このサイトはスタイルシート対応サイトです
閑雲野鶴 案内板 更新情報 メルマガ 雲と連絡 鶴の骨格 鶴の足跡 資料室 亡国遊戯 がらくた リンク集
近道:検索 地図 メルマガ最新 読書録 掲示版 Google
現在地〓 閑雲野鶴メルマガバックナンバ保管庫 >飲食物

見本
メルマガ最新
バックナンバ
報告集
発行履歴
登録・解除

保管庫
題名索引
2003
2004
2005

中華風パスタ
辛党
肉じゃが
すき焼き
サラダオイル
鹿煎餅
天麩羅飯
ラムネ
置きグリコ
燃費のいい体


さんど
立ち喰い
果菜
カサブタ
赤い
さんど?
蜜柑
味噌汁
冷やし中華パン

焼きラーメン

鳳梨
ケチャップ
蒲鉾
ドーナツ
辛い
喰べ合わせ
大豆
月餅
honeydew
カルピス
食パン


「一人暮らしが長ければ料理の腕が上達するものだ」

「手抜き料理の腕がと言え」

中華風パスタ 2002/12/09

 腹が減ったので突然そこにあったパスタを茹でて、相変わらず詰まったままの便器を眺めてうんざりしながら薄く積もった雪に感動しつつ、さて具は何にしようか。

 何もない。ない。幾ら探してもレトルトパックはおろか「三島のゆかり」「三島のわかめ」も切れている。さあどうする。茹で始めてもう3・4分は経っている。今から引き上げてコンビニに具材を買いにいくのは無理だ。。かといってこのまま「素パスタ」もつらい。バターもないぞ。湯から上げたら即固まってしまうぞ。

 まず落ち着こう。何がなくて何があるのか。具材一切なし。ふりかけ一切なし。オリーブオイルなし。粉チーズもなし。そういえばこの前全部使い切ってすっきりした。なのにパスタだけ残っているから困る。気を取り直して調味料を検索する。岩塩発見、タバスコ発見、氷砂糖発見、キムチ鍋の素発見、味噌発見、爪楊枝発見、酢発見、塩胡椒発見、マヨネーズ発見。

「マルちゃん 冷しラーメンのスープ」発見。

 これや!!と思いましたな。数カ月前に二つ纏めて喰べた際、スープを一袋しか使わず冷蔵庫に捨て置いた。卵ケースの窪みにすっぽり嵌っているタレ袋を心無しか震える手で摘み上げて、長い間卵ケースに収納されていたことを主張しているかのような丸まった姿を見ながら「ををををををを。お前や!お前で行くぞ!」

 バターもオリーブオイルもないので固まらないよう何か油系のものを混ぜなければならない。マヨネーズか。深く考えないままマヨネーズと「マルちゃん 冷しラーメンのスープ」をかき混ぜて岩塩をごりごりぱらぱらと振る。

 味かい?聞きたいかい?大体見当が付くだろう?麺に冷やしラーメンのスープにマヨネーズ、この組み合わせ何かで覚えがないかね?手前の口から言わせたいのかね?そうか。じゃあ言おう。

 「冷し中華やんけ」

 しかし貴方は忘れている。これはパスタなのですよ。もう一度言いますよ。これはパスタなのですよ。つまりね、茹で上げてそのままどんぶりで掻き混ぜたわけでね。熱いねん。熱くて口の中の皮一枚剥ける冷し中華風味のパスタやねん。腹減ってたから喰べたけどな。

 教訓か?この件についての教訓はあれだ、「マルちゃん 冷しラーメンのスープ」を使ってパスタを喰べる時には茹でたパスタを一旦流水に晒して〆ること、すればパスタである旨忘れることが出来る筈だ。


辛党 2003/03/04

 辛党なもので、甘いものは滅多に食べないが、それでも食べてみて悪くないと思えるものがいくつかある。辛党推薦の甘物を幾つか紹介しよう。

 「いこもち」九州は鹿児島、指宿のいこもち。煎粉餅。酒には絶対合わないが、たまに食べてみると美味しい。抑えられた甘さが大変よろしい。粘りつくのがあまりいい気分ではないので食べる前に冷蔵庫でキンキンに冷やしておくと歯応えもよく、甘さもそれほど感じない。わらび餅とマシュマロと米の餅を足して割った風で味らしい味がしないのに何故か癖になる。

「柿羊羹」これはどこでも売っている。広島の扇屋のものは柿でなく柿ジャムを練り込んであるので普通の羊羹とさほど変わらない。岩手大船度のさいとう製菓のものは確かに柿の雰囲気が出てはいるが、色は普通なのであまり見栄えの良い物ではない。柿羊羹で一番のお勧めは和歌山市内にある駿河屋の柿羊羹だ。色から既に柿色で、着色料かどうかは聞かないでくれ、味もさっぱりしている。大垣でも博多でも静岡でも京都でも柿羊羹を見かけたことがあるが、もういい。せいぜい年に一度駿河屋の柿羊羹を一切れ二切れぐらいでいい。いくら美味いと言っても胸焼けするのだ。同じく冷蔵庫でキンキンに冷やすことが望ましい。

 普段甘い物を食べない奴が何を言うかと言われたならば、こう返そう。

 「甘い物は嫌いで胸焼けする。辛党だから酒を飲むし七味より一味が好きだし卵焼きに砂糖を入れる奴は射殺してもよい。そういう奴が認める甘物を信用は出来ないかね」

 複眼視してみようか。甘党で酒を全然飲めない奴がいる。そいつが辛うじて飲めるお酒を認めることが出来るかどうか。

「シャンパン」「カルアミルク」「甘酒」

 ぅをぇ。許さん。認めん。

 駄目だ。胸焼けしてきた。今日はこれまで。


肉じゃが 2003/03/08

 いい加減肉じゃが信仰はやめにしないか?

 誰も言わないようだから言わせてもらうが、肉じゃがを「おふくろの味」「家庭の味」などと植え付けて料理が出来るかどうかの目安にした奴は名乗り出ろ。

 正直な話、美味いとは思わんのだ。確かに砂糖と醤油を使った料理で大和煮の基本ではある。見方を変えれば空焚きで水の蒸発したすき焼きとも言える。しかし、しかし、肉じゃがをそれほど神聖視するのは危険であるぞ。料理が出来るかどうかの基準に肉じゃがを持ってくるのは危険であるぞ。肉じゃがはだな、普通に失敗はなかなかしないが、もし失敗したらカレーに化けたり無理矢理牛丼に化けたりするのだぞ。そんな逃げ道のあるようなものを判断の基準にするはおろか思い上がって「家庭の味」ですと?やめろやめろ。肉じゃがはそれほどのものではないぞ。

 関西風の味付けなのか関東風の味付けなのか、肉は何を使うか、白滝か糸蒟蒻か、青豆を入れるかどうか、人参の切り方は、汁気はどうするか、人によって好みが違う以上、基準にはなり得ず、ただ抗争の種となるばかりだ。それぞれ肉じゃがの好みの味があるだろう。それを偶然その通りに作れる女などいるわけがないではないか。くれぐれも言う。女は肉じゃがを必殺技と勘違いするのはやめろ。そして男は肉じゃがを決め手にするのはやめろ。危険すぎるぞ。

 「好みの味に少しずつ修正していけばいい」そんな甘いことを言えるのは今だけだ。味覚に合わせて料理を少しずつ修正していくのではなくて、料理に合わせて味覚を少しずつ修正されていくことになると、何故わからんのだ。

 自分で調理すれば話は簡単なのだが、単純素朴な料理と言われている割には手間と時間がかかる。しかも大量に作っても食べきれるものではない。少量しか作らないのであればあらゆる面から不経済である。しかも肉じゃがはおかずの主役には相応しくないから、草臥れるだけだ。

 じゃがいも人参白菜、野菜を取れば「へるしぃ」。あれだけ醤油をどぼどぼ注いで砂糖を山盛ぶち込んでおいて何が「へるしぃ」か。皆の衆、目を覚ませ。

 料理が出来るかどうかの基準としてはカレーで決めろ。


すき焼き 2003/03/22

 そもそも「すき焼き」とは「鋤焼」なのだが鋤も使わず焼きもせずに「すき焼き」と言い張るには無理がある。

 「鋤焼」は畑作業の合間に鋤を柄から外して鉄板焼の如く下から加熱し、野菜や肉を焼いて食べるものだった。肉とは言っても獣肉は食べてはいけないことになっていた建前上鳥扱いの兎が中心であったと思われる。兎を数える際の「一羽、二羽」は鳥扱いの名残りである。

 さて、鋤ではなく鍋を使い、焼かずに最初から煮込む物を「鋤焼」と称することに違和感を覚えて例えば『鋤焼本舗』というお店を。

 まずテーブルにはコンロがある。そして適当に切り下拵えの済んだ野菜と肉が大皿に盛られて出てくる。同時に柄から外した鋤の頭、有毒なコーティングは全て剥がし、縁を少しだけ叩き上げて土手を作り、何度も何度も焼きを入れて油を馴染ませた鋤の頭が出てくる。これが鍋の代わりだ。本物の鋤を使った鋤焼。当然割り下などだばだば垂れてしまうので使わない。醤油も砂糖も使わない。唯の鉄板焼かと思えば違う。脂身を塗り込んで加熱した鋤に肉野菜その他いろいろ乗せて焼く。そして程よく焼けたところで小皿に取って食べるわけだが、小皿には生卵を溶いておく。

 これを「現代風元祖鋤焼」しかし残念ながら味がない。従って肉は予めタレに漬けておく。野菜は塩を振りながら焼く。溶き卵にやや焦げた肉を入れてかき回し、野菜も卵を絡めて食べる。難点は次第に卵が熱を帯び、半熟状になってしまうことであろう。それを防ぐ為に卵は出来るだけ贅沢に使う。

 普通の鍋のような〆の麺もしくは雑炊など出来はしないから最後は微妙に出汁の出た気がする溶き卵をみんなで合わせて卵焼きにする。少しだけ叩き上げた縁がここで役に立つ。

 ビールとの相性が最高であると思うこの料理を出す店、何処かにないか?


サラダオイル 2003/03/24

 サラダオイルとは何かがずっと気になっていた。

 ひまわり油、紅花油、オリーブ油、ごま油、すべて身元が確認出来るものだが、「サラダオイル」「サラダ油」貴様は何者か。

 創択社の「間違い漢字勘違い言葉診断辞典」によると

■「天ぷら油」と「サラダオイル」ともに、大豆、菜種、ゴマ、トウモロコシなどを原料として作られる。サラダオイルは、ドレッシング、マヨネーズ、マリネなどの生食に使われるので、低温でも分離しないこと、固まらないことが必要である。そこで精製の過程で、天ぷら油に一工程加える。つまり油を低温で放置し、できた結晶を取り除くのである。これにより、色も抜け、さらっとしたサラダオイルができる。

 成程。ブレンデッドでしたか。単一の原料で作られたものの方が価値があるのは当然のことで、しかしその一級品に成りきれなかったものが他の落ちこぼれと合流して天ぷら油を名乗る。いい値段の天ぷら屋では天ぷら油は使わないことを思い出す。ごま油は癖が強いが菜種油で揚げた天ぷらは実に美味い。何度も使って酸化している家庭の天ぷら油や、大量に使う為にコスト面から妥協を余儀なくされる業務用の天ぷら油に恨みがあるわけではないが、サラダオイルの属性を調べたついでに天ぷら油の姿を見てしまったことに少し戸惑う。

 サラダオイルは天ぷら油を低温で放置して出来た結晶を取り除くわけだから、不純物を含まない純度の上がった「飲んでも大丈夫ですよ、一応」ということになる。そうは言っても「サラダオイルの原料は何か。多分何かの植物だと思うが知らないのは不安であるが」というもやもやが解消された代わりに、「あれやこれやの油混ぜてあります」と突き付けられては何となく釈然としない。それに「天ぷら油は不純物が混じっておるのか。結晶云々について詳しく知りたい」と思うのが人情であろう。サラダオイルは不純物が完璧に除かれてある訳ではなかろうが、このことを知った以上、天ぷらには天ぷら油よりサラダオイルを使って欲しい、サラダやマヨネーズにはサラダオイルではなく単一原料の少し気取った油を使って欲しいと考えて何が悪いか。


鹿煎餅 2003/04/21

 いいか、よく聞けよ。俺は引越が多いから出身地がどこだと明言出来ないのだが、住んでいた所は全て愛着がある。里心はないが愛着はある。奈良に住んでいたこともある。別に信用しなくてもよいが、いいか、よく聞けよ。「鹿煎餅って本当に美味しいんですか?名物に美味いものなしって言いますよね」いいか、よく聞けよ。

 鹿煎餅は鹿が喰うのだ。もう一度言うぞ。鹿煎餅は鹿が喰うのだ。

 観光地でよくあるだろう。「鳩の餌百円」「鯉の餌百円」それと同じで「鹿煎餅百円」なのだ。奈良の名物と誰に吹き込まれたか知らないが、一人二人のお馬鹿なら「そうそうあれ美味いで。有名やけどなかなか売ってなくてな、知っとる?あれ鹿の角擂り潰した粉混ぜてあってな、昔からバイアグラ並の人気やねん。買うた人は絶対そうは言わんけどな。奈良土産言うたらあれしかないで」と言いたくなるが、「奈良行ったことないけど鹿煎餅って有名ですよね。どうなんですか?」と鹿煎餅の実体を知らない人間が多過ぎる。真実を告げよう。

 よろしいか。鹿煎餅は鹿が喰うのだ。

 奈良公園には鹿がうろうろしている。そして鹿煎餅売りのおばちゃんもうろうろしている。そのおばちゃんから鹿煎餅をを百円で買う。直径およそ10センチ 厚さ2ミリ程の円盤で、まあコースターのようなものだ。それが十枚で百円だ。十枚はセロテープ幅の薄い紙で十字に止めてある。恐ろしく軽い。色は干涸びた豆腐のような感じだ。

 その鹿煎餅の紙を外していると鹿がわらわら寄って来る。ついでに言うと「子鹿子鹿!バンビだ!あの子にあげたい!」と考えても無駄だ。子鹿はまず寄って来ない。警戒しているのか成体に気後れしているのか知らないが、大抵人に馴れ、鹿煎餅に馴れている成体に取り囲まれてしまうので子鹿にやるのは無理だ。こちらから近付いても逃げるし、逃げなくても成体が割り込んでくる。成体と言っても角で突かれる恐れはない。なお一応言っておくが雌には角がない。

 鹿煎餅を寄って来る鹿に差し出すともしゃもしゃ食べる。あんな最中の皮みたいな物を食べ続けて喉が渇かないのか不思議に思うが、草よりは美味いのだろう。鹿煎餅を全てやってしまうとさっと離れてゆく。それはもう気持ちよく離れてゆく。鳩ならば未練がましくわざとらしく近くを歩き回る奴もいるが、鹿はもう少し賢い。もうないと判断すると素早く散会してしまう。全部やった後、実はまだ手に鹿煎餅を止めていた薄い紙が残っている筈だ。それを鹿に差し出してみようか。

 食べるぞ。お前は山羊か。鹿の誇りはないのか。紙だぞ。紙なんだ。これは紙で、君は鹿だ。喰うのか。いいのか。うまいか?一応やってはいけないことになっているが、大抵食べさせているようだ。喰うなら仕方ない。

 鹿煎餅の味か?味はだな、ソフトクリームのコーンより薄味だったな。


天麩羅飯 2003/05/31

 おそらく一人暮らしをはじめた当初は誰でも阿呆なことをするものと思う。殊に食生活に於いて各々の本能が剥き出しになる傾向があるようだ。

 手前の場合、まずチキンラーメン一色に染まった。「簡単で安い」以外の理由はなかったと思う。それこそ朝晩朝晩規則正しく食べ続けていた。だが二ヶ月ほどすると、匂いを嗅いだだけでえづくようになった。その頃には美味いとも不味いとも思わず、ただ惰性で食べていただけであるから、急に別の物に切り替えるきっかけがなく、しかも一応昼には学生食堂で何かしら食べていたので倒れるようなこともなく、日々は流れていた。

 ある時、何度も吐くまで飲まされた酒がまだ残っている状態で低く呻きながら丼に湯を注ぎ、蓋をした。水を飲みながら精神統一を図りつつ、食べようといざ蓋を取ると、立ち上る匂いに胃が裏返る勢いで溶解されていない烏賊などをを撒き散らした。それ以来、奴の匂いをゲロの匂いと体が覚えてしまい、食べられなくなった。今でも匂いだけで酸味がかった液体が迸りそうになる。

 いつか焼きそばを、具のない麺だけの焼きそばを山のように食べてみたいと願っていた。実現する機会を得たのは新聞を取るときの景品でホットプレートを貰った時だ。早速焼きそば用の中華麺を買ってきて水を掛けつつ加熱してソースを搾り出し、三人前ある麺だけの焼きそばが完成した。当然のことだが、すぐに飽きる。減らない焼きそばというものを初めて体験し、絶望感に襲われ、トイレに流そうかとまで考えたが、長年の夢をトイレに流すのはいかにも偲びなくて、全部食べた。その日はずっと気分が悪いまま眠れなかった。具があるには理由があることも知った。

 チキンラーメンをやめた頃、借りてあって、今でも借りっ放しの炊飯器を活用するべく標準米をしたたか買い込み、いろいろ試してみる。次第におかずを用意するのが面倒になってくるのでついには缶詰などを炊く前にぶち込み、炊き込み御飯にする。最初は缶詰の他に竹輪やキャベツを千切って入れたりしていた。序々に缶詰だけになってくるが、それでもこれはしばらくの間かなり有効だった。「しばらくの間」というのはつまり、有効でなくなる瞬間があったわけだ。何か。米と水を釜に入れ、今日は何を炊き込もうかと探してみたが何もなかった。正確に言えば他にはいろいろあった。サラミ。さきいか。ポテトチップ。酔っていたという言訳はしたくない。ただ、サラミとさきいかとポテトチップを全て叩き込み、醤油を少し垂らしてスイッチを入れた。肴のなくなったビールを飲みつつ、そのとき読んでいたのは「文学部唯野教授」で、丁度ロシアフォルマリズムの章を終えて一息つくと不思議な感じがする。何だろうと見渡しても特に変化はない。とりあえずビールをもう一本と立ち上がった瞬間はっとした。

 辺りに漂う香りがこう、とてもポテトチップなんですね。

 「御っ飯ーーっ!」と開けて見るとわずかに醤油の色がついた米が油でぎとぎとに光っております。サラミ入れたし。ポテトチップは溶けてはいないもののだらしなく崩れており、こいつからも相当油が流出した雰囲気がある。結局柔らかく熱いさきいかとサラミだけを食べ、あとはおにぎりにして鳩にやった。さぞや胸が焼けたことと思う。

 そんな中で最大のヒットともいえる料理がひとつ。うどんが一玉残っていたと勘違いして買ってきた掻揚の処理に困り、そのまま肴にするのも何なので御飯を炊いてタレのない掻揚丼にしようと落ち着く。炊いている最中に葱を刻んでいると、「めんつゆ」が目に入る。うどんさえあれば。そばでもいいのに。麺なら何でもいいのに。麺でなくてもええか。御飯で。わかりますか?

 「天茶の、お茶の代わりにめんつゆ」「天丼に、めんつゆをかける」「天麩羅うどんの、うどんの代わりに御飯」どう理解して頂いても結構ですが、とにかく、そういうものが出来た。丼に炊き立ての御飯、葱をばら撒き、掻揚をのせて、熱いめんつゆをぶっかけた。これがまた貴方、頬の内側をきゅううううと噛み締めるほど美味しゅうございました。最高でしたね。天麩羅飯。天めし。今まで誰にも言ったことがありませんでしたが、粗野で美味い簡単な食事として、時々無性に食べたくなります。


ラムネ 2003/06/09

 ラムネというものがある。

 駄菓子屋の錠剤の如きあれではなくて、同じ駄菓子屋でも飲むほう、瓶のラムネだ。

 レモネードが訛ってラムネとなったわけだが、実際ラムネとして飲んでいるものはレモネードではなくてただの甘い炭酸飲料である。独特の瓶が、アワーグラスライン、くびれの形が色っぽく、手の中にすっぽり納まるあれは、中身ではなくて瓶そのものに魅力を感じていたのであろうか。

 振るとからから鳴るのは中にビー玉が入っているからであって、このビー玉が炭酸の力で押し上げられて栓の役目をする。だから最初にビー玉を「ぶしゅ」と押し下げてから飲む。ただし栓をしていたわけだから普通に傾けて飲むとビー玉はころころ口まで落ちてきて流れを止めてしまう。角度があるのだ。瓶を傾ける角度ではなくて、瓶を独楽のように回す角度だ。上のふくらみには「瓶が柔らかいうちに指で押してみました」といった感じのへこみがある。凹みである以上内側に突き出ている。これが二つ並んでいるところにビー玉を引っ掛ける角度にして傾けば玉は栓をすることがなく、ラムネはこぽぽぽと流れ出てくる。それを知らない奴は大きく呷ってはビー玉に蓋されてすぐに流れを止められる。

 単に飲み方を知らないだけなのに「魅力でもあるんだよね」涼しい奴だ。

 しかし洗浄に手間がかかるので次第に廃れ、今ではどこでも売っているわけではない。するとある日、胴体がプラスチック製でビー玉だけガラスのものが登場した。頭は捻って外せるようになっており、簡単にビー玉を取り出せてしまう構造であるから少し気が削がれるのだが、それでも最初にビー玉を押し下げるときの抵抗と、内側の出っ張りにビー玉を引っ掛けなければ蓋されてしまうことには変わりなく、まずは手軽なノスタルジーである。

 ところでこの構造、日本人の発明であるらしいのだが(※1872年、イギリス人のハイラム・コッドでした)、これをラムネだけに利用するのは少々勿体無い気がするのだ。例えばどこかの地ビールで容器としてこれを採用しないものかと常々思っている。コップに注がずに瓶からラッパで飲むビールがあれば、味はどうであろうがとにかく瓶だけで話題になるだろうし、瓶を目当てに飲む人も多いだろう。そしてこの瓶は当然何度も何度も再利用することになるし、洗浄に使う水の問題さえ処理できれば、「地ビール」「リターナブル瓶」「ラムネの瓶」「環境にやさしい」「新鮮なノスタルジー」と宣伝文句には事欠かず、爆発的に売れる筈だと思うがどうか。

※ぞーりむしさんより「ラムネの作り方」というページを紹介頂きました。


置きグリコ 2003/06/10

 その昔富山の薬売りというのがいて、家庭に常備薬の箱を配して定期的に訪れ、使った薬を補充すると共に代金を受け取り、行脚していたわけだが、このシステムにグリコが目をつけた。

 鳥籠サイズのブラスチックケースに四つほどの引出しがあり、中には色とりどりのお菓子が詰め込まれている。ひとつ百円として食べる際にケースの天辺についた蝦蟇を模した貯金箱のような料金箱に百円玉を投ずる。田舎の野菜直売所と同じシステムであり、誤魔化そうと思えば誤魔化せるのだが、週に一度菓子の補充と料金の回収に来ることで無意識に怯えを感じるらしく、つい正直に百円を入れてしまうらしい。

 この置きグリコ、大抵は事務所の給湯室、給湯室がなければ台所近くに置いてあるらしいのだが、特に宣伝の為というわけではなく、十分採算は取れている筈だと、飛び込みで事務所に置かれてしまった友人は言う。殺伐とした中、御菓子をわざわざ買いに行くほどの年でもなく、体面はあり、あまり縁のない筈のものを、コーヒーを入れた際、そこにある置きグリコが目に入ると引出しを順番に開けては何かつい食べてしまうという。

 不意の来客にも、お茶請けを用意していないではないかと騒ぐことなく、冷静に何か選んで出すか、ケースごと持ってゆき、「こういうものがあるんですよ」と話のネタにもなる。

 普通に百円を出せば幾つも買えるであろう物をひとつ百円で売るのは実に賢い。病院などで稀に菓子の自動販売機はあるが、「ぷりっつ」「おにぎりせんべい」ばかりではさすがに飽きるというものだ。あれと比べて電気を喰わず、場所も取らず、定期的に顔を出すアルバイトらしき補充員が、愛想を振り撒けばグリコの宣伝にもなり、原価から見て多少は誤魔化されても儲けにはなるし原価から見て百円は高くても小銭が妙にだぶついているそもそも誤魔化そうとするには気が弱いおじさんを狙って置くやり方は素晴らしい。

 ケースの横にはラミネート加工されたお菓子の一覧表があり、まずはメニューともいうが、それを見てさらに備えられた所定の用紙に注文を書き込むと次週笑顔と共にお菓子が届く。OLのいない職場にはとても重宝するだろう。

 OLのいる職場はどうか。システムは文句なく受け入れられるだろう。ただし値段で躓く。お茶請けとして特に用意しなくてもいいのは一見楽にも思えるが、お使いのついでにさぼることが出来なくなると嘆く姿が目に浮かんではもう無理だ。大きい会社のOLの溜まり場である給湯室に置きグリコを備えるためには、安く見える包装が問題だ。予算の権限を握っているのはOLではないのだ。来客に出す為には恥ずかしくないものをと考えるおじさんは、自分は食べてみたくても、会社の体面をまず考えてしまう。どうせなら「を。懐かしいねえ」と言わせるような古いタイプの包装を置きグリコ限定で復活させるか、地方限定のものを豊富に揃えるかすればいい。どうせ百円で売り、たいした額ではなくともえげつない利益率である以上値段を印刷はせず、普通にお茶請けとして出して恥ずかしくない包装のものを数種類入れるか、今なお売れている駄菓子でありながら、最早食べる機会がなくなってしまった人向けに懐かしさを用意すればいい。

 一年以上前からやっているらしいが、なかなか情報がない。世のOLさん達は置きグリコを見てどう思うのか一度聞いてみたい。

燃費のいい体 03/06/14

 茹でた素麺にレトルトのカレーを落として食べることがあったのは、スープスパのパックがありながらパスタがなくて素麺で代用したからであって、それ以降素麺にいろいろ入れることになった。

 しかしある時、素麺を茹でてカレーと合わせるのが面倒だったのは珍しくも鍋で大量にカレーを作っていた時で、地獄の釜のように嫌ったらしい泡がごぼごぼ立っているカレーの中に素麺をそのまま入れてみた。さすがに綺麗に茹で上がるとは思っていなかったが、タイミングさえ間違えなければ普通に食べられるだろうとは思った。

 しかし当然のようにタイミングを逃し、素麺は絡まりあったまま、板のように固まる。意地になって突き崩していると次第に溶け始めた。尚も掻き回していると実に見事なとろみのついたカレーとなった。ただし味が薄くなっているので、ソースをどぼどぼ注ぎ足し、結局嵩が増えただけのカレーとなり、何かの教訓を引き出すべき出来事ではあったが、同時にあまりにも情けない出来事でもあったのですっかり忘れていた。思い出してみて改めて思うのは、焦げた鍋を洗うのは時間の無駄以外の何ものでもなく、更に水を張って沸かして吹き零れてしまった周囲を削り取るのは輪をかけて空しいということ。それからもうひとつ、いくら面倒であっても福神漬をぶち込んで煮込むのは止めた方がいいということ。

 飯盒でも鍋でもご飯を炊く技術があり、鮭を捌くことが出来、キャンプでの料理手腕が上達すればする程、軌道が手を抜く方向へと進んでゆき、料理に時間をかけるぐらいならその間に一冊でも本を読みたいと考えた結果、ついに鍋料理に到達したわけだ。進化と呼ぶか退化と呼ぶかは別として、重要なのは味ではなく、量ではなく、見かけでもなく、栄養だ。

 ビタミンを果物で、カロリーをビールで摂取していた時代、全身が原因不明のぶつぶつで覆われ、二週間寝込んだわけだが、窮地と言えるのはあの時ぐらいだ。栄養不足ではない死の危険はたびたびあるが、それは別の話として、粗食・絶食などを主義あるいは目的もしくは何らかの結果として行っていると、養分の吸収効率があがる。豪勢なときには有り余る養分をひり出していたわけだが、粗食になると栄養分を絞り尽くして文字通りかすかすの糞しか出ない。時として数週間出ない場合もある。絶食ともなれば、ただの水でも何か養分を無理やり吸収している気がしてくる。そんな状態のところへ突然御馳走を送り込むと胃腸が対処しきれず、呆然としている中を素通りしてほぼそのまま排泄してしまうのである。やがて立ち直り、喜び勇んで吸収し始めると何しろ効率よく吸収できるようになっていて、いわば「燃費のいい体」になっているから、送り込む端から吸収した結果、爆発的に太る。リバウンドと呼ばれている。

 この燃費のいい体になるとまず、足に力が入らなくなる。血の巡りが良くなった筈なのに貧血で倒れる。血は骨髄ではなく腸でつくられるという説があるが、これはまだ受け入れられておらずしかも別の話だ。燃費のいい体になると目脂がよく出る。老廃物が掻き出されているのだが、目が覚めて目が開かないのは健康な証拠であると考えるには少々躊躇いもある。

 その頃には食事など何でもよくなっていて酒だけで暮らすようになる。すると頭が冴えていろいろ下らない事を考え付くようになる。目下そこに向かって日々努力しているのだが、「食事をせず酒を飲む」ことを努力と呼んでよいものかどうか考えないようにはしている。


卵 2003/07/24

 「料理が出来る」なる言葉、正しくはカロリ計算と金銭バランスを考慮してなお美味しい食事を作ることが出来るという意味であったが、最近では「腹を壊さず食べることが出来る」と解釈されている。そしてそこに調理の文字はない。

 手前はこのマガジンにて過去、失敗した事例ばかりを取り上げてきたわけだが、その理由は、単に「おいしーい。感激!是非試してみてね!」のような気色悪い内容のものなど読みたくないからであって、読みたくないものは書かないことにしているから自然どたばたが中心になるわけであって、そうなると当然失敗ばかりを連ねることになり、結果として「料理が出来ない人」の烙印を押される。確かに舌が細切れになりそうな名前の料理など近付きもしないが、ただ日常、発想力にはそこそこ自信があるのでここに華やかな戦歴が立ち並ぶ。

 卵を二パック買った日に突然「明日から旅に出よ」これで卵二十個をどうにかして処理しなければならなくなる。大抵は一週間で帰ってくるが、一週間で大抵賞味期限が切れることになっている。当然浮かぶのは「卵尽くし」であるが、それ以外に方法はないが、それでも普段食べ慣れた卵料理が一堂に会して目の前に並ぶのはいかにも辛いので何か手立てを考えねばならない。

 さて、どうするか。まず手勢を確認しておこう。米。油。塩。マヨネーズ。めんつゆ。わさび。舞台を確認しておこう。カセットコンロ。ホットプレート。炊飯器。電気ポット。電子レンジ。一瞬炊飯器に卵を全て溶き入れ、ケーキのような卵焼きでも作ろうかと思ったが、それを食べきることがおよそ不可能であることが判る程度には賢いので却下される。それにしても卵二十個とはかなりの体積である。試しに二十個の卵をそのまま胃の中に収めるところを想像してくれ。涙の代わりに白身が溢れそうだろ?鼻血の代わりに黄身が垂れそうだろ?耳糞の代わりに殻が詰まりそうだろ?

 茹卵はどうか。調味料ならいくつかあるし、うまいこと半熟にすれば平らげることが出来るかもしれない。半熟卵を二十個。十個ならどうにかなりそうだが、二十個はどうだろう。しかし何故、旅立ちたくなるその日に限って「お一人様卵二バック百円タイムサービス」に駆け寄ってしまったのか。

 目玉焼きを作り続けて焼けたものから食べてゆけば、理論上は片付く。しかし「根性」を必要とする理論は、理論とは認められない。全て煎卵にしてご飯のおかずにしてみるか。しかしご飯がおかずになりそうなので却下される。煎卵でおにぎりでも作るか。具をご飯にして。覚えている頭の動きはここまでであって、うんざりしたからまずは五個茹でてみる。味に飽きる前に「調理法を考えていて飽きる」というアホらしさに目覚めた瞬間である。冷凍保存を考えつくことはなく、当時近所に住んでいたクラブの先輩の家に行けば酒盛りが始まるし、後輩の家に行けば酒盛りを始めねばならない。どうしても自力で朝までに処理しなければならない。焦っていたせいか、まだ固まっていなかった茹でかけ卵を五つ連続して啜り、「よしわかった。五個ずついこう」しかし次の五個が失敗であった。卵焼きにしたのだが、卵五個分の卵焼きとは、ホットケーキ並の厚さを誇るのであって、マヨネーズを引き伸ばしてみてもお好み焼き風にしかならない。そしてマヨネーズは胸焼けの元であって、計十個片付けたら既にげんなりしている。「残りは朝食べよう」

 あのな、朝から卵を十個も食べてられるか。せめて昨晩茹卵にしてめんつゆで煮込んでおればよかった。せめてあと三つぐらいは卵スープにでもすればよかった。「朝に卵十個」と決めていたからご飯も炊いていない。えい面倒な。一気に喰ったるぞ。卵十個を全て丼に割り、電子レンジに放り込んで「ケーキふう目玉焼きの塊」を作ろうと目論んだ。しかし電子レンジは思ったよりも軟弱であって、卵十個に素早く火を通す実力はない。いい加減待って、もういいだろうと開けてみるとただ表面だけがうっすら白くなっているだけで、中の方は透明のままぷるるんと揺れている。見なかったことにしてもう一度閉め、「見つめる鍋は煮えない」を実践するべく一旦忘れることにして荷造りを始め、やがて完全に忘れてトイレに入って神妙な顔で「何かを忘れている気がする」と何かを思い出そうとしていたら、「ぼん」「ぼぼん」「ぼん」「ぼ」「おああ爆発しとるがなあああ」

 十個分の卵は約七個分に目減りしており、飛び散った黄身を拭き取ってささくれ立った白身にめんつゆをかけてむさぼりながら、一人暮らしで卵を二パック買うことの愚かさの味を噛み締めて、やがて旅立ったのは大学二年の秋のこと。

麺 2003/11/21

 お茶が茶葉に限らないのと同様、麺もまた小麦粉に限る理由はない。事実米粉の麺もベトナムから上陸したわけだが、何も穀物に限る理由はなかろう。

 細くて長くて柔らかくてかつ煮込んでも崩れないような、新たなる麺の素材だ。蒲鉾を使う。練り物、魚が原料の麺となる。粉物に比べて保存に不安があるが、そこは真空パック、「窒息ん」(特価4,980円 品切れ中です。)を使えばよい。元々蒲鉾は板に練り付けてから蒸したり焼いたりするわけだが、そこは「ハイエース 製麺機」(特価6,800円 品切れ中です。)を使えばよい。本格的に製麺するなら業務用の製麺機を利用するべきだが、面倒ならばシャワーヘッドとゴムホースと空気入れで何とかなる。

 練ってまだ固めていない段階ではとにかくべたべたとくっつくのでトコロテンのように押し出した後着地させてはいけないし縺れてもいけない。つまり押し出された何本かが隣とくっつかないよう揺らさずに蒸し器の上で固定し、蒸す。やや太めで弾力的な、穀物麺より色々栄養のあるカマボコ味の麺が完成する。蒸しあがり直後の熱い状態で食べるならそのまま山葵醤油が美味い。冷めてもカマボコだからそのまま喰える。長期保存が出来ない代わりに、伸びる心配がないという革命的な利点がある。鍋にはぴったりの優れ物だ。

 しかしコストが難点であるからやがてつなぎに小麦粉を使うようになり、い、う?もしかしてカマボコ、小麦粉使ってないだろうな。とにかくこの魚を原料とした練り蒸し麺、カマボコ業界の秘密兵器として開発する馬鹿がどこかにいないかね?

 弾力性がありすぎて麺の中ほどを箸で掴むとアーチ状になってしまうから可能な限り細くするべきであり、しかし製麺する際に自身の重みで切れない程度の太さを確保する必要があり、そこを突破出来れば問題はない。シャワーヘッドごと蒸せばよいのだから交換用に多数揃えておく。業務用ならば蒸し器の直径に合わせたシャワーヘッドで一気に押し出し、数百本の麺ごと蒸し器に取り付けて、蓋さえすればよいのだから、やろうと思えば出来る筈だ。

 短いから見た目は完全にきんぴらの、千切りの蒲鉾をソースで炒めた歯応えのぷりぷりする焼きソバはそれなりの味だった。

さんど 2003/12/07

 フルーツサンドな、本気で売り出したらかなりいけると思うねんけどな。

 病人相手にサンドウィッチの差し入れで、ドライフルーツ適当に挟んだ物が豪く美味かったと思いねえ。それ喰うた奴がおっしゃてんで生果物缶詰果物買い込んで色々試してみたと思いねえ。何かが欠けていることに気付いてしばらく宙を睨んでいたと思いねえ。バターでもマーガリンでもマヨネーズでもろくな味になりゃしねえ。何だ何だと考え続けて思い出したるは「丸ごとバナナ」生クリームが要であったと。

 「丸ごとバナナ」は菓子パンの中でもさらに際物、しかも持ちが悪い。しかしながらこれを展開すると金脈が見えてくる。フルーツサンドを主食の位置まで押し上げる為にすべき事は何だろかいね。とりあえず、林檎は駄目だ。水分がパンに吸われて林檎ぱさぱさパンべちべちになる。多分梨も無理だろう。

 元々ドライフルーツを詰め込んだパン質のデザートらしきものがイギリスにあると聞いている。砂糖をたっぷり使っているせいか妙に日持ちするらしいが、デザートではない。主食にするのだ。想定購買層は当然カロリーと甘味とビタミンとお菓子と洒落っ気を同時に求める我侭極まりない方々だ。

 そもそも苺のショートケーキなるものは、外側に生クリームを塗り付けるからケーキなのであって、生地を切って内側に生クリームを薄く塗り、苺を挟むと「苺サンド」と相成る。この原理でフルーツサンドの嵐を巻き起こしでもすれば泡銭くらいは掴めるよ。挟むには何がいいだろうね。栗金団を挟むと和菓子風になってしまうが、餡子を挟むとどら焼きになってしまうが、ドライフルーツを中心に、レーズンパンは個人的に無視させてくれ、ドライパインをフランスパンに挟むと美味いのよ。

 当然ながら生で使えないような傷んでしまった果物はジュースにしてセットで売り付ける。食品衛生責任者資格を一日で素早く取って、あと仕入れに必要なのはパン代と果物代、パンナイフ、果物ナイフ、包むのが面倒ならば舟でよかろう。十万円と根性があれば一発当たるかもよ。


立ち喰い 04/01/04

 乗り換えて待ち合わせの時間がある時、駅の中を歩き回る。途中下車が許されない切符の場合は構内の立ち喰いに首を突っ込むことになる。あちこち電車で回っていると立ち喰いの中にも気に入った所が増える。当然酷く不味いところの方が圧倒的に多いわけだが、極稀にお勧め出来るところがある。

 まず、小倉駅の番線は忘れたが日田彦山線ホーム、うどんが絶品だ。柏が載っているうどんは旅屋の中でも全国的に有名で、電車を一本遅らせても食べる価値はある。遅らせなくてもプラスチック丼なら持ち帰りが可能であるから車内に持ち込める。三十円だった記憶があるが、今は値上がりしているかもしれない。物理的にも心理的にも遠いのでもう随分行っていない。そもそも小倉駅なら駅弁の三色柏めしの方吸い寄せられることも多い。

 金沢駅、これも番線を忘れたが、北陸本線特急のホームで夏限定の素麺は痺れた。京の雰囲気が残る町に相応しく薄味で出汁が効いていて、数分の停車があれば必ず降りて食べる価値はある。ガラスの器に涼しい素麺、あれは確かに夏の幸せだ。日本海沿いもあまり機会がないのだが、忘れられない味だった。

 大船駅、もう番線は全然覚えていないから省こう、東海道線下りのホーム、肉味噌うどんが素晴らしい。つゆを入れるかどうか聞かれるが、入れて貰うべし。挽肉味噌を軽く混ぜて、麺は細うどんであるから下手に持ち上げると味噌が服に跳ねるので、気取らず丼に口を付けてつゆごと啜ると、これは確実に癖になる。

 一方不味い店の筆頭は・・・新大阪駅の構内にある立ち食い、あれは余程人間が出来ていても激怒するに違いない味だ。蕎麦も饂飩も不味い。注文から出てくるのが早過ぎるのであって、既に茹でてある麺を軽く温めただけであることが判る。それは大きな駅では共通のようだが、新大阪の場合、つゆが熱すぎる。温く伸びた麺を誤魔化す為かどうか、関西の癖に醤油の水割りと思しき熱すぎるつゆは腹が立つだけである。「熱っ、熱っ」は美味い場合に限って許されるのであって、「熱っ、不味っ、むかつく」は最低の下降循環なのだ。「あれは不味い」との話題に加わる際にのみ、覚悟を決めていってみよう。

 一般に大きな駅は注文を素早く裁く為に麺は大抵気合が不足している。混んでいたなら温いし、大きな駅で空いていると、伸び切ってしまった麺が出てくるから手の付けようがない。では小さな駅はどうかと言えば、小さいなりに客が少ないので注文してから出てくるまでが遅く、また遅い癖に温めただけという毛穴という毛穴全部から湯気を出して怒りたくなる場合が多い。

 私鉄の中に出している店の方がよい味である可能性が高い。店構えだけで「ここはいける」との判断は不可能であるから、殆どの場合は勝負してみて敢無く敗れ去るのだが、それでも年に一度は大当たりにぶつかるので、その当たりを求めて日々立ち喰いに吸い込まれるのだ。


果菜 04/01/07

 甘い物より辛い物が好きだからと言って、甘い物全てを排斥しつつ辛い物全てを受容するわけではない。

 格好つけても始まらない。許せないのは西瓜に塩を振り掛ける奴で、弁解はこうくる。「西瓜の甘味をより引き出す為に」何故そのままではいけないのか。水分が多過ぎる故に塩を振り掛けると歯応えが増すよう錯覚するが、実際に歯応えが違ってくる程の量であれば尿が濃くなるよ。違うのだ。西瓜は西瓜そのままを味わえと言いたいのだ。甘味を引き出す為に塩云々、「卵焼きに塩」は塩味を付けるためにではなく卵の甘味を引き出す為云々、そのままの味を判らん奴の言訳しにか聞こえないじゃないか。

 あのな、それならすっきりした味の羊羹に塩ぶっかけて喰ってみろぼけ。延髄あたりが凍りつくところを体感出来るぞ。

 そもそも野菜と果物の定義について昔から疑問であった。以前調べた時は、果物が「汁が多く甘い実」のようなことを書いてあったのだが、よく判らないままだった。個人的には果物とは「多年草に成る甘い実」と考えていたが、西瓜と苺を野菜ではなく果物とする一般的な風潮に格別の異義がないのでこれは苦しい。一年草は全て野菜と考えてしまうとメロンまでもが野菜の範疇に入れられてしまう。「甘い」を必須条件とするならばトマトや越冬人参も果物になってしまうし、苺やレモンは甘くない。「果実」の字のままと解釈すれば、種を貪る玉蜀黍の立場がない。そもそもレモンの扱われ方はどう見ても野菜そのものではないか。

 つまり野菜と果物の境目をどう判断すべきかと悩んだ末に、漬物が基準にならないだろうかと考えた。漬物に使う物が野菜で使わない物が果物、これでどうなるか。「西瓜の皮の白いところを漬ける」はい、西瓜は野菜ね。苺どうする?砂糖まみれにして喰う場合があるが、塩漬にしたしおしおしわしわしなしなの苺が立派に通用するなら苺は野菜と認定する。

 そもそも落花生は野菜でないことは確実としても、あの渇き具合を果物と認めるには複雑なものがある。落花生、胡桃、カシューナッツ、アーモンド、ピスタチオ、貴様等は果物ではなく正直に「種物」とでも名乗るがよい。向日葵種も加えるし玉蜀黍も付けてやる。※玉蜀黍は穀物と気付くより先に素早く突込が入った。とりあえず果物ではないと


カサブタ 04/02/15

 パンの中でもメロンパンは割に好きであったが、何度目かの大怪我の時、メロンパンのざりざりが「カサブタとそっくり」であることに気付いてしまい、以降一歩引いた感がある。

 メロンパンのカサブタだけを全て先に食べてしまった頼りない姿の禿坊主パンはまた殊の外不味く、それは味気ないというよりも食物としての属性を拒否しているかに見える。かと言ってカサブタごと普通に食べたとしてもカサブタが歯の裏に粘り付き、それをこそげ落とそうと必死で舌先を使って攻撃している際に歪曲する無意識の伸縮顔は、いい年なんだからそんなもの喰うなよとの警告を具現しているから、つまりメロンパンは子供の味と判定される。

 ところがカサブタなしのふわふわした奴をメロンパンを名乗ることは許されない。メロンフレーバーな何かを混ぜ込んだクリームを使って「これが本当のメロンパンです」いや違う。カサブタなくしてメロンパンとは呼びたくないのだ。

 何故メロンパンにはカサブタの台としてふわふわした綿の部分があるのか。あれは本当に必要なのだろうか。必要ないと子供の頃に考えてそのまま大人になった奴がCalorieMateやPure-inなどの開発を命じたのだろう。

 カサブタは即ち痒いのであって、無条件に「痒い物」との認識が摺り込まれているから別段痒くなくとも弄り掻き毟り剥がしたくなる。そこにメロンパンがあれば全面引き剥がしたくなるのは当然の理であって、この衝動は「おこげ」に対して発動しないからメロンパンはやはりカサブタなのである。

 マスクメロンの網もまたカサブタであるが、用が済むと剥がれる類のカサブタではなく、割れた茶碗を接合する金漆のような存在であるから、いくらぺりぺりぺりぺり剥がして台紙に貼って飾りたくても不可能だ。

 カサブタの漢字を大辞林で確認してみた。「瘡蓋」の字が、カザフスタンとカサブランカに挟まれていた。


赤い 04/03/15

 七味唐辛子とは、和食に欠かすことの出来ない香辛料として認知されている。

 確かに瓶でありながら落としても割れない容器は褒賞に値する。赤い蓋を回して白い中蓋を外し、銀紙を剥がして中蓋を閉めると中央の穴から適度に怒りを掻き立てる勢いの無さで出てくるわけだ。

 ここに大衆食堂があったと仮定する。うどんもラーメンも品書きにはあるが、麺類を頼むには危険度の高いと思われるあたりの食堂だ。しかしそこで勇気を振り絞ってラーメンを注文したとする。どれほど待たされてもじっと我慢して待ち、やがて運ばれてきたラーメンに胡椒を振掛ける。胡椒の容器といえば大抵上蓋が跳ね上げ式になっているから問題はない。続いて自動的に辣油に手が伸びるわけだが、辣油とは駄菓子屋の色ジュースの如き毒々しい赤色をしている。瓶の形が角ばっていても、自動的に伸びる手に認識力はない。目の前にあるのがラーメンなのに、「赤い瓶=唐辛子サイズ瓶=蓋を回して開ける」と頭の回路は繋がる。

 辣油の蓋も跳ね上げ式になっているし、何よりもべたついているから間違える筈は無いと考えたくなるのだが、間違えている意識が無いのだから辣油の上蓋をくるくる回しぱかりと外して入れようとする瞬間「あ。違うて」と考えながらも辣油はラーメンにととととと注ぎ込まれる。必死に手首を返しても瓶には三分の一程しか残っていない。あれほど赤かった瓶は透き通っている。

 仕方が無いからあまり掻き回さないよう気を配りつつ食べることにしても、麺とは汁の中で絡まっているのであって、一部をさりげなく引き抜いただけでも赤い膜が広がる。これがもし胡椒だったなら汁に染み込むより早く掬い取って被害を防ぐことが出来るし、爪楊枝だったなら何も心配することは無かった。辣油とは液体であって、残念ながら処方はない。

 ライスを追加注文すれば状況は好転するのだと、その時に思いつくべきだった。


さんど? 04/03/27

 例えばやね、ハンバーガーチェーン店などは季節毎に挑戦的な味の製品をぶん撒いているわけだが、人気になって定着する製品が殆どないとしても、その根性は評価されて然るべきである。さらにまた惣菜パンという不思議な分野があり、こちらは挑戦的な態度がより一層弾けている。

 これらを見習うべきなのはサンドウィッチであって、サンドウィッチのチェーン店もあるにはあるが、どうも格好を気にしているように思える。惣菜パンの志を少しは真似してみてはどうか。

 焼きそばパンがあるのに何故焼きそばサンドがないのか。確かに焼きそばサンドは喰いたくない。喰いたくないがしかし、そういうことではなくてその考え方、その志、その精神のことを言っておるのだ。

 カレーパンがあるのに何故カレーサンドがないのか。確かにカレーサンドは喰いたくない。喰いたくないがしかし、そういうことではなくてその考え方、その志、その精神のことを言っておるのだ。

 スパゲティパンがあるのに何故スパゲティサンドがないのか。確かにスパゲティサンドは喰いたくない。喰いたくないがしかし、そういうことではなくてその考え方、その志、その精神のことを言っておるのだ。

 何か間違っているか?間違っていないが壊れたレコードのようだ?今時レコードなど聴こうにも聞けないではないか。ではCDが壊れたらどうなるかと言えばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば

 つまり、南蛮漬けをパンに挟んで喰うと結構美味いのだ。

※タイトルを「さんど」から「さんど?」に変更しました 「さんど」は既に一度使ったタイトルだった

蜜柑 04/04/15

 例えばポテトとトマトを掛け合わせた「ポマト」なる際物の名を覚えているか。

 芋にトマトの耐性を組み込むのが目的なのに、結果地下にポテト地上にトマトが生るという失敗だか成功だか判定に苦しむ種を生成してしまったわけだが、それが共に欠点を埋める作用があれば良かったのにポテトもトマトもさほど大きくならず、挙句食べてみても不味いからあっさり忘れられたこれもひとつの徒花だ。

 このような挑戦は日々繰り返すべきだと思うが、それらの中で「オレンジ」に「からたち」を掛け合わせて「オレたち」というのは如何にも趣味が悪い。掛け合わせたからには雑種と呼ばれてしまうが、何故これにキッコーマンが絡んでくるのか不明だ。トマトとピーマンで「トマピー」一体何をしたいのか。「清見」と「マーコット」を掛け合わせて「キヨマー」とはどういうことかね?

 他に柑橘系では温州蜜柑とネーブルで「シューブル」どこかの地名か人名を連想してしまう。グレープフルーツとネーブルで「グレーブル」も何か童話の登場人物を髣髴とさせる。ユズとネーブルで「ユーブル」、マーコットとネーブルで「マーブル」、ネーブルがそれほど使えるならば、ネーブルに絞って集中的に責め立てればよいではないか。「マーブル」て貴方、ところで「マーコット」とは何か。

 調べてみると、アメリカ発の小型雑種蜜柑であった。大きさ雰囲気共に温州蜜柑とそっくりであり、戦後日本に持ち込まれて急速に拡まったらしい。温州蜜柑の下地があったからだろうが、切口の写真を見て思った。「これ普段温州蜜柑言うて喰うてる奴ちゃうの?」

 グレープフルーツの如く真横に切った姿は、その皮の薄さから見て、種の多さから見て、給食でしょっちゅう見た覚えがあるものだ。これを単に「蜜柑」と思っているのか、「温州蜜柑」と間違って思い込んでいるか、正しく「マーコット」と理解しているかの割合を知りたいものだが、既に温州蜜柑と再び交配され「蜜柑」として流通しているならばさしたる問題でもないが、そのあたりの系統樹を詳しく知りたいと思うのだ。


味噌汁 04/04/19

 まあその、味噌汁の具というものは田舎に行くほど増えるわけでね。

 味噌汁に色々具を追加すると段々豚汁に近付いたり単なる味噌鍋になってしまうだけでね。いくら取り分けて御椀に入れて「味噌汁です」と言い張ってもそれは取り分けられた味噌鍋でね。田舎に行くほど一度に作る量が増える上手間を省くためにとにかく何でも残り物を放り込んで味噌汁然とさせているわけでね。煮干で出汁を取ってもそのまま煮干を具として使うのはやっぱり味気ないよ。

 卵を落として固まるまで火に掛けるのはいいけどさ、固まった卵に煮干が突き刺さっているのは悲しいよね。あと笹掻牛蒡もよく刺さってるよね。とにかく何でも放り込んでしまうというのは水炊きどころか闇鍋の世界だから、田舎風具沢山味噌汁の極意とは冷蔵庫在庫処分と手抜きの極意なわけであって、また味噌というのは獣臭い猪を鍋にする場合利用される調味料でありその理由は臭い消しにあることからも、適当に色々放り込んで味噌で味を付けるというのは「失敗しても味が変わらん」という易きに流れた態度でね。

 あと出汁を取った昆布をそのまま煮込むのも止めてくれないか。捨てたくない気持ちは判るからせめて一度出してから細く切っておくれよ。人参とかさ、今は電子レンジとか便利な物があるんだからさ、味噌汁の具の人参が生で噛んだら「しゃきっ」というのは不自然だと思わないか。それからキャベツの芯を入れたくなる理由がとても知りたいんだ。

 正月空けてさ、でも雑煮用の餅が余っててさ、ほか御重の人気投票で指名されなかった奴ばかり残っててさ、それを組み合わせて味噌ぶち込んで何が味噌汁だよ。味噌汁に餅入れるなよ。辛過ぎる昆布巻きの中のタラコがばらけて汚えよ。おでんの具を切り刻んで味噌汁に流用するのは美味いんだけどさ、正直に「おでんを作り過ぎてしまいました」と言ったらどうだい?味噌汁から溶けた卵と崩れた大根を掻き分けて長え糸蒟蒻啜る気分は妙なもんだぜ。


冷やし中華パン 04/06/11

 さて、「冷やし中華パン」なるものを見かけ、その志に敬意を払い購入してみた。挑戦心は高く評価しつつ味を高く評価出来ないのは残念なのだが、八方破れの繰り返しがいつか銘物を産むであろうことを考えて、今後も奇想な商品を飽くことなく並べて貰いたい。以下の悪口は味に対してのものであり、挑戦心に対するものではないことを確認しておく。

 しかしこの冷やし中華パンの味は想像を遥かに下廻るものであった。下廻る距離もまた想像力の限界を超えていて、余りに悲惨な味なので乾いた笑いが止まらない。もし見ることがあったならば迷わず買うことを勧める。今後二度と接する機会がないだろうし、この味は語り継ぐ価値もある。

 焼きそばパンを知っているだろう。コッペパンを皮一枚残して真っ二つに切り、裂け目に焼きそばを詰め込んだものだ。あの姿で冷やし中華が挟まっていると考えてよい。見た瞬間の負に向かう予感はまさに正しい。冷静に眺めてみると胡瓜も錦糸卵もなく、麺と紅生姜のみで手抜きを体現した代物だ。

 冷やし中華とはたれが重要なのであって、甘いも辛いも全てを引き受ける骨だ。しかしこの冷やし中華パンにあっては、その量は辛子の如くその粘りは碇の如くそして味は透徹している。つまり冷やし中華パンに掛かっているたれは、余りに液体であればパンに染みてしまうのである程度の粘性を確保しなければならないとする思想は理解出来るものの、一般的な冷やし中華の皿の端にへばりついている辛子程度の量がお好み焼きソース程度の粘りをもって中央部にだけの分布しており、しかし味は殆ど判らない。

 たれの味が判らないのは、端から噛りゆく故最初は存在しないからだ。しかしたれの存在しない部分は麺が異常な迫力を有している。その迫力は、一旦茹でられた麺が絡まりあって固着することを防ぐ為の油性の皮膜から来ているようだ。一般的な冷やし中華は作られてすぐ消費されるので緬が乾いてしまって開封前の即席生麺状態になることを考慮しなくともよいが、場合によって数時間放置される冷やし中華パンでは麺を油で包んでいるようだ。

 だから「冷やし中華」から受ける清涼感溢れる印象を持ったまま噛り付くと、味付けを忘れたこてこての焼きそばパンだと感じる。一口だけで咀嚼もままならず、しかしせめて紅生姜までは辿り着きたいと願う。どうにか紅生姜のところまで来て、さてここで気力を挽回しようとしても、その紅生姜は冷やし中華であることを示す記号ではなくて、単にどろどろのたれを蓋するために散らされたことを知る。たれの味は既に舌が油で被われているから判らないのだ。

 あれで冷やし中華と呼ぶつもりか。例えば君は油を引いた鉄板で水を加えながら炒めてぶよぶよになった麺を冷ましてどろどろのソースと紅生姜を添えたものを冷やし中華と呼ぶ勇気があるのか。油濃くて胸焼けする冷やし中華がどこの世界にあるか。あったとしてもそれをパンに挟むでない。挟んだとしてもそれを売るでない。

※ハムと胡瓜と錦糸卵が搭載されているのを見たが意欲がどうも・・・


茶 04/07/06

 お茶や紅茶に含まれるタンニンは鉄分と結合して吸収を妨げるので食事しながらのお茶を飲むことは貧血に繋がるという説がある。

 よくよく考えるとお茶は食後に一杯飲むもので、食中にはビールが相応しい。ビールさえあれば食事など必要ない事もある。仮にビールは食欲を増進するから食前に飲む物と位置付けて、お茶を食後にと考えるならば、食中は水でも飲めということになるのか。まさか毎回ワインを飲むわけにもいかないので、消去法によりお茶が選択される。

 「食中茶=貧血」説を採用するならば、茶漬は非常に悪意ある存在となり得る。奈良名物茶粥もまた危険に見えてくる。実際は白湯を使いながらお茶漬けと僭称する事例は許したくないのだが、鮭茶漬に烏龍茶を採用すると不思議に薬膳の香りが漂いて味気ないので、茶の代用として昆布出汁を登用するとよい感じだ。

 タンニンとは言ってもよく判らないもので、タンニンとはつまり何であるのか、そして如何なる作用があるのかを知らねばならない。何となく体によいものらしいという漠然とした期待感を確信に変えたいではないか。タンニンとは一体何なのだ。ところがこれは化学式が多用され、一般にタンニンとは呼ばれていても正式には云々、色々種類があって云々、理科算数を苦手とする者に辛うじて理解出来たのは、「抗癌作用」「下痢に効く便秘作用」くらいであった。

 仮にだ、食事に際してお茶が鉄分吸収を害するならば、中国人は総じて貧血となるべきであり、貧血が国民病となって不思議ではない筈で、しかしそのような話は聞かないから、数億人単位の人体実験の結果を無視してまで「お茶と食事は合わせてはならん」と主張するのは敗勢必死だ。

 元々貧血体質の者が食事に際にお茶を摂るのは再検討した方がよいのではないかという、個々の体質に関わる事例と考えるならばまだ理解出来る。「鉄分と結合するから便秘になるのだ」と力強く叫ばれると、違う気がしながらも反論の糸口が見えないまま勢いに負けてしまいそうになる。

 ところで「南部鉄」を知っているか。その昔使っていた事があるのは鎖の付いた鉄の塊に達磨の彫刻が施されてあり、それを薬缶に放り込んで沸かすと鉄分が溶け出した湯となり、それで茶を入れて貧血防止に絶大な効果という、上の話を事実と考えるならば矛盾を体現した存在であった。「元は南部鉄で作られた鍋」を利用するから鉄分を豊富に摂取可能であったところを、手軽に鉄分をとの擽りに踊り、あらゆる健康法と同様効果を体感するより遥か以前に飽きてしまう悪例に則って速やかに忘れ去り、あれは一体何だったのかと遠い目をして今思い出す。

 何を信じるかは自ずから決断することであって、その決断の為には情報が多い方がよい。しかしそこで化学式を出されたり、エピガロカテキンガレートなどと無闇に混乱を助長する言葉があってはお手上げだ。


焼きラーメン 04/07/08

 「焼きラーメン」なる表示に心奪われてつい挑戦してしまった。

 まず外見と言えば、焼きそばとの相違がまるで感じられず、この麺は茹でるとラーメンになり、焼くと焼きそばになるだけではないのかという疑問に包まれて、ならば「焼きそばを茹でたらどうなるのか」と考え、ソース味のラーメンを想像してみて喉の奥が勝手に閉まり、泪がじわりと溢れそうになる。

 即席食品というわけではなく、食べる直前にレンジを使う程度に完成されたいわば弁当的な佇まいであり、蓋を外してしばし観察した結果、以下の状況を把握した。

一、細麺の直麺で、どう見ても焼きそばそのものである。
一、輪切り茹卵サイズのチャーシューが二枚鎮座している。
一、よく見ると、もやしが圧縮されている。
一、さらによく見ると、メンマが身を寄せ合っている。
一、やはり紅生姜が添えられている。

 全体として、具の配置は冷やし中華を踏襲している模様だ。つまり、冷やし中華の麺を焼きそばに、細切りのハムを牛乳瓶蓋サイズのチャーシューに、錦糸卵をメンマに、胡瓜をもやしに、紅生姜はそのままに、これで雰囲気を理解頂けると信ずるものである。

 チャーシューの大きさについて述べさせて貰いたい。牛乳瓶の蓋程度の大きさであることは多少の不満もあるが許そう。問題は薄さである。チャーシューを述べる場合、通常「厚さ」と表現して然るべきなのだが、今回間近に見て観察した結果、段差を発見し、それが高度な技術力を要する匠の精神の発露であることを認めた上で、実はとても薄い二枚が重なって薄い一枚に見えていることを確認した。テレビ通販にありがちな薄切り器を使っていないならば、その技術は喝采に値する。

 もやしは油の虹が輝いており、一応炒められたことを主張している。髭は付随したままであるがそれは仕方なかろう。焼きそばに混ぜ込まれているわけではなく、あくまでも「具」として最後に搭載されたことは、ラーメンでありたいと過剰に意識していることが伺われる。

 メンマなのだが、こいつは焼きそばの上で保護色となっていて、最初は「麺のこっち側は癒着して太なってるがな。乱暴な焼き方すな」と考えたことは謝罪するが、「ラーメン」の肩書きに拘るあまり全体の均衡を崩してしまったのではないだろうか。

 また焼きそばの茶色、チャーシューの茶色、メンマの茶色、もやし炒めの茶色と色合いを統一したことについて非常なる疑問を感じる。正直に言うと汚い。そこに生姜の毒々しい真紅が眩しくて、ここで製作者に対して「食べ物を粗末にするな」と叫びたくなるわけだが、落ち着いて考えるとそれは無意識の内に自らへも向けた言葉でもあったことに気付き、覚悟を決めてメンマと焼きそばを纏めて掴み、鼓動の高鳴りを意識しつつ、咀嚼作業を開始する。

 では最後に感想を一言だけ言わせてくれ。結構美味かった。


餅 04/08/07

 考えてみれば杵と臼を使って餅を搗くのは特別な行事になってしまっている。

 餅搗き自体が大晦日に行われる行事として元々特別ではあるが、今では杵と臼を使うことが少ない。今の時代と我々の年代では懐かしいも何もない筈だが、手前の場合田舎で迎える正月には餅搗きが恒例行事となっていたが、稀に杵と臼を使いつつ、大抵は電動餅搗機であった。あれはどうも味気ないのであって、風体としては炊飯器を巨大化させた感じで、蓋を開けると中では洗濯機の如く餅米を掻き回している。

 蒸したての餅米を放り込み、動かすと箆のような扇風機の羽根のような奴がゆっくり廻る。あれならば餅に限らず小麦粉と水を放り込めば麺の素が出来るようにも思える。少なくとも洋菓子を大量に作る必要のある場合は検討に値するだろう。

 調子に乗って大量に餅米を放り込むと、時間は掛かるものの練り残しなく確実に餅となるのだが、一纏まりになった餅とは漬物の重石並みの迫力で腰に負担を強要する。少し廻しすぎた場合にこれを取り出そうとすれば、杵と臼の適度に粒の残った粗い餅に比べて柔らかい。搗き立て餅の餅が柔らかいのは当然の話であるが、的確に重心を感知して支えなければ掌から外れたあたりの餅がでろんと垂れてくる。搗き立ての餅である上に米粒は形を留めていないから大層伸びるのであって、「あああ。落ちる!」と叫ぶと補佐する者がゆっくり伸びてゆく餅を掴んで上の本体に引っ付ける。そのままだと次々落ちてくるからついには「もう行こ行こ」と餅を中心に何人かで囲んで持ったまま上新粉が待機している机に向かう。少量の餅の塊ならば多少熱くても伸びても手で持ち運ぶことが可能だが、大量になると濡れタオルが出動することになる。

 それだけならば微笑ましい情景にも思えるが、蒸したばかりの餅米を間髪置かずそのまま餅にするのであり、つまり出来たての餅は非常に熱い。練り続けて空気を攪拌したように感じても、熱いまま隙間のある餅米から熱いまま隙間のない餅になるだけであって、熱さが封印された餅は事実上持てないのあり、微笑ましいどころか「そっち!」「どいて!」などの怒号が飛び交う修羅場と呼べる。一旦餅を餅搗機から出してしまえば和やかな談笑とともに小さく千切った餅をそのまま丸めたり餡子を包んだりするわけで、誰かがきな粉を用意して少し食べつつ、今度は蓬餅の用意などを始める。

 電動餅搗機でよく練られた餅は、根性の欠片も感じられないほど柔らかいわけだが、その柔らかさはすなわち粘着力の強力なることを意味している。袖に付いたら「擦るな!」と一喝され、乾くまで待って引き剥がすのだが、これは布に付着した場合に限り可能で、何か固い物体に餅の伸びきったあたりがぺたりと張り付いたことに気付かず放っておくと、後になって凸凹の塗装を施された新建材の家の壁のような手触りが残る。これを木工用接着剤のように剥がすことは無理であり、包丁の背などで強引にばりばり削る羽目になる。

 杵と臼で作る餅の歯応えは潰れ残りの粒が原因なのだろうが、ただ柔らかいだけの餅より好きだった。あざとく粒を残した餅ではなくて、完全に餅の姿でありながら微かに粒が感じられる餅の美味さは、電動餅搗機と杵臼の違いを目で確認しただけの錯覚ではないと信じていたい。


鳳梨 04/09/17

 パイナップルは「ananas」で、缶詰に馴れている場合、「穴茄子」と当てたくなるが、漢語で「鳳梨」とある。以下適用する。

 ところで鳳梨を食べると舌が痛いから嫌いだと述べる人が結構いる。何故だろうと調べてみると多少のことが判った。まず、鳳梨にはブロメラインBromelainなる蛋白質分解酵素が大量に含まれている。「酵素」と聞いただけでそっぽを向いてやり過ごしたくなるが、そこを堪えて進む。このブロメラインなる輩は蛋白質を分解する能力を持しており、彼が舌の表面を保護する蛋白質の一部を分解してしまうと、舌の神経があられもなく剥き出しになる。その神経へ鳳梨に含まれる酸が襲い掛かるとちくちく痛いわけだ。

 このブロメラインは三十度から四十度くらいが最も活発になるのであって、咀嚼行為はその能力の最大限発揮出来る環境を整えていることを意味する。であるから極端に冷やしたり或いは凍らせたりすれば奴は弱っているから、そこを早廻しで咀嚼して嚥下すればあまり痛くはならない。また酵素は熱に弱いのであって、加熱加工された缶詰の鳳梨は恐るるに及ばない。

 迷惑なる奴と考えたくなるが、それは一面的な考え方であり、例えば肉料理に含まれていたりする。鳳梨が肉を柔らかくするというわけだが、残念ながらプロメラインは酵素であるからして熱に弱いのであって、肉と鳳梨を一緒に炒めて「はい酢豚」とあったところでブロメラインの蛋白質分解酵素はその働きを失しているから舌は痛くならないが、肉を柔らかくする効果を発揮する前に炒め上がってしまう。肉調理に鳳梨を利用する正しい方法としては、常温か体温程度の肉と共に一定時間漬け置くことだ。それでこそ蛋白質が分解されて肉が柔らかくなる。

 またブロメラインは腸内の腐敗物を分解する作用をも有しているので消化不良に効果があるという。何故か花粉症にも遠回しな効能があるらしいが、劇的に改善されるわけではなくて長期的展望に沿った来る日も来る日も鳳梨漬け生活を送らねばならない。そして鳳梨を食べ過ぎると胃が荒れることになるわけで、これは酸ではなくてブロメラインの効果であるからつまり、世の中にそうそう甘い話など転がっていないということだ。


ケチャップ 04/10/23

 ケチャップは下痢する。

 ある程度使われて内容量が半分程度に減った頃、安定感を理由に直立させている状態から蓋を跳ね上げて圧力をかけたれば実に汚い音を立てて途切れ途切れに噴出される。これを避ける為には蓋を閉じた段階で内部の空気と本体の位置を入れ替える必要がある。不注意により汚い音を出した直後に、慌てて蓋付近に空気ではなく本体を寄せるべく振ってみる瞬間、不幸にして蓋を開けたままであれば、少量づつ弾丸の如く玉状で予測もつかない方向へ飛んでゆき、何故か必ず困る場所へと着弾することになっている。

 では空気を入れない状態の、つまり搾り出す為にかけられた圧力がそのまま残っている所謂潰れた容器の場合は下痢しない。ただし自立せずだらしなく横たわっているから見苦しい。クリームを絞る袋のように下に蓋口を付けておけばよいのだが、それは逆さにして保管すればよいと反駁されるのであり、確かにその通りではあるが蜂蜜の容器で下から垂れる奴があるだろう、あの形を参考にすればよい。

 また蓋口周辺を丁寧に拭っておかない場合、一部が乾燥して穴を塞ぐ。塞がれなくても穴の一部に乾燥付着してしまい、勢いで吹っ飛ばされると問題ないが、強固に付着してある場合は穴の形が微妙に変化し、出てくるケチャップは変化球の軌跡を描く。ここに空気が溜まってあれば「変化球で飛び散る下痢状のケチャップ」という悲惨な事態が発生する。

 「ケチャップ」の語源は諸説あり過ぎて最早誰も信じられない状況にあるが、日本語としては片仮名で定着しているのが少々悔しい。元が何語であるか位が判明すれば話も進もうものだが、仕方がない。とりあえず中国語ではどう表記されているか。「番茄酱ふぁんちえじぃあん」これをこのまま日本で適用するには無理があるようだ。そもそもトマトの漢字が中国輸入の「蕃茄ばんか」と日本で当てられたらしき「赤茄子」である。トマト自体の語源はメキシコ土着語の「TOMATL」と考えられているがこちらからの接近は難しいようだ。

 強引に当てるならば、「けちゃっぷ」赤茶色と考えて「茶」の字を使えるだろう。すると前の「け」後ろの「っぷ」が必要になる。「け」の候補は後で考えるとして、「っぷ」の漢字はどうするか。ここはアイヌ語に当てた漢字から応用すれば「音威子府」「納沙布」つまり「ふ」の文字でよいわけだから、「府不負腑婦譜附符歩訃布麩賦普扶腐付夫阜怖斑蒲釜缶埠富冨敷斧舗浮膚芙赴風」どれを選ぼうか。印象のよくない字や一見「ふ」と読めない字、別の印象が強過ぎる字を除くと「布普扶付富冨芙風」あたりが残る。

 「掛茶布」何やら台拭の銘柄の如き組み合わせになった。「布」が悪いのか。「掛茶風」何処の国の料理か。つまりこれは無理なのだな。


蒲鉾 04/11/02

 蒲鉾は練物と呼ばれる。

 作成される手順の中に、練る工程が含まれることからであるが、練ったあと棒に巻き付けて焼けば竹輪、板に盛り付けて焼くなり蒸すなりすれば蒲鉾となる。笹蒲鉾は笹の形にして焼き上げるわけだが、もっと自由を追求するべきではないのか。

 例えばタイヤキの型に落として焼き上げたれば、タイヤキの形をした蒲鉾と相成る。切って喰うには不便だが、愛嬌のある形を丸齧り出来るのだから需要は見込める。そして何よりも「庶民の尾頭物」として猛威を振るう可能性もある。

 たこ焼器でちくちく焼くのは少々侘しい上に完成しても単なる団子であって、歯応えは抜群でも団子状の蒲鉾擬きはよくあるものだから大した感動もない。たこ焼器で焼くならば、中に無理矢理チーズを埋め込むとチー蒲団子として輝くのだが、焼いている最中回転させようとして刺さってしまった串の穴からチーズがとろりと出た瞬間焦げ付いてしまうのであり、表面だけを引っ掻くように優しく優しく回転させていた場合でも傷が次第に成長し、突如ぱっくり裂けてチーズが開陳される。

 焼く為の型を造るのが非常に手間と金の掛かることは承知の上で、「鰻の蒲焼きの型」「鮎の丸焼きの型」「畳鰯の型」など可能性は限りなく拡がる。何も原料が魚だからといって魚の形に拘る理由もなく、肉食を拒否し魚食を容認する面子に向けては「鳥腿肉の型」「ステーキ肉の型」「薄く切られた焼肉用の蒲鉾」などが即座に浮かぶ。食品マトリクスを埋めてゆけば思いがけない鉱脈に突き当たる可能性もある。

 合成かどうかは別として、着色料を用いれば飴細工の如く芸術加工が出来る。既に金太郎蒲鉾はあるのだから、正月に向けて「七福神の蒲鉾」などが考えられる。泥人形と同じような型で着色は後からすればよい。

 また巨大な蒲鉾の塊を蒸し上げて、氷細工の如く削って成形するような表現形態も忘れない。氷と違って撓るから難しい代わりに思いもよらない作品に仕上がることも考えられる。削り落とされた蒲鉾はペットフードに転用すればよい。完成した彫刻蒲鉾が仮に動物の形であったなら、動物園で飼われている肉食獣に贈ればよろしい。


ドーナツ 04/11/16

 ところで誰が言っていたか忘れたが、「ドーナツの輪を喰べたことがある」ことは、甘い物は極力避けている今でも誇りである。氾濫するドーナツ屋が色々内臓するせいで単なる揚饅頭と化してはいるが、ドーナツの輪を食べたい向きには解説しよう。

 まずドーナツを自分で作る必要がある。小麦粉やら何やらの材料は詳しく知らないが、ドーナツの輪の原理は説明出来る。薄板状の生地から円の型で抜く必要があり、完全な六角形でない限り無駄に余った生地が残る。これを再びこねくり回して薄く拡げ、また型で抜く。数回繰り返すと最後には一個分しか抜けない程度まで生地は減る。それ以上は作れない最後の生地で型を抜けば、輪に抜かれたドーナツの元が沢山と、一番最後に抜いた型の中心部分の丸い生地が佇んでいる。

 「ドーナツの輪を食べたことがあるか」という引っ掛け問題に対する答えがこれだ。「ドーナツの輪はないから喰べることが出来ない」としたり顔する者に対しては、えたり顔で上記の内容を告げるのが作法とされている。

 「最後の塊は指に巻き付けて小さいドーナツを無理矢理作る」という負けず嫌いに対しては、憐憫の微笑をもって暖かく受け流すと逆上するので、次の機会に試してみればよい旨を的確に申し伝えることが肝要である。

 するとある日別な人から「ドーナツの輪を食べたことがあるか」と問われるのであって、伝播経路を辿れば先の人が得意になって吹聴したらしい事と、実は一本取られて悔しかったらしい事が判明する。


辛い 04/11/23

 極端に辛い物を喰べると様々な変化が観察される。

 ひとまず共通しているのは、最初の一口目は折角作った覚悟をさりげなく躱してひとまず「美味い」の言葉を引き出して安心させておき、覚悟は無駄になったと考えながら二口目を搬入する準備を整えている真っ最中に突然衝撃がやってくる。

 辛過ぎるので触れた唇はたちまち腫れ上がり痛み以外の感覚を全て失ってしまうのであって、咀嚼消化を目的とする品物を唇に接触させることは行儀のよろしいことではないから罰を受けているとの解釈の可能だが、単純に辛ければ辛いほど警戒する本能が備わっていないならば文句は言えない。

 辛過ぎるが故に自動的に洟水が垂れてくるのであって、鼻呼吸を断念して口呼吸に切り替える。すると呼吸毎に出入するほんの僅かな空気が触れただけで口の中は燃えている。「火を吹く」という表現は、呼吸の度に火傷を撫ぜられる感覚を指しているわけだが、吹くという感覚は誇張されているのであり、実際は「辛さの余り火傷した」あたりが適切に思える。

 辛過ぎる余り体温が急上昇するから発汗蒸散で体温を下げようとする反応が認知される。頭皮から汗が吹き出すのは禿げる恐怖を幾分か薄めてはくれるものの、「辛さの余り頭が涼しい」とは原因が辛さではなく汗にあることを認識していないことになる。

 辛過ぎるからそのあたりに漂う空気にも辛い成分が含まれている気がして、その恐怖を感じ取った無意識が涙腺を開放するから結果的に「眼にしみる」と学習してしまう。額からの汗が眼に流入した成果である可能性が考慮されないことは理不尽ながらも、辛さに負けて無様な姿を晒している状態を自覚しているから敵である「辛さ」を強大であると暗示をかけることで、負けても仕方がないとする結論を導き出そうとしている。

 以上の結果、涙・洟水・汗・涎の波状攻撃により思考力は粉砕されて「辛い」「ぅぅ」が精一杯、それ以上の会話は成立しなくなる。

 となると歯の治療で必須とされる麻酔の注射が嫌いならば、直前に気絶するほど辛い料理で口腔を麻痺させておけばよい。ただし治療にあたって口腔内に起こる僅かな風でも痺れは増し、不幸にして治療器具が口腔内を突付いた瞬間は、意思と関係なく空気に向かって拳を繰り出したり蹴りを放ったりの膝下手刀に似た反応が生ずるので、予め手術台に全身を拘束させておく必要がある。


喰べ合わせ 04/12/04

 喰べ合わせと呼ばれ避けるべきと認識されている現象がある。

 ある何かと別の何かを同時に喰べると体に良くないらしいとされている組み合わせの総称であって、経験則と出鱈目がまかり通っていた時代に比べて現在は食品に含まれる様々な物質が解明されていることから、どのような食品に如何なる物質が含まれているかに詳しい栄養士の如き知識を持つ人と、種々の化学反応に詳しい理科系の人が協力すれば、説得力のある科学的な喰べ合わせを提出することが可能となる。

 具体的に何を喰べると何がどうなるか全くもって知らないわけだが、まず言い伝えられている喰べ合わせについて、本当に避けるべきなのか別の理由で避けられていたのかを調査すればよい。

 一通り終えたのち、次は有名な化学反応を元に体に害を為すと考えられる組み合わせの物質が入った食品同士の組み合わせを挙げてゆけば、避けるべき今日的で科学的な喰べ合わせが判明する。その過程で思いもよらぬ組み合わせが発見されるとちょっとした騒ぎになるだろう。風評被害は厳に戒めるべきだが、それ以上に危険な喰べ合わせであるならば、公にすることで人々の健康に繋がるかもしれない。

※検索すると山のように出てくる。


大豆 04/12/21

 枝豆は乾かすと大豆になると思っていた。

 実は大豆の未成熟なところを強引に収穫したものが枝豆として名乗りを上げる。大豆たる為には熟す必要があるらしい。

 さて、大豆と枝豆が同根であることを改めて確認すれば、豆腐も味噌も醤油も納豆も厚揚も黄粉も湯葉もおからも煮豆も一部のもやしも全て大豆一族というわけだ。考えてみるとこれは凄い。これほど多岐に渡る製品群を派生させているのは牛乳と並ぶ高栄養食品として認定されているからであり、「畑の肉」と呼ばれるのも無理はない。ついでに豆乳も大豆だ。

 枝豆を植えたらもやしになって、成長すれば再び枝豆になると信じていたが、未熟なままで収穫した以上発芽は望めないので知識は修正される。枝豆を無理矢理に豆腐化させた存在もあることから、枝豆・大豆・豆腐が繋がっていることは再確認される。

 ところが黄粉は長い間謎だった。指に付けて舐めた経験は誰しもあるだろう。粉であることは見て判るが、何の粉だろうかと考えることもなく、漠然と何か砂糖のような物の一種であろうと想像したままで固定されていたから、炒った大豆を擂り潰したものが黄粉であると知った際の驚きはちょっとしたもので、醤油と黄粉の原料が同じ物体であることはどうしても信じられず、しかし黄粉は最後に砂糖を加えるとあったから渋々納得した。

 英語「soy sauce」の醤油は有名だが、SOYの語源は漢字の「醤syo」であって、語源の特権としてsoy単体でも醤油を指す。大豆は醤油の原料であるから「Soybean」であり、「soybean milk」または「soy milk」で豆乳を指す。味噌は「soybean paste」よりも「miso」が大勢となりかけている。豆腐はそのまま「tofu」であるが、数え方は「a cake of〜」が使われるようだ。突然「fermented soy beans」と言われても不安な表情を浮かべるだけだから納豆は「Natto」が望ましい。黄粉の英語に接する機会など考えられないが一応「soybean flour」となる。フラウアは小麦粉であるから問題なかろう。また湯葉を英語で言う必要があるのかとの疑問もあるが「yuba」で押し通したいものだ。「soy milk skin」とは少々趣味が悪い。

 「Tofutti」とは豆腐を材料にした氷菓であり、カクテルに利用される事例もあるようだ。「豆腐アイス」という概念は、「冷やして奴」「凍らせて高野豆腐」としか連想出来ない我等の固い頭に衝撃を与える。食後にデザートとして豆腐が出てくるのは遠慮したいものだ。


月餅 04/12/23

 断固たる辛党として甘い物が苦手であるが、それでも「いこもち」ほか好きな菓子は幾つかある。

 しかしここに突如来たりて大の辛党をして「これほど美味い菓子は生涯初めてだ」と感激させた奴がある。元々大した生涯ではないことを差し引いたとしても、辛党として甘い物に対する経験や免疫がないことを計算に入れてもなお、これなら毎日喰えると確信したものだ。

 「椰子の実餡の月餅」がそれだ。「げっぺい」と読む。月餅は甘いとの認識があったからこれまで素通りであったが、たまたま小腹が空いていた時に山と積まれていた月餅に目を留めてひとつ所望したところ、中国訛の日本語で味は五種類ありますと紹介を始めた。饅頭を喰わねばならない局面に追い込まれると、最後の抵抗として最低限白餡を選択するようにしているが、五種類の中には白餡との発言はなかった。いやあったかもしれないが、ふたつめに言った「椰子の実」が頭の中で走り廻っていて、続くみっつの内容は覚えることもしないまま、「椰子の実椰子の実」と響き渡っていた。無事に紹介が終わると即座に「椰子の実ひとつ」と告げ、包装は拒否して歩きながら齧り付いた。

 月餅は餅とあっても粘るわけではなく御存知中国の饅頭らしきもので、直径が10センチ厚さが3センチほど、どうしても日本の饅頭を基準に考えてしまうから想像よりもずっしりと重い。さくさくほこほこの感触で、ドイツのバターケーキをもっともっと緊密にした食感と言えば通ずるだろうか。かなり柔らかいクッキーと言えなくもない。一見白餡に見える椰子の実餡はぽろぽろに崩れることもなく、上顎にへばり付きもせず、そして何より甘くない。辛党にとってこれは最大の魅力であり、その甘みの薄さは落雁に匹敵するかと思われる。当然多少の甘味は感じるが、ステーキ付け合せの人参の方がより甘かろうと感じるくらいさっぱりとしていて、しかし密に詰まっていて噛み応えがありつつさくさくだから夢中になる。

 全て喰い終えた後、口の中に幾つかの滓が残った。これが椰子の実であって、焼けた砂浜の濃厚な香りが後味として漂い、最後に沸いてきた唾ごと飲み込んで、引き返してもうひとつ喰おうかとまで思った。ただし値段はひとつ315円とそれなりに気合が入っているので覚悟が必要だ。


honeydew 04/12/29

 「398円」とともに「甘みを抑えたメキシコのメロン」と手書きの広告があり、それだけならば通り過ぎるところを、そのメロンと称する物体の大きさに興味が湧いた。

 その「honeydewハネデュー」なるメロンは通常の西瓜と同じ大きさであった。隣に並んでいる季節外れの小玉西瓜は898円であり、西瓜とメロンの価格については考えるまでもないのに、また大きさの観点からも値段が矛盾しているのであって、どう考えても安過ぎる。何らかの罠があるに違いない。

 まず怪しいのが、POP広告には「ハネデューメロン」とあるのにブランド表示のシールには「ハネーデューメロン」であり、店が付けた値段表示のシールには「ハネジューメロン」とあることだ。日本のものでないならば表記が混乱しているのは仕方のないことではある。それにしても異常と思えるほどに安いのであり、これはメロンを名乗りつつも中身は単なる西瓜なのではないかと推測し、その予想を実証する為に買ってみた。

 抱えてみればずしりと思い。やや楕円形ながらも表面は乳白色だから網のないメロンと見えなくもない。ただ大き過ぎるだけだ。胴回りを測ってみると約50センチある。しばし眺めていたが、圧倒的な存在感が妙に腹立たしいので包丁を真っ直ぐ突き立ててみると殆ど抵抗がない。するすると切れてゆくので益々西瓜であろうと確信しながら二つに割ると、驚いたことにメロンであった。中央は空洞で種が繋がったまま垂れ下がっている。色は皮二ミリほどが白くて次に透き通った感じの黄緑、そして段々白くなってゆき種に届く。想像して欲しい。西瓜の大きさで、割ってみれば中身は確かにメロンなのだ。

 それでは味に支障があるから安いのだなと考えるのは自然なことだと思う。三日月形には切らず、スプーンを用意して種をこそげた。我々の知るメロンの種とは、白く薄いながら喰べると確かに歯応えがあっていらいらするものだ。しかしこいつの種は違った。印象としては「柿の種」「いやピーナッツ」「色の薄い柿の種」「いや色の濃いピーナッツ」「膨らみきれなかった小さい柿の種」「いや細長いピーナッツ」「柿の種とピーナッツを足して二で割るとしか言いようがない」種を全て落とすとソフトボール程度の中空になっていることが判明した。直径を計ってみると約20センチで、果肉部分の厚みは皮から4〜5センチ程度だ。

 その安さの秘密が隠されているであろう味を確認する時がきた。覚悟を決めてまず中心部分から一口喰べてみると何故か美味い。通常メロンとは皮に近付き過ぎると苦いもので、これは薄黄緑の部分が苦いならば値段相応である、と考えて喰べると爽やかな甘みを感じる。どこまで喰えるだろうかとおそるおそる削りつつ喰べてみたが皮の二ミリぎりぎりまで甘い。念の為に皮を齧ってみたが、調子に乗るべきではないことを確認した。

 こんなに美味くてあんなに安い筈はないと考えつつ、もくもくと喰べ続けていたがやはり大き過ぎた故なのか突然飽きた。これはメロンなのだとの自己暗示は効かず、種を割った中にある白い種を喰べ始める始末であった。

 気を取り直し再び口にしていると、どうも覚えのある味に思えてきた。これはもしかすると角切りにされたメロンとして普段喰べている奴じゃないのか?考えてみれば普通のメロンは白い部分だけが甘く喰える部分であって薄黄緑部分は酸いか苦い筈だ。我々が普段さして疑問も抱かずに喰う角切りにされた薄黄緑色のメロンは、実はこいつじゃないのか?

 「honeydew」の意味は「蜂蜜の雫」といったところで、羽重と当字するらしく、かなり有名な品種であるようだ。更に調べてみると、フランスからアメリカに入り、現在は主にアメリカ・メキシコから輸入しているらしい。

 わざわざ輸入している以上日本の風土に適さないことは想像出来るのだが、ともかく数百もしかすると千粒あるかに見える種を水で洗い、沈んだ二・三百粒だけを選んだ。播いてみるかと思ったが、冬に生る為にはどの季節に播けばよいのか見当がつかない。


カルピス 05/01/12

 カルピスとは蒙古の馬乳酒が誕生の由来であるらしい。名前の方はカルシウムの「カル」とサンスクリット語の「サルピス」が合成されたという。サルピスとは仏教用語で熟酥を指し、醍醐に次ぐ味のことを指すというから大したものだ。海外ではCALPISは「CowPiss牛の小便」と響く為に「CALPICO」と名を変えている。

 原液を水で割り濃度を自由に調整することが可能なので、冷蔵庫の場所を取らず手軽で安上がりな飲物として重宝されるものだが、適正な割合というものが人によって違うので友人宅で頂いたカルピスが薄かったり濃かったりするとそれで一騒ぎする。それを聞いている親の気持ちは複雑であろう。

 今でこそ薄められた物を缶で発売してあるから発売元が適正であると考える濃度を知ることが出来るが、薄過ぎると色と味が僅かに付いた水を飲んでいる気分になるのであって、また濃くて甘過ぎると耳の下が突っ張る感じがするから、作る際は厳かにかつ大胆に注ぐのであって、しかし原液が完全に口を塞いでいて出る速度がこぽこぽこぽとなればよいが、瓶を傾ける角度によっては空気と原液の交換が速やかに行われるのであり、すると予想以上の場合によってはコップに半分までの原液が溜まってしまう。

 そのような場合、物事を弁えた大人であれば仕方がないから新たなるコップを用意して株分けするのだが、何も考えない子供であればひとまず水で薄めてみて甘すぎることを確認し、少し飲んで少し水を注ぎ、それを繰り返してゆくうちに段々薄く不味くなってきた頃には腹が膨れていて、丁度好みので味である筈の最後の一杯を飲む気力は失せている。

 ところでカルピスの包装は水玉模様であり、おそらく泡なのだろうと考えていたが違った。あの水玉は星なのだそうで、それが「蒙古の大草原に寝転がって見上げた星空を意匠した」であれば新鮮な印象を与えると思うのだが、実際は七月七日の七夕に発売されたから、星空は星空でも水玉模様は特に天の河を意匠しているらしい。さほど風雅に見えはしないが、七夕あたりに思い出したなら飲んでみるのも悪くない。


食パン 05/02/03

 「食パン」の食が気になっていた。

 食用のパンの略であるかと納得したつもりであったが、よくよく考えてみると「食用でないパン」が日常に溢れていなければ存在しない言葉になるからおかしい。

 調べてみると日本ではパンがなかなか拡まらず、業を煮やしたかやけくそになったかで饅頭の餡子を詰め込むと爆発的に売れたが、あくまでも菓子として位置付けられ、それより後に拡まった主食用のパンを「食パン」と呼び習わしたことに由来するらしい。

 基本的に正立方体を五・六・七枚に切り売りされていて、稀に四枚やら八枚やらがある。梱包効率から正六面体が主流であることは推測出来るが、両端に耳がないの見ると「もしかしてこれらの食パンは横に長ぁぁぁぁぁい状態で焼いたものを裁断しているのではないか」という疑惑が気持ち悪くて余り喰う気がしない。

 しかし斤単位なら喜んで買うから嫌いなわけではない。しかし斤単位で買うと、焼きあげる際に焦げた面を指して「耳」とは呼び難い。端っこに付いている邪魔そうな物を指すから耳でよいが、まず切った一枚目の裏の全面を耳と呼ぶのは間が抜けている。それはパンというより皿なのであって、本体から考えて「その一枚目全てが耳」と考えるべきであるらしい。

 しかし斤で買うことを続けていると、やがて必ず「いちいち出して切るの面倒いわ」と思う時期がやって来る。するとどうなるか。それまでは正置されていたのが縦にして置かれる。袋から出すような事はせずに上の方だけ捲り下ろし、刃物で水平に切る。手順が大幅に省略された上、俎板が必要ないから楽になる。油断すると切り口がずれたまま回転してゆき切り離せずにプロペラのようになってしまうが、二枚分喰うなら同じことだから問題はない。

 それでも面倒に感じてくると切らずに毟った塊を喰うが、自慢出来る姿ではないらしい。




Copyright 2002-2005 鶴弥兼成TURUYA KENSEY. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. 著作権について リンクについて 管理人にメール お気に入りに追加

[★高収入が可能!WEBデザインのプロになってみない?! Click Here! 自宅で仕事がしたい人必見! Click Here!]
[ CGIレンタルサービス | 100MBの無料HPスペース | 検索エンジン登録代行サービス ]
[ 初心者でも安心なレンタルサーバー。50MBで250円から。CGI・SSI・PHPが使えます。 ]


FC2 キャッシング 出会い 無料アクセス解析