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辞書の迷路
辞書辞典
岩波ことわざ辞典
しらげる
辞書に栞
掘出物
家系図

辞書など
方言辞典


「辞書類の魅力は何だろう」

「その答は載っていないんだ」

辞書の迷路 03/02/02

 辞書辞典の類いが好きでよく読む。通常は「引く」と表現するが、それはその文字の意味だけを目的にしている場合のことで、それならばインターネットで検索するほうが正確で早く、情報も豊富に得られる。「読む」というのはつまりあちこち寄り道することだ。試しに大辞林を手にしてみる。とくに調べたい言葉がない場合適当に開く。「たんかつ−たんこう」が開いた。この見開き二ページを読むのである。

【短褐】麻や木綿で作った丈の短い粗末な服。身分の卑しい者が着る服。

 から始まる。ずっと読んでいくとまず半分は知らない言葉であるから退屈することがない。その中で気になった言葉や意味の面白い 言葉はメモしておく。あとで何かの材料になるかもしれない。

【赧顔】恥ずかしさのあまり顔を赤らめること。赤面。「赧顔に耐えない」

 メモしておく。

【団魚】スッポンの異名。

 メモしておく。

【断見】《仏》邪見の一。因果の道理を否定し、この世に存在する者は全く無になってしまうのだとする考え。→常見

 つまりオカルト否定派ということか。では「常見」が気になるではないか。「常見」に飛ぶ。

【常見】《仏》世界は常住不変であるとし、肉体は滅びても人間の自我は消滅しないとする考え方。断見とともに誤った考え方として否定される。

 おい。待て。これは対義語ではなかったのか。「全く無になる」のが間違っていて「消滅しない」のも否定されるとすると一体どう いうことになるのかね?「それを突き詰めるのが仏教である」というわけであるか。とりあえず無理矢理そう納得してさり気なく目を逸らす。すると近くに「照顧」がある。

【照顧】(名)スル 反省してよく確かめること。「脚下−」

 これはやはり「きゃっかしょうこ」でいいのだろうか。気になる。

【脚下】足もと。「−を見下ろす」−照顧〈「脚下を照顧せよ」という禅家の標語から〉他に向かって理屈を言う前に自分の足下をよく見ろ。自己反省を促す意で用いられる。

 また仏教用語か。しかも叱られた。

 そしてすぐ隣に「逆火」があるのでついでに見る。

【逆火】→バック・ファイア

 バック・ファイアを日本語では「逆火」と表記するのか。メモ。さらに「バックファイア」の正式な定義が知りたくなる。

−ファイア 内燃機関で、燃焼室から気化器や吸気管に火が吹き返す現象。点火時期や吸入弁の開閉時期の不整によっておこる。 逆火。さかび。

 よく判らない説明だが、何となく伝わっては来る。しかしいろいろややこしい言葉があるから次はどれに飛ぼうか。こうして迷路に嵌り込むのが楽しい。その過程の寄り道で意外な言葉とぶつかる喜びも辞書を「引く」だけでは味わえないことなのだ。

 インターネット辞書の検索は確かに便利で素早く豊富な情報が得られるかもしれない。しかしそれは「必要があればはじめて調べる」というマニュアル人間のすることであって、創造性を養う為には、あちこち寄り道する中で、例え必要のないことでも次々吸収しすることで、いつか必ず思いもよらない回路が発生するのだ。真っ直ぐ目的地に着いてそのまま帰る旅など面白くないことは今まで生きてきて十分判っているだろう?


辞書辞典 03/02/11

「逆引き広辞苑」という辞書がある。よく活用している。韻を踏むのに便利なもので、語句の説明はないが、語尾の響きが似ている言葉が隣り合って並んでいるので、たまに笑える。

粗探し

宝探し

枕探し

 こう並んでいた時には感動した。粗探しと枕探しに宝探しが挟まれている。語尾が似ていても意味がまるで違うことが落差からくる可笑しみを誘うのだ。似た語尾で似た意味なら退屈なだけである。ためしに語尾が「−てんのう」の項を見るとおよそ半ページに渡って「なになに天皇」がずらりと並んでいる。もちろん中には「わいわい天王」が紛れ込んでいたりするが、これはむしろ折角の調和を乱しているので少し残念に思ったりする。

 宝探しという言葉から受けるわくわくするようなロマン溢れる響きのすぐ前に、意地悪く歪んだ性向が想起される粗探し、後に狡猾かつ失笑を誘う枕探し。まあ枕探しは一種の宝探しと言えなくもないあたりがますます笑える。

 もちろん「逆引き広辞苑」と銘打っているから当然かの「広辞苑」を下敷きにしているもので、意味のわからない言葉は広辞苑を見ろということになっている。しかし手前は大辞林派なので逆引き広辞苑と大辞林を互いに参照するという、いわば混血であり、わが知識は雑種と呼ぶに相応しい。他の辞書でもコンサイスならコンサイスで統一すれば良いものを手に入る辞書をとりあえず集めてその中で使い勝手のいいものを手元に残していくとたとえば英和辞書ならば小学校の卒業記念に配られた英語初心者向けの発音記号と発音カタカナ並記の「ニューホライズン」と、旧正字表記でこれを読む為に漢字辞典「字統」を参照しなければならない熟語本位「斉藤秀三郎英和中辞典」を併用している。

 その結果辞書の回路がその辞書の中だけに留まらず辞書から辞書へ三次元的回路が発生し、「調べてついでに寄り道する」から「寄り道する為に調べる」ようになってくる。

 実家に置いてあるもののなかに「イスラム辞典」なるものがあった。イスラム教に関わる人物や語句、出来事を網羅していたもので、各項目が短いコラムのようになっていて眠る前に読むのに格好のものだったが、眠る直前に読んだ内容とはあっさり忘れてしまうもので、一応読破はしたものの、覚えているのは「そういえばこれ中学の歴史で習ったなあ」と感じたことだけ。「911」のあともう一度読もうかと考えたが、まだ読んでいないものが沢山あるし、まだ読みたいものが沢山あるのでイスラムに関しては封印する。

 次は何だ?ジョイスか?


岩波ことわざ辞典 03/02/20

 岩波ことわざ辞典を古本屋で購入。発売以来ずっと気になっていて、折に触れ立ち読みしていたが、永岡書店のことわざ小辞典があるため、なかなか買う気がしなかった。

 たまたま郊外型のチェーン形式の古本屋で、まあ早い話がBOOKOFFなのだが、売っているのを見て即断。値段は半額であるが、これを古本屋で見かけるのは初めてであったから通常なら丹念にいじくり廻して変な書込みなどないかを確認するべところをすべて省略した結果、帰ってきて改めて眺めると帯に皺が寄っている。

 この帯という奴は辞書に限らず厄介なものですぐに皺が寄るし、棚に差すときに気を抜くとべりりりなどといって引き裂かれる。では帯をカバーの中に包み込めばいいかというとそれはそれでまた縦に厭らしいしわが寄る。小鍋の中に大鍋を詰め込むが如き蛮行と言える。このしわを防ぐ為には帯の折れ目をずらして短くすればよいのだが、それもいちいち手間がかかる。従って帯というものはそのうち破れて捨てられることになる。

 手前の場合は辞書の帯に関しては保存している。買ってきた状態では通常まず箱があり、その外に帯がついてあり、本体には透明のカバーなどがついていたりする。際物辞書の場合は透明ではなく紙であることが多い。これが実に面倒なのだ。辞書をよく読むのでいちいち帯を気にしながら箱から出してカバーをずれないように扱いながらなど手間がかかってしょうがない。

 辞書というものは使ってなんぼであるから丁寧に扱ってなどいられない。あるときから箱から出しっ放し、やがてカバーも脱がせて、いわゆる学校の図書室陳列状態、つまり素にしてみたところ、素晴しく快適になった。

 そして挟み込まれているチラシやアンケートのハガキ、帯、カバーを箱の中に押し込め、箱をそれらしく並べておく。中身は部屋のあちこちに散らばっている。

 引越す時の為に電気製品を運ぶ際、破損させないように箱と発泡スチロールを保存しておく人の気持ちが理解できた気がする。

 そしてことわざ辞典だ。当然こいつもすべてひん剥いて素にする。帯がしわくちゃでちぎれかかってはいるが一応箱の中に突っ込む。紙カバーも突っ込む。古本であるからチラシ類は何もないだろうと思ったもののとりあえずぱらぱらめくってみると新聞の切り抜きが出てきた。「大蔵省は1日、天皇陛下の御在位10周年記念貨幣の発売方法を発表した。云々」なに新聞かはわからないが御丁寧に赤のアンダーラインが引いてある。

 しかしよ、古本屋やったらよ、こういうの抜いとけやぼけが。

 とあの手の店には言っても通じないので仕方がない。

 いずれブックオフ弾劾の回をやりましょう。今日はこれまで。


しらげる 03/02/26

 「字統」というこれがまたその筋では有名であるが、一般的にはマニアックと思われてしまう危険な書を愛用している。序文に編者の白川静が辞書とも辞典とも記しておらずただ「書」と表現しているのでさらに怪しい。

 収録されている漢字の数はおよそ6800。たしか諸星の大漢和が四万八千以上と聞いたことがあるから実際のところかなり少ない。また普通の漢字中辞典でも平均一万字収録していることから考えてもやはり少ない。

 それでも一万六千五百円。アラビア数字で確認すると16500円。ただし1984年の値段であるから今はいくらだか見当もつかない。こんなものを買ってはいられないので、実家から黙って持ってきたのだが、思ったより使える。

 漢字の成立と歴史的研究の結果「語史的字書」になっており、それぞれ由来が書いてある。いつか習った「会意」「象形」「形声」などに分類され、さらに詳しく記述してある。常用漢字がおよそ二千字であるからそれに比べると多いように思うが、編者は序文で6800を必要最低限の数と言い切っている。そして中国の古典を読む上でこれだけあればほぼ問題ない数だとのこと。

 そしてこれを読むともなしにぱらぱらめくって眺めていると楽しいのが文系たる所以だ。ワープロでは全く変換出来ないが興味深い字をいくつか紹介する。

齖(齒牙)←これで一つの字   音は「ガ」
     横に圧縮よろしく  訓が「はならびわるし」

 ほんまかーいと叫びたくなる。



 敖  ←これで一つの字   音は「ゴウ」
 耳   縦に圧縮よろしく  訓は「ききいれない」
  』

 これを「聱齖」「ゴウガ」と組み合わせて「人言には耳を傾けず勝手な行動をする」という意味になる。

 実際訓読み索引のところを見ると唖然とするばかりだ。まずは信用を得る為にわりと知っているものからいってみよう。

慮 おもんぱかる
辱 かたじけない
喃 くどくどしい

 この辺りで既に難しいのだが、これならまだ判る。判らないのが

軌 くるまのみち
感 こころうごく
津 しみでるもの

 知っている字の筈だが、少し自信がなくなってくる。

粲 しらげたこめ

 「しらげたこめ」とはなにか。米が入っている以上しらげた−こめと分解出来ることが予想される。従って「しらげた」これをどうにかすると。形容動詞か動詞であろうことがなんとなくわかる。あとは「しらげる」が大辞林に載っていることを祈るだけだ。

−しらげる (動ガ下一)(動ガ下二しら・ぐ)玄米をついて白米にする
 精げる 白げる

 そしていつのまにか字統から離れて大辞林に嵌り込んでしまう。

−しらぐ (動ガ下二) →しらげる

 勿論これを確認する為であったがその隣に

−しらぐ (動ガ下二) むちうつ。「神人白杖をもつて、かの聖がうなじを−・げ/平家物語」

 さて。ここで考える。では「むちうつ」を字統で調べてみると。

杖 掠 撻 鞭 のよっつ。そしてそれぞれ意味を見ると少しずつ違う。

 平家物語で「神人白杖をもつて」とあるので意味としても相応しい「杖」の「むちうつ」という意味の「しらぐ」であることがわかる。

 ややこしいかい?わかりやすくいうと「杖」には「むちうつ」の意味があって「しらぐ」の意味もまた「むちうつ」つまり平家物語からのこの引用にある「神人白杖をもつて、かの聖がうなじをしらげ」は、「杖」と「しらげ」が掛っているのだ。「馬から落馬」よりは相当上等な言葉遊び。

 何故こんなところに辿り着いたのか自分でもよくわからないのだが、これが回路というものだ。

 上の結果を信用するしないはあなたの自由。


辞書に栞 03/07/29

 図書館の本を借りる為に作るカードは地区外の住民には発行されず、ましてや住民でない者はもってのほか、最近の貸し出しカードは什基ネットと直接繋がっているから適当な変名で借りることは出来なくなっている。引越し前の住所記載の身分証を提示しても、住基ネットで照会されて「住民登録がないので作れません」とは確かに管理体制が整ったようだが、利用者には敷居が高くなった。

 借り出した本から危険思想の持ち主を割り出す手口も陳腐であって、何しろ本当に危険な本や激烈な反権力の本は公開しないから、そして本当に危険思想を持っていたら図書館でそんな危険な本など借りはしないから、これは炙り出しではなくて、単なる一般人の思想調査に過ぎない。

 ところで辞書や最新の雑誌、新聞の伸縮版、その他の資料タイプのものは借り出すことが不可能である。古本屋では出回らず、貴重で面白い図書館でしかお目にかかれない辞書というものは結構あって、辞書は引くものではなく読むものだと心得ているから項目を最初から順番に読むわけだが、辞書をたった一日で読破するのはやはり難しいので、読んだところまで栞を挟んでおくわけだが、しばらく行かなくても、特別整理期間休館を経ても、しおりはそのまま、誰がが使っても偶然そのページを開けて「何じゃこの紙切れは」と捨てられることのない限りはどこまで読んだか確認できる。しかも手前の読む辞書は普通どのように利用するのか見当もつかないものが多く、利用者がほぼいないので、進まない栞はいつまでもそのままである。なお、手前が偶然見つけた栞を容赦なく捨てるのは、競争者を蹴落とす為である。

 栞を挟んでいる辞書はあちこちの図書館に合わせて十数冊あり、これは頻繁に図書館に通っているせいでもあるが、同時に集中力の欠如も示している。いくら活字が好きとはいえ、平仮名より漢字の方が密度が高くて好みでも、細かい字のほうが読むのに時間が掛かって嬉しくても、辞書を三十分以上読み続けるのは困難であって、気分転換に普通の本を読む。それでも疲れると煙草を喫いに行ったりビールを飲みに行ったりそのまま突っ伏して眠ったりする。

 どんなに集中力があってもどうにもならないのは隣に鼻息の荒い奴がいる時で、足音や電卓の音、くしゃみ、咳払い、鼻を啜る音などは全く気にならないが、鼻が詰まっているのに強引な鼻呼吸をするから鼻笛になり、この鼻笛が隣にいると数分立たずに「でええええええい、うるせええええ!」と読んでいる辞書を天井に放り投げたくなるのだが、生憎そこは警備員が常駐巡回している図書館であって、下手に暴れると後がややこしくなるし、辞書のその先が読めなくなる恐れがあるので、諦めて別の席を探してみるが、この時期は人が多すぎてどこにも空いている席はない。耳にパチンコ玉を詰めて集中しても一時間もすると頭が割れるように痛み出すのでどうにもならず、今日はもう駄目だと思って眠り込むと、肩を突付かれ起こされて、「もう閉館ですよ」と警備のおっさんが言う。


掘出物 03/11/25

 ある古本屋で「何でもわかることばの百科事典」なるものが百円で売られていた。いかにも不審であるから手にとって調べてみた。中を抜くとビニールのカバーも付いている。水に濡れてふやけた跡などないし、ぱらぱら見ても目立つ書き込みがあるわけでもない。おかしいなと思って改めて表紙を見るとこうあった。

なんでも分かる
ことばの百科事典
第二版
特装版
平井昌夫著

昭和五十五年度
卒業記念
○○○高等学校

 成程、卒業記念印字事典であったのか。そう言えば手前は小学校の卒業時に英和辞書、高校の卒業時には岩波国語辞典第五版であった。で、これは元々幾らの物なのか、あちこち見ても値段がどこにもない。奥付にもないし、通常辞書類なら函に書いてあるが、赤い帯で「特装版」とかいてあるので、おそらく値段表示しない為の函なのだろう。それにしても高校名の入っている辞書は楽しいので百円ならば掘出物と考えて買った。しかし百円の事典というものは、何故か罪悪感が沸くのであって、仕方がないからウォマックとマーフィを合わせて買った。

 昭和五十五年度卒業ということは、五十五年の三月に卒業したのか、五十六年に卒業したのか、「度」がついているおかげで混乱させられている。「何年卒」と書くことはあっても、「何年度卒」とは普段書かないから判らない。「何年度入学」ならばその年の四月であるから、これはやはり五十五年の三月卒業なのだろうか。五十五年と考えて、1980年十八歳で、23を足して今は四十歳前後、複雑な年頃の大人になっているらしい。

 さてこの何でもわかる言葉の百科事典、約二十年前の、社会人の為の必要最小限の国語力を詰め込んだものとある。五部構成で、「現代日本語の知識」「用字の常識」「用字の常識」「コミュニケーションの技術」「社会人の言語教養」とある。用字は漢字とその他の二部立てだ。その下の章立では例えば、「語彙の成分」「一般人に使えない単語」「ハンディトーキーによる話し方」「話し合いでの話し方」「ユーモア事典」見ただけで読みたくなる。「横書の新カナ文字」を初めて知った。これは電網上には殆どと言ってよい程情報がない。誰か上げろ。

 また何箇所か肩を折り込んであり、鉛筆の傍線を見つけた。どうも基礎的なところを確認する必要があったらしい。内容は特別の古さを感じさせないから、流行語の記述が昭和五十四年で途切れているのを見て、ああ二十年前のものだったよなと思い出す。

 「一般人に使えない単語」で、「西瓜割り」や「二人三脚」、マスコミでは使わないことになったとある。その理由は目の不自由な人や足の悪い人をバカにしたりそれを暗示したり、だそうな。藪医者は「うまくない医者」、デモシカ先生は「教育が上手でない先生」、貧民窟は「ヒッピー村」、いやはや、なんて時代だ。このような資料的価値のある事典、しかしあまりにも時の流れに対応する事が難しい為だろう、現在入手困難になっているようだ。

 名言集もあるが、ユーモア辞典の章が面白い。直訳的な所も目立つが、なかなか気の利いた定義が多いのだ。

親:避妊に失敗した人

 最初誤変換で「否認に失敗した人」と出て思わずそれも確かにそうよな、と納得したわけだが、二十年前に出たものとしては相当に密度が濃い。現在でも十分に通用する。いやむしろ現在の方が一般常識の到達線が下がっているから、現在よりも使い甲斐がある。また社会人に必要最低限の知識とは、つまり外国人が日本語を新たに学ぶ時、この一冊をものすればほぼ普通に会話も出来る。その為の必要な事柄が載っているのだ。この事典、わずか百円で買って大当たり、もし見かけたら即座に買うべきだ。当時の定価が1650円か、それ以上でも買う価値はある。類似の下らない辞書もどきが束になっても敵わない。

 現在四十歳前後である元持ち主の幸運を祈りつつ、大切に使わせて頂きます。


家系図 04/01/15

 まだ用語本三冊読み切っていないのに魅力的な辞書が出ているからつい読み耽る。講談社の「日本史諸家系図人名辞典」、やたら分厚い人名辞典で、日本史を彩る名家の家系図付き、家系図のほぼ全員の略歴がある読み応えのあり過ぎる代物だ。九千五百円、今は読むだけで満足しているがいつか買いたい。監修が小和田哲男、2003年11月に出たばかりなので情報は新しいようだ。

 天皇家について、万世一系に対する矛盾を突いているし、九州王朝はさすがに書かれていないがそのあたりは正直に不明としている姿勢には好感が持てる。明智家の光秀の出自についてのあたりは古いままのようだがこれは仕方あるまい。「元名家の諸国遍歴の浪人」という立場は確かに心躍る設定ではある。あれほど有名でありながら前半生は完璧と言ってよいほど謎だから様々に想像を逞しくする余地があるわけで、第一光秀の父の名前からして未だ確定されていないのだから困る話だ。それでもこの有名人を日本史の人名辞典から外すことなど出来ないから一応美濃出身として手を打っている。近年は朝倉家中の者であったとする説が有力なのだがね。

 さてこの辞典、家系図マニアには堪えられない逸品だが、マニアでなくとも天皇家系図は一見に値する。神武天皇から皇太子の徳仁親王まで繋げてあるものだが、連枝も相当書かれてあり、今まで文章だけではよく見えなかった関係が把握出来る。

 例えば最もややこしい時期である大化の改新頃の中大兄皇子の周辺、つまり父親は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひとひこのおおえのおうじ)の息子舒明(じょめい)三十四代天皇、母親は押坂彦人大兄皇子の息子芽渟(ちぬ)王の娘三十五代皇極(こうぎょく)天皇のちの三十七代斉明(さいめい)天皇、つまり両親は叔父と姪だったわけですね。三十六代天皇は皇極天皇の異母弟孝徳(こうとく)天皇で、その后は中大兄皇子の同母妹間人(はしひと)皇女、そして三十八代天皇がやっと中大兄皇子改め天智(てんじ)天皇となります。ここは天智天皇のところに「(中大兄皇子)」と書いてある方が親切だろうと思う。書いてないのよ。知らなければ混乱するわ。天智天皇は百人一首第一番で知っていますね。あの人が大化の改新中大兄皇子なのですね。ついでに百人一首二番の持統(じとう)天皇は天智天皇の第二皇女であり、天智天皇の同母弟である天武(てんむ)四十代天皇の皇后でもある。つまりここも叔父姪ですね。この天武天皇がまた側室皇子山のように居て、しかしここが一番家系図として面白いところなのだが、かなり削ってあるからさっぱりし過ぎていて掴みにくい。

 ついでに聖徳太子は三十一代用命(ようめい)天皇の息子で、その兄が三十代敏達(びだつ)天皇、妹が天皇制初の女帝推古天皇、ちなみに推古天皇は異母兄である敏達天皇の皇后であるという複雑さ。用明天皇と推古天皇は同父同腹兄妹で父つまり聖徳太子の祖父は二十九代欽明(きんめい)天皇、用明天皇と推古天皇の母は蘇我堅塩姫(そがのきたしひめ)、ここで蘇我氏に繋がる。蘇我堅塩姫は蘇我稲目の娘であり、堅塩姫の兄が蘇我馬子、そして馬子の娘が聖徳太子の妻である刀自古郎女(とじこのいらつめ)だ。

 そして天智天皇の祖父にあたる押坂彦人大兄皇子の父が敏達天皇であるから、敏達天皇と用明天皇は兄弟であるから、押坂彦人大兄皇子と聖徳太子は従兄弟であり、聖徳太子の甥にあたるのが舒明天皇と芽渟王、天智天皇は舒明天皇の息子だから、天智天皇から見て聖徳太子は大叔父となるわけですね。

 家系図が如何に重要であるか、重々承知なされたことと存じます。


星 04/01/26

 野尻抱影という人がいて、星に詳しい。

 講談社学術文庫の「星の神話・伝説」を以前に読んでいたから名前は頭に残っていたから東京堂「日本星名辞典」を見つけてじっくり読み始めた。

 星名索引だけを見ても十分楽しめるところがよい。辞典であるから方言やアイヌ語・琉球語の名も網羅している。神話に関連する星の名はありきたりであって、性としてつい変な星を拾い上げたくなるのは仕方のないことで、面白いからやめられない。

 「喧嘩星」くらいならあるかもしれないと思うが、「ごけぶり(ごきぶり)」、「小さい大星」、「地獄の竈」、「半鐘の突っ転かし」、「フシヌクス(星の糞)」、「褌奪い星(ふんどしばいぼし)」、どうも賑やかな様子なのだ。

 かまどシリーズは他にもあって、「地獄の竈」のほか「竈星」、「長者の竈」、「竃星(へっついぼし)」、「七つ竃星(ななつへっついぼし)」などなど、見てゆくと殆どが江戸明治までの用語である。

 つまり肉眼で見えるような星は大抵既に名前が付けられていて、それは平安以来の読み方を保っている名前もあれば意味が不明になっているものもある。実際のところ新星を見つけただけでニューとなり、名前がどうのと騒ぐことから素人には手が出せない雰囲気もある。しかしながら学術用語として名付けるのではなく、民話の類で和名として異名として星に雅味溢れる名前を付けることは自由であるからここに喰い込む余地がある。

 とはいうものの、神話の時代から輝き続ける星にはほぼ付属の話があるから容易な話ではない。また神話の時代に比べて大気の状態も悪化しているだろうから幾ら望遠鏡が発達しても肉眼で見える星の数は減っていることだろう。するとどうなるか。神話を楽しむ為には望遠鏡が必要な時代がくる。やがて人類が宇宙に飛び出す時代になると、やがて「星の神話があったこと」自体が神話となる。


辞書など

 辞書の使命は言語を規定することか?言葉を解説することか?

 法律を最初に規定してしまって身動きが取れなくなった末の場当たり的で小刻みかつ無意味な改正をする状態と、判例を法律としてゆく生きた形の差を、そのまま辞書に対比することが可能だ。

 辞書を無条件に信奉することの危険さは広辞苑を信用しない者ならば当然心得ているわけだが、日常辞書を使いつけない者ならば大抵そのまま広辞苑の重量感を信用してしまう。英和辞書なら辞書ごとに違う順番で違うことが書いてあるから複数あたるのに日本語辞書ならどれかひとつを見てあっさり納得してしまう。これはやはり自ら使う言語であるから色々調べることは無知を認めることになるという意識、そして単に意味が知りたいだけなので綿密に調べる必要はないという自己弁護によって、あるいは辞書があっても一冊だからなどの理由によって書かれている事をそのまま覚える。

 ところで印刷された文字とは絶対的な迫力があり、これも辞書の威厳のひとつなのだが、よほどの間違いでもない限りそのまま平伏してしまうことが多い。新明解のように参照せずにおれなくなるようなものもあるのだが、まずは広辞苑・大辞林・大辞泉の、一冊あれば満足してしまう程に迫力のある中型辞書の佇まいは確かに書かれてあることをそのまま信頼したくなる。

 しかし辞書とは、新語辞典を除いて殆どが収録する言葉の選択が保守的だ。つまり新語などは充分過ぎる程に浸透してからやっと見出しに加えられる。加えられる頃には既に市民権を得ているから、市民権を得てから加えられるからなのだが、実際のところ意味が不明な言葉を調べようとしても一昔前の言葉でさえ新語辞典にしか収録されていないのは、仕方がないことだがもどかしい。一方で使わない言葉だから差別語だからとして削除される見出しもある。普段使わない言葉だからこそ意味が判らず調べようとするのに載っていなければ特定の辞書ではなく辞書全体に対する不信感が育ってしまう。

 言葉を的確に解説する為には頻繁な改訂が必要なのか。データベース化が進んで改訂作業が楽になったと言ってもそれは単純に作業が楽になったに過ぎず、言葉の定義や意味の変遷までを効率的には処理することが出来ない。

 だから今後は文法も含めた日本語の総合辞典としての存在は消えないにしても比重は軽くなる。代わって文法に特化した辞書、新語・カタカナ語・古語・日常語などにより特化した辞書が益々増えることだろう。今でも十分過ぎる程そのような辞書は溢れているのだが、今後「文法辞苑」「新語辞林」「古語字泉」など、辞書の老舗と専門化が本気になれば、健闘している専門辞書はその輝きを失うだろう。しかしその淘汰される過程で専門辞書の最低線の引き上げが行われることになる。それによってやっと電子辞書に対抗する土俵に上がる資格が出来るのだ。


方言辞典 04/07/25

 方言を題材に採った書籍が多々あり、メディアの集中により方言の濃密な響きが次第に薄れゆく中でこれらの存在は益々貴重になってくる。

 どうかと思うのが索引もないのに「○○弁辞典」と名乗るもので、それが収録されている言葉を索引にしてあるならましなほうであり、小文の体裁で全部読めばその方言の特徴と雰囲気と凡その言葉を知ることが出来ても、辞典として活用するのは索引がなければ不可能に近い。大雑把な目次から目的の言葉が含まれているであろう辺りを丹念に見てゆくのは、寄道の有意性を加えても腹が立つ。

 腹の立つ理由はひとえに「索引もないのに辞典を名乗るなよ」の怒りから来ており、さらに言えば標準語からの索引を備えているものなど皆無に等しい。方言を「何の意味か」と調べるのに役立っても、「この言葉、方言ではどうなる?」の答えをたちどころに導き出すことの出来る○○弁辞典は滅多にない。

 動詞などは標準語から方言へ進める道があれば新鮮な響きに使いたくなるだろうし、使えばその言葉の滅びは先延ばしにされる筈だ。

 「逆引き方言辞典」とでも銘打って標準語の索引から方言を調べることの出来る辞典があれば、少々高くても需要はあるだろう。そう思って念の為に逆引き方言辞典で電網を検索してみると、「山口県方言辞典」が名乗りをあげてきた。ないわけではない。

 方言辞典と名乗るならば、収録されている言葉の索引を末尾にでも加えよ。同様にその言葉の標準語を並べよ。標準語と同じ表現をする言葉は記述する必要がなく、収録された方言に対応する標準語だけで済むのだから大した手間ではあるまい。

 ただの小文であれば余程内容が面白くない限り一度読んで終わりだ。しかし索引があれば辞書として機能するから使用率も寿命も必ず延びる。索引を作る手間を省いて辞典を名乗るという姑息な手段に対して抱くのは、方言辞典全般への不信感だ。




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