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歴史小説

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「どうして本の廃れた今の時代に読むのだろう?」

「廃れた時代だからこそ読むのさ」

読むこと 03/01/11

 翻訳ミステリをわりとよく読む。本来であれば原書で読んで作者の息遣いをそのまま感じたいと思っているが、ペイパバックはなかなか売っていないし、たまに買っても結局日本語訳と突き合わせて読むので楽しむと言うには程遠い。しかも年に二冊ほど買うペイパバックはどうしてもミステリになってしまう。これは翻訳でさえ知っている作家しか買わないこととペイパバックが並んでいる棚には大抵官能小説が混じっているからというのが大きな理由だ。中身を確認しなくとも表紙で必ずそれと知れる。聞いたことがない作家で表紙が光文社文庫の如き絵であればまず間違いない。官能小説は何を読んでも書いてあることが同じであるし、それをわざわざ英語で舐めるように読むのも気が引ける。そもそも官能英語を覚えてもまず役には立たないし、悲しい事に役立てる機会もない。

 そのエロペイパバックの中によく見ると見た名前が混じっていることがある。むろん古本屋の話だ。R・ヘンリックは除外してたまにマイケル・クライトンがあったりトム・クランシーがあったりする。いい加減翻訳でさえ読み飽きた筈の作家がペイパバックで並んでいればつい手に取り、いじくりまわして買うべきか買ったとしても読むかどうかを考えつつ、翻訳を読んだ時に意味の判らなかった箇所を探して原文を掻き分ける。例え探し出しても結局英語そのものが判らないものだから無駄な行為ではあるが、買うかどうかの決断をただ先延ばしにする行為として止められない儀式となっている。

 ペイパバックを一冊読むのに途切れ途切れに一ヶ月はかかる。どうしても判りやすい本から手をつけてしまうのであって、長時間電車に乗ることが予め決定している場合にそれ以外の本を持たずに行けば活字中毒者として読まざるを得ないことになる。難行をしているわけではないが、そうでもしないと読む機会がないのだ。

 電車の中で横文字を一心不乱に追っていると覗き込んでくる人が居る。まず表紙を覗き、本文を覗き、最後にこちらの顔を覗き込む。こうなると気になって集中力は遥か彼方、視界が縞馬のように拡がって周りの人が皆こちらを見ている錯角に襲われる。そうなると幾ら文章を眺めても頭には入ってこないのであって、後はいかに「読んで理解している」ふうを装うかに全力を注ぐことになる。まず、視線は文章に沿って一定の間隔で左から右に往復する。時折何ページか戻って何かを確認している振りをする。その過程でごく稀に落ち着きを取り戻して再び没入出来ることもある。しかし、「おまえにこれが読めるのか?ん?」といった態度をあからさまに出されると気になってしょうがないし、何より腹が立つ。

 手前は電車の中で漫画を読んでいる人を軽蔑したりはしない。しかし活字を読んでいる人間を興味深気に露骨に眺めている人を見ればどうしても情けないと感じてしまうのだ。

 貴様は文盲ではないだろ?読んでいるものが日本語であれ英語であれその世界に浸っている人間の縄張りに踏み込むことは、たとえそれが公共の場所であろうと失礼なことになるのだよ。


欧米の文章・聖書の影響 03/02/01

 ジョン・ぺリィ・バアロウのサイバースペース独立宣言を自ら翻訳してみて改めてわかったことがある。

 「聖書の影響」西欧の文章はこれなくしては成立しないのではないかと思っていたが、果たしてその通りであった。

 まず最初の「flesh and steel」からしてもじりだし、何より最も重要なところで「Golden rule」が使われていたのだ。

 「flesh and steel」は直訳すれば「肉と鉄」であるが、まずfleshを斉藤英和で調べてみるとこうある。

>(骨,皮に對して)肉。(より)果肉。(又)肥満。

 そしてsteelはこうある。

>【名】鋼、鋼鐵。(より)刀劍。【形】鋼製の、鋼の樣な。堅い、無感覺な。

 これでは「肉と鉄」と訳すのは気が引けるので、「肥満」と「無感覚」を採用して少し飾りを付け、バアロウが聖書からのもじりに冷笑を込めたと思しきところをそう日本語にしてみた。

 ところが手前に聖書の知識がほとんどないので、いったいどういう裏の意味が込められているのか全然わからないところだけであることに、ふたつめのパラグラフで早くも気付いた。

 そして今までに聖書を原文で読んだことがないため、引用やもじりを平然と素通りしていることへの情けなさが間断なく襲ってきて、ついでに今までに読んだミステリをはじめとする翻訳もの全般で一体どれほどの素通りがあったのかに想いを馳せ、溜息すらつけずただ茫然としていた。

 あらゆる束縛から逃れてサイバースペースの独立を謳い上げるバアロウの宣言文でさえ、聖書の影響が端々に顕われていて、しかも日本語訳の聖書さえ読んだことがなく、クリスチャンでもない手前がそれに気付くほどであるから、欧米では聖書が「確固とした価値観として或る」ことをまず前提として受け入れなければ、例えば我々は映画の中の気の利いた台詞などを本当に理解して笑うことなど到底不可能であることにいまさらながら思達するのだ。


文庫 03/04/04

 新刊書店で「今月の文庫」と題する一覧表を見たことがあるだろうか。

 例えばある月に発行される文庫の題名、刊行元、著者、発売日の一覧が並んでいる。刊行元別にブロックが作られ、その中で日付順に並んでいる。出版者によっては文庫のタイトルがいろいろあり、専門外の分野のものは大抵飛ばすのだが、中には佐々木譲のような冒険小説の旗手が講談社コバルト文庫から少女向けのものを出していたりする時があるので油断は出来ない。

 店内の一角に張られている場合は少ないのだが、もしあれば実に有益な情報源となる。もともと文庫とは単行本で出版されたうちの後に残す価値のあるものを廉価で提供するという大義妙分があったわけだが、今では文庫書き下ろしがあったり単行本が絶望的に売れなくなってきたりして、古本屋の繁盛とも合わせ、新刊文庫は見つけたらその場で買ってしまわねば、後は古本屋で捜すしかなくなる。

 次々と新刊を出さなければ書店は棚に並べないし、売れないものはどんどん返品されるし、返品された後の隙間を他社に取られるよりは何とか自社の新刊文庫を押し込もうとするから異常に回転が速くなる。極端に売れるものはいつまでも棚にあるが、特定の作家を追い掛けている場合、そしてその新刊が余り売れておらず増版のなかった場合、あっさり姿を消す。この姿を消したものを古本屋で捜すことになるわけだが、その存在を知っているのと知らないのとではやはり発見率が違う。探し物がわかっていれば、ある程度意識しているのでその作家が並んでいる辺りでは注意深くなるからだ。

 いくら「今月の文庫」と張ってあっても特別大きな書店以外その全てが並んでいることはなく、むしろ全然仕入れていない小さな書店が客寄せの為に張っていることもある。それを見るのはごく限られた「活字中毒者」なる人種で、彼らはもう完全に病気だ。これを見ると、追い掛けている作家の新刊をリストにし、新刊ですぐ買う価値のある作家か、並んでいるのを見てもどうせ増刷されるだろうからある程度見逃すか、古本屋に出回るのを待ってそれを捜すか、の判断を迫られる。毎月四・五冊は読みたいと思う本が出るからだ。古本屋で捜すとき、売れていない本の場合更に困難になる。困難になるから、予め新刊情報を「古本屋で捜す為に」点検しなければならないこの捻れがどうにも情けない。

クィネル 03/04/11

 一度国外の小説を十作選んでみたが失態を犯してしまった。実に大切な小説家を漏らしてしまったのだ。

 A・J・クィネル

 覆面作家として本名どころか国籍さえわからない謎の小説家で、何故彼を忘れていたのか熟不思議に感じる。二・三年前日本に来てサイン会を行ったことがあるらしいのだが、まるで情報が伝わってこなかった。

 冒険小説の名匠であり、外れがないことは保証する。もともと辿り着いたのは沢木耕太郎のエッセイの中で、パーカーの「初秋」が日本で翻訳出版されて大絶賛を浴びていた頃に、同時期に出版されたクィネルの「燃える男」の評価が低いことに言及していたのを見て頭のどこかに引っ掛かっていた。好みの小説家が推薦する小説家はほぼ間違いなく当たりなので、ある時見つけて読んでみると、物凄い迫力に圧倒されて以降、翻訳物の冒険小説に対する評価のハードルが跳ね上がってしまった。

 冒険小説の形をとる上で危険な状況を設定しなければならず、当然その為の取材が危険を極め、本名で発表するには差し支えがあったりするので、以降の取材をやり易くするべく覆面作家として、傑作を次々送りだしてきた。

 その第一作「燃える男」はマフィアと戦う傭兵が主人公であり、覆面の理由も納得出来る。物語は酒浸りの元傭兵が誘拐対策のボディガードを引き受け、にも関わらず誘拐されてしまい、犯人と真犯人を追い詰め、それでも止まらずマフィアに単身闘いを挑むという、粗筋だけでは荒唐無稽勧善懲悪ハリウッド流のよくあるB級映画かと確実に勘違いするもので、おそらくこれが敬遠されたのだろうと思う。しかし、読みはじめると絶対に途中で止められない。

 たった一人でマフィアを撲滅しようと戦うか?読んでいてリアリティの欠如に投げ出してしまわないか?粗筋だけではそう思うのも無理はない。ところが読み終えたら不思議に「さすがに無理とは思うがこの感動この痺れこの虚脱感は何だ」と放心状態に陥るはずだ。しょっちゅう古本屋に行くのだが、よく並んでいる作家は売れ過ぎてだぶついているか、面白くなくて売り払われたかのどちらかであるから、名前を目にする度に段々覚えて馴染みにもなるが、本当に面白い小説は古本屋ではなかなかぶつからない。真に面白い小説は、ずっと持っていて繰り返し読むか貸すかのどちらかである故に、古本屋とは縁が薄いのだ。だからクィネルのことをすっかり忘れていた。

「燃える男」は何回読んだか数える気もしなくなるくらい夢中になった。本当に面白くて嵌る本は何度読んでも飽きないもので、一度読んで終わりというものは、本格推理を除いて大抵つまらないものだ。再読に耐え得るものを繰り返し読むうち、自然に読み手としての意識が上がるのだ。

 当初クィネルは一作毎に主人公も設定も変えていた。

 「血の絆」「サン・カルロの対決」「スナップ・ショット」「メッカを撃て」「ヴァチカンからの暗殺者」「イローナの四人の父親」今手元になくてもすぐに思い浮かぶ。謀略系の冒険小説なので正体探しで一時期フォーサイス説もあったが、不粋なことは止めようという暗黙の了解により、爆発的な流行になることなく一部の本好きだけが知っている貴重な外れなし作家として潜行することになる。

 第一作「燃える男」の主人公であった元傭兵クリーシィが連続して主人公に起用されるようになったのは、余りにも「燃える男」の評価が高かったからであろう。「パーフェクト・キル」「ブルー・リング」「ブラック・ホーン」「地獄からのメッセージ」と作を重ねる毎に仲間が増え、強過ぎる主人公にぶつける悪役を設定するのに苦労するようになる。

 このクィネルという作家、完璧なハッピーエンドで終わらない癖が英国人的な雰囲気を漂わせていて、読後感が抜群なので何度でも読んでしまう。全作の共通項は強いて挙げるならば「復讐」であり、その過程の綿密な書込みが全てを忘れさせ没入してしまう原因だ。「燃える男」のマフィアに単身闘いを挑む動機、心の底からやりきれない思いがこみ上げるまでの引き付け方は上手いとしか言い様がない。

 抑えられた会話のやりとりと皮肉も英国人気質を指しているように思える。しかし内容に極力触れないように紹介するのは骨が折れる。クリーシィの性格が寡黙という設定なので無駄な会話がなく、無知な脇役に説明する場面も無理がない。

 クリーシィのシリーズ以外では「ヴァチカンからの暗殺者」が一頭地抜いている。クレイグ・トーマスの「ファイア・フォックス」に通ずる道行に暗殺者と修道女の組み合わせ。

 先の来日で明らかになったのは、1940年にローデシア(現ジンバブエ)生まれ、アフリカ育ち。イギリスで教育を受けた後、貿易商として世界中を渡り歩く。その後作家活動に専心。現在地中海のゴゾ島で執筆を続けていること。

 アフリカ、ローデシアの記述が多く、地中海マルタに詳しく、密貿易をテーマに選んでいることはこれで納得出来る。ゴッツォ島を療養基地に描いていることと、母語が英語でイタリア語を友人から修得したあたりのクリーシィの性格は多分に作者が投影されているのではないかと思っていたが、それは当たっていた。元傭兵にしては文章力があり過ぎるので、とは言っても訳者の大熊栄に負うところも大きいが、おそらく高名な作家かジャーナリストだという予測は見事に外され、貿易商であったことに驚愕する。

 クリーシィのシリーズが人気を呼び、やがてマンネリに陥りかけたと見るや主人公を変え「トレイル・オブ・ディアス」「地獄の静かな夜」を出す。特に「地獄の静かな夜」これはタイトルをどうにかせいとも思うが、初の短編集である。しかし評価はあまり高くない。重厚な冒険小説の巨匠というイメージがあるせいか、どうしても色物に見えてしまうのが悲しい。

 沢木耕太郎を読まなければクィネルには辿り着かなかった。内藤陳を読まなければ沢木耕太郎には辿り着けなかった。景山民夫を読まなければ内藤陳には辿り着けなかった。偶然読んだ景山民夫からクィネルに行き着くまで遠回りをしたようにも感じるが、濫読期のことで、およそ半年の間に手繰ってクィネルを読んで以降、推理小説より冒険小説に移行していった頃が懐かしい。

新書 03/05/03

 新潮まで新書を出しやがった。

 新書というのは普通の分厚い単行本より安く、文庫本より少し知的に思えるらしい縦長のソフト本、ペイパーバックだと素直に認めないものだから騙される人が多い。もともと岩波と中公、講談社の三社が先行していた新書分野にちくまも突っ込み集英社が突っ込む宝島が突っ込むわけのわからんところが次々新書を創刊してついに我慢が出来なくなった新潮も参戦。

 新書のメリットとは「版形が決まっている」「表紙も統一されている」「安く印刷できる」「すぐ印刷できる」「新聞や週刊誌より掘り下げることが出来る」「文庫本より高級感がある」「刊行元楽儲け」ぐらいだろうか。

 その結果古本屋で100円棚に腐るほど並ぶことになる。完全に読者無視の蛮勇と言える。

 専門家であれば無名でも形になり、早く安く印刷が出来るので当たれば儲けは半端ではない。岩波のように出すものを厳選していれば長く売れるだろうが、どうでもいいもの、焼き直し、盗作寸前のものを次々出すのは止めてくれないか。

 書き下ろしだからといって簡単に書けるからといって簡単に出しているようでは、読者は簡単に飽きるのだ。

 たまに資料として残しておきたい物があったりするから完全に新書を無視するわけにもいかず、かと言っていつも文庫でやるように端から端まで点検する気力もない。知らない著者が殆どであるから著者をざっと横に流し見しても読む作家のものを見つけることはまずない。従って新書に限りタイトルを見ることになるが、これがまたつらい作業だ。馬鹿馬鹿しいと言ってもよい。

 元々新書の狙いは主にビジネスマンであったから硬く見えるタイトルが多いし、その割には中身がないし、しかし奇跡に近い当たりもあるしで腹立たしい事この上ない。

 千円以下で売ることが新書の生命線であるし、最近文庫本でも平気で600円700円のものがあるから中身が詰まっていればよいし、でもやっぱり大した内容がないし、ということで古本屋にどこまでも並ぶ新書にうんざりする。古本屋に並ぶのは「読まない」「面白くない」「役に立たない」「邪魔」「借りてる本やけどまええわ売ったれ」という滓の墓場であり、しかも同じ本が延々並んでいる。姑息な店は同じ本は離して差していることもあるが、あれはさらに怒りを増幅させるだけだ。大体棚をずっと流し見して上下巻が離れていたら並べ直すし同じ著者のものが飛び飛びにあったらつい整理してしまう活字中毒者の悲しき習性により、並べ替え始めるときりがない。

 その習性が新書に対して発揮されると、もう新書全体が信じられなくなる。新潮が新書を出した?さいですか。楽に儲けたいのね。別にええけどね。新書出すくらいなら絶版を復刻してほしいもんやね。新書?書き手と作り手と売り手だけが喜ぶ本など出しているとそのうち読み手に捨てられてしまうぞ。

 ノベルズと違って、折角硬い本を出す場としての新書なのに、タイトルだけが硬いとはどういうわけだね。

参考文献 03/05/30

 何か今まで接点のなかったテーマについての本を詠まなければならない時、そしてそのテーマについての本が余りにも多くてまずどの本を読めばいいのか判らなくて途方に暮れた経験はないだろうか。

 活字中毒者からすれば、それは誰しもぶつかる壁であるが、やがてそれなりのやり方を編み出す。自分で編み出したと思っても皆同じ事をしているからこの方法は主流なのだと知る。ではどんな方法か。あまり活字に慣れておらず、しかし集中して調べるべきテーマがあり、数多くある似た本の中から何を読むべきか、読むべき本をどうやって選ぶのか、悩む時にはこれを実践するよろし。

 まずは、どれでもいいから一冊手に取ってみて最後のほうにある後書と奥付の間にひっそりと細かい字で並んでいる参考文献一覧を見るのだ。普段絶対に素通りするであろうこのページを活用するのはこの時しかない。著者・題名・出版社すべてしっかり読む。見るだけでは駄目だ。頭の中で声を出して読む。並んでいるもの全て読む。全て読んだら本文など一瞥すらせずに著者など確認せずに次の本の参考文献ページを読む。お判りだろう。こうして何冊もの参考文献ページを読んでいると、ほぼ同じテーマの本であるなら当然参考文献として頻出する本がある。必ずある。皆まずこれを読んだという本が、次第に炙り出されるのだ。

 手に取って見たその本に参考文献ページがない場合、盗作盗用で裁判寸前であるか、訴えるには及ばない程の滓本であるか、信じられないほどの独創的なものであるか、単に面倒だったかの可能性がある。いずれにしてもその分野に踏み込む際の第一歩として相応しくないことだけは確かだ。

 参考文献として出てきた本を全て記録して正の字でも書けば完璧であるが通常そこまでしなくとも頭の中で声を出してしっかり読めばやがて「あっ。さっき出てた」と反応する。この反応が多ければ多い程、よく参考にされている書であるし、おそらくその分野で最も頼りにされている本であろうから、まずそれを読もう、と決意した頃には著者も題名も出版社も既に覚えてしまっている。実に合理的な方法だ。

 その分野における先駆的存在、或いは入門書的存在、又は誰もが認める力作、良書などがごく自然に浮かび上がってくるから、最初にそれを読めばよいだけなのだが、当然この方法にも罠がある。

 この選び出された信頼すべき本を探して読めばいいだけであっても、その本が見つからないこともある。それだけ影響を与えたほどの本ならばいくらも出回っていようし、まさか絶はないだろうと思ったら、果たして絶版になっていたりする。素晴らしい内容であっても売れなければ簡単に絶版となるのでここに「どうなっとんねん出版業界!」という怒りが発生する。活字中毒者からすれば「うん。怒ってくれるのは嬉しいけどもう諦めてんねん。せいぜい古本屋かネットやな。読みたい本見つけたらいつでも迷わず買ったほうがええよ」としか言えない。/

 また、偶々そのテーマの亜種、微妙にずれたいわゆるトンデモ本の参考文献ばかり集中して読んでしまった場合、これは悲劇だ。トンデモ本とはノストラダムスなど一連のオカルト系突込所満載の屑本のことであるが、そういう本の参考文献をいろいろ組み合わせてみても、ああいう本はテーマは似ていても完全に別の流れの中にあるので、炙り出されるのはトンデモ本の作者が一致して認める先駆的滓本、或いは入門書的滓本、又は誰もが認める力作的滓本などだ。その滓本中の滓本による衝撃力は計り知れず、しばらく立ち直れないこともある。

 あるいは、殆どの本に参考文献として挙げられているものを必死で探していざ見ると、やたらと分厚いただの資料書だったこともある。

 そして参考文献として挙げられるものは専門書が多いから、まるで知らない著者だらけなのが普通であるが、たまに読んだことのある本、知っている名前があると不思議に嬉しい。

 そういう経験を繰り返して活字に慣れると、この参考文書の回路もなかなか楽しい。まあ、「その他新聞雑誌などを参考にしました」で片付けられている場合、情報源は辿りようがないが、その道で最も認められている本を迷わず抽出でき、その分野を俯瞰した優れた書に出会うのみならず、「へっへ。こんな本まで読んでるもんね」という著者の微かな突っ張りが垣間見えることもあり、それが興味をそそられる題名であれば、読んでみたく思っても「品切です」「絶版です」悔しくて負けた気になるからどこかで見つけたら意地でも読んだる、と考えたりする。しかし知らない著者であり、内容に惹かれたわけでもなく、題名のみで追いかけるのは少々無理がある。古本屋でも図書館でも探すときにはどうしても後回しになってしまうのだ。それより先に読みたい本がいくらでもあるからだ。

落丁乱丁 03/06/30

 本の奥付には「落丁乱丁は送料こっち持ちで交換しまっせ」と書いてあるが、これをそのまま信じて落丁乱丁を送って新しい完璧な本を貰うのは止したほうがいい。

 もちろん丁寧な謝罪の手紙と共に完璧な新品の物が送られてはくるが、違うのだ。よく考えてみたまえ。その落丁乱丁本は、普通なら一般には出回ることのない筈のものだ。つまり、貴重なものだ。つまりマニアがいるのだ。つまりプレミアがつくのだ。場合によっては著者のサイン入りより高い値がつくこともあるらしい。

 手前は落丁乱丁本を集めているわけではないし、今までも文庫単行本に限るならばぶつかったのは十冊もない。それでも古本屋によく通っていると店主と会話を交わす機会もあり、そこで落丁乱丁マニアの世界の噂を聞いた。

 落丁乱丁本、通常古本屋には滅多に入ってはこないが、マニアはそういう本を内容問わずに探しているらしい。古本屋に入って一冊毎に点検するなど不可能であるから、買い取って店頭に並べる前にぱらぱら見たであろう店主にまず聞くのだという。「落丁乱丁本ありませんか」ありますかではなくありませんかと問うあたり、実に屈折しているようだが、ほぼそれが決まった台詞であるという。

 落丁乱丁とは、「ページの欠落」「ページの天地混乱綴込」「裁断漏れで袋になったまま」「内に折れ込んで裁断して広げてみたらページ角がイカの頭みたいになる」などであって、こういう本を集めたくなる気持ちはわかるが、古本屋巡りは効率が悪かろう。出版社勤めの人に渡りをつけたほうが早いと思う。

 「ページの欠落」はぼろぼろになって抜け落ちたものではなくて、当然最初から抜けて製本されてしまったものに限られる。「ページの角がイカの頭」は新聞や雑誌などの寿命が短い印刷物にはよくあるが、文庫単行本では割とこまめに点検するのでそうそうあるものではない。ちなみにこの「イカの頭」は「福紙」「恵比須紙」と呼ばれている。これはマニアの言葉ではなくて出版業界の用語である。

 製本の失敗で本として失格であるものが地下で流通していることを知れば、天地混乱本、袋綴られ本、福紙本などを今までと違った目で見るようになる。これらは出版社の責任ではなく、印刷所、製本の際のミスが殆どであるから出版社を詰ってもどうにもならない。しかし落丁乱丁マニアはもしかすると「どこの印刷所が雑な仕事をしているか」を、出版社よりも、内情を隠す印刷所よりも把握しているのかもしれない。なんとなく愉快ではないか。

 一度会って話を聞いてみたいものだ。どのようなコレクションがあるのかも見てみたい。

タイトル 03/07/28

 そして図書館で膨大な本の波に溺れていると、これから先一体何冊の本を読み、何回魂抜けがあるのか想像もつかず、ただ押し寄せてくる本本本また本本本に気が遠くなる。どのみち一つの図書館でさえすべての本を読むなど不可能であるから、好みの書き手とその推薦するものだけを追いかけているだけでも既に未読の物が多い。思わず呆けて棚にずらりと並んだ奴らを見て読みもしない筈なのに何となくタイトルを眺めることになる。

 普通のタイトルなら確実に視線が通過しているであろう本の中につい気になるものもある。中にはウケ狙いだけで勝負をかけている本もある。

「君の席はそこではない!」岩下宣子監修 リヨン社

 「リヨン社」てどないやねんと思って奥付を見ると「発行」で、発売は二見書房であった。裏表紙に椅子が一脚書かれてあり、その絵の下に「ここに座れば大丈夫!」とある。かなり砕けた内容であろうと見てみると、本文を見てのけぞった。ごく普通のマナー本である。これだけ遊び心溢れるカバーデザインに対して実に手堅く真剣な役立つ本である。この本のカバーデザインは秀逸だ。ものの見事に騙されたわけだが、「期待以上」という裏切られ方は決して不愉快ではない。

「その表示・キャンペーンは違反です」川越憲治 日本経済新聞社

 各ページにイラストがあってわかりやすいようだが、読む気力がない。朝から六冊読んでもう疲れている。

「買ってみた。」Hpブックス編集部 ホームページブックス

 何をや。何を買ったんや。オカルトグッズ。ありますね、近代麻雀の裏表紙などに「幸運を招く石」とか「媚薬」とか。ああいう怪しいグッズを買ってみたルポである。その表示は違反だろ、と思わず繋がってしまったりする。

「片付かない!見つからない!間に合わない!」リニ・ワイス WAVE出版 ニキ・リンコ訳

 何も言うまい。著作権を厳しく管理しているならば、何も言えない。

「トロと象牙」NHK取材班 NHK出版

 トロと象牙がどう繋がるのか。象の名が「トロ」で何か危険が迫っているのか。違った。「ワシントン条約」「京都会議」を軸に日本いじめの実態を書いているらしい。

「ブーメランはなぜ戻ってくるのか」西山豊 文藝春秋

 確かにそれはとても知りたい。

「大丈夫や!きっと、うまくいく」尾関宗園 KKベストセラーズ

 このタイトルにもかなりの冒険心が感じられる。著者の肩に小さく「京都大徳寺大仙院住職」とあり、仏教生き方系の内容だと推察される。ちらと見るとやはり説話である。文体については何も言うまい。

「桃太郎の運命」鳥越信 NHKブックス

 気になるではないか、桃太郎の運命。しかし目次を見てやや怯む。例えば三章、「プロレタリア児童文学の功罪」「階級的視点への傾斜」「ウンコまみれの桃太郎」「プロレタリアートの国際的連帯」「価値観の転換」何かとてつもない世界が拡がっている気がして、丁寧に棚に戻す。

 知らない著者ならば、著者の名は見ても意味がないからタイトルに目を走らせることになるが、それが苦痛の時もあり、快楽の時もある。本日は、時間とネタに追われていたので、ただの苦痛であった。しかし「君の席」「買ってみた」「ブーメラン」は拾い物であった。次は読もう。

速読 03/08/11

 速読法というものがあるが、あれは残念ながら日本語では意味がないのだ。

 ロマン語の特性上、パラグラフが一行空きで構成され、しかも各パラグラフの最初に要点や結論を述べて後段を説明に費やす形であるが故に、パラグラフの頭数行を読めば論旨や流れが掴める仕組みになっているからこそ、速読が発達したわけだが、間に長い修飾節を挟んでおいて、最後に述語が来、しかも打ち消したりするような日本語に、速読法なるたわけた妖術が通じるものか。おまけに日本語は口語だけでなく、文語に於いても容赦なく主語を省くものだから速読で理解など出来よう筈はない。文中の目ぼしい単語を幾つか拾って繋ぐなどというやり方は、ひところ騒がれた超訳よりも性質が悪い。

「数分で本が読めます」

 読んだ内には入らないし、読み手とは認めない。流れだけを知りたければ粗筋を読めば満足だろうに。文章を書くものは、それが短文だろうと長文だろうと「これが言いたい」とする一文を、一節をなるべくそれとは判らないようどこかに埋め込んでいるものだ。速読などでそれを見つけることなど到底不可能ではないか。無理矢理そこを浮き上がらせようとして醜態を晒した悲惨な文章も多いのだが、一回読んだだけでそれとは判らず、何度も丹念に読み返しているうちに「おおこれか」と判る仕掛けになっている文章は、再読の度に深みを増す名文と言えるし、それが読書の楽しみでもあるのだから、文章をリズムを言葉を味わうことの出来ない者に、それをしようとしない者に「読んだ」と宣する資格などない。

 言葉の前後を入れ替えて、リズムを整え、表現をなるべく重ねずに、平仮名が続けば漢字を挟み、漢字が続けば平仮名を挟み、時にはそれぞれの対極を試し、文章そのものに力を持たせ、言いたいことを奥の奥の奥に隠して再読に耐え得る文章を生もうと苦悶する者にとって、「速読」とは、提灯を見て鮟鱇とは思いもしない雑魚以下のすることなのだ。

 確かに下らない文章ばかりに接していると、知らずに斜め読みしていることがある。それは速読と同じことだ。斜め読みする癖が付いてしまったのは、ラジオドラマのシナリオ以下のどこまでも会話だけで話が進む大家とされている人の時代小説と、とりあえず書き出してみてあとからトリックを考えるという化物のような発行点数と内容の無さを誇る人の書く推理小説を読んでいた時期で、その後すぐに翻訳物に走って助かったが、その頃読書が苦痛になっていたことは、勿論読む本が面白くなかったからでもあるが、何よりも斜め読みでは「読む」という行為自体が楽しくなかったからだ。筋を追うだけならばいっそのこと、白痴になってテレビでも眺めておればよい。速読よりも楽だろう。

 何故本を読むのか。「その答えが知りたくて読んでいる」と韜晦していた時期もあったが、今は言える。面白くて心奮わせる文章を求めているのだと。

 「速読でまず面白そうかどうか確かめる」ことは、「本の読み方を知りません」と白状しているだけだ。本の楽しみ方はいくらでもあるが、速読だけは楽しみとは言えない。速読の癖を一旦身に付けてしまうと単調な場面ですぐ読み飛ばすようになる。退屈な場面を耐えてこそ盛り上がる場面に引き込まれもするし、その喜びに身を委ねることが出来るのだ。退屈が無ければ喜びを判断など出来はしない。

 速読で心震わせたことがあるか。速読で止まらない涙に戸惑ったことがあるか。速読で全身が痺れて動けなくなったことがあるか。

 論文・資料・報告書を読む際ならともかく、小説を速読するような奴には本を読む権利などありはしない。そしてその権利は、速読しない者すべてにある。


尺度 03/08/14

 背広作法で伊丹十三が出てきてやっと気付いたのは、作法シリーズが伊丹十三の影響を相当受けていることだった。

 真顔で与太を飛ばしてどこまでが本当のことか判らない文章は景山民夫の影響だとばかり思っていた。しかし、作法シリーズを読み返して頑固にも感じ、時として不愉快な思いもするのは、読んでいる自分の間抜けさ加減に不愉快を感じているに過ぎない文章の伊丹十三が自分の中に根を下ろしているのであって、それを知ったことは新たなる発見であった。

 伊丹十三はその考え方が輝いているのだが、文章としてはその韜晦具合よりも景山民夫のどたばた具合の方が好みなので、しかし景山民夫の源流は小林信彦と筒井康隆とベンチリィであるからこちらの読んでいる物に間違いはないと考える反面、もっと新しい小説も読まねばと反省するのだが、どうにも流行りの小説は読む気がしないのであって、それでも売れ筋の動向は情報として仕入れているものの、漫画、宗教本、気色悪い励ましの本が上位を占めていることはやりきれない気分に襲われる。その中に混じっている小説は、本来であれば健闘しているいい物なのではないかと思わねばならないのに、前後の本が内容はともかく売れているものであるから、それに挟まれていると光ることはなく、引き摺られるまま「内容はともかく売れている小説なのか」としか考えないのは、我ながら悲しい。

 しかしながら売り上げの上位に顔を出す小説とは、新人や大家を除くと面白いとは限らない。むしろ何故これがと思うことが少なくない。その理由は、ペストセラーとロングセラーの線をはっきり引いていないからであり、後者の方が数段も格上であることは自明の理であるから、ベストセラーをもって素晴らしいと褒め称えるのは余りにも恥ずかしい。長く売れてこそ世代時代を超えても受け入れられるものであることから、古くても残って売れ続けている本を読む方が当たりの確率は高い。古本屋に並ばないものなら本物であろうが、もし本物であれば長く売れるだろうから売れていて評判の本に飛びつく必要はない。後になって残っていればそこでようやく読めばいい。従って手前に話題の本を読んだかどうか感想はどうかと尋ねるのはまるで無駄なこと。

 アホみたいに売れている本というのは、普段本を読まない層が色々の仕掛けに騙されて購入するからであって、読まない人が一回読んで納得理解してしまえるような薄い内容のものを、普段本を読む層が満足など出来よう筈がない。普段本を読む層にあっては一般的なベストセラーランキングとは別の、読書人向けのランキングを参考にしており、宗教本、自己啓発本など影もなく信頼度抜群のものであるが、そこに辿り着けるのは普段から本を読む者に限られる。

 閉鎖的な活字中毒者村の面々が意味のないランキングに対して創り上げた安心出来る尺度は、壊せるものではなく、実に有用な情報源であるのだが、その深みを知らない者は「本が好きだなんて全然読んでないじゃん」

 そう言われるとそんな気もしてくるのだが、新刊本で読むのはとことん惚れ込んだ作家か、とことん惚れ込んだ作家が褒めているものに限られる。何を読んで何を読まないか、読み手を試す本を読んだかどうか、それをどう読んだか。読書傾向で人を判断出来てしまう怖さを知ると、浅いだけの書評など書けなくなるし、ただの感想文など以ての外、結果として内藤陳スタイルに落ち着く。


不審 03/10/26

 不審尋問された。

 よくあることだから何の感興も沸かずに言われる通り住所変更をしていない免許証を平然と出したが、手前が手に持っている紙袋の方が気になるらしい。これが目当てだったか。仕事は?と聞かれて、面倒だからいつものように学生ですと答えておいた。通常ならばそれで次に何処へ行くのか尋ねる筈だが紙袋を見据えている。これの中身が見たいのか。可哀想に。確かに今は少々怪しい格好と髪型をしているが、人を外見で判断してはいけないのだよ。

 「それ何入ってるの?」

 来たか。ごめんね。大幅に期待を裏切る事になるけど怒らないでね。

 「どうぞ。見ていいですよ」

 まず何処に行くのか尋ねるべきだったと思うんだ。そしたらある程度は覚悟が出来ていたと思うんだ。図書館と答えた筈だからね。こちらから行き先言えば怪しいもんね。不意打ちになってしまってごめんね。「本?」そう、本なんだよ。タイトルは見ない方がよいと思うよ。外見との格差に眩暈しても知らないよ。嗚呼、やはり最も大判な本から出してしまったね。

「アイヌ語入門」

 ごめん。アイヌは昔から興味があって色々文献集めているんだ。「へえ・・・アイヌ語・・・難しい?」日本語と兄弟関係にある言葉だからね、それほどややこしいわけではないよ。ずっと文字がなかった言語だから表記の統一に苦労しているけどね。「ま、難しいです」ああ、次の本出すんだね。駄目だよ。

「賛美歌21」

 ごめん。賛美歌の原題一覧を資料に欲しくて古本で買ったものなんだ。二千円を五百円だったから掘出物なんだよね。宗教には興味がないけど宗教ペースの翻訳物にはやはり必要だからね。「賛美歌・・・歌うの?」そう、確かに時期もまずいよね。でもこれタイトルだけは原題揃ってるけど歌詞は全て無理矢理わけのわからん日本語に翻訳されてるから無理よね。「ま、ちょっと練習で」この警官の頭の中で手前はどういう人になっているんだろうかね。あ。まだ出すの?全部見たいの?

「第三の波」

 ごめん。それ今読んでるところだから。あ。感想ないな?確かにこんな格好の奴が読むような本ではないけどな、人を外見で判断したらいかんのよ。もう一冊あるけど見るのね結局。無言なのね。意地なのね。

「複雑系」

 それも平行して読みかけなんよ。わりに堅めの本ばっかり持ってる時やったから残念やったね。カオスと複雑系と第三の波は読む順番間違えてしまったけど今取り戻そうとしているんだ。文系なんだけど。正確に言うと過去形なんだけど。これ以上ややこしくしてあげない優しさは多分永遠に理解して貰えないんだろうね。「・・・難しいこと勉強してるね。専攻は?」はうあ。えい適当に。「社会学部です」そんなもん行った大学には存在せんかったけどな。お。完全に興味失っとるね。この沈黙は飽きてしまったことを示しとるね。どう締めようか迷っとるね。もう本はないよ。それはアイヌ資料のコピー約三十枚なんだな。それは手帳の形したメモなんだな。それはそれはさっき買った種無しプルーンなんだな。それはさっき買った煮干なんだな。煮干見ながら「・・・何年生?就職活動してる?」「いぇ、留年しまして」慣れるんだよね。不審尋問はね。「そう。親に心配かけないようにがんばれよ」「ぁぃ」

 アイヌ、賛美歌、第三の波。この組み合わせを後から考えると、見る人が見たら実は思想的に危険極まりない組み合わせであったが、そこまでの知識はないらしくて助かった。特別悪い事はしていないつもりだが、特別良い事をしているわけでもないから、紙袋はやめようと思った。

だらだら 03/10/28

 本を読む、つまり何らかの活字を追うという行為は日常の一部であって、特別に「何かをしている」という意識はない。読書とはあまりにも当然の行為なので、何かをしているうちには入らないのだ。

 だから例えば電話があって「今何してた?」と言われても本を読んでいたなら「別に何もしてへんけど」と答えることになる。これが不思議に思われるらしい。「本を読むこと」が特別なことと認知している人から見れば、「立派に本を読んでいる」ことになる。しかし、活字中毒者からしてみれば読書を言わば呼吸と同じぐらい自然な事として捉えているのであって、読書は「何かをしている」うちには入らず、むしろ「爪を切る」「リモコンの溝を爪楊枝で穿る」の方が「何かをしていた」と言える。「寝ていた」も胸を張って言える。

 例えば電話に出た時、テレビを見ていた人は何してたと訊かれて律儀に「テレビ見てた」と答える人と、「別に。ぼぉとしてた」と答える人がいるだろう。もしそれがとても面白い内容ならば多少の焦りが滲むかもしれないが、それは録画していない為に一過性のメディアとして二度と受け取ることの不可能な情報であることを無意識に理解しているからに他ならない。読書の場合、のめり込んでいて邪魔をされたと感じる場合があっても、そのまま続きが待っていてくれるからそれほどの焦りはない。

 紙活字はこの先どうなるのだろうかと考えてみることもある。現在の紙活字の流れは凡そ「連載 → 単行本 → 文庫本 → 豪華本」の流れであるが、これが電網への比重を移した後にはどうなるか。「有料連載 → 有料一括ダウンロード → 紙の本」となる可能性はどうだろうか。

 何かを読むことが何にどう繋がるのか、はっきりとは言えない。しかし何かを読むことはとてつもなく大きな物を受け止めている気がするのだ。それが偶々求めている答えである場合もあるだろうし、その時の考え方ではとても理解の及ばない場合もあるだろう。

 どんな本を読んでも無駄という事はない。如何に下らない本であっても、それは反面教師となるだろうし、大切な時間を奪われた怒りは次の選択をより研ぎ澄ます肥やしともなる。

 それにしても世の中には下らない小説を書く程度に暇な奴は掃いても掃いても棄て切れないが、下らない小説を読む程に暇な奴は間違ってもいないのであって、この図式はまるで選挙と同じだよな、おい。

 ところで今夜、手前をぞくぞくさせてくれる本が帯を解いて待ってくれているんだ。たった百円で売っているような古本屋から震える手で身請けして、既に持っているにも関わらず百円で売ることは冒涜でさえあるから重りを気にせずに買って、重りではない方の「アニマルの謝肉祭」、ついに読むことが出来る。嬉しいじゃないか。幻想耽美、今現在この世界に外連味なくどっぷり浸らせてくれる作家など滅多にいないよ。次の日本人ノーベル文学賞はこの人だろうね。この人で取れなければもうずっと無理だろうね。

 最後の一文がなかなか決まらない。たまにはいいじゃないか。酔いに蕩う泡なる時は、君だってかつてあっただろう?

文庫? 04/01/31

 例えば普段本を買う人が言う「本は高い」と、買わない人が言う「本は高い」これは同じところを指しているのだろうか。

 本を買う人の中でも本しか買わない人と本以外に色々遣う人では違うだろうし買わない人も又然り、収入や立場によって左右されるから一概には言えない。では何故こんなにも本は高いと言われ続けているのか。流通の問題を抜きにしては話が進まないのだがこれは措くとして、高いかどうかではなく何故「高いと感じる」のだろうか。実際に高い物もある。学術書や辞書など発行部数が少ない場合、膝が爆笑してしまう程の値段のこともある。そうでなくて単純に読書が好きでしかしハードカバーを買えるほどの立場ではなくて文庫を専門に攻めている者は、それでも文庫を高いと感じている。

 少々高くても中身に納得がゆくならば問題は何もない筈なのだが、稀に中身に納得した上でそれでも高いと感じる事例もある。翻訳物濫読期、凶悪な厚さの文庫本が出た。その作家は読んでいたから当然新刊をそのまま買うわけだが、この作家、殆どが上下巻のものであって、すなわち分厚い上下の文庫本となっていた。この時代は既に文庫本の平均が四百円を突破したか、しかけていた頃であった。その時代に当然ページを開かなくてもそのまま佇立してしまう鈍器と成り得るであろうその文庫本は消費税五%の今で上下各九〇五円、発売当時はまだ3%時代だったがそれでも同じ九○○円程度だった筈だ。

 育った時代で差があるわけだが、手前の濫読期は文庫本の標準価格を350円〜450円と認識していた。ぽつぽつ五百円以上の物が出始め、六百円を超えると高いと感じていた。そんな時代に文庫本で九百円ですと。しかもそれは上下組のうち一冊の値段ですと。これはですね、あり得ないわけですよ。時はノベルズの終焉を迎えた時代ではありましたが、どこの世界に親指の第一関節より太い文庫本がありますか。

 それでも買って、読んで、面白かったが長くて値段と釣り合っているのかどうか判らないまま、一連のシリーズでこれ以上不可能な大仕掛けを破裂させてもうこれで終わったと考えて、しかし続編では日本まで巻き込んた上に主人公はもうそれ以上出世出来ない地位まで登り詰めて、ついに後がなくなって主人公を切り替えて、気分を変えてノンフィクションを出して、とうとう共作に走ったあたりでついてゆけなくなった。

 そして彼の作品が売れに売れて以降文庫本は次第に高くなり、もしかしたら今年あたりで六百円に届くのではないかというあたり、元々本が高いから手軽な本として文庫が押し出されたのに価格が上昇して売れ行きが鈍化したので、一時期分裂騒ぎを起こしたところが百円文庫を出したが奮わず、結局皆で大きな沈没船に乗っている気分のまま、電網世界とどう折り合いをつけてゆくのか試行錯誤の時代を迎えて、まあ大変やね。


判定 04/04/17

活字中毒者の判定方法。

「どんな本を読む?」と問う。  健康
「誰を読む?」と問う。  中毒

「何冊読んだか?」と問う。  健康
「いつから読書を?」と問う。  中毒

「一日あたり何冊読むか?」と問う。  健康
「一冊読むのにかかる時間は?」と問う。  中毒

貸した本が返ってこなかったら諦める  健康
貸した本が返ってこなかったらもう一度買う  中毒

本を売ってでも飯を喰う  健康
飯を抜いてでも本を買う  中毒

本は高い(たまに買うから)  健康
本は高い(しょっちゅう買うから)  中毒

途中まで読んで既読に気付く  中毒
最後まで読んで既読に気付く  重症
棚の整理でようやく既読に気付く  末期
既読に気付かない  それはそれで幸せ


歴史小説 04/05/06

 歴史小説というものは基本的にひとつの世界観を共有しているから、異なる作家に渡って読んでも知ったる名前が続々出てくるのであり、そしてこのような繋がりを回路と呼び、小説に限らず全ての物事を楽しむ極意でもあるのだが、うち最も判りやすいのが歴史小説だ。

 歴史小説は実在の人物と実際の出来事を中心に据えるのに比べ、時代小説はその設定を取り入れて架空の人物・出来事を扱うという分類が一応為されている。実在の人物が架空の出来事に巻き込まれたり架空の人物が実際の出来事に関わったりした場合はどうにも分類に困るので、その場合は作者の意向に従うことになるのだが、中には実在の人物をモデルにし、時代背景を大きく取って朧かし、実際に存在した場所を舞台にし、現代の社会事情を描くという複雑な性格を持つ作品もある。これで唯一成功したのが必殺シリーズであり、しかし「照蔵屋」は少々無理があったように思えたが、あれは時代劇ではなくエンタテイメントとして理解すべきであるからよい。

 さて、歴史小説に於ける世界観の共有とは、異なる作家が同じ時代の同じ人物を違う立場から描くことで極く自然に複眼視することになり、その回路を辿ることで関連した作品を次々と求め続ける麻薬作用があり、それは飽きても惰性で続いてしまう。ここから抜け出す方法は二通りある。まず酷い出来の物を立て続けに読むことで「時間の無駄である」と悟るのがひとつ、そしてより面白い小説群に出会って「時代小説は卒業した」と別種の麻薬を求めるのがふたつ、後者の場合は一見それとは判らない回路を見つけ出すことが楽しみともなり、やがて一端の活字中毒者が誕生する。

 一人の作家が異なる作品を全て回路で繋いだものは、つまりその作家の世界観がひとつだけあり、その中で様々な人物が時には主役となり脇役となりまた主役となりして進行する大河的物語になるのであって、それを火の鳥に見るかハイセアンに見るかはそれぞれの経験によるが、一度嵌ると抜け出すことが容易ではないあたり幸せでもあり地獄でもある。


餌 04/06/16

 古本屋の店先には一冊百円或いは五十円、二冊で百円三冊で二百円などの棚がある。

 ここにはぼろぼろで商品価値のないものや流通量が多過ぎて価値の認めれないもの、店内で複数あって汚いほう、等の理由で文庫や新書とノベルズ、そしてどう足掻いても売れない単行本などが並んでいて、早い話がごみ箱と同格だ。

 しかしここを上手く活用すると店側と客側双方が満足する。文字通りごみ箱として打ち捨てられた本だけを並べる棚として使っているのは、古本ではなく古書を主として扱う店であるか単に本に詳しくないかの可能性がある。外の棚遣いが上手い店はその中に数冊餌を撒いてあるのだ。ごみ寸前と認識されている棚の中にとてもごみではなく普通に半額程度で売れる筈の物や重複した汚い方の絶版物などをさりげなく紛れ込ませておくことで、掘出物を見つけたと思わせたあと「百均棚にこれほどの物が出ているなら店の中は宝の山かもしれない」と誘導して店はついで買いの期待が出来、客は更なる掘出物を見つけたと満足する。こまめに餌を補充しておいて何時見ても結構の掘出物があると客が感じればそれで餌付けは完了だ。

 この棚にごみしか並べていなければ最初は点検してもめぼしい物がないと知れば以降素通りすることになる。外にごみを並べているならば中に選撰された物が並んでいると考えるのは時間の無駄であって、中にあるのは外との違いが明確ではないごみ寸前のものだ。つまりごみかどうかを把握していないわけで、ごみ箱がなければ全体がごみ箱になってしまうのだがごみ箱があってもごみをごみと認識出来なければごみ箱の中も全体もごみまみれとなる。

 売れないから外の棚に降格させるというのは通常のやりかたであるが、単に売れない物だけを並べているのは悲しいほどに無駄である。文庫の絶版サイクルが早まっていることが単なるごみに見えて掘出物扱いされる可能性を増やしてはいるが、それは偶然の結果であって意図的な餌付けではないから常連とは成り得ないのだ。


コラム分類 04/12/24

 コラムは様々な特徴による分類が可能である。

 基調とする軸足を何処に置くかは書き手本人の判断によるが、それが必ずしも読み手の見解と一致するわけではない。大きく分けると社会系及び人生系のふたつの流れがあり、それぞれの中に細かく派閥がある。ロイコの文庫解説向井敏氏による分類を拡張し、思いつくままに幾つか分類してみた。

 しかしこれはあくまでも基調であって、つまり得意とする分野を主軸に派閥を横断し様々な雰囲気組み合わせて一文が完成する。通常のコラムであればこのうち三・四種が入り混じっており、その書き手の属する派閥を見極める為にはある程度の数を読み、何処に軸足を置いているかを読み取る必要がある。

○社会系
社会派 社会問題に突っ込む
国際派 国際関係を解説する
政治派 政治問題を眺めて予測する
時事派 日々の出来事から感想を述べる

○人生系
有閑派 誰と会った、何をした、何を食べた
抒情派 とにかく余韻を響かせて終わる
騒動派 馬鹿馬鹿しいどたばたを扱う
色事派 男女の仲を採り上げる

○知識系
歴史派 古い話から色々と展開する
紹介派 新知識や新製品を拡める
言語派 言葉や文章、外国語などを解説する
説教派 とにかくどんな話でも説教に結びつける

 このように分類してみると、コラムはきちんと棲み分けがなされていることが理解し易い。中には「国際政治の歴史騒動を色事に喩えて言語とともに紹介し、社会の時事問題に有閑の立場で説教しながら最後は抒情を漂わせて終わる」という離れ業も稀にあるが、あれは二時間やそこらで書けるような代物ではない。

 またそれぞれの派閥には重厚種と軽妙種があり、手前の場合は基本的に人生系騒動派軽妙種に属しているつもりだが、読み手の判断と喰い違う可能性もある。ほかには紹介と有閑や言語に手を伸ばす程度であるから改めて守備範囲が狭く見える。しかし得手不得手があるからこそ棲み分けが発生するのであり、多彩な派閥の組み合わせから日々生まれる玉石混交のコラムの中に自分だけの宝物を見つけることが楽しくてならない。




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