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地名
漢字
漢字酔う
漢字漢字
混ぜ

部首
漢字覚えて


「絵文字の氾濫にはうんざりする」

「漢字も絵文字の一種なんだぜ」

鴺 03/03/05

 例えば「衄」という字があってこれは「はなぢ」と読む。音読みで「ぢく」しかし国語審議会のくだらない取り決めに従っているワープロでは「じく」でないと変換出来ない。変換出来るだけましではあるが、どう考えてもおかしいとつくづく思う。

 「地面」これを何故「じめん」と打ち込まにゃならんのかね。「地」は「ち」だからといって「ぢめん」を変換したら「痔めン」

 「ち」と「つ」に濁点を付けた「ぢ」「づ」はそれぞれごく一部の例外を除いて「じ」「ず」に変身することになっている。そしてそのことに疑問を抱く人には「日本語は長い時の中で簡略化されてきており特に同音は」と説明が始まる。

 大体国語審議会の決めた方針というものは「最低限これぐらいのルールにしましょうよ」といったぐらいの取り決めであって、これを上限と考えて何としてでも死守しようとするから様々な歪みが出る。

 新聞が国語審議会の取り決めに従って「最低限これぐらいの漢字は使うように。それ以上の漢字は公用文では使わなんけどな」のところを「これだけの漢字しか使ってはいけない」とわざとらしく勘違いした結果、「破たん」「し意」「ぜい弱」など見るも無惨な言葉が並ぶようになった。たちたち批判の嵐が巻き起こるが、どこ吹く風、そのまま汚い文字を垂れ流す。それならば別の言葉を使えばいいものを無理矢理漢字と平仮名の「まぜ書き」を続ける。そうこうするうちに活字ポイントを引き上げて多数の読者を悪酔させる蛮行。同時に批判をかわす為にまぜ書きを改めてルビを振ることでどうにか誤摩化した。

 北朝鮮拉致の報道が「ら致」から「拉致」になってきたことで、この騒ぎが消え行く漢字を呼び戻したことはたとえ一字としても安心した。狂牛病騒ぎでも言葉狩りの対象であった「狂」の文字が各紙面に踊っているのを見て溜飲が下がった。狂牛病は次第に「BSE」などと言い換えるべく無駄な努力をしていたようだが、何故か「狂言師和泉元彌」の活躍で「狂」の字は消えずに踏み止まった。めでたいことだ。

 漢字というやつは使わなければ自然に消えてゆくので一切の規制をせずにいわば自由競争のような形をとればいいのだが、度重なる改正や改悪、組換、省略、転意で増えた四万を超す漢字を使いこなすのはもとより無理な話であるから仕方なく国語審議会が「最低限これぐらいは」と答申したのだ。ところが、「内閣告示」などとさらに事態をややこしくするおふれが出て時はまさにワープロパソコンインターネットの全盛期、「この異体字なら使ってもええだよ」というお上からの御言葉に従う者あり反発する者ありもうお手上げ。

 言葉は生き物であるから変わっていくのは仕方がないが、「この字は難しいから使わないように」といった理由で国民の白痴化を進めるのはやめてくれ。

 難しい字を背伸びしてても使うことで体得出来るのだ。子供の頃、平仮名だらけの教科書や児童書にうんざりした経験があるだろう。漢字を読み間違えて笑われている人を一緒に笑いながら密かに正しい読み方を覚えた経験があるだろう。テレビのニュースなどを見て正しい読み方を覚えたこともあるだろう。漢字は使え。どんどん使え。いくら辞書を読んでも字書を読んでも忘れてしまうが、それでも使い続ければ、いつのまにか身についているだろう。

 たとえ役に立たなくとも、手始めにまずこれを覚えてみる。

「夷鳥」← 一つの字 横に圧縮よろしく

 さあなんと読むか。音は「てい」訓は・・・各々調べるがいい。

 誰でも知っているあの鳥だ。答えは書かんよ。放置放置。


地名 03/03/10

 「コンサイス日本地名辞典」第三版第九刷が発行されたのが1995年。丁度破裂しそうな旅心を抱えて難渋しており、同時に辞書も集め始めた時期で、新刊にも関わらず飛びついた。

 最初は当然知っている地名やかかわりのある地名を調べるが当然すぐ飽きる。しばらく放っておくが、何かで地名を見たり聞いたりするとこれで調べてみるようになる。地名の由来や合併歴が探究心をそそる。当然適当に開いてその見開き2ページを読んでみたりもする。全然知らないどころか読むことも出来ない地名があると悔しいのと嬉しいのが混じって静かに唸り声を上げている。

 その地名の所在地を今度は地図で確認する。回路に嵌り込めばキリがないのだ。

 例えば読めない地名にぶつかった時、どうやって調べたらいいのかを不思議に思うかもしれない。読めなければ五十音順のどこを開いていいのかわからない、と。しかし基礎的な漢字を知っていれば何となく眺めているうちに勘であたりを付けることが出来るはずだ。そして基本的な考え方としては、わからない漢字があるならば、漢字辞典を使えばいいのだ。

 もちろんこの地名辞典で読めない字からでも調べることが出来る。巻末に難読地名一覧が最初の字の画数順に並んでいる。例えば一画のところには

一巳(北海道)いっちゃん
一方高(秋田)いっぽうこう
一切経山(福島)いっさいきょうやま
一口(京都)いもあらい

 から始まっている。確かに難読である。時々これを読むのだが、よく「難読文字は一度読めたら忘れない」という言葉、嘘っぱちであることがわかる。何故だろうか。「そう、これ前読み方覚えた!・・・で何て読むんやったっけ」つまり「読みかたを覚えた」ことだけしか覚えていないのだ。

 まあ、それを繰り返しているうちに段々覚えるわけだから悪いことではない。少なくとも二年前、夏の高校野球の特集番組で「浪速の○○」○○は選手の名前であったが、これを「ろうそくの○○」と読んでビールを吹き出させたアナウンサーよりはましであると思う。たぶんあの人は「浪速」を何か「浪を切り裂くような早さの球を投げるピッチャー」であると勝手に解釈したのだろう。どれだけの苦情が殺到したかは知らないが、番組の最後で訂正され、以後そのアナウンサーを見ていない。誰だったかも忘れてしまった。どの局かも忘れた。ただ記憶に残っているのは、「浪速」を「ろうそく」と読む人でもアナウンサーになることが出来、高校野球の特集番組に起用される仕組に感心したことだけだ。


漢字 03/07/10

 筆記具を使って文章を書くとき、一度も書き損じなく最後まで通すことは不可能である。

 それでも「録」「緑」「禄」「縁」などを間違えたならば、まだ納得も出来ようが、平仮名を間違えたとき、そして更にそれを消してもう一度なぞるように全く同じ間違いをした時は実に腹立たしい。

 ワープロ・パソコンの登場により、新たに「意図した隣の字が間違って出る」「一字多い」「一字抜けている」「妙な変換に青筋が立つ」などの混乱も遍く普及した。それでいて、キーボード入力に於いても、消した後全く同じ間違いを打ち込むという筆記具と同じ間違いも依然あるわけで、これはもうタイピングの巧拙よりも何か根本的な問題であるかと思う。

 日本語の体系がもはや解きほぐせないほどわやくちゃになっている以上、ワープロ・パソコンもそれに従って忠実に混乱しているだけなのか、単に手前が混乱しているだけなのかは判らないが、このようなアホな状況を招いた責任は我らが先祖にもある筈だ。

 フランスでは日々生まれる新語をそのまま取り入れはせず、いちいち「対応するフランス語単語を日々必死で作る」ことで言語の独自性を保っているつもりでいるようだが、それではやがて孤立するだけであろう。とは言え、いかなる言語でも片仮名を通して呑み込んでしまう日本語が遥か将来、数千年後の統一言語のモデルになるとも思えない。何故なら日本語の発展が前向きにしろ後ろ向きにしろ、常に行き当たりばったりその場凌ぎで誤魔化し続けてきて、その複雑に屈折した特性故に「日本語の法則すべてには例外がある」とまで言われ、ついには日本で生まれ育ってもまともな日本語を喋ることが出来ない人間を生産するに至ったことは、事実上「日本語がおかしいのか、日本人がおかしいのか、あるいはその両方であるか」なのであって、こちらも孤立は必至だ。

 「正しい日本語を」「美しい日本語を」黙れ。貴様等にも味方するつもりなど毛頭ない。正しく美しい日本語だけが読みたいならば小学生の教科書「さいた さいた さくらがさいた」を見て、はらはら涙でも流しておれ。貴様等が正しく且つ力があったならば、我々は今でも「あらまほしい」「いとをかし」などと言っている筈ではないか。

 たとえ間違った言葉遣いであっても、その意図するところが正しく伝われば、それは間違っているのか?

 どうせいずれは我々の世代も、意味不明のついていけない日本語に怯える日が来るのだ。せいぜい今のうちに騒いでおこうじゃないか。

 文字の限界に挑戦して力尽きた中国でも、長期的視野のないまま迷走を続ける日本でも、其々文明開化の時期にローマ字論者がいて、黙殺されたのはめでたい事だが、それでも中国の簡体字化、日本の過変化に伴って各々の古典を読むためにはまるで外国語を習得するが如き苦労を強いる言語の発達を、これは発達と呼んでもよいのか。

 漢字の書順の問題。筆を使わなくなった時代、ワープロ・パソコン全盛期、書順など気にせずただ形になっていればいいと抜かす阿呆が多くて困る。草書体、崩した字をある程度読むことが出来るのは、それが書順に従って崩してあるからであって、我流の書順でそれを崩しても他人には読めやしない。崩した字を書き、それを読んでもらう為には書順という基本を踏まえた上でなければ所詮暗号と変わりはない。そして意味のわからない暗号など誰が読むものか。


漢字酔う 03/09/18

 常用漢字にない字を使う姓の人が存在する以上、名を常用漢字及び人名用漢字に限定することは統一感を欠くように思われる。しかし、新たに日本国籍を取得して創氏する場合であってもやはり限定しているわけだから、筋が通っていないこともない。理論上ややこしい字の姓が増えることはなく、また増やしてはならないとする主旨に従うべく、名のほうも精密なる技術力を要する字を認めないことになっている。仮に認めたならばもう何百年も使われていない字を引き摺り出して「子の名です」と言う奴が、かなりの割合でいるだろうし、手書きの時代ならまだややこしい字でも対応出来はしたものの、今の時代にどう読むのか見当もつかない字ばかりか、役所毎に康煕字典を備わすことが困難であるが故に造字による命名を企む奴もいるだろう。

 漢字は活字活版時代にある程度絞られたわけだが、それでも活字を新たに作ることで完全に絶えた漢字はない。例え使うのがそれきりであっても公用書ではなく表現活動に於いて縛られたわけではなかった。

 そこから電植あり何あり何如あり段階を経て、ワープロ・パソコンなくしては文字を操ることが困難な時代になっている。公用書には妙な制限があるが、電脳機器の記憶容量に鑑みて今では使わなくなった漢字でも呼び出すことが出来る上に「外字作成機能」まであるわけだから、理論上は手書き以来の漢字解放時代を迎えたとも言える。

 しかし使う漢字使わない漢字の別を依然規定してあり、それに従うのは公用文書だけでよいのに「天下の公器」を僭称する各々右へ左へ偏った新聞が追従している。右ならまだ判る気もするが左が従うのは噴飯物である。読めなければ、読まれなければ存在価値は無きに等しい以上ややこしい字を使わないようにとする考え方は理解出来るが、だからと言って字を知らない者が苦し紛れに繰り出す恥技「混ぜ書き」の採用が「天下の公器」のする事とも思えない。

 ところで使わない漢字は滅びるのだろうか。使わない言葉は滅びただろうか。廃れはするが滅びはしないだろう。差別語を使わなければ差別語も差別そのものもなくなると考える森に入って病葉しか見ない奴もいるわけだが、差別そのものが厳然としてある以上、いくら言葉を換えても新たなる差別語を生み出すだけのことであり、また古い差別語も消滅はせず存在し続ける。同様に使いたくない漢字を封印したところでその字が一時的に廃れはしても抹消されることはない。

 つまりもう完全に酔いが回って集中力と思考力が四方八方へ飛び散らかっているわけで、何が言いたいのかと言うと、

 「ワープロ・パソコンだけを使っていると漢字を忘れる」

 「つまり」では繋がっていない気もするが、もう知らん。虚実皮膜ではなく酔素皮膜でもなく、半眠半醒が相応しい状況で椅子の背を前に回して背凭れに胸でよっかかり天辺に顎を乗せた姿勢で続ける。

 「ワープロ・パソコンで変換に迷うようになり、かえって辞書を引くようになった」などと腰の砕けた言訳をかます馬鹿共に告ぐ!いい感じに壊れてきた。貴様等、「かえって引くようになった」とは、つまり手書きの時代にはそれほど辞書を引かずに文章を書けていたという事を、知らず白状しているという事を、理解していないという事を、俺は主張したいという事を、わかっておるのかね。

 「ワープロ・パソコンで辞書を引かなくなった」ならば向学心が薄れたわけだから相手には及ばないのだ蜻鉢君よ。ふはははは。どうだ、全ては真実全ては虚構、表があれば裏がある。如何なる事も称賛出来るし誹謗も出来る。やあやあやあやあ享受主義者たる偽善の読者達よ、俺は偽善者であり偽悪者である。そして言葉を愛する者である。言葉の言葉を言葉に乗せて、踊る浮世に身を任せ、卓の前には腰を掛け、かびろき窓から夢を吐く。さあ立ち上がろう、水が飲みたい。おや、床が波打っておるぞ。酔うてる酔うてる酔うてる酔うてるうをををを踏ん張れ踏ん張れ踏ん張れあっかーん、無理や、膝が爆笑しとるべな。

「漢字壊れる」から「漢字酔う」に改題


漢字漢字 03/10/14

 「漢字を知らない者ほど漢字を使いたがる」という警告がよくある。それは確かに半分当たってもいる。

 しかし、そういう台詞は漢字に精通した者にのみ許される台詞であって、しかも続く言葉は「やさしくわかりやすく書くほうがむつかしい」である。平仮名が続くとかえって読むことが難しいわけだが、残念ながらそれは苦労して書いているよりも手抜きにしか見えない場合が殆どである。手抜きにしか見えないのは何らか理由があるのかどうか、「やさしい」文章を書く者はやがて自らも漢字を忘れてしまうことになる。

 よいか、ややこしい漢字を使わずに「やさしい」文章を垂れ流す愚か者共よ、貴様等は絶対に、よいか絶対に、「漢字読めない人が多いよね」と嘯く資格など微塵もないのだ。「この字は難しいから」「この字は使われていないから」「この字は読めないだろうから」と勝手に「やさしく」言い換えて、漢字に触れる機会を減らしておいて、知る機会を奪っておいて、その一方で無知を嗤うような根性の腐り爛れたど白野郎奴、己圭夨已不也、篩も力しい事無涯。能盡口享にも程がある。貴様らの目目ワ甲ことはなく、手宣っても手過っても西念いだけ、口乏にも惜しい事、それと貴様もだ示州、侍守如きに小旦力られて水豕者ものか漢字を。それに満天ぞ、・・・これは疲れるから止そう、それでも読めるなら読んでみろこの糞馬鹿。

 もともと常用・当用・常用漢字は新聞などで頻出する漢字を元に選定した、最低限これくらいは読めるべきだとの基準と考えるべきであって、それ以外の漢字を知らなければ知らないでもよいが、全く知らなければ一応法律上は国民に保証されている筈の文化的な生活は不可能なのである。新聞の記事などで頻出する漢字を元に制限し、その制限を元に新聞の記事が書かれるという、この結果が原因であり原因が結果である輪環に囚われ取り込まれてしまった結果、最低基準線を最高到達線と勘違いする者が増え、そして勘違いした者を勘違いさせた者が攻撃する。

 簡単な言葉に差し替える迎合が矮小化を促し、漢字に暗い人の縮小再生産を推進しているのだ。他の娯楽が増えたことによる読書人口の減少もひとつの理由ではあるが、それが理由の全てではない。


混ぜ 04/07/13

 所謂「混ぜ書き」が嫌いなのであって、「破たん」などを見ると馬鹿馬鹿しくなる。

 漢字は文字通り「漢の字」であったが、日本で読み方を弄くられて妙な発展をしたので今では日本語体系の中に組み込まれている。一方の平仮名も片仮名も大和の文字であり、共に日本語であるならば組み合わせても日本語である事は疑いようがない。しかしながら組み合わせると醜悪だ。

 ところで君達は伝説の死語「ハウスマヌカン」を知っているか。間違った職種ではないし必要な存在だが、この呼称はどこか空気の漏れた失笑を催す。ブティックなどの洋服販売売場で自らも洗練された姿にて立ち働く者を指すわけで、マネキンが売り子をしているような売り子がマネキンをしているような、一時期だけ輝いていた呼称であった。これは英語「house」とフランス語「mannequin」を組み合わせた和製語であり、マヌカンとはつまりマネキンのことであり、これは更に恥ずかしい混ぜ書きである「カリスマ店員」として一瞬だけ蘇り、そして消えた。次はどんな言葉になって復活するかとの期待感もないわけではないが、折角なので混ぜ書きの伝統から外れるべきではないと願う。

 違う体系の言葉を組み合われることで斬新な印象を与え得る力が発生することは否定しないし、それは発展の芽でもある。だたしそこには美学が必要なのだが難しい。体系の違う言葉を組み合わせて発生する違和感が混ぜ書きに対する嫌悪感であり、それは「漢字×片仮名」「漢字×ローマ字」に限られた話ではなくて、「漢字×漢字」でも発生する。それが「重箱読み」「湯桶読み」だ。

 重箱読みとは「音読み+訓読み」であり、音読みとは移入当時の大陸発音のことを指し、訓読みとは島国発音を指す。一般に「片仮名で書くのが音」「平仮名で書くのが訓」、「単独で意味の通るのが訓読み」と考えればよく、「ジュウばこ」「ゆトウ」だからそれを考えると、これらも一種の混ぜ書きと言える。「重」を「ジュウ音」「かさ訓」と覚えれば以下は芋蔓式に連想される筈だ。また音読みと一括りにするのも大雑把に過ぎるのであり、「漢音」「呉音」「唐音」の違いを意識する場合、それらを組み合わせるとやはり混ぜ書きとなり得る。

 最も手軽で有名な「行脚」を例にとってみよう。唐音「あんぎゃ」が正しいとされている。唐の時代にそこへ行き「あんぎゃ」と言えば通じた可能性があるわけだ。強引に呉音で読めば「ぎょうかく」となる。無理矢理に漢音で読むと「こうきゃく」になる。破れ被れに和音で読むと「ゆくあし」になる。これらをごっちゃにして「ぎょうきゃく」「あんかく」「ゆくきゃ」とすれば混ぜ読みとでも言うべき状態となるのだが、一般に「混ぜ読み」などと立派な言葉は利用されず、単に「お前は馬鹿」で話が終わる。

 更には日本で作られた訓読みしかない「国字」という存在が控えていて、その国字に何時の間にか音読みが備わってしまったりして更に事態を紛糾させている。だからと言って混ぜ書きを全て排除すれば現行の日本語は成立しないことも事実であり、一方で間の抜けた混ぜ書きの氾濫が日本語の成立を妨げていることも事実だ。ならどうすればよい?何か方法があるならばもう少しましな体系になっていただろうさ。


柿 04/08/02


 「柿」と「杮」は非常によく似た漢字であって、通常印刷された場合の読み分けは文脈に頼るしかない。

 幸いな事に果物と鉋屑として全く違う意味であるから文脈判断で間違える可能性は非常に低い。新しい劇場など完成して「こけらおとし」の言葉を聞く機会がたまにあるだろう。「杮落とし」とは鉋屑落としのことで、杮落とし公演とは、その劇場で最初に行われる演し物を指す。

 家などを建てた際に、最後に釘を一本残し有象無象が集まって一番偉い人に打ち込んでもらって完成させ、その後は例によって酒が振舞われるわけだ。あの発展形が駅やビルなどのテープカットであるが、木造建築を主とする日本の建物で釘さえも使わない時代、鉋の削り屑を残したまま完成させ、最後に有象無象が集まって酒を飲む直前に鉋屑を削り取り払う。鉋屑を「杮」と呼び、完成を「柿落とし」と呼んで祝う。現代のテープカットと同義であり、しかしながら柿落としと称してテープカットをするのは意味と時代と物質の変遷を具現していて興味深くもある。

 ところで何故柿と杮はこれほどまでに似てしまったのか。ワードパッドの表示では杮の方が柿よりも僅かばかり旁の天辺が長く見えるようだ。短いのが果物の柿であり、長いのは鉋屑の杮である。柿は木偏に鍋蓋を書いて巾の文字であり、杮は木偏に木のような右下の跳ねが勢いある旁となっている。朮の点を外した形と考えてよい。柿の旁は鍋蓋を書くが、杮の旁はまず十を書く。つまりこれは書き順も形も違うのだ。

 だからと言って杮の旁を十のあと左に右に払うと「林」になってしまう。杮の文字は杭の鍋蓋の取手が下まで突き抜けたような形なのだから、そのように書きそのように表示すれば問題はないのだが、今の規格では事実上同じ字にしか見えない。

 さて、では柿を鉋で削って発生した屑は「柿」ですか?「杮」ですか?

部首 04/08/27

 「挨拶」という字を覚える呪文は「てむやてくくくた」であり、これは挨拶をそのまま分解した「扌」「ム」「矢」、「扌」「巛」「タ」を強引に読む。

 ややこしい漢字はひたすらに書き続けて手で覚えてしまうか、何かの技を必要とするのであって、大した自慢にならなくても不意に役立つ時がくる。

 一頃「薔薇」が書けるかと問う広告があり、「草十人々一回。草机ビ」と覚えて以降は迷いなく書けるようになったが、やはり部首の呼び方を知るか知らずかで多少の差が出るようだ。

 「憂鬱」もまたごちゃごちゃして書き難い字の筆頭であると認識されている。だからこそ覚えてしまおうとする無意味な努力により、迷わず書けてしまう。憂は問題ないが鬱が少々ややこしい。何度か書いてみて、手で覚えることは不可能と悟ったから、分解して「きこうきわ、ちょうさんづくり」で覚えている。この場合、部首名が大きな役割を果たしている。「木」「缶」「木」「冖」「鬯」「彡」であり、上の両端「木」は問題ないが、通常「缶」を「コウ」とは読まない。しかも「缶」の部首名は「ほとぎ」なのだが、語勢と勘違いにより「きこうき」から「木缶木」が導き出される。そしてわかんむりを挟んで下に「鬯彡」がくる。「鬯」の部首は一度分解したこともあるのだが、語呂の悪さに手を焼いていたところそのままの形で部首があることを知り、「ちょう」と覚えた。この※に受け箱にサジで「ちょう」の部首、殆ど使えず事実上鬱専用なっており、あまりにも非合理的過ぎて覚える価値は全くない。しかし「覚える価値がない」を覚える理由としてしまう悪癖がここでも発揮された結果、憂鬱を書くことが出来る。

 ところで「くさかんむり」が表示不可能であることに早急なる対処を求めるものだ。「艸」しか存在しないことは不便にも程がある。「おいかんむり」「しょくへん」など、意識せずに覚えた者には必要なくても新たに日本語を覚えようとする人々に対して障壁となるではないか。


漢字覚えて 04/09/15

 漢字を知っていて得する場面があるかどうか。

  中国系の新聞を見ても簡体字の氾濫で必要もなく自信を喪失するし、漢検一級並の漢字はやはり手強い。困る状況ならば幾らでもあるが、「知っていてよかった」と実感する場面は少ない。寿司屋の湯呑を点検する場合でも必ず読めない字があり、僅か数個読めないだけで大変に落ち込む。その屈辱が更なる学習意欲を沸き立たせるのだが、新たに学んでみてもさして役に立たないことを自覚してまた落ち込む。これにはきりがない。

 新聞などで大抵は読めると大見得を切った後で本当だろうかと不安になり、時間のある際に全ての文字を丹念に読んでゆくと、まず人名などが正解かどうか判らない。固有名詞は危険であるなと考えながら捲ってみたら株式情報欄であり、ここで絶望に打ち拉がれる。ある程度難解な字の方が読みは固定されているから簡単なのであり、平易な字の組み合わせでは複数の読み方で惑わされる。広告欄などに溢れる言葉は無理かと思われたのだが、新聞に広告を出す為には広告費を払わねばならず、払う以上は点検推敲公正を繰り返してから出稿するだろうから、広告に意味不明な言葉は余り見られないようだ。むしろ無署名で書き流されたと思しき記事本文中で固有名詞や略語に戸惑うことが多い。

 神社仏閣などで入ってすぐあたりに由来板がある。新しいものならば現代仮名遣いなのだが、少し古くて歴史的仮名遣いで書かれている場合などでは意地になって読んでやろうと奮い立つ。この時ばかりは読めて良かったと実感するが、いざ読んだ内容を理解したところで大して役には立たないから結局は無駄というものである。由来版にしても、片仮名で送られているならまだ戦えるが、それより古く漢文調であった場合は文字通りお手上げとなる。しかもそれほど古いものである場合、板に墨で書かれたものならほぼ完全に消えているし、浮彫のものは年輪の間が窪み実質ただの板になっているし、石版の場合は欠けていたり磨り減ったりして結局読めない。少し前に大江広元の墓横にある漢文調石版を読もうと苦心した末、時間の無駄であると結論した。ということは漢字を学ぶことも時間の無駄であることを意味するのかどうか、「読めて良かった」と感ずる状況の少なさと感受性のなさが招く命題だ。




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