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筒井康隆
SAKI


 はじめて小説を読んだのは小学校五年生の時だった。

 はじめて読んだ小説は「坊ちゃん」だった。

 その直後にいきなり乱読期に入ったのでもう何を読んだか覚えていない。大学生の頃にワープロを使って読んだ本のリスト作りに励んだことがあるが、そんなことする暇があったらより一冊の本でも読みたくなるほどの重度の活字中毒者となっていて、それでも二千冊ほどの登録をしたあたりでついに馬鹿馬鹿しくなって止めた。キリがないのだ。今までに読んだ本の冊数はおそらく三千冊から四千冊の間だろうと思う。漫画は高校生をもって卒業したので以後活字一本槍である。

 持論がある。「千冊読んだら好きなジャンルが見つかる。二千冊読んだら内容の善し悪しがわかる。三千冊読んだら自分で何か書きたくなる」

 大学生になってみると自分の周りで読書をする人間がまるでいなくて話題が噛み合わないことが多かった。だからといってり流行を追いかけたりテレビを見るなりして無理矢理話題を合わせようとは思わず、自分の流儀を貫いた。そのせいで周りにはずいぶん気を使わせてしまったようだが、個人主義の意識を高めつつあった時期で「相手に話題を合わせてなあなあの迎合をすることが大人の態度」という雰囲気が耐え切れなかったのだ。

 もちろん因って起つべき軸をしっかり持っていなければならないことに気付いてはいたが、その軸を構築するための大切な時期にひたすら麻雀に明け暮れたことは返す返すも残念なことで、しかしそれによりわずかに友人との接点を繋いでいたことには少しだけ救われていた気がする。

 初めて自分で文章を綴って賞に応募したのは中学二年生の時だった。新聞で募集していた「家族についてのエッセイ」これに年を偽って大人部門で応募したのだ。もちろん落選したが、そのことがきっかけで、本気で文章を自分の武器にしたいと思った。それでも中学生の時はまだ小説と平行して漫画を読んでいたのでただ漠然と小説家に憧れている無知で初心な少年だった。

 高校生になりある程度漫画から活字に移行しつつあった時期、全国高校生作文コンクールに応募するためにクラス全員「水」についての文章を何でもいいから書けという夏休みの宿題があった。その頃には目につく懸賞はとりあえず応募していたがまだ「応募作品は返却しません」という意味がよく分かっていなかったのでコピーを取らず完成稿を応募し、推敲を重ねた原稿用紙は捨てていた。その宿題は「宿題である」という意識によって半分「たるいのう」と思いながら適当にまとめて提出したら二学期が始まってすぐに職員室に呼び出され、「うちの高校からはお前のを含めて三作出す。これはこのままでいいか?書き直すか?」と言われた。「宿題である」という意識がまだあったからそのままでいいですと答えて教室に戻った。もちろんそれは落選した。応募賞として鉛筆を貰っただけだった。その鉛筆を貰うために呼び出された職員室で小説についてあれこれ聞かれた。小説はよく読むのか。SFは好きか。誰のものをよく読むのか。小説を書くつもりはないのか。ところでこのタイトルはもうすこしひねったほうがよかったが。タイトルですか。単純な勘違いによって「テーマが水」であるところを「御題が水」と思い込んでいたために「水」という味も素っ気もないタイトルでSF風のショートショートを書いたのだ。「水」というタイトルの文章が全国から集まるのだと思っていたから、あとから勘違いに気付いてしまったと思ったがどうせ落選しただろうし完成稿は応募したままだし原稿は捨てたしまだ本気で文章を生業にしようとは考えていなかったので「ま、どうでもええわ」とすっかり忘れてその頃に異常な人気があった漫画「沈黙の艦隊」のノベライズを書くことに没頭した。その「水」の宿題が再び蘇ったのは学校の文集に収録された時であった。三学期の終業式が終わって教室に戻って進級だクラス替えだ先生は転任だと騒いでいるさなかに配られた文集に「水」と載っていた。「おいこれおまえか」と言われて、見ると自分の名前と文章が活字になっている。はじめて自らの文章が活字になり、読まれる快感を味わったのがこの時で、内心嬉しくてたまらなかったが所詮は学校の文集であり、そのうえ半年も後から読んでみると実に下らない内容で、文章も稚拙であり、そんなものをクラスの四十人どころか学校中の皆が同時に読んでいることが恥ずかしくてずっと下を向いていた。誰の顔も見ることができずにただ耳を赤くしていた。

 そのことが少し文章を書くことのブレーキになり、二年三年の間はほとんど何も書かずに吸収することに力を注いだ。人に読まれても恥ずかしくない文章を書こうと決意したのだ。ちょうど乱読期の絶頂を迎えて時々ノートの端に文章が溢れ出ることもあったが、できるだけまとまったものは書かずにメモ程度にとどめ、将来書くための種にとっておこうとストーリーを考えるだけで、「書く暇があったら読もう」と片っ端から読んだ。高校生の小遣いには限界があったので新刊書店で一日一冊の立ち読みをノルマとし、何でもいいから貪り読んだ。するとわかってきたことがある。読む本を選ぶ時無意識のうちにタイトルで選別しているのだ。これは衝撃だった。 高校生の歳頃は小説を読むということが「変わった奴」というレッテルを張られてしまうために小説をよく読むと言うことは友人には隠していた。図書室に行きたくても「クラスに友達いない奴」扱いされるのが嫌でひたすら教室でたわいもない話をしていた。図書室で本を借り出して読んでいるのは、実際に友達がいなくて何かの行事でグループ分けする際に扱いに困ってしまうような奴で、そのたびに「ああはなりたくない」などと思っていた。今考えるとそいつは「自分の基軸をしっかり持っている羨ましい奴」なのだが、周囲から浮くことを恐れてしまう十代半ばの自分はまったく愚か者であった。

 大学生になり、旅行系のクラブに所属して嵐のような麻雀の日々を過ごしつつ次第に文章を書くことへの欲求に耐えることができなくなってきた。漫画とはすっぱり縁を切り、小説も二千冊近く読んだ頃自分の好みのジャンルを掴むことができ、駄作かそうでないかを自分なりに判断できるようになったのでワープロを買った。試しに何か書いてみようとして愕然とした。書けないのだ。まる三年間まとまった文章を書かずに過ごしたことが、文章を書く上での呼吸を忘れさせていた。それでもなんとか日記を書きはじめて読んだ本をデータベース化しながら一言感想を記しているうちに時々無になる時間があることに気がついた。今ならわかる。憑いたのだ。文章を書く時には極限まで集中力を高めると意識の時間の流れとペンを動かす時間の流れが一致した時にほとんど推敲しなくてもいい文章が書けるのだ。それをワープロでキーを叩くことに順応した頃「この感覚だ」と冷めた目で自分を見ることができるようになり、いつのまにか文章を書くことが止められなくなっていた。

 本格的に始動しようと考えて購読しはじめた雑誌は「小説新潮」と「オール讀物」にくわえて「本の雑誌」である。この時期に「プレミア」が創刊され、「噂の真相」さらに「ダカーポ」「ビーパル」「旅」と、趣味と興味が固定しつつあり、小説を読むことが好きだと胸を張って言えるようになった。しかし同時に小説を読まない人間を馬鹿にする意識も生まれて、均衡をとることが難しくなった。

 乱読期は終わり、おおよそ好きな作家と好きなジャンルが決まると後はその作家の推薦している本や文庫本の解説から輪を広げるだけで、新しい作家に挑戦することが少なくなってきた。二千冊読むと善し悪しがわかってきて「あたり」に出会うことがとても困難になる。「あたり」の本を読み終えた時というのは全身が痺れて頭が茫とし、本を閉じたそのままの姿勢でニ・三分心地よい気分に浸ってる。酔う、と表現できるかもしれない。この状態を「魂抜け」と呼んでいるが、これを味わうために本を読めば読むほど善し悪しの判断力がついてきて簡単に魂抜けすることができなくなり、ますます魂抜けを求めてくだらないものに手を出す悪循環に陥る。ここから抜け出す手はただ一つ、自分の求める文章を自分で書くだけだ。

 今では読むペースは年間およそ百冊と少なめで、魂抜けも年に一度か二度しかない。自ら書くことを意識するとどうしても技巧や構成に気をとられて純粋に楽しめないのだ。これが「千冊で好み、二千冊で善し悪し、三千冊で書く」という持論の、体験による説明だ。

 大学生の時に少し書き始めてはみたものの、今度は基軸がぶれていることに我ながら呆れ返り、文章の勉強をしようと様々な文章読本を読み漁った。それで感じたのは好きなように書けばいい、ということだった。文章読本を書く人は皆文章でそれなりの形を作り上げた人であり、形を作り上げてから自分の基軸を説明しているものばかりで何の参考にもならないということだけを学んだ。それならば自分の文章の書くうえでの決まり事を最初に決めてしまおう、それに従って一貫した文章を書こう、と考えて再び文章を書くことを封印し、メモや構想だけに絞って吸収の日々を過ごした。

 以上がこれまで生きてきた文章との接点だ。今何か自信を持って出せる作品があるか。ない。自信がないものならあるのか。ない。書くつもりはあるのか。ある。どういうことだ。つまりこういうことだ。一作毎に少しづつ成長するのではなくてある程度完成された書き手として世に問いたいのだ。そのために小説内世界観を作り上げている最中だし、目処がたったら迷うことなく突き進むつもりだ。迷いながら進むのではなく、進む方向に迷い悩んだ挙げ句方向が決まったらもう止まらないつもりだ。書かない、いや、書けないことの言い訳ではないのか。そうかもしれない。そう見えるかもしれない。しかし、相手を外見や印象だけで判断することの愚かさを知っているつもりだし、にも関わらず多くの人は外見や印象だけで判断することをも知っているつもりだし、なんと言われようが気にしない。もう人生には迷っていない。文章の書き方にも迷っていない。小説世界の構築に迷っているだけだ。書くべき小説の順番に迷っているだけだ。俺は小説家になるぞ。大学三年生の時に飲み屋で初めて友人に漏らした。俺は小説家になるぞ。そのために勉強してきた。俺は小説家になるぞ。そのために生きてきた気がする。俺は小説家になるぞ。さあ、そこにある扉を開けてみないか。俺は小説家になるぞ。まだ早いとは思わない。もう遅いとも思わない。俺は小説家になるぞ。誰もついてこなくていい。自分の為に小説を書く。自分が納得できる小説を書く。自分が心のそこから読みたいと渇望した小説を書く。そこには俺の人生があるはずだ。

 そしてこれが俺の骨格だ。



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