞典数種、大漢字辞典数種、百科事典数種、古語辞典数種、いずれも「つき」だけを見るから早いといえば早いのだが、なかなか山に当たらない。しかし類語辞典で来た。「月」の項目があり、項目ページをコピー、目先を変えて逆引き広辞苑、「つき」「げつ」の項目をコピーコピー。そしてそれを今度は順番に再び大辞林と広辞苑を駆使して「暦の月の異名だけ」を抜き出して並べて、同字異読も構わず必死で一覧らしきものが出来たのは閉館少し前。
とりあえず集めてみたが、これをどうしようか、まだ「天の月」がまるまる残っているが、しかし月に関して集中的に調べたおかげで色々と知ることもあった。「吹雪月は旧暦五月」旧暦とは言っても多少のずれであって、半年もずれるわけではない。何がどうして吹雪なのかと脱線してみると、「花の吹雪、卯の花」とあり、卯の花と言えばおからぐらいしか連想できないから卯の花とは実際何の花かと飛んでみると「うつぎ」とあり、何やら全国に自生しているし垣根でもよく使われているとのことだから多分しょっちゅう目にはしているだろうが、ではどんな木かと今度は植物図鑑を調べることになる。
- 鼻濁音 03/09/26
鼻濁音というものがある。
古来より日本語の発音として使われており、また現行日本国語文法に於いても規定され、また東北地方ではごく自然に残っている音でもあるのだが、知らない人も結構いる。思えば小・中・高と国語の授業で「鼻濁音」を習った覚えはないのであって、普段より日本語と辞書に浸っているからこそ知っているとも言えるのだが、特別興味がないからと知らないままで済ますことは避けたいと思うのだ。
鼻濁音とは、特にカ行の「がぎぐげご」を鼻から抜く発音方法であって、またタ行の「だぢづでど」の鼻濁音を認める説もある。現行の規定ではカ行に半濁音を付けて「か゜き゜く゜け゜こ゜」と表記して鼻濁音の発音表記とするもので、以前これを五十音図に加えようとする動きもあったが、結局うやむやのまま、そもそも鼻濁音は必要なのかという論議に摩り替えられてしまった。
日本語は「いとゐ」「えとヱ」「いとヰ」「ずとづ」「じとぢ」同音は次第に統合の道を歩んでおり、正確には発音の違いもあった筈だが、単純化を進めることで、ただでさえややこしい日本語を少しでも簡単なものにしようとする涙ぐましい努力が見えてしまうのだが、鼻濁音もまた、カ行濁音に統合されようとしている。「おとを」「はとわ」の場合は同音とはいえ「目的別に使い分けが必要だから統合しない」「いずれ統合されるさ」の先が見えない状況だが、鼻濁音は滅ぶ寸前であるから緊急性が高く、知らないよりは知っておくほうがよい。
「鶯」という言葉は、平仮名表記すれば「うぐいす」であるが、発音の場合「うく゜いす」となる。「ぐ」を鼻濁音で発音するべき言葉であるから、喉を閉めて鼻から音を抜くべきなのだ。意識して鼻濁音を発音出来るものはなかなかおらず、しかし日本語の特性上連声作用によって自然に鼻濁音になる事例もあるのだから、いっそここで身に付けてみようではないか。
鼻濁音の発音はこうだ。「か゜」を例として、まず「んが」と言ってみる。「が」の時に舌が上顎から離れるところを意識出来るだろう。「んが。んが。んが」と続けながら序々に下顎の動かす幅を小さくしてゆき、最後には下顎を全く動かさずに舌の動きだけで「が」と言えるようにする。その際には「が」の前に小文字の「ん」が挟まれていることに気が付くだろうか。鐚濁音は鼻から抜ける音なので濁音と呼ぶには抵抗もあるが、そういうことになっているから仕方がない。「んが。んぎ。んぐ。んげ。んご」と全て鼻から抜くことが出来れば何時の間にか「か゜。き゜。く゜。け゜。こ゜」の正しい響きが身に付いている筈だ。「うく゜いす」言えたかい?
それでも無理ならばもっと判りやすく説明しよう。「け゜」を例にとる。「ハゲ」の発音は通常のカ行濁音であり、少し気が抜けて「はんげぇー」と言った時は鼻濁音である。しかし「はんげぇー」では練習にはならないので凛とした言葉を選ぼう。「げ」の前に「ん」があればよい。ようしわかった。「ちんげ」これだ。よいか?ゆくぞ?ついて来いよ?
「はげ。ちんげ。はげ。ちんげ。はげ。ちんげ」
カ行濁音と鼻濁音の違いが明瞭に知覚出来たと思うが、わかりましたか?
- 統一言語 03/11/08
では、テレビ・新聞・雑誌などのメディアにより、日本語は遠い将来標準語らしきものに統一されるのだろうか。
これは不可能である。何故ならば我々はそれぞれ属する集団毎にそれぞれの中だけで通用する暗号的言葉を日々生み出し、使用している。これは集団語であるが、その誕生経緯と目的は、あらゆる方言と形式上同じだ。
各々自分を中心に置き、
自分だけに通用する言葉 恋人だけに通用する言葉 家族だけに通用する言葉 友人だけに通用する言葉 知人だけに通用する言葉 集団だけに通用する言葉 学校だけに通用する言葉 会社だけに通用する言葉 業界だけに通用する言葉 地域だけに通用する言葉 地方だけに通用する言葉 日本だけに通用する言葉
と同心多重円を描いてみると、中心に近付けば近付くほど、関係の希薄な者には理解不能な言葉が現れてくる。そして一人一人がこの同心円を持ち、他者と複雑に重なり合うことで使う言葉を無意識に選んでいる。そしてその円より外の者に都合の悪い事柄については、新たにその集団語、身内語を創り出すことになる。
確かにおおよその共通語化は進んでいる。しかしそれは関係の希薄な相手との意思疎通を目的とする為の物であって、そこにあるのは空疎な言葉だ。「日本語」と「語彙」を同一視する危険は承知の上で言う。この限られた円内でだけ通用する言葉が発生することが、言語の変化の源流であるから、その言葉がやがて死語になろうと拡がって新たな標準になろうと、この仕組みがある以上、完全な統一は不可能であるし、もし完全な統一に成功すれば、その社会は完全に進歩が停止した社会であることを示す。
表面上は共通語としての統一日本語が誕生するだろう。ただしそれは政治的に正しく可能な限り摩擦を避けた言葉で構成された言語である。その向こうには、遥かに豊饒な言葉の溢れる世界がある筈だ。そして皆が上辺だけで中身のない共通日本語と文化的生活を営む為の集団語を使い分けることになる。
そしてこの構図は世界共通語を目的とする単純化された英語にも当て嵌まる。いくら英語を共通語にするべく工夫を凝らしても、各国各地域独自の生活文化を元にした独自の表現が次々生まれ続けることから、いつまで経っても世界共通言語は完成しない。
文化と切り離された政治的に問題のない表現だけで構成される虚ろな言語は、もしそれが求められるならば発音記号あるいは発音記号を元にした表記言語になるだろうが、どうせその頃には我々誰一人生きてはいない。
- 五七五字余り 03/11/19
字余りが嫌いなのだ。
俳句・川柳に於ける字余りが嫌いなのだ。ことに俳句は季語が入っていなければならないから川柳ならまだ見て楽しむこともあるが、俳句はあまり好きではない。そして特に字余りは許せない。俳句とは五七五で構成する規則がある。その規則をわざとらしく無視して「どうですか。字余りです、格好いいでしょう」という態度が鼻につく。
字余りには字余りの規則というものがあることも知らずに俳人を気取って平然と字余りさせてそれを誇るのは底が抜けている。字余りは「ア」「イ」「ウ」「オ」に限るのであって、「エ・その他の子音は許さず」とする規則を知らずして何が俳人か。「これがいいんだよ」規則を守らない貴方、例えばボクシングのルールで、ボクシングのリングに上がって、膝蹴りしてから「これがいいんだよ」貴っ様どたまカチ割って兵隊蟻ざらざら流し込んで前後左右にぶんぶん振り回すぞこの糞鉢野郎が。
何かを表現したいとする行為は問題ではない。それが五七五でなくても構わない。ただしそれが五七五でないにも関わらず「俳句」を僭称することは許されない。五七五の枠から飛び出して新たなる表現形態を求めているなら俳句ではなく「自由詩」「短詩」を名乗ればよい。五七五ではないなら俳句の資格を認めない。俳句の権威は皆で五七五をずっと守ってきたから生じている。そこから外れたならば「俳句」という冠を使う資格がないのだ。
五七五の中に季語を入れつつ情景情感を詠み込んで余韻を残して後々まで思い出させる力を持つ俳句というものに力を注ぐ人を尊敬している。尊敬しているからこそ字余りが許せない。
川柳は季語という縛りを外して世事万端を取り込むことが出来るからこちらの方が好きなのだが、しかしいざ川柳をやってみようかと思う気にならないのは、それが字余りに対する激しい苛立ちを超えたところに、俳句・川柳の限界が見えているからである。
- 五七五 03/11/20
俳句・川柳の限界とは。
スーパー図書館の概念だ。これはその気になれば実現可能であるところの、ついでに俳句・川柳全てを完璧に網羅したデータペースのことを云う。俳句と川柳を区別することは意味がないように思っている。俳句であっても滑稽味があったり、季語のない川柳が不思議に季節を感じさせることもあるからだ。
さて、ここにスーパーコンピュータを多数繋げたデータベースがあるとする。その中には五七五つまり十七文字の組み合わせが全て揃っている図書館である。たったの十七文字であるから、
「あああああ あああああああ あああああ」
から
「あああああ あああああああ ああああい」
と続く全ての組み合わせを網羅した俳句図書館という名のデータベース、さて、この組み合わせ何通りあるのか。単純に考えれば、いろは四十八文字、えといが統合されて四十六文字、しかし古いところもデータに組み込むとしてやはり四十八文字、濁音半濁音のの二十五を加えて七十三、更に「きゃ」「きゅ」「きょ」などの一音と数えるものが六十以上あるからこれも含めて、「っ」と「ー」も忘れず、このようにして日本語の音を最小単位に分解したものをまあ、二百はないのだが、計算しやすいから仮に二百と考えて、二百の十七乗
1310720000000000000000000000000000000000
二の十七乗が131072、その後に零が三十四個付く。十七文字夫々二百通りの音を選べるからこうなるわけだが、実際のところ二百もないし、単純に考えれば百以下でも収まる。また日本語の特質上「ん」が文頭には来ないから「ん」で始まる一団は無意味なのだが、徹底して全ての組み合わせを完全に集めたこのデータベースの中に、過去の名句から駄句将来作られるであろうものまで全部含まれてしまうのだ。当然ながら「ずぇ」などという音は一般的ではないから、あちこちの位置にある「ずぇ」を含む殆どの句は無意味であるし、何より日本語を体していない音の羅列が九割以上を占めるわけだが、きちんと意味の通ずる五七五の句が、検索すればどこかに芭蕉の句であれ川柳であれハナモゲラ俳句であれ完璧に揃っているわけで、しかも形になっているものの中にはこの先詠まれるであろう永遠の名句たる五七五も必ず眠っているのだ。
だからこのデータベースには、純文学と大衆文学のような意味不明の対立のような、俳句と川柳の対立は存在しない。そしてこの完璧なるデータベースの中の各句に誰が何時何処に発表したものかという解説なり解釈なりを付けてゆくことを考えると、もうこれは俳句なんて馬鹿馬鹿しくて作っていられない。このデータベース作る方が馬鹿馬鹿しいと言った奴は一歩前へ出ろ。介錯して遣わす。世の中にはこういう馬鹿馬鹿しいことに情熱を燃やす者もいるのだ。電網がより発達すればいずれ誰かが取り組むだろう。そうなると俳句は作るものではなく、検索・発見するものとなり、作者ではなく発見者、俳人ではなく暇人と呼ばれることになる。頭脳労働から単純作業になると、その後の俳句は専ら「解釈」に重点が置かれる事になる。
恐らく我々が生きている間は達成されないだろうと思いつつ、ヒトゲノム解析が始まったことを思えば、金を余らせている誰かと暇を余らせいてる誰かが本気になればあっという間に完成する気もする。
問題は、音の数の設定と、その膨大なデータを収容する媒体だ。媒体の方はいずれ解決されるだろうから、音の数、これは国語学者を動員せずとも日本語をある程度分析すればどうにかなるだろう。大容量の記憶媒体が出現次第いつでも取り掛かれるよう設計図だけ書いておく暇人も居るかもしれない。
何が言いたいか。五七五はやがて創り出すという行為から鑑賞するという行為に比重が移ることになるから、例えそれが遠い将来であったとしても、先が見えている事でやる気が削がれてしまうのだ。これが出来たら都都逸も五七五七七も続くだろうし、そうなると今度は自由詩・短詩が勢いを増すかもしれない。字余りは嫌いだが俳句と名乗らねば許すから、またこのデータベースには過去の字余りをどう処理するかという問題があるのか・・・。過去の字余りを認めると新規の字余りも認めざるを得ないから、これはもう「俳句」でも「短詩」でもない「字余り」というジャンルを創設すべきだとか、色々考えている内に飽きた。馬鹿馬鹿しい。
- 技術 03/11/24
思考力と文章力は表裏一体一心同体だ。
ものを考える時、頭の中では文章の形で考えているのだから、文章力がないのはつまり思考力もないという事だ。英語でものを考えようとしても英語が出来なければ考えは纏まらない。同様に日本語でものを考える時、日本語が出来なければ考えは纏まらないのだ。日本語は論理的な言語ではないという主張もあるが、その場合単にそれを言った人が論理的ではないだけだ。
筋道立った文章を書くことの出来る者は筋道立った考え方が出来るし、筋道立った考え方が出来るからこそ筋道立った文章が書けるとも言える。そしてどうでもよいことしか書けないならば、どうでもよいことしか考えていないことになる。ましなことを考えているならましなことが書ける筈だろ?
読む本でその人を推し量ることは、一段回り込んでいるが、書いたもので判断する時される時、誤魔化しが効かない。文章を晒すことは何よりも雄弁に自己を語ることになる。
それでもなお書かずにいられないのは言葉では伝えられないことを伝えようとするからだし、その場で消える言葉に比べると形として残るから争いの元にもなるのだが、それは争いを起こす力を持った文章であるとも言える。たった一言の心に響く言葉を生む為に百万言を費やす必要があるならば、その時間と労力で一万言の文章を書きたいと願う。その結果文章の底が割れて評価を落としたとしてもそれは己が筆力の至らなさの結果であるし、至らなさがそのまま形として残っているからどうにかしようと足掻き続ける。
伝えたい事など誰にでもある。如何にしてそれを伝えるか、各人各様の苦闘の中である者は話術を磨き、ある者は絵を彩り、ある者は音を刻み、ある者は映像を起し、ある者は文章を並べる。方法を選んで以降はその技術が問題となる。
文章を選んだならば、文章技術を追求することになるわけだが、「どう伝えるか」よりも「何を伝えるか」が大切であるとする風潮は、つまり「何も伝えていない文章が大勢を占めている」ことを表出している。「どう伝えるか」の大切さを丸谷才一小林信彦目黒孝二いずれも主流から距離を置いて確固たる地位を占める鑑賞者かつ実作者である彼らが求心力を持っているのは、「何を伝えるかがまず大切」という作文課題から一段上にいるからであるし、しかし未だ「どう伝えるかの技術」が蔑ろにされているのは、「何を伝えるか」という基本以前の問題で足踏みしている状況から進歩しておらず、停滞を続けているのであって、だから「どう伝えるかの技術」を持てば強力な武器となるし、蔑ろにされているからこそ、そこに割り込む隙がある。
よくある事をよくあるように書けばよくある人間である事を証明してしまう。
ありきたりの事をありきたりに書けばありきたりの人間である事を証明してしまう。
何処にでもある事をどこにでもある風に書けば何処にでもいる人間である事を証明してしまう。怖いね。
適当な文章を書けば適当な人間が見えるし、壊れた文章を書けば壊れた人間が見える。文章の裏を見透かすことの出来る者など限られているから、意思と裏の事を書くのは危険極まりない行為なのだ。
まだまだ足りない。もっともっと貪欲に技術が欲しい。伝えたい事を伝える為の技術を、心の底から求めている。
- 片仮名嫌い 03/12/18
何故片仮名が嫌いなのか。片仮名とは言っても元々は漢字の一部ではないか。少し真面目に検証してみよう。例えばとある雑誌で独白調の芸能人宣伝記事があったとする。
今回は人気急上昇中の木幡美加さん。映画出演がきっかけでついに大ブレイク!!
「掃除が苦手なんです。玄関なんかブーツだらけで。食生活は、朝は大体オムレツにカフェオレかな。晩御飯は出来るだけ自分で作ります。実はこう見えて結構料理が得意なんですよ。例えばアンチョビのマリネとか。寝る前には必ずハーヴリキュールを一杯。お酒?結構飲みますよ。あとシャンパンも好きですね。趣味は・・・ベランダでガーデニングしてるんですよ、ハーブを。それからアマリリスが好きで鉢が一杯あります。敏感なアンテナ立てて流行チェックしてます。今欲しい物。家にジェットバスが欲しいです。コンプレックスは・・・足。やっぱりモデルみたいな足が理想ですね。なんとなくですけど思い出の写真はセピア色・・・って憧れますね。まだそんな年じゃないけど。この前の撮影ではキャンプのテント生活がハードでした。うーん、デートで行きたい場所は・・・特になし。一緒ならどこでも。大切なのはムードですね。キャンドルがあればかなり盛り上がるかも。あ、カフェテラスもいいですね。恋人は現在募集中です。応援して下さいね。ありがとうございました」見よこの醜悪なる文字の羅列を。日本語に失礼じゃないか。もっと真剣に言葉を選ぼうじゃないか。もっと魅惑的で心躍る文章に整えようじゃないか。まずは落ち着いて飲み物でも用意して啜りながらでも修正案を読んでみてくれ。真剣なんだ。
今回は人気急上昇中の木幡美加さん。映画出演がきっかけでついにぶっ壊れた!!
「掃除が苦手なんです。玄関なんか長靴だらけで。食生活は、朝は大体卵焼に珈琲牛乳かな。晩御飯は出来るだけ自分で作ります。実はこう見えて結構料理が得意なんですよ。例えば片口鰯の南蛮漬とか。寝る前には必ず養命酒を一杯。お酒?結構飲みますよ。あと発泡酒も好きですね。趣味は・・・縁側で栽培してるんですよ、薬草を。それから彼岸花が好きで鉢が一杯あります。敏感な触覚立てて流行点検してます。今欲しい物。家に噴出風呂が欲しいです。複合観念は・・・足。やっぱり模型みたいな足が理想ですね。なんとなくですけど思い出の写真は烏賊墨色・・・って憧れますね。まだそんな年じゃないけど。この前の撮影では野営の天幕生活が硬直でした。うーん、日付で行きたい場所は・・・特になし。一緒ならどこでも。大切なのは雰囲気ですね。蝋燭があればかなり盛り上がるかも。あ、露天もいいですね。恋人は現在募集中です。応援して下さいね。ありがとうございました」片仮名を駆逐せよと言うわけではないが、空疎で軽粗なる言葉を調整するだけでこうも変わってくるのだ。
- 過剰効果 04/02/03
「過剰効果」なる言葉が正式に認められていなくても、その意味するところは誰しも覚えがある筈だ。
便所は一般に悪臭漂う領域とされていて実際にもその通りだが、仮に金木犀のポプリを配置していると秋には道端で物思いに耽るより以前に便所が想起される。同様にラベンダーの香りの芳香剤を設置しておればいつか北海道富良野の雄大なるラベンダー畑に立った瞬間一面のお花畑に感動したくても「激しく便所の匂いがする」としか考えられなくなる。
「ラジオたんぱ」がその字面の意味を遥かに超えた意味内容を付与されたのは過剰効果に拠るところであるし、裂き烏賊もまた同様の効果が報告されている。
この過剰効果が顕著に認められるのは、何でもない事物に対して俯きがちになる印象であるが故に悲しい。ビールを飲みつけない頃に大量に飲んでそのまま吐くことを続けるとやがて「ビールの匂いは吐物の匂い」と覚えてしまうのも過剰効果の一例であろう。
と考えたところで、これは単なる条件反射であることに気付いた。パプロフ博士に苛められて涎を垂らしていた犬の名前は何と聞かれたが、博士は条件反射の研究を二十年やり込んでいるのであって、当然科学的な実験として説得力を被せる為に複数の犬で実験をしていたので、その涎犬の名前や愛称は伝わっていないようだ。
この条件反射で連想してしまうのは類型的な国籍印象、調理方法のほぼ固定されている料理素材、なんでもないのに突然流行語にされてしまって廃れた後には恥ずかしくてもう使えなくなってしまった言葉などがある。「そこまで言う!」普通に使いたくても躊躇しませんか。
雨が降れば思い出すのは行ったことのない美しい自然よりも雨上がりのアスファルトの匂いであって、アザラシを見るとタマちゃんと言いたくなる以前はゴマちゃんと呼んでいたから負けて悔いなしと立ち竦むのであって、もう疲れただけなのさ。
- 略 04/03/18
つまりパリでは「McDonald's」は関西風に「まくどーぅ」と発音されるらしいという噂があるのだが、仏贔屓の人間はこれをどう考えるのか。仏贔屓の人間ならばこの低劣なる瞬速食品を認めないから相手にはしないのか。しかし関西人に無理矢理「まっく」と言わせるのは止めて下さい。何故か「まっくど」になって猛烈に恥ずかしいです。
しかし口語関西弁は助詞の省略が多い。これを口語関西弁で言うと「せやけど口語関西弁助詞の省略多い」となる。「助詞の省略」の「の」は「省略多い」を連結する場合には必要だが、この「の」を省略した場合、後ろが変化する。「口語関西弁助詞省略すること多い」関西人がこれを読んでも何一つ違和感がないだろうが、字にして並べてみると少し怯む。また語尾はここまではっきり断定せずに「口語関西弁助詞省略すること多いし」となりやすい。「多いし」のあとには句点が付き、ここが語尾である。「〜し、〜。」ではなく、「〜し。」となる。もう少し柔らかくなると「〜しなあ。」になる。
文章で書かれた関西弁は大抵一見それらしいのだが、よく見ると助詞が多用されていることが多い。これは漢字の羅列を中和したくなる本能であろうからそれでよいが、音読するとどうにも間延びしてリズムが狂うのだ。ざっと目を通した後そらで内容を述べよと言われた時、まず助詞は全滅している。ここは口語で「助詞全滅」で済む。
中国語に助詞はなく、日本に漢字を輸入して無理矢理読む為に助詞が発達したという高嶋俊男の説に隙はない。ところでこの助詞の省略動作、実は新聞の見出しと共通の特徴なのだ。
「JR東日本、乗務前運転士 車掌飲酒検査義務化へ」
新聞の影響力とは想像を遥かに上回るのであって、この助詞省略語に慣れるとやがて正しい助詞の使い方に迷う世代が出現する恐れもある。漢字が並んでいたら意味は判るから問題はないと考えてみても、それは省略している助詞を無意識の内に補っているからである。
「公設秘書、配偶者禁止 衆院制度協・座長案判明」
状況と伝達内容は問題なく理解出来るが、ところで主語は何ですか。
- 糸屋の娘 04/03/25
「糸屋の娘」てのがあるね。
77777785の俗謡で、頼山陽の「京の五条の糸屋の娘 姉は十六妹十四 諸国大名は弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す」これは知っていたのだが、ふと目に止まったのは変種だった。頭の77が「京の五条の糸屋の娘」ではなく「大阪天満の糸屋の娘」となっていた。これは調べずにおれない。すると出てくる出てくる。
京の五条の糸屋の娘
京都三条糸屋の娘
三条木屋町糸屋の娘
大坂天満の糸屋の娘
大坂船場の糸屋の娘
大坂本町糸屋の娘
浪速花町糸屋の娘
浪花本町糸屋の娘
向こう横丁の糸屋の娘向こう横丁はどうかと思うが仕方ない。更に年の組み合わせが16・14、18・16、18・15、17・15の四種を確認し、諸国大名は「弓矢」か「刃(やいば)」を使い、「殺す」と「殺し」の二通りがある。
娘が八種類、年が四種類、大名の武器が二種類・活用の違いで二種類、これらだけでも順列組み合わせでは128種ある。当然他の娘や年に武器があるだろうからきりがない。専門家が「さまざまなバリエーションがある」と逃げを打つのも無理なきところだ。糸屋の娘は歌舞伎になったり浄瑠璃になったり民謡になったり大人気なのだが、糸屋の娘が心中でもしたのだろうか。これだけあるとどうも改作する気力が沸かない。だれた頭に浮かぶのは精々「裏の長屋の糸屋の娘」「赤の煉瓦の糸屋の娘」「石動倶利伽羅糸屋の娘」「播磨の揖保の糸屋の娘」もう駄目だ。ずっと眺めていたら「糸」の字が傾いているように見えてきた。
- 助 04/07/18
日本語は語順を自由に組み替えることが出来るが、その副作用として多彩な助詞群が蜷局を巻いている。
「格助詞」「複合格助詞」「接続助詞」「係助詞」「副助詞」「並行助詞」「間投助詞」「終助詞」分別法は諸説あるのだが、とにかく助詞が沢山あることには変わりない。
これには短歌の影響が感じられるように思う。言葉を音として長短のリズムで刻む日本語は、語順を入れ替えることで印象の多様性を確保して表現の幅を拡げた。それはどう違うのか明確に説明出来ないながらも無意識に使い分けられる助詞を生み出し、副言語として日本語習得に情熱を燃やす人々の気力を日々拉いている。
漢詩でも韻を踏む為に入れ替えたり、字数を合わせる為に押し込んでみたりと語順はある程度自由であり、その影響があることは間違いなく、しかし大和言葉を読みとする以上語と語を繋ぐ助詞が発達するのは自然なことだ。
語順が自在になることで文章のリズムを整え、大意は変えずに印象を微妙に違えることが可能であり、しかしその違いを説明することの難儀さが日本語を非論理的と言わしめている。「日本語が論理的でない」ではなくて、「日本語を論理的に説明出来ない」を意図的にかどうか取り違えていて、さらに「日本語は非論理的」を「日本人は非論理的」と拡大解釈することで話は収拾がつかなくなる。
語順が自由になるから助詞が発達したのか、助詞が発達したから語順が自由になるのか。どちらでも構わないし結論は出まい。この先日本語の語順を固定化する動きがないように祈るのみだ。
- 語呂 04/08/11
普段から高尚なことを考えているわけなどなく、最も得意としているパロディについてあれこれ思いを巡らせる中で不意に何かの種にぶつかることがある。大抵は何もぶつからずにパロディにもならず霧消するのだが、時として余りにも下らない発展性も奥行きも何もない駄洒落が飛び出してきて、そのまま他の事が考えられなくなる事態もある。
「二十四時間戦えマスカット」
これをどうしろと言うのだ。情景は浮かばず転がす手立てもない。忘れようとしても「何を忘れるのか・・・二十四時間・・・阿呆だ」との繰り返しであって、こうなると何をしても無駄であり、諦めて寝たところで次に起きた瞬間「おはようございマスカ・・・」と尾を引いている。
普段は助詞を変化させる語呂合わせを主に取り扱っていて、付け足しの駄洒落は守備範囲外なので頑として手を出さない筈なのだが、意識して排除しているとある瞬間に堰が崩れて収拾不能となってしまう。
語呂合わせのやり方にはいくつかあるが、最も得意なのは助詞を利用する方法であって、これは響きがほぼそのままでありながら内容は劇的な変化を遂げるから面白い。付け足しの方法は変化前の言葉が持っていたリズムがどうしても崩れてしまうので駄洒落扱いされる。韻を踏んだまま入れ替える場合、同音異字の多い日本語では有利なのだが、下手すると語呂合わせであることが判らない場合もある。
理知的に構成したものならば破壊力が不足していて、適当に考えついたものならば必ず既に誰かが使っていて、誰も使っていなければそれはどうにも活用不可能なものであり、つまるところ駄洒落というものは考えるだけ時間の無駄である。
ナンセンスは無意味という意味であり、これは駄洒落と厳しく区別して然るべきなのだが、無意味と無内容を混同して単なる駄洒落に箔を付けたがる向きもあるのだが、駄洒落は所詮駄洒落であって、洒落には程遠い。では駄洒落ではない洒落とは何か。奥行き、深さ、想像力、汎用性、そして完成していながら自己展開する力を持つものだ。その洗練が極まれば諺となり得る可能性を秘めた洒落と、単に失笑しか引き起こし得ない駄洒落と、どうせ取り組むならば洒落の方が楽しかろう。洒落をものする為には素養が必要であるが、素養とは当然ながら駄洒落のことではない。
- 静かな湖畔 04/11/02
「♪静かな湖畔の森の陰から 男と女の声がする 『いやん ばかん そこはだめよ』・・・」
男の声が聞こえた奴は手を挙げてみろ。女の声しか聞こえていないぞ。従ってこれは「♪男と女の声がする」ではなくて「♪女の囁く声がする」が適当であると考える。しかし囁き声が聞こえるとは相当に近寄っている状況であり、行動は不審だ。
男と女の声がして、寄ってようやく聞き取れたのが女の声だけだった可能性もあるが、当初から女の声しか聞こえない場合、それは「囁き」と表現するには不適当でもある。さらにその声も肯定的な雰囲気であるならば囁きでもよかろうが、否定的である場合は「♪女の金切り声がする」と切羽詰っている状況がたちどころに想起される。
最も無難な言葉ならば「♪女の戸惑う声がする」だがそれは続く言葉を承知している相手にのみ有効であり、少し苦笑を交えたい場合は「♪女の焦った声がする」なのだが、これでは面白くも何ともない。思い切って「女の悦ぶ声がする♪」と猥歌にしてしまった場合は後段も全面的に変更せねばならないから困る。ならば「♪怪しい女の声がする」か。「妖しい」の方がより字面はよいが、同音異字である故に会話での識別は困難だ。
「男と女の」の部分を「女の〜」とするから強引になるのか。「〜女の声がする」ならば自然な接続になるだろうか。「♪慌てる女の声がする」別に慌てていると限る話ではなく、望まない場合は強硬な否定となるし、望んでいながら建前としてそのような声となるのだから、慌てるは違う。最初の奴を入れ替えて「♪囁く女の声がする」でどうか。
馬鹿馬鹿しくて飽きたので元歌を辿る。これは山北多喜彦という教師が1935年に作詞したもので、山北氏は1968年に逝去したが著作権は存続している。上の如き替歌は同一性保持権を蔑ろにしているが、この替歌の流行る前に作曲者が亡くなったのが僅かな救いであるかもしれない。
二番まであり、一番の「いやん、ばかん」のところは「もう起きちゃいかがとカッコウが鳴く」だ。郭公が鳴くのは知っていたが、「もう起きちゃいかが」のくだりは少し詰まっているので聞きにくい。だから元歌を正確に知らないまま語呂のよい替歌だけが一方的に拡まったのだろう。二番はおやすみなさいとフクロウがホホーホホーと鳴くようだ。替えるなら「♪もっとー、もっとー」とか、どうせなら二番と対にしたいものだ。前半8885のリズムは都都逸と同じだから、艶っぽい替え歌になるのも必然であろう。
元歌の題名は「静かな湖畔で」となっているが、曲の由来が山北氏作曲説とアメリカ民謡説がある。しかしアメリカ民謡と仮定した場合、タイトルが不明だ。「silent」と「lakeside」を中心にあれこれ検索してみたが、力尽きた。アメリカの友人を持つ方は是非鼻歌を聞かせてタイトルを教授して頂きたい。
- 一一三拍子 04/10/26
「♪静かな湖畔の森の陰から・・・」 はい、このメロディーに都都逸を載せてみましょう。
♪三千世界の 烏を殺し 主と朝寝が してみたい カッコー カッコー
この元歌がアメリカ民謡という説は怪しく思う。スイス民謡説もあるが、やはり山北多喜彦が作曲もしたのではないだろうか。そして最初の調子が8885であることは、長短でリズムを整える日本語の特質を踏まえた 都都逸から発生した節ではないだろうか。
山北氏の都都逸に対する姿勢を確認出来ればよいのだが、およそ四十年前に逝去されているから当時を知る者の証言さえも期待適わぬ可能性が高い。ただし日常的に都都逸を唸っていたと限定する必要はないが、「引金になったのでは」と推測するものだ。歌詞はこう。
静かな湖畔の 森の陰から
もう起きちゃいかがと カッコウが啼く
カッコー カッコー
カッコー カッコー カッコー静かな湖畔の 森の陰から
おやすみなさいと フクロウ啼く
ホホー ホホー
ホホー ホホー ホホー歌詞を文字で見た場合は前半後半に分けられるようだ。そして前半は8885の都都逸調子、後半は妙に馴染みの調子に思える。これは何か。「・ ・ ・・・」
一一三拍子ではないか。
ここは都都逸の後に楽器を掻き鳴らすところと思えば確かに妥当する。そう考えて再び最初から鼻歌を取っていたら、何と全て一一三拍子で纏まることに気付いた。「静かな湖畔の」が一一、「森の陰から」が三、そして次も同じく一一三、「カッコー」も当然、つまり一一三拍子を三回繰り返すと一番通すことになるわけだ。
仮に「静かな湖畔」が都都逸と一一三拍子を組み合わせただけであったとしても、作曲の価値をいささかも減ずるものではない。むしろ優れた旋律であることの証明にさえなり得るものだ。これが外国民謡であったなら、都都逸との一致性を説明するには「偶然」で片付けるしか方法はない。
そして都都逸をこの調子に載せた場合に必要な一一三拍子で吟ずる五つの繰り返し言葉を見つけならば、都都逸の数だけ替え歌が存在することになる。